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diver 第一部 第十五話

【 1 彷徨う 】

 何もない。何も見えない。何も聞こえない。何も触れない。何も感じられない。ここは虚無という世界なんだろうか……。それとも、死後の世界?

< この世界のことは、小学6年生の少年には「何もない」としか理解できないじゃろう。死んでしまったあとの世界を知らないから、それとの区別もつかない。いわゆる意識を失っているという状態なんだな。時間の感覚がないから、彼にはどれくらい「何もない」を彷徨っていたのか想像もつかかないはずじゃ。いやいや、何もないのだから、そもそも時間すら経過しないといった体験様式にあったことになろうか……。周りで種々様々なな事象があったとしても、そんなものは海斗には何も関係ないことなのだな。後から思い出すことすら不可能な、今知らないものはすべて「ない」に等しいのだよ。海斗は人間が生きる世界に戻ってくるじゃろうか? 勿論、私にはわかる……。彼の命の行方についてはな、読者諸君の想像力を好き勝手に発揮させてほしいものじゃ。一つの生物に命は一つ。命が終わったとき、その生物の生きる定めは終わる。だがな……、不思議なこともある。命より強い意志があるとき、その命の持ち主には奇跡を起こす。ふふふ……。 >

…………

「ハナミズキの葉っぱが赤茶色になったよ」

……

「イチョウの葉っぱが半分黄色になってるよ」

…………

 ヒロシ君の声? 

 少し経って、ヒロシ君の、いつものように教えようとしてくれる声だけ、その音の存在だけがなんとなくわかった。

 そうか。僕は確かキンモクセイの花の香りについて聞いた。そして今はハナミズキとイチョウの葉の色どりだ。きっと、同じ時期に起こる現象なのかな。

 そして、ヒロシ君の声は僕を攻撃するものでも、指図するものでもないということ。多分死にたい僕にとって、ヒロシ君の声に限って何の作用も起こさない。

……

 それにしても今僕はどこにいるのだろう。真っ暗闇だ、というしかない。それにお腹のあたりが変だ。巨大な空洞が掘られているのかな。

 眠い……。寝よう……。元通りに、消えよう……。

…………

 「今年のもみじ、紅葉は遅れ気味だって。10月が暑かったかららしいよ」

 消えようとしても、またどこからか聞こえてくる、ヒロシ君の声。10月が暑かった? 遅れ気味の紅葉? 今は11月なのか……。

 僕はまだ生きているの? 僕は何歳なの? 大人なの? 子どもなの? 老衰で死んだんじゃないの? わからないことだらけ……。

 お腹が痛い感じ。何も考えたくない。わかりたくない。死んでいないのなら、寝よう……。

…………

 また覚醒した。このまま眠らせてくれないの? 何が安眠の邪魔をしているの? 

 僕は確かに僕の永眠を望んでいる。理由などないよ。ただ、いないことを望んでいるだけ。いないことが誰の迷惑にもならない。なのに、それを許してくれない。誰の意思が、そう決めているの? 自由はないの?

 「ミズキの家のハナミズキの葉、散り始めたよ」

 相変わらず、不意に届くヒロシ君の声。ミズキの家? その家はなんだろう? そういえば、僕はヒロシ君という人間だけを知っている。ヒロシ君がミズキの家というところに住んでいるのだろうか。

 僕は生きていて、ヒロシ君も生きていて、会いに来てくれているのか。それとも、僕もヒロシ君も、異次元にいるの? この異次元は、死後の世界とは違うの?

 ミズキの家……、ミズキの家……。頭の奥の方で反響している。鈍い痛みを感じる。考えたくない。お腹の鋭い痛みにも注意が向いてしまう……。

 考えるということは、生きて、活動している証。それを認めたくない。認めたら、生きる意味を探さなくちゃいけなくなる。そんなの邪魔なだけだよ。僕にとって、生きる意味なんて!

…………

 痛い!

 お腹が痛くて、僕の身体は深い井戸の底から浮上してきたような感覚になった。上がるにつれて、痛さをもっと強く引き受けなくてはならないのは、嫌だ! 沈もう、僕は沈もう。また元いた井戸の底へ。なかなか沈もうとしない身体をなだめながら。

 沈もうと試みると、僕の魂は沈まない身体を置いたまま、するりと抜け出てしまった。そして、加速度的に底なし沼に吸い込まれていく……。ビリビリと振動しながらもの凄い速さで落ちていくと、急に明るい地に至り、ぴたりと静止した。瞼を閉じていても、明るいということはわかる。薄いんだ、こんなに。瞼って。眩しかった……。

 動揺を抑えるのに時間がかかったようだ。こうしていても眠れない以上、瞼を開き、外の様子を確認しなくてはいけない。長く長く、躊躇った……。


【 2 離人 】

 うっすらと目を開くと、そこは部屋の中だった。久しぶりの光……。白っぽい天井が前にある。僕は、部屋の中で、天井近くに浮いている。

 首を捻じらせて部屋の様子をうかがう。ベッド! そこに眠る、僕! 口から何かのホースが入っている。腕には点滴。

 「ピッ ピッ ピッ ピッ」

 ベッドサイドのモニターが、ゆっくりと心拍を教えている。そうか。僕は医療によって生かされているのだ……。これじゃあ、生きたくなくてもその意思は許してもらえないな。病気の子どもとして、ここで何かの治療を受け続けなくてはならないんだな。

 無理やりの観念と共に、僕はまた重い瞼を閉じた。

…………

 「やっとイロハモミジが赤くなっいきたよ」

 「ドウダンツツジも、真っ赤だよ」

 「ピッ ピッ ピッ ピッ …… 」

 「あのねむの木は、茶色だよ」

 時々、ヒロシ君の報告する声が聞こえてくる。頭ではわかっている。僕は何かの病気にかかっていて、入院しているということ。もうこの世に存在していないと思っていたけど、しぶとく生きているということ。

 そして多分、時々病室に尋ねてくる人がいて、その中にヒロシ君もいて、どういうわけかヒロシ君の紅葉の進み具合を教える声だけが聞こえてくるということ。どんな情報もシャットアウトしたいのに、ヒロシ君のその話だけは認識することを拒んでいない。

 ねむの木という言葉から不意に、ミズキの家の部屋の壁にもたれて眺める窓、その外の光景が浮かんできた。まだ瑞々しく伸びて緩やかに揺れるその葉とピンク色の細い線が少し広いた扇のように集合する花。背景に輝く月は、わずかな時間の違いによってその位置を変えているのだった。

 珍しくビビッドな回想だった。しかしその映像に浸る時間は、突然の人の会話によって打ち消された。

 (男)「その後の調子はどうですか?」

 相変わらず僕は、部屋の天井付近に浮遊している。下を見ると、ベッド脇には、中年の男性と若い女性看護師が立っていた。

 (看護師)「潰瘍手術後の経過は良好ですが、意識は回復しません。ただ、指を動かしたり、顔の表情筋が動いたりする頻度は増しています」

 「では、もう少しで意識を取り戻すでしょうかね?」

 「ドクターの話では、もう麻酔は完全に抜けているし、鎮痛剤も減らしているから、覚醒して会話もできるくらいのはずだそうです。それを邪魔している心理的問題があるのかもしれない、と言ってましたが」

 「なるほど。それは思い当たります」

 「胃に急性の潰瘍性穿孔(せんこう)を起こしたのも激しいストレスがあったからだと思いますが。その心理的問題はとても激しいものだったんですか?」

 「ええ、まあ……。過去にもいろいろとありまして。ここに運ばれる直前には……、ご存知かもしれませんが、男に誘拐されていて、警察が現場に踏み込んで救出されたぱかりだったんです」

 「はい、聞いています。それはこの年齢の子どもにはショックなことでしょうねぇ」

 僕のことを言っているのだろう……。でも、まったく実感はなく、他の人のこととしか思えない。2人の話では、僕は誘拐事件に遭い、警察に救出されて、潰瘍性穿孔とかになって手術をしたらしい。そしてもう麻酔が切れているのに戻らないから、それは精神的な原因ではないかということのなんだな。

 (男)「それ以前にも、海斗はもう、本当に悲惨な人生を繰り返しているとしか言いようがないんですよね……。考えるだけで胸が痛みます」

 「そうなんですね……」

 僕の名は海斗(かいと)。この男の人は僕のことをよく知っているみたいだ。僕は悲惨な過去をたくさん持っているらしい。

 「入院は長引きそうですかね?」

 「抜糸は術後1週間なので、明後日の予定ですね。そのあとは意識の回復次第ですが、詳しいことはドクターに確認してみないとわかりません」

 「そうですか。早く海斗と話がしたいなと思います」

 「そうですよね。いつになるかは、なんとも言えませんね」

 2人のやりとりから、僕が胃の手術をしてからすでに5日経っていることがわかった。穿孔の意味を知らなかったが、2人を見ていると、胃に穴が空いてしまうことだとわかった。いつどこでそうなったのだろう……。

 看護師が部屋を出ようとするとき、付け加えるように言った。

 「そこにテレビがあります。自由に観ていただいて結構ですよ。あまり音量をあげなければ」

 「あ、はい。さっそく試してみていいですか? 海斗が反応しないかどうかもみたいので」

 男性はそう言って、テレビをつけた。ちょうどニュース番組をやっていた。

― 27日の朝、小学6年生の男児を誘拐したとして逮捕されてていた無職神山聡容疑者41歳が、今朝、勾留中のつくば中央署で自殺していることがわかりました。つくば中央署はさきほど会見を開き…… —

 「看護師さん!」と、男性は慌てて部屋を出ようとしていた看護師を呼び止めた。

 「この人です。海斗を誘拐した人。今日、自殺してしまったそうで……」

 「あら……。自殺だなんて。いくら犯罪を犯した人でも、生きててほしいですわ。医療従事者ならみんなそう思いますよ」

 「それにしても、なぜこうも海斗の周りで次から次へといろんなことが」

 「大変そうですね。施設の福祉職の方も」

 ずっと他人事のような感じで、僕はふわふわとしながらそのやりとりを眺めていた。 

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