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diver 第一部 第二話

【 1 娘を想う母 】

 泉相談所を神田に移転したことで、カウンセリングの新規問い合わせが頻繁に入るようになると、僕が事務仕事も兼ねていたので、それはもう大変だった。幸いなことにマリさんが光回線を用意してくれていて、ネットも電話も設備投資の面でいろいろと助かった。

 すべての業務をここで行うわけだから、特にカウンセリングに支障をきたすことのないような工夫が必要だ。リビングルームはカウンセリング専用の場とし、僕個人のプライベート空間を事務所と兼ねた。パソコンと固定電話はダイニングに設置し、カウンセリング中は電話を留守番&ミュートに設定した。よし、これで何とか回していけるだろう。そんな突貫工事のような幕開けだった。

 「中学2年の娘のことで」と、母親のユミエがカウンセリングにやってきた。

 娘の名はリコ。1年生の2学期から学校に行かなくなったという。今では朝起こしても生半可な返事しかこない。母親は、うつ病になったのではないか、このままずっと家にひきこもってしまうのではないかと深く心配し、憔悴しきっていた。江東区木場近くの住宅街の一戸建てに、母子2人で住んでいた。夫は都市銀行で働く転勤族で、2年前から大阪に単身赴任中とのことだった。(学校に行かなくなってから、少なくとも半年は経っているのだなぁ……)

 「お母さん、これまでにどこかに相談に行かれましたか?」

 「はい。最初にスクールカウンセラーに相談しましたし、あちこちの病院にも行きました」

 「スクールカウンセラーはどうでした?」

 「無理に学校に行かせようとしないで見守っていてくださいって、そんなアドバイスをもらいました」

 「スクールカウンセラーとリコさんは会っていないということですか?」

 「はい」

 「それで見守っていたのですね」

 「はい」

 「学校から連絡はありますか?」

 「毎朝、休みますって電話をするんですが、その時にちょっと話す時があるくらいです」

 「毎日電話をかけるのは大変ですよね」

 「いえ、せめて私にできることがそれだったので、大丈夫です」

 「先生と話すときは、どんなことを訊かれますか?」

 「元気があるかどうか、とか。あと、時間はいつでも構わないから相談室で休んだらどうかって提案されました」

 「それで?」

 「私が焦っちゃいけないので、スクールカウンセラーの先生のアドバイスが一番かな、って」

 「なるほど、見守っておられたのですね」

 「はい、はじめは……。でも心配で、病院に連れて行きました。そうしたら起立性調節障害ではないか、と言われて」

 「なるほど。それは何科ですか?」

 「かかりつけの内科、あとそこは小児科もやってますね」

 「どんな治療を?」

 「血液検査して、自律神経に効くという漢方を出してもらいました。そのあと病院の先生の紹介で、大学病院で検査してもらったんです」

 「脳のMRI検査とかも?」

 「はい、多分それです。でも何も異常はみられないと……」

 「身体の検査結果は異状なしなんですね」

 「そこで精神的なことかもしれません、って言われて、私ショックで。それで近くの診療内科に連れて行ったんです」

 「そこでは?」

 「軽いうつみたいなので、お薬出しておきますから様子見てまた来てください、って言われました」

 「それはいつ頃?」

 「2学期の終わりくらいです」

 「そうですか。短い間にあちこち行かれて大変でしたね」

 「いえ、私はいいんです。あの子が気の毒で……」

 「うん、心配ですよね」

 「ええ、とっても苦しんでいるんじゃないかと思うと、私まで涙が出てきてしまいます」

 「そうなんですね。……。ちょっと確認したいことがあるんですが、学校に行かなくなり始めた時からもう、朝、眠たそうに生半可な返事になっていたのでしょうか?」

 「え……と、どうだったかしら。はじめは違っていたと思います」

 「違う……?」

 「確か、お腹が痛いって言うから休んだのかな……。そうだったと思います」

 「なるほど~。それでその日はどうやって過ごしましたか?」

 「お昼過ぎから元気になったので、一緒に買い物に出かけました」

 「楽しかったですか?」

 「はい、すごく笑っていました。久しぶりにあんな笑顔を見たなぁって」

 「いえ、お母さんのほうです」

 「えっ? 私が?」

 「はい、そうです」

 「ええ、私も楽しかったですね」

 「話は変わりますが、ご主人が単身赴任されたのが……」

 「娘が小6の4月です」

 「それからお母さんは、リコさんが学校へ行っている間、家に? それとも何か仕事を?」

 「専業主婦で、ほとんど家にいました」

 「うん、少し見えてきたような気がします。リコさんはきっと、お母さんに楽しく暮らしてもらいたかったんでしょうね」

 「えっ! それは娘の病気と何か関係あるのですか? 娘はよくなりますか?」

 「う~ん、きっとね。とっても優しいお母さんと、とっても優しい娘さんですね。時間がきているので、続きは次回にしましょう。また来られますか?」

 「はい! 娘のためならぜひ」


【 2 母のこころ 】

 この初回カウンセリングの中で、僕は恐らく3度、潜った。こころに潜るのは、目の前にいるその人に関心を寄せ、見つめていると予期せずして起きることもあれば、意図してそうすることもある。ユミエの場合は、最初の2回は前者だった。

 「毎日電話をかけるのは大変ですよね」と言ったときに、ユミエが「いえ、せめて私にできることがそれだったので、大丈夫です」と答えたとき、僕の身体はすーっと彼女の内面の蒼い世界に入り込み、イルカのように縦横無尽に泳ぎ回ったのだった。そして、狐色にうっすら光る「それ」はすぐのところで見つかり、僕は右手で柔らかく掴んでみたのだ。聞こえた。

 「私はなんてダメな妻なの!」

 「私はなんてダメな母親なの!」

 主婦として、母親として、どちらも失格だと自分を強く責めたてるこころが駆動していた。次に「そうですか。短い間にあちこち行かれて大変でしたね」の僕からの労いの言葉に、「いえ、私はいいんです。あの子が気の毒で……」と話した瞬間。2度目の蒼い世界で、それは

 「私なんか楽しく生きてちゃいけないの!」

の悲痛の叫びを発していた。夫は単身赴任で仕事に勤しみ、娘は毎日学校へ行き宿題など頑張っている。それに比べて自分は家でのんびり過ごしている、と。そのような暮らし方に罪悪感を強めていったのだろう。

 僕は日頃から、母と娘は独特の絆で結ばれていると考えている。母親が自分を忌み嫌っていれば、娘はそれを敏感に感じ取る。そして「母親をなんとからくにさせてあげたい」と願いつつも、実際にはどうすることもできない壁に突き当たり、「できない私がいけない子なんだ」との誤認の迷路に入ってしまうのだ。

 母親がドメスティック・バイオレンスの被害者である場合に、多くの子どもにかなり普遍的に見られる心性である。もちろん、そのような「気配り役」「共感役」を息子が担うことだってある。

 子どもの「問題」は親への贈り物(メッセージ)だと信じてやまない僕は、リコが学校へ行かないことで母親に何を伝えようとしてるのか、主訴を聴いた当初から探し当てようとしていた。そしてそもそも学校へ行かないスタートはどうだったのか……、そこに鍵があると見た。「学校に行かなくなり始めた時」を知ろうとする問答から展開されたやり取りが、僕の描いた仮説を強いものへと押し上げていった。

 「お昼過ぎから元気になったので、一緒に買い物に出かけました」と説明するユミエ自身に向けて「楽しかったですか?」と訊いたのに、「はい、すごく笑っていました。久しぶりにあんな笑顔を見たなぁって」と、リコが楽しかったかどうかの問いへとすり替えられていたのである。私が「いえ、お母さんのほうです」と問いなおしたとき、ユミエは一瞬、途方に暮れたようだった。いや、確かに混乱しただろう。

 自分を大切にしようとする心の動きがまったく感じられない……。

 リコがはじめて体調不良で学校を休んだ日の午後、母と娘の2人で買い物に出かけることになった。それは結果として母親にとっても楽しい時間となった。自分のために楽しむのでなく、娘のためなんだと自分に言い聞かせることができ、この合理化で罪悪感から逃れることができたからこそ、楽しめたのである。

 母と娘のミスマッチは、しばしば互いの願いから2人を遠ざけてしまう。ここを慎重に押さえ、舵取りをしていかなくてはいけない。

 リコのほうは、母親が母親自身のことで喜ぶ姿を心待ちにしていたのだった。自分が学校を休めば、また母はこころから笑ってくれる……。この母を想う優しい娘の望みが、「学校へいかない」というこころの深層の知恵を発動させた。これが僕が解いた、リコの不登校の本質だった。

 僕は母ユミエの内面世界へ潜ることによって、間接的にリコの内面をも覗いていたことになる。そう、こころへの潜入は、親密な関係にある人を介して、目の前にいない人に対してもある程度は可能なのだ。

 3回目に蒼い世界に入ろうとした試みは、まったくうまくいかなかった。「時間がきているので続きは次回にしましょう。また来られますか?」と訊き、「はい! 娘のためならぜひ」とユミエが答えた瞬間のことだ。

 僕は潜らなくてはいけない、と感じた。しかし、いつもより暗く蒼い渦の中で、飲み込まれてしまわないように泳ぐのが精一杯だったのである。

 この強い潮流は何だ? 

 その渦の奥は危険なのか?

 身体中が痛い! 胃が一番痛いーー!

 初回面接の時間が終わりにきて救われたのは僕のほうだったかもしれない。僕はまだ、ユミエとリコの秘密にはそれほど近づけていなかったのかもしれない。でも、諦めない限りいずれ分かるはずだ。

 知りたい! 救いたい!


【 3 スイーツで一息 】

 胃痛をがまんして悶々としていると、家主のマリさんが外出から戻ってきた。もう夕方の6時過ぎだ。この時期、外はまだ十分に明るい。

 フリーライターの仕事は、在宅で書きものをしているだけというわけにはいかず、取材・インタビューや打ち合わせのために出かけることも多く、想像以上にアクティブだった。彼女は僕の部屋をノックすると、僕の返事を待たずして、リビング兼カウンセリングルームに入ってきた。カウンセリング中は「ただいま使用中」の札をかけて、入室禁止がわかるようにしていたからだ。

 彼女は、僕が煮詰まっている空気を遠隔から察したからではなかろうが、わざわざ差し入れの品を買い、持ってきてくれたのだった。

 「今日、スカイツリーで取材してたの。そこでおいしそうなスイーツ見つけて、泉さんにもと思ってね、2人分買ってきたの」

 「いやー、それはありがたいです。ちよっと考え込んでいたので」

 「やっぱり、もう! 泉さん、いつも無理しすぎなんだから」

 「ばれてます? いつも思うんですけど、マリさんってかなり鋭いですよね。スイーツってなんだろうな?」

 「じゃーん! 宮崎産マンゴーのタルトでーーーす」

 こう言いながら箱から出されたマンゴー・タルトが2個、テーブルの上に置かれた。どこかで教えたことがあったのかな……、これは僕の大好物なんだって。

 「インスタントでよければ、ドリップコーヒー入れましょうか? 今日は予約分が全部終わっているので、この部屋でどうぞ」

 「ありがと。お願いね」

 隣のダイニング・キッチンに行き、湯沸かしポットにスイッチを入れる。すると、リビングからマリさんが訊いてきた。

 「看板は、その後は無事なようねー」

 「そうですね。今度は、切断できない針金、っていうのを使って留めましたからー」

 「そういえば、何でも切れるペンチ、っていうのを見ましたよー」

 「えーっ、マリさん、縁起でもない。そんなこと言わないでくださいよー」

 「そうよねー」

 カップにコーヒーを入れ、砂糖とフレッシュと共に持ってきた。

 「お好きなようにブレンドしてください」

 「はい……」

 せっかくのマンゴー・タルトだったが、気まずい雰囲気になってしまった。切断できない針金に、何でも切れるペンチ、とは。

 看板の針金を切ったのは誰だろう? 外からできるとすれば、電線工事で使われるクレーンのようなものに乗らなければ無理だ。それを使えば音がするから気づくはず。僕が眠っている間にやったのだろうか。それとも中から切ったとすれば、マリさんのベランダに侵入しなくてはならない。それが可能なのは、空き巣のように忍び込んだ誰かか? それともまさかマリさんか……、そんなはずはない。僕のことをすごく応援してくれているよ。

 「なんだか深刻そうな顔をしているわね」

 「ええ、看板を誰がやったんだろうと考えていたので」

 「ごめんなさいね、私が変なこと訊いちゃったからね」

 「いや、解決させたい問題であることに変わりはないので」

 「そうよねー。このままじゃ、気持ち悪いものね」

 「ところで今日はスカイツリーで、何かの取材だったんですか?」

 「ええ、月刊誌に連載を始めることになってね。その打ち合わせ。潜水士が主人公のお話よ」

 「えっ!」

 (潜水士……、ダイバー……) マリさんの話すことは、僕にとって驚くことばかりだ。偶然の裏には見えない必然でも連なっているのだろうか。

 「潜水士は、先方の依頼ですか?」

 「いいえ、私、前から潜水士に憧れていたの。海の中を悠々と泳ぐ。私から持ちかけた企画なの」

 せっかくのマンゴー・タルトなのに、なかなか喉を通らなかった。そういえば、僕はまだ一度もマリさんのこころに潜っていなかったな。どうしてしなかったのだろう。そして今もしようとしていない。それをしてはいけないような胸騒ぎを感じ取っているのだ。

 マリさんとの会話は、カウンセリングとは異なる日常へと引き戻してくれる。そんな大家さんがいてくれてよかったと、しみじみと思った。


【 4 心療内科と薬 】

 中2の娘が学校へ行かなくなったから、という理由で開始したユミエのカウンセリング。次の週も約束通りにやって来た。彼女の方から口火を切った。

 「先週の先生のお話で、気づいたことがあるんです」

 「ほう! どんなことでしょう」

 「私の昔のことです。親に構ってもらえなかったなぁ、って」

 「どうして親に構ってもらえなかったのかなぁ?」

 「自営をしていて、両親ともすごく忙しかったんです」

 「食事とかは作ってもらえていたのですか?」

 「はい、そういう必要な家事はやってくれました。でも、テレビを観たりして一緒に時間を過ごすとか、どこかへ出かけたりするというのは、ありませんでしたね」

 僕はユミエのこころに潜って、その思いに触れた。彼女のこころが叫んでいる。

 — 私がちゃんとやらない子だから、お母さんは私のことが嫌いになった! —

 そして、涙を流した。自分が寂しい子ども時代を過ごしていたからこそ、せめて娘のリコにはそんな思いはさせたくないと強く願ってきた。リコが学校を休むようになってから、状態は徐々に悪くなり、ついには昼を過ぎても起きてこず、やがて外出もしなくなっていった。食事は、昼と深夜の2回、胃に優しいメニューを工夫して食べさせていた。ユミエは、天津飯やハヤシライス、リゾット、といった半流動的な献立を考え、少しでも喉を通るよう工夫したのだという。

 心療内科には、2週間に1度通った。途中から、本人が部屋から出られないからと、母親だけが行き、今の状態を説明して薬をもらっているのだった。家では、午後から夜にかけてかなりの時間を割いてリコの枕元に座り、本を読んであげたり、面白い動画を見せたりと、かいがいしく世話をした。医師からは「ストレスを軽減させてあげてください」「学校の中にストレッサーがあるかもしれません」と言われていた。

 「お母さん、毎日長い時間寄り添っていて、しんどくないですか?」

 「いいえ。娘のためになると思って、むしろ充実しているくらいです」

 「最初にお話しされたこと、つまりリコさんが学校へ行けるようになるのなら行かせてやりたいという気持ちに、変わりはないですか?」

 「もちろんそれはあります。でも今はまだ無理させちゃいけない段階だから」

 「それは誰から教えられたことでしたか?」

 「病院の先生やスクールカウンセラーの先生です」

 「先生たちの意見に信頼を寄せていますか?」

 「はい」

 ここで僕はまた潜った。そして少しだけ深みに行き、そこに見つけた薄い狐色に光るたましいに触れてみた。それはさっきとは違い、生き生きとしていた。

 — 私が娘の役に立っている。いいお母さんをやれている —

 では、なぜリコのうつ状態は悪化したのだろう。

 「リコさんが心療内科で出してもらっている薬はわかりますか?」

 「はい、睡眠導入剤のマイスリーと、抗不安薬のメイラックスです」

 「お母さん、薬に詳しいみたいですね」

 「いや、はぁ……。実は私も以前からかかっているので……」

 「お母さんも心療内科に?」

 「ええ」

 「いつ頃からですか?」

 「結婚する前くらいかしら。15年くらい経ちますかね」

 「ずっと薬を処方されてきているのですか?」

 「ええ、今も出してもらっています。夜、いろいろ考えて眠れないものですから」

 「お母さんに出してもらっているお薬、教えていただけますか?」

 「はぁ、いっぱい……、5種類くらいありますかね。寝るために、サイレースとユーロジン。あと精神を落ち着かせるのに、セルシン、デパス、コンスタン、だったかしら」

 「毎日定められた量を飲んでいますか?」 

 「いや、私、調子のいいときは飲まないです」

 「飲まない日があると、医師に伝えましたか?」

 「いいえ。ちょっと面倒なので」

 「そうですか……。では、これまでの余った薬はどうしました?」

 「戸棚にしまってあります」

 (大量の向精神薬がストックされているんだなあ……)


【 5 蒼い嵐の果てに 】

 「参考のためにお尋ねしたいのですが、リコさんの眠気が酷いとき、お母さんはどんな気分になりますか?」

 「可哀そうだなぁって思います」

 「それで?」

 「私がなんとかしてやらなきゃ、って思いますね」

 「わかりました。ここまでの情報をちょっと整理させてください」

 こう言って僕はユミエの瞳に照準を合わせると、中に飛び込んだ。前のカウンセリングで最後に見たような暗く蒼い水、内面世界が深く広がっていた。僕はどっちへ潜っていいのかわからなかったので、途方に暮れながらも、闇雲に下方へ泳ぎ沈んでいったのだった。

 間もなく例の激しい潮流に見舞われた。予想はしていたが、突如出くわした渦に巻き込まれてしまい、意識が消えないよう保つのに必死だった。息はまだ十分に余裕がある。見つけなくちゃ! 渦に身を任せ、さらに奥へと運ばれた。あの狐色に光るもっと深いたましいを探さねば。

 すんなりとはそこまで連れて行ってくれない。長い蔓が何本も茂るエリアがあった。そこを通り過ぎなきゃいけないのか。このダイブは文字通りのいばらの道だ。半透明で見えない蔓が容赦なく僕の身体を打った。不意を突かれる。その度に激痛が走る。

 パシッ! パシッ! バシバシッ! パシッ!

 身体のあちこちは、多分内出血し、ミミズ腫れになっているだろう。痛くてたまらないけど、それが僕の選んだ道なのだ。覚悟と責任は生きる資格を得るための両輪なのだ。ふいに大きな蔓が顔面をはたき、気が遠くなった。意識が朦朧としてきて、僕の全身全霊はこの仕打ちに捧げられた。多分、僕は意識のないまま笑っていただろう。そうでなくちゃ、やってられないからね。多分、精神医学でいうところの解離が生じていた。

 何分たったか……。意識を取り戻すと、ほとんど暗黒と言ってもいい深く緩やかな蒼の中に、かろうじて存在がわかる程度に淡い狐色を放つ「それ」を見た。近づかなくては! もう痛みも感じられない身体をくねらせ、ゆっくりと近づき、そしてついに触れた。

 — いい母親になるために娘の看病をしなくてはいけない。娘の病気が私を理想の母親へと誘う。娘が元気になれば私は何もできなくなってしまう。娘よ病気のままでいて —

 なんだ、この想いは!

 客観的には一瞬の潜入体験。脱出して現実に戻ると、僕は速く打つ脈と吹き出す汗を悟られないようにして、できるだけ静かに、優しく、ユミエに話した。覚悟を決めて。

 「お母さん、リコさんに薬を飲ませていませんか? お母さんの分も……」

 「はい……。飲ませています……。だって、そうでもしないと、あの子が可哀そうですもの」

 「うん、そうですよね」

 「私は、いけない母ですか?」

 「いいえ、先日も伝えたように、とても優しい方ですよ」

 「先生、ありがとうございます……」

 ユミエはこぼれる涙を拭おうともせず、僕の目を見ていた。放心状態かのように見える表情。だがその眼光の強さは、見逃すことはなかった。

 「たくさんの薬を、料理に混ぜて、食べさせているのですね」

 「はい……」

 「多分それを娘さんも知ってて、食べようとしている。2人とも優しいんです」

 「ありがとうございます……」

 代理によるミュンヒハウゼン症候群だ!

 「お母さん、これから娘さんと手を携え、本当のこころを取り戻していきましょう」 

 「はい……。先生、よろしくお願いします」

 「こちらこそ。深い世界を見せてくれて、ありがとうございます」


【 6 再び…… 】

 次回カウンセリングの日時を決めると、ユミエはゆっくりと腰を上げ、深々と礼をした。そして一言付け加えた。

 「先生。私、今、なんだかこころが軽やかです」

 僕は珍しく玄関外まで着いていき、静かに歩く後姿を見送っていた。ユミエの姿は、神田の街並みに消えていった。

 代理によるミュンヒハウゼン症候群は、広義の児童虐待に含まれる。児童相談所に通報すべきだが、ユミエがそこから立ち直る予感があり、少し推移を見守ることにした。児童虐待防止法に定められた通報義務を侵してまで。なぜなら、通報したら、この親子は救われないかもしれないから。

 僕は大きくため息をつくと、相談所の方へ振り向いた。目に飛び込んできたのは、歩道に横たわる、先日取り付け直したばかりの看板だ。また落ちている……。絶対に切れない針金で結んだはずなのに。

 看板のところへ行き、針金の様子を確かめた。切断されている。絶対に切れない針金が切られている。マリさんが言っていたように、何でも切れるペンチのようなものがあって、それが使われたのだろうか。切り口は、鋭利なものでスパッとした感じではなく、ざらざらした鈍さを呈していた。切られた位置が問題だった。ベランダの格子の外側でなく、内側部分だ。ということは、外から切ったのではなく、ベランダから切ったとしか考えられない。

 えっ! まさか、マリさん? 僕はこの着想に至った自分を許せない気持ちになり、両手のひらで顔を叩き、そのまま覆った。そしてその場にしゃがみこんだ。

 信じた人を疑う瞬間って、こんな悶絶に襲われるんだ。

 いけない、いけない。我を取り戻すと、看板を引きずりながら運び、玄関の横にあるスペースに立てかけた。その足で階段を上り、マリさんの部屋をノックした。ベランダに出るためには、マリさんのこの2階リビングに入り、リビングの大窓を通らないと無理なのだ。

 ノックには、何の応答もなかった。彼女は今、外出中なんだな。この部屋は鍵がかかるのだろうか。僕は今、やってはいけないことをしようとしている。ドアノブに手をかけ、開けようとしている。鍵がついていませんようにと願いながら。なぜなら、鍵がかからなければ、外から誰でもこの部屋に入り、ベランダに出られるから。誰でも看板の針金を切ることができるから。

 ドアノブに手をかけ、回す……。いや、回そうとする手がぎこちなく、動かしにくい……。手をかけ、止めたまま、僕は目を瞑った。この右手に伝わってくる感触。その先には、綺麗に片付いた部屋の様子、ベランダへの大窓と、そしてベランダの格子がありありと浮かんで見えた。看板を設置するために2度入ったことがあるが、その映像記憶が今、このドアを挟んだ向こうの世界として広がっていた。ドアノブの鍵は……? 鍵はついてるのだろうか。施錠してあるのだろうか。この二者択一は重大である。鍵がなければ、マリさんのことを疑わなくてすむ。

 玄関の外で誰かの足音がした! マリさんが帰ってきたのか……。僕は慌てて手を離した。

 すると玄関先で男性の怒鳴る声が聞こえた。

 「こんなところでするなよな!」

 「キャーン!」と小型犬の鳴く声。散歩に連れていた犬が玄関前で用を足したらしく、飼い主の男性が怒って叩き、後始末をしているようだった。僕は「ふーーーーぅ!」と、深いため息をついた。マリさんじゃなかった。

 人間というのは、究極のあやふやな状態への耐性が低いようだ。何としても確かめたいとの衝動が込み上がる。今しかないのだ。再びドアノブに手をかけて……、ゆっくりと回してみた。回る! 鍵がかかっていないぞ! よかった!

 そしてそっとドアを開け、隙間から中を窺った。僕の目の前に、マリさんの目があり、視線同士が交差したのだった……。

 「どうぞー、入っていいわよ」

 腰を抜かしそうなほど驚いた僕とは対照的に、落ち着いたマリさんがそこに立っていた。申し訳ない気持ちが次々と溢れ出て、何も言えなかった。腑抜けの僕は、言われるまま中に入った。


【 7 眼差し 】

 フローリングの8畳くらいの部屋と、ほぼセンターに置かれたテーブル。

 「泉さん、どうぞ椅子にかけたら?」

 「……」

 座りながら、恐る恐る振り返りドアをチェックすると、そこは施錠できるようになっていた。マリさんがいないときは鍵をかけているのだろう。ということは、ここに忍び込み、ベランダに出て、看板を繋ぐ針金を切ることはできない。それはマリさんにしかできない……。そんな疑念よりも、無断でドアを開けて中を確認しようとした僕自身の愚かさのほうに圧倒され、申し訳ない気持ちでいたたまれなかった。

 「本当にすみません、マリさん」

 「あっ、部屋を空けたことかしら? いいのよ」

 「でも……」

 「わかっていたわ。泉さんが看板が落ちているのを知ると、きっと来ると思ってたの。観察力の鋭い泉さんのことですもの、針金の状況を見て、ベランダの内側からやられたことだと知って、調べたくなるってことぐらい。このドアに鍵がついていれば、外部の人はむやみに入れない。そうすれば、私しかできない、って推理が成り立つのよね」

 「僕がマリさんを疑っていると?」

 「それもいいの。なんでも切れるペンチと言ったのも私だしね。そう疑うのは人間として普通の感覚じゃないかしら」

 「でも僕はマリさんが看板を落とす理由が見つからない」

 「ええ。その理由探しは、仮に私がやっていたらという前提の下でしょ?」

 「はい」

 「もし私がやったとしたら、私のことをどう思うかな?」

 「信じたいです。もしマリさんだとしたら、そうしたほうがいい理由が絶対にあるはずだと」

 「あら、ありがとう。でもどうしてそこまで私のことを信用するの?」

 「わからない……」

 「混乱しているようね。ハーブティ、飲みません? ミント系は大丈夫かしら」

 「はい、好きです」

 すでにお湯が沸いたポットから、ティーパックを入れたカップに注いでいる。全く動揺していない。この冷静さ、マリさんっていったいどんな人格の持ち主なんだろう。僕の関心はマリさんに向いた。いや、最初から向いていたのかもしれない。

 「はい、お待たせ」

 「ありがとうございます」

 「そういえば、私の部屋に入るのは、看板を着けるために通った2回だけね。今までどうして雑談とかにもいらっしゃらなかったのかしら」

 「どうして、と言われても。マリさんは、僕が借りている部屋のオーナーさんですから……」

 「遠慮していたのかな。職務上の繋がりに過ぎないからって。なんだか水臭いわよ。私、泉さんのこと応援しているのよ」

 「はい、ありがたく思っています。すみません」

 「私のほうが5つも年下だけど、もっと頼ってもらえると嬉しいわ」

 そう言うと、カップのミントティーを飲みながら、窓の外を眺めた。僕も飲んだ。甘党派の僕。シュガーを入れなかったが、おいしかった。自分がした過ちが許されているような感覚。そんな雰囲気では、何事もポジティブに感じられるからだろうか。

 「泉さん」

 「はい」

 「2度目の看板落下よね」

 「はい」

 「その謎を知っているのは、泉さん自身じゃないかしら」

 「えっ?」

 「泉さんの様子を見ていると、痛々しいのよ。誰か他の人の痛んだこころを見つけ、救ってあげたいっていうオーラのようなものが……」

 「あっ、はい」

 「泉さんのこころ、自分で見てもらえているのかしら」

 「……。確かに……」

 「私は、泉さんの助けになりたいの。そのために、この部屋も貸しているのよ。他の人だったら貸さないわ」

 僕はマリさんに甘えてばかりいた。その母性的な姿に。でも今のマリさんには父性を感じる。厳しい指摘だった。マリさんとの偶然の出会いは、僕が人間として成熟していくために不可避だったんだと思った。

 「ほら、下の事務電話が鳴っているわよ」

 「あっ、ありがとう、マリさん」


【 8 訪問と鍵 】

 マリさんとの対話もそこそこに慌てて階段を下り、電話には間に合った。かけてきたのは、今日カウンセリングを終えたばかりのユミエからだった。

 「先生ですか?」

 「はい」

 「お願いがあるのですが」

 「はい、なんでしょう?」

 「娘が先生に会いたいって言うんです」

 「それは歓迎します!」

 「でも、まだ娘は外に出られないんです」

 「ここまで来れるようになるといいですね」

 「すぐに会いたいって言うんです」

 「それは困りましたね」

 「先生に、家に来てほしいって」

 「家庭訪問ですかぁ……」

 「はい、お願いできないでしょうか」

 「検討してみましょう」

 「今日は無理ですか? 娘が早く会って話したいって言うもので」

 「それは待ってください。今日はもう時間が遅いし、私用で疲れ過ぎているので」

 「そうですか……。残念ですが、先生に無理されても嫌ですし」

 「すみません、要望に応じられず」

 「では明日はどうですか?」

 「急ですねぇ」

 「娘が早く話したいって。今まで誰にも自分から話したいなんて言わなかったのに」

 「明日はもう予定がいっぱいなんです。3日後はいかがですか? 夕方に時間とれそうです」

 「それで構いません。よろしくお願いします!」

 「わかりました。ここから遠くないですし、夕方5時にお邪魔します。その時、お母さんも家にいらっしゃいますね?」

 「はい、もちろんです」

 電話機は、木製の3段レターケースの上にある。ふと気になり一番下を開けると、名刺入れくらいのサイズの厚紙でできた小箱に目がいった。これ、何を入れたんだったかな……、と開けてみる。

 真新しい鍵がある……。

 これは何だ? 記憶にないよ。なぜここに仕舞ってあるのだろう。僕以外にここに入れることができる人はいるはずがない。

 頭が痛い。妙な感じがする。この感覚をたとえるなら、ちょうど偏桃体のあたりから液体がシャワーのように噴き出す感じ。そして、視界がおかしく、いつもの部屋なのに濃い霞がかかったように見え、そこにいる感じがしない。僕と世界との間にベールが張り巡らされ、僕は四次元の映画を観ているようだ。

 これが離人感というものなんだな。

 さっきマリさんに言われた言葉が蘇ってきた。「自分のこころは自分に見てもらえているのか」と。はっ、とした。僕は今まで自分のこころに潜ったことがない。思い立ったかのようにその鍵を右手に握り、僕は自分のこころの蒼い世界に飛び込んでみた。

— これは大切な鍵。僕に助けが必要なときが来たときのために —

 そうだった。マリさんが「緊急のときに」と言って渡してくれた、2階のドアの鍵だ。どうして忘れていたんだろう。相談所を移転する際のゴタゴタに紛れて、使わないだろうと思ってここに入れておいたんだ。それに気づいてすぐ、現実に戻った。

 マリさんのいない時間に、僕が2階の鍵を開けてベランダに行くことができるわけだ。無意識に誘われて、僕が看板を外しに行っていたという可能性が否定できない。もしそうなら、なんのためだろう。


【 9 対峙のとき 】

 ユミエの家に訪問する日。1つ前のカウンセリングが3時過ぎに終わり、ドリンク剤を飲んで椅子に座り、一服した。

 リコは本当に僕と会って話したいと思ったのだろうか。これは本当だろう。これまでによく経験した典型的なパターンだ。

 つまり、母親が僕のところに来る。母親にとって恐らく人生初めてのこころの接触を経験し、水の源流で変化が生じる。源流は数々の支流と合流し、川幅を広げながらもその流れの質を微妙に変える。母親の言動としてあちこちに表された変化は、敏感な母親思いの娘に把握される。もうあり得ないと諦めていたのに、その奇跡を目の当たりにして、子どもは封印したはずの期待を再び膨らませ、それをもたらした「きっかけ」に関心を向ける。

 僕は家族に内緒でこっそりと来たクライエントには、必ず「伝えください」と頼む言葉がある。「カウンセリングに行ってきたよ。そこで、自分自身のことを見つめ直すようになったよ」と。ユミエにも、帰ったら娘のリコに、カウンセリングでどのようなことが起きたのかを伝えてくださいと頼んでいた。リコはきっと、罪悪感を醸し出していた母親の姿に変化を見い出し、出会ったカウンセラーにも関心を示したのだろう。

 この日は蒸し暑かった。タクシーの中で、マリさんからもらった鍵を見つめていた。あらためて握り直すとポケットにしまった。これから人のこころに潜るときには、この鍵を身に着けておこうかなと思った。

 ミュンヒハウゼン症候群の用語は、自分自身の心身を悪化させることで周囲の関心や同情を得たり、コントロールしたりすることで心理的満足を得ようとする行動特徴を指して使われる。一方、代理によるミュンヒハウゼン症候群は、悪化させる対象が自分でなく、自分の代わりの別の人の場合である。傷を深めたり病状を悪化させたりすることが真の目的なのではなく、心配し世話をしている可哀そうな人などと映ること、あるいは自分でそのように認識することを欲する心理機制が中核になくてはならない。意図的にしていると受け取られがちだが、本人にその動機は否認され、つまり自分がなぜそれをするのかよくわかっていないものなのだ。代理によるミュンヒハウゼン症候群の人の中には、過去にミュンヒハウゼン症候群を経験している人も多い。自分の本心に対して関心を寄せてもらえなかった子ども時代を過ごしてきた、そこに根本的原因があると僕は考えている。

 タクシーは閑静な住宅街へと入っていった。同じ一戸建てでも、神田の僕のところとは雰囲気がまるで違っていた。ユミエの家から少し離れたところで降り、5時になるまで日陰で待った。そしていよいよ、訪問する時間となった。僕が家に入るところを、電線に止まった一羽のカラスが見届けてくれた。邪魔者扱いされている黒い鳥……。

 ユミエは大歓迎して、すぐにリコの部屋へと案内された。

 「私は部屋にいないほうがいいですか?」

 「どちらでも構いません。リコちゃん次第ですが」

 ユミエはリコの部屋に入り、僕が来たことを伝え、母親は一緒に部屋にいてもいいか、確認した。リコの答えは「どっちでもいい」だった。

 「じゃあ、お母さんも一緒にどうぞ」

 自分がいては邪魔になるのではないかと遠慮気味のユミエに、僕のほうから同室を勧めた。これはリコのカウンセリングではなく、母親との勝負であることがわかっていたから。その点では、リコも同じ思いだったに違いない。

 エアコンがほどよく効いた部屋。可愛らしいリラックマのぬいぐるみに囲まれたベッドだった。リコは、かけ布団から顔だけ出し、眠たそうな目で僕のほうを見てから、背を向けた。

 「はじめまして」

 「はい」

 「今日、少しだけどここで話をさせてもらうよ」

 「はい」

 「僕は、リコちゃんの願いを叶えたいと思っているんだ。その願いはね、リコちゃんが学校へ行けるようになることじゃあない。お母さんを助けることなんだと考えているんだよ」

 「……」

 「お母さんは子どもの頃、とっても寂しい子だった。両親にかまってもらえなくてね。それを自分がいけない子だからだと思い違いしてしまったんだ」

 「……」

 「そしてそのままリコちゃんのお母さんになって、お父さんも遠くで一人で働いて、いけない母親だと自分を責めるようになってしまったんだ」

 ここで耐えきれなくなったユミエが口を挟んだ。

 「先生、そのことと娘の病気は関係ないことでは……」

 「いいえ、これは是非、2人で一緒に聴いてもらいましょう」

 「どうしても必要ですか?」

 「はい、必要だと思いますよ」

 静かにユミエにそう伝えると、またリコに向って話を続けた。

 「だからね、お母さんが自分はいけない人じゃないんだと気づけるように、僕がお母さんの力になりたいんだ。自分のことを好きになって、自分の心に正直になって、伸び伸びと過ごせるようにお手伝いをしたいんだ」

 「……」

 「いやだったら、教えてね」

 リコは、小さく何度も首を横に振った。すすり泣く声がかすかに僕の耳に届いた。

 「だから、応援してくれるかい?」

 「…………、はい」

 「ありがとう。お母さんが踏ん張ってくれたら、リコちゃんとは今日が最後かもしれない。それまでちょっと待っててね」

 「はい」

 「今日は話を聴いてくれてありがとう。もう終わりだと確信しても、終わりじゃなかったことに、後で気がつくこともあるんだ。会えてよかった」

 部屋を出ようとする僕にリコが言った。

 「先生」

 「ん? どうしたの?」

 リコは相変わらず背を向けたまま、けなげな要求を口にした。

 「手を見せて」

 「いいよ」

 「小指出して」

 「はいっ」

 「指きりげんまん……」

 「うん、約束できたよ」

 僕の右手の小指と交差した指は、か細く、温かだった。リコの部屋を出て、母親のユミエに促されてリビングに移動した。

 「先生、びっくりしました」

 「僕があんなことを言ったからじゃないですよね」

 「はい。リコが初めて会った先生に、あんなことするなんて」

 「びっくりしてもいいんです。僕は変わっているから。みんなにそう言われます。お母さん、もうしばらく相談所に通っていただけますか? リコちちゃんとの約束を果たしたいので」

 「はい。是非お願いします」

 「では、そろそろ時間ですから」

 「せっかくですから、冷たいものでも少しどうぞ。フルーツミックスのスムージー、私が作ったんですよ」

 僕は自然にユミエの世界に潜り込んでいた。聴こえる……。

— 私はいけない母親、いけない人間、いけない存在。私がいけなくないなんて、嘘だわ —

 「はい、ではお言葉に甘えて、いただいていきます」

 出された自家製スムージーを、半分ほど飲んだとろこで、僕は言った。

 「お母さん、この中に薬が混ぜられているだろうと思っています。でもいいんです。お母さんがいけない人じゃないことを、僕が喜んで飲むことで証明しますね」

 「えっ……」

 「あなたがいけないからじゃないんです。お母さんのこころの中に記憶として生きている小さな娘さんは、まったく悪くなかったんです」

 流れる涙とともに嗚咽するユミエ。ゆったりとそう伝えると、僕は残りをすべて飲み干した。

 「タクシーを近くに待たせてあるので、それに乗っていきます。戻ったら休むだけですから」

 「先生、ごめんなさい……」

 「お母さん、僕を試してくれてありがとうございます。週が明けたら、予約した時間に来られるのを待っています」

 「先生、ごめんなさい」

 「最後に、お願いが一つあります。ごめんなさいを言い換えてもらえますか?」

 「えっ……。あっ、そうでした。先生、ありがとうございました」

 「はい。ではまた」

 帰りのタクシーに揺られ朦朧としたが、家に辿りついたと思う。ポケットに入れた鍵を握っていたので、きっと無事に戻れたはずだ。意識なく何かをするのは人間にとって当たり前のこころの防衛装置で、僕はどうやらそれが得意なようだから。

 後日談。ユミエのカウンセリングは2か月続き、カウンセリングの終結間際には、リコは学校へ行くようになっていた。


【 10 自分 】

 学校へ行くか行かないか、それは僕には関係ない。なぜって、そんなことよりもっと大切なことを知っているからね。「子どもが学校へ行けるようになるために、親はどうしたらいいでしょう?」という相談依頼がきても、「根本的なところから見ていきましょう」と言い、断りはしない。不登校というサインで親が動き出すというのは、人が大切なものに気づき、変わり始めるための、最適なタイミングの一つだ。

 ユミエの家から帰り、薬の作用なのだろう、そのあとの記憶はなかった。激しい頭痛で起こされたのは、翌日の早朝だった。腕時計はもうすぐ6時を指していた。エアコンの効いた部屋、僕は布団の中にいた。クリーニングしたてなのか、柔軟剤が仄かに香る真新しい布団。居心地がいい。

 ここは! 2階のマリさんのリビングじゃないか。驚いて出そうになった声を飲み込んだ。

 「おはよう、泉さん。無理しちゃだめよ」

 部屋の隅っこに寄せたテーブルから、マリさんの声がした。ノートパソコンが開かれていて、ライターの仕事をしていたようだ。

 「ちょうど締切の原稿があってね、徹夜覚悟だったの。泉さんのお陰で捗ったわ。あっ、お布団なら気にしないで。いつか来るお客さんのために用意しておいたものよ」

 僕は昨日からの出来事を思い出しながら、申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、同時に温かく嬉しい気持ちも抱いていた。

 「頭痛がひどいでしょ。温かいものでもを飲んでから、ロキソニン飲むといいわ」

 マリさんは隣の、おそらくダイニング・キッチンであろう部屋へ行くと、鍋で何かを温めていた。

 「はい、できました。マリリン特製のコーンとじゃがいものポタージュスープよ。起き上がれるかしら」

 (「マリリン」なんて、初めて聞いたな……)

 僕は頭痛を耐えてゆっくりと起き上がると、布団の上に胡坐(あぐら)をかいた。マリさんが手渡してくれたカップ。程よく温かいスープを一口飲んだ。

 「どう? お口に合うかしら」

 僕は深く頷いた。そして残りを全部飲んだ。目が覚めてから一言も発していない。声が出る気がしないのだ。心因性の失声症の人の感じって、これなのかな……。カウンセラーって、クライエントの症状を自分も体験してみることで、いっそう深く寄り添えるのかな……。第三者として理解しようとする体験を積み重ねて体得した感覚、そこへの共感ばかりだからなぁ。そんなことを考えていると、

 「泉さん、また何か他の人のために考えているんでしょう?」

 図星を突かれてしまった。

 「はい、鎮痛のロキソニンよ」

 コップの水とともに差しだしながら、マリさんは話を続けた。

 「昨日はね、玄関で大きな音がしたの。そうしたら泉さん、ヨレヨレになっていて、このままじゃいけないと思ったの。でも泉さんの部屋の鍵、私知らないから、私のところで休ませたのよ。ちょっと苦労したけど、泉さん、自分で歩こうとしていたわよ」

 そうだったんだ。

 「私、泉さんのお役に立ちたいの。それ、私の願望。だから気にしないでくださいね」

 その形容しがたい優しさに何度も感謝の気持ちが吹き上がり、また眩暈(めまい)に襲われ、布団に横になった。「自分のこころは?」と誰かがささやく声が響いていた。この部屋なら、思い切って自分自身に潜ってもいいんだよね。そう感じた。

 やはり蒼い世界だ。ゆったりと泳ぐイルカの僕。狐色の光を探さなくちゃ。でも気持ちがいいや。潮の流れはとても穏やかだし。あの右の奥に見えそうなのが、「それ」かな? 近づいてみたい。すると左の奥のほうにも。いやあっちが「それ」なのかな……。ちょうど三差路に差し掛かり、右へ行ったらいいのか、左へ行ったらいいのかがわからずに立ち往生してしまった人間のようだ。泳いでいきたいが、どちらにも行けない。だって、両方とも大切で、どちらかを選ぶと選ばれなかったほうを見捨ててしまうような感じになる。本当に困った。そうしていると、急に押し寄せた強い流れに押され、三差路の中央の見えない壁にぶち当たった。

 僕はまた眠ってしまったようで、次に目を覚ましたのは10時近くだった。自分のこころに潜ることが一番難しいことが、わかってきた。今日のカウンセリングの準備をしなくちゃ。

 「あら、おはよう、泉さん」

 「おはようございます」

 声が出た。


< 第二話 完 >

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