diver 第一部 第八話
【 1 ドライブ 】
お盆休みも後半に入った。かねてからマリさんと約束していたドライブ旅行に出かけることになった。行先は、マリさんの提案通り、日本三大羽衣伝説の地のうちの2つ、京丹後と三保の松原。
車は、マリさんが大型ワンボックスカーのヴェルファイアーを手配してくれていた。この車は1列目から3列目までをフルフラットにすることができ、とても広く、仮眠することができる。というのも、高速道路の渋滞が予想され、いつどこに到着できるかわからないので、敷布団と掛布団、それに枕を用意し、車内泊にすることを話し合って決めたのだった。僕はかなり気がひけたが、マリさんが「気にすると損よ!」と笑い飛ばすので、引きずられるように決行することにした。
ドライブの旅に出かける前夜、夢にユリが現れた。僕が2階の事務室にいると、月齢11の明るい月に照らされたベランダに立っているユリが話しかけてくる。
ユリ「三保の松原に行ってね」
「京丹後にも行くんだ」
「三保に行って」
「そこにも行くけど、京丹後だよ」
「なぜそっちに行くの?」
「マリさんが大切にしている鈴の神社があるんだ」
「そんな鈴、大切じゃないわ」
「いやー、大切だよ」
「三保の鈴を持ってきて」
「それはわからない。行ってみてから決める」
「京丹後は行かないで」
「そんなことはできないよ。ユリさんは、マリさんと反対なんだね」
「ええ、そうよ。私たち反対なの」
「マリを信じないで、私を信じて」
「いやー、わからない。とりあえず行ってみないと」
「私を助けて。マリじゃなくて、私を助けて」
「僕はマリさんに助けられているんだ。助けてはいないよ」
そういうと、ユリは急に黙り、悲しそうな顔をして、月明かりの中に消えていった。本当に対話しているような生々しい夢だった。
翌朝6時に、レンタカーを取りに行った。その後いったん家に戻り、布団や食べものを詰め込み、出発だ。僕の腕の傷はかなりよくなっていたが、マリさんは「最初は私が運転するわ。無理しないで」と力説するので、甘えさせてもらうことにした。
今朝の天気は晴れ。だが朝からとても蒸し暑い。
「天気が心配よね。台風10号が西日本に近づいていて」
「そうですね。ちょうど京都に着く頃に当たってしまうかも」
「道路が通行止めになると困るわ」
「安全を優先して、行先変更します?」
「いえ。私はどうしても行きたいのよ」
「わかりましたマリさん。行ってみましょう!」
西神田から首都高に入ると、竹橋ジャンクションを越え、三宅坂ジャンクションを右に入った。おや、これは中央道へ向かう道だ。
「東名を通って、三保の松原に寄っていかないんですね」
「ええ、行きと帰りは違う道のほうが楽しいでしょ? 中央道から見えるアルプスも素敵だと思うの」
「そうですね。帰りに東名を使い、三保に寄れますからね」
「そうよ。早く京丹後に行ければ、台風の前に行って帰ってこれるかもしれないし」
首都高はいつもよりむしろ空いているようだった。西新宿ジャンクションを越え、高井戸インターチェンジに。すぐに中央道に入ることができた。一時間ほど走ると、左前方に高尾山が見えてきた。車の量もやや増え、やがて神奈川県境に至った。相模湖付近は身近な観光地として人気が高い。中央道の車窓からも、山、湖、川といった豊かな自然を満喫できる。
左手に広がる景色を見ているうちに、僕は睡魔に襲われ、眠ってしまった。
「泉くん。休憩しましょ!」
マリさんの声に目が覚めると、もう諏訪湖サービスエリアに着いていた。まだお昼前。長野県のここは標高600m近くあるはずなのに、夏の陽がかなり痛く、暑かった。トイレに行き、缶コーヒーを飲んで、売店で僕はスナック菓子を買った。マリさんは、野沢菜漬けを買っていた。車に戻って少し食べさせてもらったが、塩がきき、サクサクとした歯ごたえが美味しかった。
この光景……。とても不思議で懐かしい感じがする……。フラフラとしたので、シートにもたれた。
「さあ、次は愛知県を目指すわよ!」とマリさんが力強く言った。
「疲れていませんか? 交代しますよ」
「まだまだ平気よ! 泉くん、ゆっくり寝ていてね」
「はぁ、すみません。もう右腕はだいぶいいんですけどね」
「着いてから大変かもしれないから、今は休みましょう」
「むこうで大変なことが起こるんですか?」
「それはねー、未知数よ!」
そう言って、マリさんはニコリと笑った。僕の目からは、訳のわからない涙がこぼれていた。ただ、懐かしい……。この旅が、忘れてしまった僕のルーツを探すものになるのだろうか。
【 2 西へ 】
目を瞑っていると、路面の振動を抑えるサスペンションがリズミカルに感じ、心地良さを味わっているとあの幻影が始まった。
蒼い世界を潜っている。イルカの僕は、縦横無尽にこの世界を占有していた。この日はいつもより深くまで来た。三差路だって平気だ。これまでは激しい潮流に負けてぶつかってしまった角もなんのその、思い切って左側へ進路をとった。そう、僕自身の内面領域だ。ここへ潜れるのは、神田から大きく西へきているからだろうか。狐色にぽっと光る「それ」が、容易に見つけられる。「それ」というのは、こころの奥で眠っている大切な思いや記憶の断片のことだ。
近くにある「それ」を目指し、左手で掴んでみよう……。しかし「それ」は小刻みに動き回ってなかなか掴ませてくれない。あの歌が聴こえてきた。小さいが、はっきりと、明確な歌詞と共に。そう、『神田川』だ。
― あなたは もう 忘れたかしら。赤い 手袋 マフラーにして。 …… 若かったあの頃 何も怖くなかった。ただ あなたの優しさが 怖かった。 …… あなたは もう 捨てたのかしら 二十四色のクレパス買って あなたが書いた 私の似顔絵 うまく描いてねって言ったのに いつも ちっとも 似てないの。 窓の下には 神田川。 …… 若かったあの頃 何も怖くなかった。ただ あなたの優しさが 怖かった。 —
どうして僕は、生まれる前のこの歌を知っているのだろう。覚えているのだう。1973年9月20日にリリースされた歌。この年に生まれた人は、今は46歳だ。前にダイバーズウォッチが指していたのは、1998年だった。僕が12歳、小6の頃。蒼い世界の左側にある一つの「それ」を両手で包んでいると、とめどなく涙が溢れた。涙は、蒼い世界にあっても水と混じらず、その軌跡を伸ばしていた。
歌声は、男の人のもの……。「あなたはもう忘れたかしら?」と問われるとおり、僕は大事な何かを忘れてしまっていた。
「それ」を手放し、別の「それ」を目指した。ここからはちょっと遠くにあるが、イルカの僕は気持ちよく水をキックし、その割れ目に滑り込むようにして進んでいった。近づくにつれ、水の鋭い鞭が僕の身体を容赦なく打つようになった。今しかチャンスはない! ダイバーズウォッチは、ちょうど2000を指している。みみず腫れになった身体に構わず、新しい「それ」に左手を伸ばした。その指から、頭頂部に向けて電撃が走った。
僕はスリップし、別の世界へ入り込んでしまった。
― 畳の部屋。揺れる電球。寝ている僕。取り囲むたくさんの人影……。笑い声 —
僕が14歳の頃?
「わーーーー!」という声を挙げて、僕は目を覚ました。
隣で運転するマリさんが驚いて「泉くん、すごい汗よ。悪夢でも見たの?」と訊いてきた。
「はい……」
「次のサービスエリアで休憩するわね。汗を拭きましょ」
「はい。ここはどのあたりですか?」
「愛知県を通り過ぎて、岐阜県。もうすぐ養老サービスエリアよ」
「随分と時間がたったんですね」
「ええ、この調子だと、明るいうちに着きそうよ」
「ずっと運転させてすみません」
「気にしなくていいわよ」
「途中、渋滞はなかったですか?」
「小牧ジャンクションから一宮ジャンクションの間は、結構混んでたわ」
「そうですか。全然気づきませんでした」
「泉くん、顔色が悪いわ。休んでいてね」
「はい……。何かとんでもないことを思い出せそうで、思い出せないんです……」
「そういうの、つらいわね」
「はい……」
養老サービスエリアに着いた。タオルで汗を拭き、車を降りてレストランへ行った。僕はきつねうどんを食べた。食欲がない。マリさんは味噌煮込みうどんを食べていた。手足の軽いストレッチを終えると、訊いてきた。
「京丹後へ行くの、やめる?」
「なぜですか?」
「つらそうだから」
「いや、行きます!」
「わかったわ。つらいけど、大事なことを思い出したいのね」
「はい!」
車へ戻ろうとすると、3歳くらいの男の子が立っていた。迷子になっているようだった。「おいで」と手を出すと、走ってきて僕の手の中におさまった。目を瞑り、この子の蒼い世界に潜入した。
― お父ちゃん、おかあちゃん、どこ? 置いていかないで —
この子が歩いてきた軌跡が、仄かに青白く光って見えた。
「おいで。お父さん、お母さんのところに戻ろう」
うなずくと、手をつないで一緒に歩いた。後ろからマリさんが着いてきた。レストランを通り越し、土産店と自販機の列を越え、トイレ近くの歩道を歩く。「カイトー!」と呼ぶ女性の声が聞こえた。その子は女性のほうを指さしながら「あそこ」と言った。カイトくんって名なんだな。僕の名に「ト」を付けた名だ。仲間じゃないか。連れて行くと、カイトと女性は抱き合った。よかった。マリさんと並んで、母親らしき人に説明をした。
「レストランのほうで迷子になっていたので、探して連れてきました」
「ありがとうございます。この子、すぐにどこかへ行ってしまうので」
「いいですよ。見つかってよかったです。お父さんも探していますか?」
「はい。電話で呼びます」
「カイトくんは、お父さんとお母さんのことが大好きです。どうか見失わないでくださいね」
「はい!」
その場を離れようとすると、「どうしてここがわかったのですか?」と尋ねてきた。
「カイトくんが教えてくれたからです」
「そうなんですね。ありがとうございます」
僕たちの車に戻る途中、マリさんが言った。
「カイトくんと手をつないで歩いている後ろ姿を見ていたら、親子のようだったわ」
それを聞いて、僕はまた激しい眩暈に襲われ、しゃがみこんでしまった。
「どうしたの?」
「どうも、僕と父とのことで、何か重要なことを忘れているようなんです。あなたはもう忘れた?って、ずっと言われているような。早く忘れなさいって言われているような……」
「その忘れてしまった秘密は、思い出さなきゃいけないの?」
「はい。そうしないと僕の人生が完結しないんだ、って感じます」
【 3 伝説の地 】
車に戻り、僕の調子がよくないので、このままマリさんに運転してもらうことにした。
「カーナビのビックスだと、名神の竜王から先が渋滞しているから、米原ジャンクションで北陸道で長浜方面に向かって、敦賀経由で行ったほうが良さそうね」
「はい。お任せします」
「京都の手前って、いつも混むのよ」
「よく知っていますね」
「こう見えても、昔はドライブが趣味だったのよ」
「多趣味で羨ましいです」
「泉くんだって、もの知りじゃない?」
「はぁ……。話は飛びますが、今、ペルセウス座流星群の極大期でした」
「夜、見えるかしら」
「月が明るくて、朝方でないと見えないですね」
「そうなのね。ここ、関ヶ原の合戦の場所ね。右のあの山は?」
「あれは伊吹山です」
「山肌が削られてる……」
「山の南西側は採石場なんです」
「なんだか可哀そう」
「ですよね。痛そうです……。人は、海や川、窪地を埋め立てるために山の土砂を削り、遠くへ運んでしまう。こうして自然の姿を次々と変えてきたんですね。そこに何の罪悪感も抱かないというのが、僕には不思議なんです」
「私もそう思うわ。辺野古の埋め立てもそうよね。戦闘のための米軍基地を作るために、少なくなってきた日本のサンゴの生息地を破壊している」
「はい。人を殺す兵器のためにね……。世界の人たちが、こころを持った同じ人間だという事実を忘れさせてしまう……」
車は滋賀県の米原ジャンクションで北へ進路をとり、北陸自動車道に入った。そして敦賀ジャンクションで舞鶴若狭自動車道に折れた。琵琶湖の北を通過するコースだ。所々混んでいたが、三方五湖の眺望を楽しみながら、一時間半ほどで綾部ジャンクションまで来て、山陰近畿自動車道に入った。あと少しだ。陽がだいぶ傾いてきていた。間もなく与謝天橋立インターチェンジ、そしていよいよ京丹後市内に入る。最初のガソリンスタンドで満タンにした。丹後半島の多くが京丹後市で占められている。
「日没は何時かしら」
「この辺りは、今日は6時52分ですね」
「なぜわかるの?」
「いや……。さっきネットで調べました」
「あと50分で間に合うかしら。夕日が綺麗な温泉があるのよ」
「行ってみたいです」
「そこで汗を流して、食事をとれるといいわ」
「いいですね」
「では、決まり!」
国道312号線を走りながら、左側に磯砂山(いさなごさん)をちらちら見る。「あれが日本最古の羽衣天女伝説がある山」とマリさんがぼそっ言った。標高661メートル、山頂に立つには登山道を歩くしかない……。峰山駅をやり過ごし、車は西方面へ向かうと、日本海が見えた。夕日ヶ浦温泉。20件以上の温泉旅館やホテル、民宿が並んでいる。どこも混んでいて断られたが、何件か回って、一つの古びた旅館が入浴と夕食をオッケーしてくれた。
先に温泉に浸かった。日没後だった。夕陽の見ごろが終わったせいか、割と空いていた。すべすべした感触の透明な湯。露店風呂に半身を浸けながら、みるみる暗くなっていく日本海を眺めていた。
いつしか僕は自分の蒼いこころの世界に漂っていた。僕は天女になって「空に帰りたい、帰りたい」と泣いているのだった。でも絶対に帰れない。約束をしたから。約束をしたから……。「羽衣を返してもらう代わりに、この家の娘になります」と約束をした天女。家から追い出されても、帰り道がふさがれ、一生を地上で過ごした京丹後の天女。なぜ僕が天女なんだろう……、と疑問を抱きながら、僕という「現実」に戻ってきた。
温泉のあとの食事は、個室ではなく食堂だった。すべての部屋が予約で埋まっていて空いていないからだった。出てきたのはもちろん海鮮料理。海老や刺身がたくさんだ。マリさんも口数が少なかったのは、料理を堪能していたのか、それとも僕のように物思いに耽っていたからなのか……。マリさんは、時々僕のほうをチラチラと見て、気にしていた。
温泉で身体を綺麗にし、海鮮料理でお腹を満たし、峰山駅に戻り、その近くにある総合公園の駐車場に車を停めた。様々なスポーツ施設があり、奥には立派な野球場もあった。
「ここなら、夜は誰も来ないと思うわ。トイレもあるし」
「便利ですね」
「眠れるかしら?」
「はい、僕はいいですが、マリさんは?」
「私なら、もっと大丈夫よ」
「それならよかった」
「蒸し暑いからエアコンつけておかなくちゃ」
「そうですね」
マリさんは一列目と二列目のシートを繋げてフラットにし、僕は二列目と三列目を繋げた。敷布団を敷くと、想像以上に快適な「ベッド」が2つ出来上がった。夜の10時半。2人とも疲れきっていたので、早く休みたいばかりだった。外は雲が広がり、にわか雨。時々風も吹くようになった。台風の影響、明日は大丈夫だろうか……。
「おやすみ、マリさん。今日は運転ありがとうございました」
「泉くんこそ、お疲れさま。おやすみなさい」
僕は横を向いて、全身の力を抜いた。マリさんも、反対側を向いて、動かなくなった。やがて寝息が聞こえてくると、僕は安心して夢想に耽った。
― 空を見上げ、仲間が住む世界を探している。以前なら羽衣をまとい、気持ちよく舞っていけたのに。仲間はどこにいるの? みんなはどこにいるの? 私のことを忘れてしまったの? 天へと続く道は、どうしてふさがってしまったの? 私がすぐに戻らなかったから? いつまでも地上にいなければならないの? —
悲しい夢想に涙が出た。なかなか寝つけず、夢想と覚醒を繰り返していた。
【 4 帰れない魂との出会い 】
「パチパチパチ パチパチ!」
激しく窓を打つ横殴りの雨音で目が覚めた。時間は朝の7時前。いつの間にか眠っていたようだ。マリさんも横になったまま窓の外を見ているようだった。
「おはようございます」
「あら、泉くんも起きたの?」
「はい。雨の音で起きました」
「眠れた?」
「最初はいろいろ夢想していましたが、知らないうちに眠りました」
「私はすぐに眠ったようだわ」
「それはよかった。長い運転でかなり疲れていたはずです」
「そうね。眠れてよかった。この雨、これからひどくなりそうよ」
「台風10号ですよね。どうします?」
「一か所、どうしても泉くんを連れていきたいところがあるの」
「是非行きましょうよ!」
「少し歩くから、先にコンビニに寄って、食べ物と傘を買いましょう」
「いいですね」
僕たちは布団をたたんで、シートを元通りに戻した。マリさんの運転で、峰山駅近くのコンビニに寄った。サンドイッチにホットコーヒー、ヨーグルト、そして傘を買い、車内で朝食を済ませた。マリさんは車を少し南へ走らせると、すぐに右折して西へ向かった。畑や住宅に挟まれた道はだんだん狭くなっていく。マリさんはこの道をよく知っているようだった。やがて、行き止まりとなった。
「雨が降ったり止んだりだけど、行きましょう。私が鈴をもらってきた神社よ。ドアノブにかけてある鈴」
「比 沼 麻 奈 為 神社? なんと読むのでしょう?」
「ひぬまない神社よ」
「ひるまない神社、って聞こえますね」
「あまり知られていないけど、あの羽衣伝説の天女が祭られているの。天に帰れない非昇天型の、珍しいタイプよ」
「悲しいです」
「泉くん、わかるの?」
「はい。約束をした人間から裏切られるんですけど、天女は約束を守り続ける。そのために天に帰ることができなくなってしまう。できること、それは天を懐かしく見上げて涙するだけ……」
「ええ、そうよ。自分がらくになることよりも、約束のほうを選んだのよね」
「はい。そのため、永遠の苦労を生きることになってしまう」
「泉くんは、約束はもういいからって、天に返してあげたいと思う?」
「わからないです。約束を貫きたいっていう気持ちも、多分強く持っている。それを反故にしてしまうのも、大きな禍根を残すことになるんじゃないかと思ってしまいます」
「そうね。泉くんならではの答えだわ」
「行きましょう!」
「奥に本殿があるわ。会えるといいんだけれど」
「誰にですか?」
「ここに住む仙人よ」
「仙人?」
マリさんは僕の疑問に答えずに、傘を差し、先に歩き出した。鳥居をくぐり、白い砂利道を歩き、茂った木々のトンネルを進むと、本殿らしき古風な建物に行き着いた。マリさんは本殿のほうへ向け、声を張って挨拶した。
「おはようございまーす!」
「……」
「おはよーございまーす!」
「やあー! 来なすったねぇ」
本殿ではなく、左手の林の中から声がした。僕もマリさんも驚いて振り向くと、編み笠を被った白髪の老人が笑いながら近づいてきた。
「この方が、仙人?」
マリ「比沼麻奈為神社の神主さんよ」
「はじめまして」
老人「やあやあ、よう来なすったぁ。遠いところをなぁ」
マリ「この人が、あの泉海くんです」
老人「いやぁ、会えて嬉しいのぉ」
「そうですか。それは光栄です」
マリ「どうでしょう?」
老人「これはこれは……。辛かろう。同じじゃなぁ」
マリ「やはりそうですか」
老人「この方の魂は彷徨っておるが、貴重じゃな。したいようにさせてあげるのがよいと思うがなぁ」
マリ「ありがとうございます」
「何を話しているのですか?」
マリ「泉くんの宿命よ」
「僕は、この地の天女と同じ運命ってことですね」
老人「さすがじゃ、勘がよい。このご時世にまだ残っているとはのぅ。今日は良き日じゃ」
「よくわかりませんが、ありがとうございます。何だか、勇気をもらった気がします」
老人「古い鈴がある。それを持っていかれるといい」
そう言うと老人は本殿に上がり、廊下を奥へと歩いていった。しばらくして戻ると、いかにも古びた鈴を手にして戻ってきた。
老人「世俗に流されず、己の道を堂々と進むんじゃ。しっかりとこの地に足をつけて行くんじゃ。魂が疲れたときに、この鈴が御守りとなる。誰の手にも渡さぬよう。それが新しい約束じゃな」
「承知しました。ありがとうございます!」
僕は両手を差し出し、頭(こうべ)を垂れ、目を閉じ、最大の敬意を払って受け取ろうとした。その「仙人」は、鈴を両手で挟むと、僕の手の上に置いた。老人の手から温かい蒼い水が僕の手を通して流れ込み、全身に漲るような感じがした。それまで避けていた痛みすら受け止められる、そんな力が与えられた。しばらくの間、2人の身体が静電気のようなオーラに包まれた。
マリ「眩しいわ!」
そしてマリさんは泣いた。明らかに言葉に詰まっていた。
老人「今日は良き日じゃ。この年まで生きていてよかったぁ。よかったなぁ」
「投げ出してしまわなければ、想像もできなかった奇跡も起こるのですね。これから僕の運命がどこへ向かうのかわかりませんが、この鈴と共に、自分の魂のままに進んでいきます」
老人「よかったのぅ。よう来てくれたぁ」
「ありがとうございます」
老人「達者でなぁ」
「はい、あなたも。さようなら」
マリ「ありがとうこざいます(泣き声)」
僕たちが帰るのを、比沼麻奈為神社の神主は、見えなくなるまで見送っていた。止んでいた雨が再び降り出した。
【 5 道すがら 】
神社から国道に出る細い道、ある家の玄関前、雨の中にもかかわらず地元の人たちでごった返していた。マリさんが運転する車は立ち往生だ。僕が助手席の窓を開け「どうしたのですか?」と訊くと、中年の男性が「悪魔祓いがうまくいかねー」と教えてくれた。
「マリさん、ちょっと僕が行って、役に立つなら手伝ってみたいです」
「いいわ。あそこまで戻れば車を停められそうよ」
空き家のような建物前にスペースがある。そこへバックし、車を停めると、僕たちは「悪魔祓い」が行われているという家の中へ、人波をかけ分けて入っていった。家の奥の部屋には、大声で怒鳴り、暴れる若い女性が仁王立ちし、数珠を持った長髪の男性が部屋の隅に座り込み、追いやられていた。数珠の男性は霊能力者で、悪霊に取り憑かれた女性の除霊を試みたが、悪霊のほうが力が勝り、鎮められないようだった。
「あの女性のご両親はどちらですか?」と訊くと、すぐ近くにいた人が「あそこだよ。泣いている人が母親だ」と教えてくれた。母親と思われる人に近づいていった。そして……。
「僕は東京から来た心理士、えー、心理カウンセラーの泉と言います。お嬢さんを助けたいのですが、よろしいですか?」
母親「いやー、できるんですかぁ? できるんならお願いしますー。もう随分長い時間やってるけども、娘のほうがどんどん乱暴になってしまってー……(涙)」
「わかりました。お嬢さんの名前と年齢を教えてください」
母親「チエリですー。22歳ですー」
「では、何とかします。ちなみに父親はどちらですか?」
母親「あの人は、2階に上がってしまってますー」
「そうなんですね。家族の秘密が明るみになってしまうかもしれませんが、その場合はどうかご容赦ください。なるべく出さないようにしますが」
母親「はいー。お願いしますー」
鋭い目で霊能者を睨み、罵声を浴びせるチエリのほうへ近づいていくと、霊能者は「いかん! 近づいたらいかん!」と制止した。僕は「少しだけ時間をください。そして、その間、一切口出しをしないでください」と言い、チエリに相対した。
「チエリさん、ちょっと君の中に入らせてもらいますね」
彼女の目から潜入すると、蒼く淀んだ世界に、いくつもの狐色の「それ」が浮遊するのに気づいた。一つひとつに両手を添えていく。なるほど、彼女は解離性同一症だ。一つの「それ」の中に、まとまった感情や思考、記憶の塊があり、別の「それ」とは直接的に繋がってはいない。「あること」の記憶を持つ「それ」が複数あり、ひどく怒っている。その「あること」の記憶を持たない「それ」も多い。自分のことを、汚れた、生きている価値がない人間だと信じ込んでいるものもある。幼くて、人に甘えたくて仕方がないものも……。今、霊能者に向かっているのは、人間を警戒し、強く怒っている感情の化身、「悪霊」の正体だった。霊能者は、それを強引に引き出し、外へ追い払おうと試みたようだった。そんなことをされたら、自分の大事な断片が葬り去られてしまうことになる。そうならないために彼女は、必死に抵抗していたのだ。
チエリ「誰だ、お前は!」
「泉といいます。君の中の人たちは、みんな大切だよ。誰一人として消してしまってはいけない。僕はみんなの声を聴きたい。そしてみんなの想いが理解されて、認められるようになってほしい。君の大切な人たちにもね」
「何言ってるんだ! てめえはよ!」
「そう言ってくれる君は、過去にされ続けたあのことを、非常に怒っているね。あんな酷いことをされ続け、誰にも助けてもらえなかったんだから、こんなに怒って当然だと思う」
「何も知らないくせに! うるさい!」
「始まったのは、えーと……、小学5年生のときだ。夏の夜だった。君は寝ていたね。父親が入ってきた……。今ここでは、多くの人が聞いてるから具体的には言うのは控える。そのときから高校1、いや2年生のときまで続いたようだ。6年生のときに母親が気づいたけど、父親の機嫌を損ねないように知らないふりをした……」
「どうして知ってるんだ!」
「君の中でバラバラになっている、沢山のこころたちに教えてもらったんだよ」
「オヤジだけじゃないぞ!」
「うん、叔父さんにも時々ね。父親の弟だ。知っているよ」
口調が代わり「本当に知っているんだ……」
「ああ、知っている。君が教えてくれたから」
「こんな私は生きていていいの?」
「もちろん。まず、今やっていたみたいに、君のこころを追い出すことなんて、やめるんだ。死にたい気持ちがあるのも認めてあげるんだ。認めるけれども、死なないであげて」
「そうなの? それで、どうすればいいの?」
「どの君の感情も、自分で大切にするんだよ。そのためには、いろんな思いが交錯している君を、大切に聴いてくれる人が必要だ。こころの専門家がいい」
「それだけでいいんですか?」
「君の家族にも努力してもらわないといけない。家族全体を見ながら、みんなが変われるような治療やカウンセリングも欠かせない」
「そんな専門家って、どうやって探せばいいですか?」
「僕は今日、たまたま別の用事で東京からここに来ている。残念だけど、遠すぎてなかなか会えないだろう。京都の専門家を探してみるから、見つかったら紹介するよ」
「よろしくお願いします……」
こう言うと、チエリはしくしく泣きだした。もう怒鳴ることはなかった。
「これは僕の心理相談所の名刺だ。渡しておくよ。念のために、チエリさんの連絡先も教えてくれないかな?」
「はい……」と言い、傍の机の上にあったメモを取り、名前と電話番号を記し、ちぎって僕にくれた。
「ありがとう、チエリさん。決して諦めないでね。この日本にも、君の力になれる人がどこかにいるはずだよ」
「はい……」
「君がよくなりたい方法で、よくなりたいように変わるんだ。誰かの言いなりになるのは、もう終わろう」
「はい!」
「では、お母さん。これからは是非、娘さんの気持ちを尊重して対処法や治療法を工夫してあげてください。今からすぐ、取りかかってくださいね」
「はい」
「最後に一言。ご主人やその親戚の方々、さらにご自身の実家の人たちにも気を遣い過ぎず、お母さん自身が伸び伸びと生きること、これも大切です」
「はい……、ありがとうございました……」
【 6 京丹後の呪縛 】
僕たちはチエリの家を後にし、車を停めた場所に戻ろうと歩き出した。
マリ「泉くん、比沼麻奈為神社の神主さんに特別な鈴をもらってから、読みのキレが一段と研ぎ澄まされたみたいね」
「そう見えますか?」
「ええ、瞬時にチエリさんの症状の本質を読み切っていたわ」
「マリさんにはわからないですよね?」
「何だろう……」
「これから起こることです。もう今、起こりかけていることです」
「まさか、チエリさんにまた異変が?」
「マリさんは、僕のことをすべてを見通しているんじゃないかと思うときがありましたが、それはたぶん願望だったのかもしれません。全能の、母性である安心と父性である知恵の結晶のような……、究極の理想郷であってほしいという……」
「もちろんよ、私は不完全よ。泉くんのことも全然見通せてなんかいないわ」
「マリさんも人間なんですよね」
「そうよ。当たり前じゃない」
「安心しました。今までも安心していましたけれど」
「その……、起こり始めているって、何か私が見落としていることあるかしら」
「心配しないでください。見落とすなんて。それに、もうすぐ自然にわかることかもしれません」
車に乗ろうとしたまさにその瞬間、チエリの家のほうから金切り声が響き渡った。
マリ「チエリさん、また叫んでいるの?」
「あれは、母親の声ですね」
「どういうこと?」
「母親も、重い解離性同一症を抱えているんです。夫と娘との関係を見抜かれて、おまけに娘に人を信頼するこころを芽生えさせてしまった……。そして僕の言葉が、母親の最も弱点とするところを突いた。隠れていた人格が耐えきれなくなって表に現れたんでしょう。永遠に解決できない悪魔祓いに拘っていたのは、母親だったんです。解決するということは、自分自身をも解体しないといけない。そうなると、母親の辛い過去も避けて通れなくなる」
「母親の最も弱点するところ、って?」
「実家との関係です」
「もしかして……、母親も性虐待を受けていたかもしれないの?」
「はい。そんな辛い過去がありましたね。なかったことにしていた過去への扉が開いた……。あるはずのない事実が忽然と姿を現した……」
「じゃあ、母親も治療が必要なのでは?」
「そうです。しかし母親はまだ避けたがっている。だから医療や心理による治療を拒む。僕への最後の挨拶に歯切れが悪かったのは、覚えていますか?」
「ええ、確かに。チエリさんが明快な治療に前向きな姿勢をしていたのに、母親はなぜか困っているようにも見えたわ」
「さすがですね」
「チエリさんは今、どうしてるのかしら?」
「彼女は今、専門的な治療を受けたがっている。それに対して母親はいつものように妨害しようとする。それを村の人たち、親戚の人たちが見ていた点は大きかった。もう誤魔化し通せないんですよね。そしてたった今、母と娘は新たな対決を開始した。その結果が、母親の金切り声、つまり公然での凶暴な人格の台頭になったんです。母親が初めて負けたんですね。これはいいことです。否認が解かれたわけですから」
「チエリさん、大丈夫かしら……」
「正確にはわかりませんが、ある方法で、僕たちのところへ助けを求めにくるでしょう」
「えっ? だから名刺を渡したのかしら?」
「それも多少はありますが、もっと早くに求めてくれれば事態は一気に進むんだけれど、って思ってましたね」
「もっと早くに?」
「とりあえず、車に乗りましょ」
「ええ、私運転するわね」
「ここはお願いします」
マリさんが車を出してくれた。まだ人たちが群がるチエリの家の前をゆっくり通ろうとした。そこへチエリが飛び出してきて、身を横たえた。マリさんは驚き、チエリを見て、言った。
「泣いてるわよ。子どもみたいに……」
「退行しましたね。幼児の人格状態になってます」
「どうして今、幼児に?」
「言葉や理屈で勝負しなくていいからです。多くの人が見ているから。この状況で追い詰められるのは母親のほうです。金切り声で理屈をまくしたてる人と、ただ泣くだけの人。誰が見ても、母親のほうを治さなくちゃって思いますよ」
「確かに……。それで、車どうする?」
「ちょっと止まっててもらえますか?」
僕は窓を開けて、顔を出した。するとチエリは下から見上げ、泣きながら言った。
「お願いー! 連れてって! お願いー、お願いー……」
かつての光景と同じだ。幼児のこころにすがられると弱い僕がいた。いや、ずっと前にはいた。意識が及ぶその先に……。そして幼児のこころにそのまま応えないほうがいいことを、僕はすごく長い時間をかけて学んできた……。
「チエリさん。あのね。お母さんとお父さんも、助けてほしいと思うようになることが大切なんだよ。両親が、東京へ行っておいで、と歓迎して送り出してくれるなら、連れて行ってもいい。けれどその準備ができていない。お父さんはまだ2階に隠れているだろ? 今ここにいる多くの人たち、親戚の人たちが証人だ。もう君の家は、秘密のままでやり過ごすことはできない」
チエリ「……(涙目)」
「家族で通えるいい専門家が、京都にもいるはずだよ。君が一人で東京へ来るより、みんなで取り組んだほうがいい。それくらい難しい治療だって、そう思ってもいい。万一、両親のどちらも固くて、どうしても手に負えない、親を完全に捨てなくちゃ生きられないようだったら、連絡をくれるといい」
「……(涙目)」
「みなさん、この親子を是非お願いします。悪魔祓いではなく、医療へ繋げてください!」
すると、ある中年の男性が車に近づいてきた。
「わかりました! 私が責任をもってやらしてもらいます!」
「あなたは? 親戚の……」
「はい。チエリの母方の親戚で佐田タテオといいます。京丹後市医療政策課に勤めております。どうぞ私の名刺をお持ちください」
名刺には「京丹後市医療部 医療政策課長 医師 佐田建夫」と書かれていた。
「ありがとうございます。あなたに託します。是非、踏ん張ってください」
「今日は、偶然通りかかったあなた方に、こんなことに巻き込んでしまいました。感謝しかありません」
「いえ、いいんですよ」
「力を貸していただきたいことになりましたら、その時はお願いします」
「はい、もちろんです。あと、ここにいる皆さんに誤解ないよう付け加えたいことが出てきました。祈祷師さんの働きかけで助けられる人がいるのも事実です。今回は難しかっただけのことです。どんな方法であっても、困っている人の魂が救われるのなら、それでいいんです」
多くの人が、頷いていた。
「チエリさん。では、さようなら」
「さようなら……。だめだったら、連絡します……」
チエリは退行から回復していた。奥のほうから、まだ母親の叫ぶ声が聞こえていた。
【 7 東へ 】
西は、僕の左手の方向、内面世界を象徴する。この京丹後の比沼麻奈為神社を訪れたこと、神主と話せたことは、生涯を左右するであろう「勇気」をもらう貴重な体験になったと思う。僕はあまりにも自分の過去について知らない。謎に近づこうとしても強い潮流に阻まれてしまい、試みは挫折に終わっていた。これから東に戻り、他の人々だけでなく自分自身の心の深部にも潜るダイバーとして生きていきたい。
比沼麻奈為神社を出てから、チエリの家で時間を費やし、もう昼前になっていた。台風の風は強めに吹いていたが、雨は降ったり止んだりを繰り返している。昨日と同じ、峰山駅近くのコンビニに寄り、軽い食事を済ませた。
「帰りは、僕が運転しますね」
「私がするわ。泉くん疲れているから」
「マリさんこそ、ずっと運転していて疲れているはずです」
「そうかな? 帰りのルートは決めているの?」
「いえ、まだ決めていません。名神はかなり混むと思うので、京都経由でなく、来たときと同じ北陸道で行きたいと。あとは予定通り東名にするか、中央道にするかのどちらかですね」
「じゃあ、とりあえず岐阜県か愛知県辺りまで、泉くんに運転お願いしようかな」
「はい、わかりました」
山陰近畿自動車道の起点から上がり、宮津天橋立インターチェンジに差し掛かったとき、マリさんが訊いてきた。
「天橋立、行ったことある?」
「日本三景として有名ですね。行ったことはないです」
「私は最初に比沼麻奈為神社に来たときにね、寄ったのよ」
「写真のように綺麗でしたか?」
「不思議な地形だったわ。あと、ここにもたくさん伝説があったの」
「伝説ですか……」
「その中でも、私はロマンチックなものが好みだな」
「ロマンチック?」
「そうよ。ここのものはどれも天には男の神、地上には人間の女性や女神がいるという設定が基本だから、性別は天女伝説とは逆になっているの。天と地に梯子を掛けて行き来していたけど、梯子が倒れてしまった。その梯子の跡が天橋立になったとされているのよ」
「何千本もの松が生えた砂嘴(さし)を、梯子に見立てていたのですね」
「ええ。砂嘴の長さは3.6キロらしくて、その長さから、地から天にまで届くものと想像されたのね」
「それ、ロマンチックですか?」
「天にいた伊射奈岐大神(いざなぎのおおかみ)が地上の真名井神社に祀られている伊射奈美大神(いざなみのおおかみ)のもとに通うために、天から長い梯子を地上に立てて、通っていたというのよ。人間が純朴だった古代は、神と人、天と地上とは互いに往き来できていてね、天橋立は神と人、男性と女性を結ぶ愛の懸け橋だと信じられていたそうよ」
「なるほど。人間にも純朴な時代があったという、いわば憧憬の念の表れなんですね」
「そうね……。今はあまりにも違っている。悲しいわ……」
それからしばらく2人とも言葉少なになった。多分マリさんも、現代人がここまでいがみ合い、攻撃し合っている荒んだ現実に思いを馳せ、胸を痛めたのだろう。今もっとも危険なのは、家族なのかもしれない。殺人事件の摘発数で計算すれば、親族間で起きる割合は実に55%にも上る。様々な精神疾患も、幼少期の家族との関係が一因であることが多い。医師やカウンセラーは、家族から家族をどう救っていったらいいのだろう……。家族間での傷つけ合いが世代を交代するたびに継承されてしまうとすれば、この連鎖を止める術はないとの結論が導かれ、どうしても人間の未来に対して悲観的になってしまう。
そんな物思いに耽り、ふと我に返って助手席を見ると、マリさんは眠りに落ちていた。多分昨夜の寝息は、僕を安心させるためのフリだったんだな……。
敦賀ジャンクションで北陸道に入ると、右手に賤ケ岳の北に広がる余呉湖がちらっと見えた。余呉湖は、日本三大羽衣伝説の地のもう一つだ。天女が最後まで天に戻れないところが、今朝訪れた京丹後の伝説の特異な点だった。マリさんは京丹後をとても大切にしている。一方でユリさんは、三保に行くように期待していた。その違いは何を意味するのだろう。僕のこの先の生き方を大きく左右しそうだが、具体的な意味はわからない。
米原ジャンクションから名神高速に入ると途端に車の量が増えてきた。岐阜羽島の辺りからは渋滞したり動いたりが続いた。マリさんが熟睡しているので、サービスエリアに入ることなく車を進めた。愛知県内、小牧ジャンクションに差し掛かったが、僕は躊躇なく直進して東名高速を選んだ。来たルートを引き返すのなら、ここで中央道に入るはずのポイントだった。マリさんが起きていたら、ここで何らかのやりとりが起きていただろう。
名古屋インターチェンジを越えて豊田インターチェンジに至る間も、あちこちで自然渋滞があった。豊田ジャンクションで、旧東名高速ではなく新(第二)東名高速のほうを進んだ。新しいので施設も充実しているだろう、と安易な理由から。さすがに強い疲労感を自覚してきたので、岡崎サービスエリアで休憩をとることにした。減速して駐車場所を探していると、マリさんが目を覚ました。
「あら、私、眠っていたようだわ。ここはどこ?」
「よく眠っていましたね。ここは第二東名の岡崎サービスエリアです」
「もうそこまで。ということは、東名を通っているのね」
「はい。このサービスエリアは変わった構造をしているんですよ。上りも下りも、同じ施設を使うんです」
「えっ。そうなら、Uターンできてしまわない?」
「そこは大丈夫。上りと下りで、パーキングエリアは区切られているんです」
「そうよねー。早とちりしてしまったわ」
「トイレ休憩とコーヒー・ブレークにしませんか?」
「もちろん、大歓迎!」
【 8 三保の松原 】
休憩を終え、僕らは岐路に着いた。この地域は深夜に大雨の予報が出ている。帰りは行きよりも時間を要していて、もう午後5時前になっていた。急いだほうがよさそうだ。
「ここからは私が運転代わるわね」
「いいえ、僕にさせてください。そうでないと行きと帰りで不公平になってしまいます」
「右腕の傷は痛まない?」
「ほぼ……」
「きっと他にも運転したい理由があるのね」
「はい。だから僕が運転したいんです。確かめたいんです」
「わかったわ。ではお願いね」
「理由」はお互い察しがついていたことだったが、それ以上は触れなかった。そして車を出した。
少し経って、マリさんが訊いてきた。
「チエリさんのことは気になる?」
「それはなりますよ」
「東京へ連れていってあげたいとは思わなかった?」
「ええ、思いませんでしたね。人の認識、そうですね……、意思や感情は大きく変わるものです。あの時のチエリさんのこころは、確かに僕たちに懇願するものだった。しかしそれは、あの状況におけるものに過ぎません。初めてのタイプの人と出会って、いわば陶酔に近い状態に陥っていたでしょう。思い付きでなく、もう少しチエリさん自身の中で熟成させてほしかった。もしかしたら、身内や近所の人たちの新しい介入で、専門家の手も借りつつ、地元で癒しの生活を辿り直していけるかもしれない」
「それって、どんな人にも言えることなの?」
「チエリさんは、解離性同一症だと思われたので、特に状況依存性には注意したほうがいいです。置かれた状況、文脈によって認識が大きく左右されるんです。解離を示す人たちは、概して被暗示性が高い傾向にある。僕が言ったことで、彼女は強い理想化を僕に向けました。僕がまるで何でもできてしまう、自分をあっという間にラクにしてくれるスーパーマンのように見えたでしょうね。しかし時間が経てば、突如現れたスーパーマンという状況の影響性は低下して、本来の認識へと復活する。その段階での判断を待つべきなんです」
「解離性同一症っていう、いわゆる多重人格の人の場合、判断が一つにまとまるのかしら?」
「バラバラに断片と化した各人格は、かなり自律して機能しますが、どこかでそれらを統合する力が働いているはずだと僕は考えています。そう想定しないと、そもそも治療論が破綻してしまいます。連携が極端に弱まり、主人格と呼ばれる主体、本人の記憶の及ばないところで別の人格が考えたり行動したりしているというのも、仮定なんです。治療者があたかも別人格が存在しているかのように扱うから症状が激化する、いわゆる医原性も、随分前から指摘されていました」
「医原性……」
「はい。治療的試みが原因で、症状がより鮮明になるという考え方です」
「じゃあ、解離っていう症状は、作られたものなの?」
「それは言い過ぎです。本人が心理的苦痛からこころを守るための防衛装置として、誰にでも起こり得ます。解離は様々な表れ方をするんです。解離性同一症という、あたかも完全に独立した人格が何人もいるといった状態に至るまでには、周囲の人との関係が大きく影響したと慎重に考えたほうがいいんです」
「あのとき、そんなところまで考えていたのね」
「直前に、比沼麻奈為神社の神主さんに出会っていたことも大きかったと思います」
「それは私にはとても嬉しい言葉だわ」
「はい。連れて行ってくれてありがとうございます」
「あっ、そうだ。最後に、祈祷師でもいいっていうようなことを付け加えたのは? あれにはびっくりしたわよ」
「だって、最新の医学でも、科学でも、心理療法でも、歯が立たないことっていっぱいあるじゃないですか。逆に、稀に非科学的な出来事でよくなる人がいるのを否定できないんです。たとえ何万分の一の確率であっても、ね。たとえば祈祷してもらってよくなったとします。その実情は、暗示の効果だったかもしれない。本人が祈祷師に救われたと信じれば、その人の世界ではそれが正解なんです。悪魔祓いによって救われたのなら、その救いの事実は否定できない、そう考えているんです」
「よくわかったわ。泉くん、そこまで科学主義じゃなかったのね」
「はい。僕の潜入(ダイブ)にしたって、科学的に説明がつかない部分が大きいですし……」
「確かにそうよね」
会話が盛り上がったあと、また静かなドライブとなった。車は静岡県に入ってだいぶ進んだ。新静岡インターチェンジを通り越し、新清水ジャンクションへ……。ここもやり過ごした。
「泉くん。三保の松原は寄らないのね」
「はい。寄らないと決心しました」
「いいの?」
「はい。さっきからユリさんの声が聞こえるような気がしていたんです。三保へ寄って!って。でも、それよりも力強い声が蘇ったんです」
「どんな声なの?」
「しっかりとこの地に足をつけていくんじゃ、です」
「それは比沼麻奈為神社の神主さんの……」
「そうです。あの鈴は今、僕のポケットに入っています。今、とても熱い感じがしてるんです」
「そうなのね」
「なぜ天女伝説のうち、京丹後と三保の二か所に絞ったのか、その意味が今ならよくわかります。京丹後は天に戻らずこの地で生きるけれど、三保は天に帰る……。僕はまだ天に帰ってはいけない、この地でしなくてはいけないことがたくさんある。それを体感するための旅だったんだと」
「……」
「マリさん?」
「……(涙)」
「あっ、いや、何でもないです」
その日の夜9時前には神田に到着し、レンタカーを返した。僕たちの家、相談所に戻って、夕食もとることなくそれぞれのベッドで眠りについてしまった。
< 第八話 完 >
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