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diver 第一部 第十一話

【 1 発達障害 】

 習志野警察署での捜査協力からの帰り、警察車両には下山捜査員も同乗した。彼は大学で心理学を学びこの分野に興味を持っているという。中学2年生である佐木マアヤが近所に住む夫婦を殺害した事件。下山捜査員はその心理的背景に大きな関心を持っていた。

 下山「さきほど、最後に話すようになったのは、パニックの状態から脱したと理解していいんでしょうか?」

 「そうですね。激しい状態からは脱したと」

 「パニックというのは、暴れたり騒いだりするものとは限らないのですね?」

 「ええ。外から見ていて気付かないような生じ方もします。逆に固まってしまう場合もあります。あくまで脳で起きている現象だと理解してください」

 「これからは、自分の言葉で話してくれるでしょうかね?」

 「記憶に残っている部分は多分話すでしょう。基本的に彼女のようなタイプは積極的な嘘が苦手です」

 「自分で行動したことでも、記憶にない部分もあるということなんですよね?」

 「そこが警察にとっては苦手とするところだと察してますよ。調書には動機を含め、犯行の一部始終を活字で残さなくてはならない……」

 「まあ……。記憶にない、なんてことが多いと、調書の体を成しません。何を調べているんだって叱られかねない」

 「そこで取り調べでは、ああではないか、こうではないかとか、ほらその続きをよく思い出して、などと言って、手助けをしてしまう。手助けに対して、そうかもしれないとか、そう説明しておいたほうがラクだなどと感じて、知らないうちに誘導されたストーリーが出来上がってしまうことがある。自白のみを証拠として使わないルールがありますよね」

 「仰る通りです。調べる側として苦しいところです」

 「ただし、物証があったとしても、それは動機を物語りはしません。それなのに調書作成上、そこに心理的意味付けをしたくなる。このプロセスで様々な誤謬が発生してしまうんです」

 「どういうことですか?」

 「たとえば、刺し傷が深いとします。これは司法解剖で明らかになる。しかし、だからと言って強い殺意があったというわけではないんですが、強い殺意を認定しがちで……」

 「警察だけでなく、世間一般の思考では?」

 「その通り。動機の供述にも言えます。誰でもよかった、という場合、それを真に受けてしまってはいけないんです。今回、マアヤは顔見知りでない人を襲ってしまいました。そして、誰でもよかったと言うかもしれません。しかし、叔父や父親に向かう怒りがその行動の源泉であって、本来なら誰でもいいんではなく叔父なんです」

 「叔父への恨みが根本原因なら、叔父へ向かうと考えるのが自然ですよね。素人ながら、そう思ってしまう」

 「叔父から、アメとムチを組み入れられた巧みな心理操作をされ、恐怖や虐待を解離の機制によって凌いできたわけです。複雑型のPTSDを抱えているので、そうでない通常の人には実感として理解はされないでしょう」

 「そういった精神鑑定のような考えは私たちの領分ではないという雰囲気があります。個人的には満足していませんが」

 「それは、下山さんが、変わった警察官、いや失礼、奇特な人だということでしょう」

 「それは参りました。以前、心理学的な仮説を出しても、地道な捜査に専念しろ、なんて叱られてきましたよ……」

 「そこは役割分担をするしかないでしょう。しかし難解な事件を解明するために、心理学や精神医学の知見を持つ人材が捜査チーム内にいることは役立つはずですがね。今回は外注でしたが、内部にいたほうがいい」

 「警察の組織内には心理職もいますが、なかなか刑事課の捜査には加われていませんね」

 「科学捜査研究所にしても、心理学部門はどうもプロファイリングや供述の信用性の生理学的検査に走ったりして、強い科学志向で法則性を見出そうとする傾向があります。個々の事例に丹念に向き合おうする姿勢が足りないように見えますね」

 「ところで、泉先生は共感性の乏しさを指摘されていましたが、ずっと気になっていたことがあります」

 「なんでしょう?」

 「少年犯罪でもしばしば精神鑑定が実施されて、発達障害を有していたという報告を多く目にします。その際に、共感性欠如も指摘されていることが多いので……」

 「それで?」

 「本少年も、発達障害を有しているのではないかと思ったので」

 「そこなんですね。まあ、趣向の問題と言ってもいいかと。診断する側の」

 「趣向……」

 「強引に発達障害へともっていくことはできるでしょう。対して、違う、という医師もいるでしょう」

「つまり医師の趣向によって、発達障害になったりならなかったり、ということが起こるのですか?」

 「ええ。発達障害は、便宜上典型的な3つ、すなわちADHD、ASD、LDに分類されていますね。しかし、圧倒的に多いのが特定不能のタイプなんです。特定不能の場合には、発達障害のどれかを確定するのが難しい。重複もある。またここにグレーゾーンという概念が加わります。その傾向はあるけれど、強くもなく診断する域にはない……。こうなってくるともう診断は、医師の個人的考え、趣向に依存するとしか思えない」

 「はっきりとした症状がないから、そんなことが起きるんですか?」

 「身体疾患と異なり物理的病変が特定されていないこと、そのためにはっきりとした症状との結びつきをいかにも科学的根拠をもって説明できないことが関係はしています。それ以前に、その特徴を性格や個性としてとらえたほうがいいのか、病気としてとらえたほうがいいのか、観点の違いが大きいんじゃないかな。そう思いますね」

 「病気か、個性か……」

 「ええ。確かに近年生じた少年重大事件の多くで、アスペルガー障害や高機能自閉症が指摘され、犯行との関連性が述べられました。これらの呼称が今はASD、邦訳では自閉スペクトラム症に統一されてきているんですが、それが事件を起こしたわけではない。それまでに経験した虐待やいじめ、犯罪被害、詰め込み教育など、後天的理由の影響を重視すべきなんです。ASDとは無縁の子でも、成育環境によっては類似の事件が起きます。逆に、ASDと診断された少年で、とても優しくて朗らかな子もたくさんいる。対人関係が苦手でも、他害性を持たない子はいっぱいいる」

 「すると本件少年の場合、泉先生は発達障害だと考えていないのですか?」

 「ええ、考えませんね。せいぜい、一部にASDとの類似点を持ってはいる、としか言いません。ASDだからどうのこうのと結論づけるような説明には強い違和感を覚えます。共感力が乏しいことが、人を刺した場合に相手の心身の痛みを感じにくくさせている、感じ方がズレているとか、情報過多への脆弱性が脳内処理の一時停止をもたらしたとか、そういう見方を否定はしません。人の言葉を真に受けやすい特徴があって、叔父の強いコントロール下に置かれていたかもしれないとか」

 「間接的には関連性を否定できないと?」

 「それは自明のことです。世の中のすべての事象と事象の間に、関連性を完全否定すること自体、ありえないのではないでしょうか」

 「確かに、どこで何と何がどのようにつながっているのか、人間は分析し尽くすことはできない……」

 「直接的な影響を考えるのは過ちで、今回の件も、叔父から受けた仕打ち、その環境を改善できなかった周囲の大人たちの対処の問題、それら後天的因子と、彼女が生来的に有している個性との相互作用という観点から分析しなくてはならないと思っています」

 「相互作用ね……」

 「ええ。それもすべての相互作用となると、変数が多すぎて実際的ではないので、主要なものをですね。発達障害の子どもの育てにくさはしばしば指摘されていますが、発達障害を想定しなくても、元々育てやすい子と育てにくい子はいました。ここはポイントだと思います。育てにくい子=発達障害との方程式で考える風潮も、怖いですね。事件においては、安易に診断してしまうと世間にステレオタイプが広がってしまい、大きな懸念材料を作ってしまうという弊害もある」

 「ステレオタイプ。根拠のない思い込みのことですね。大学で学び、覚えています」

 「ええ。自分の子どもがその診断を受けると、いつか犯罪を起こすのではないかという不安を親に喚起してしまうかもしれない。診断なしに、こういう個性の強いお子さんですね、くらいで留めていたほうがいいと思いませんか。子育てに当たる親たちのためにもですね。犯罪ステレオタイプがなければ、不安を煽るリスクは下がるのですが」

 「なるほど。しかし刑事裁判では、弁護側が精神疾患を訴えてくるケースが多いのが現実です」

 「病気であれば本人の意思のみに帰属できないと、裁判所に対して訴えられる。心神喪失や心神耗弱を主張しやすいという、弁護しなくてはならない立場が如実に反映されるんですよね」

 「確かに、我々は罪に対して厳格な処罰を求めます」

 「検察・警察と弁護士は、職責としてはじめから対立していて、それで裁判所は中立な判断の場として機能しているんです。繰り返しになりますが、丹念な成育過程の分析は、法廷では軽く扱われがちなので……残念ですがね」


【 2 小休憩 】

 「泉先生、長々とすみません。間もなく到着です」

 「話は尽きないですね」

 「最後に。今後、この事件に関わられますか?」

 「はい。多分、付添人になるでょう」

 「それを本部長に話しても構いませんか?」

 「もちろんです」

 「今日は本当にご苦労様でした。また機会がありましたらご鞭撻をよろしくお願いいたします」

 「はい」

 「あと、別の機会に、泉先生の“術”を教えていただけたら、と思っています」

 「それはどうでしょう……」

 相談所へ戻った頃には、もう深夜の12時に近かった。マリさんは起きていて、「お疲れさまー」と出迎えてくれた。

 「いやいや、とっても悲しいですよ、こういうのは……。警察署で本人と会って、様々なことがわかりました……」

 「加害者が実は被害者だった、っていうお決まりの悲劇がわかったのよね?」

 「あっ、はい……」

 「泉くん、いつになく意気消沈しているわね」

 「はぁ……。なぜもっと早くに見つけてあげられないんだろ……。いつもいつも……。ツケが回りに回って表面化したところしか見ようとしない。世の中の人たちすべてのことですけれど」

 「そうよね」

 「ふぅ……」

 「何か飲む?」

 「今夜は甘えて、リクエストを出してもいいですか?」

 「あら、珍しい! どうぞ」

 「では、アイス抹茶ラテ、作れます?」

 「もちろんよ、任せて」

 「無理だって言われるかと思って言ったんですが……」

 「あら、そうだったの? そうそう、マアヤさんのお母さんから、あの後にまた電話があったわ。明日、どうしても話を聴いてほしいって」

 「相談がある、ではなく、聴いてほしい、なんですね」

 「ええ、そうよ。明日の朝、お返事することになっているわ」

 「わかりました」

 実のところ、僕は母親の佐木妙美のことがひどく気にかかっていた。強すぎる自責の余り、自らの命をもって被害者への謝罪の意を示すこともあるかもしれない、と。初対面で母親のこころに潜入したときに響き渡った「叫び」が、脳裏から離れない。母親は蒼い内界の深層でこう訴えていた。

― 私がいけなかった。あのときに私が娘たちを連れて家を出ていれば、こんなことにならなかった。私が世間体を気にしたばっかりに、長女をこんな目に遭わせてしまった。長女ではなく、私がしてしまったのよ。私の中の殺意を、長女が代わりにしてくれただけなの —

 「私の中の殺意を、長女が代わりにしてくれた」と。殺意の対象は、夫と義弟だ。そして僕がマアヤ本人のこころに潜って読み取ったものは、叔父からの性的虐待と目前での刃物行使がもたらす心理的虐待などの後遺症。そして人間関係への関心が乏しく、叔父との間に入って守ろうとしない父親の、機能不全状態での存在。

 叔父が同居し始めたのがマアヤの7歳のとき。母親の指す「あのとき」とは、いつのことで、何なのだろう。娘2人を連れて出ればよかったという後悔の裏には、かなりリスキーな出来事があったのだろうな。明日会うという約束が、僕の中で膨張していた不安を若干軽くした。

 「おまたせー!」

 「アイス抹茶ラテに、ホイップクリームのトッピングじゃないですか?」

 「クリームは余分だった?」

 「いえいえ。想像以上でハッピーです」

 「よかったぁ。明日も大変な日になりそうだから、飲んで、しっかりと休みましょう」

 「助かります。いつもありがとうございます」

 「いいえ」

 「マリさん、今日のことは、訊かないんですね?」

 「ええ、訊かないわ。いずれわかることだし、泉くんには頭を休めることが最優先よ」

 抹茶のほろ苦さとクリームの甘さ、この分離が口の中で混じり合っていく感覚が、絶妙だった。自分の脳にご褒美をあげられた満足感を抱きつつ、1階に戻り、シャワーを浴びた。明日に備えてベッドに身を横たえた。眠りにつくまで、何度もマアヤの顔が浮かんでは消え、を繰り返していた。今夜は眠らなくてはいけないという焦りが、却ってそれを妨害した。活性化した脳はなかなか鎮まらなかった。

 明日、警察はどんな公表をするのだろう。そしてマスコミはどう報道するだろう。


【 3 遠隔ダイブ 】

 翌朝のニュースが、警察の発表に基づいて流されていた。

― 警察によると、逮捕した女子中学生は、少しずつ落ち着きを取り戻し、取り調べに応じているとのことです。事件の背景に、複雑な家族関係が関与しているとみて、さらに動機の解明に当たっているとのことです。 —

― 先ほどの警察関係者の話では、殺人に加えて、死体損壊の容疑で再逮捕した模様です。 —

 マリ「死体損壊もなのね……」

 「この警察のやり方には、僕は賛成です」

 「えっ! どうして?」

 「長期勾留を避けて、家庭裁判所への送致をスムーズに行おうとする意図が読み取れます」

 「えっ、意味がわからないわ」

 「長く警察署に勾留しようとすれば、まず殺人容疑での逮捕で勾留期間は延長も含めて20日確保できます。その期間が切れる間際に死体損壊で再逮捕すれば、さらに20日間とれる。そうしないで逮捕の翌日に再逮捕しているので、勾留期間はほぼ半分になるんです。そっちのほうを選択しているんです」

 「何だか難しいけど、半分わかったような気がする。早く家裁に送ろうとしているのね」

 「ええ。僕が、付添人になる予定であることを伝えたので、少しは影響したかもしれませんね」

 「どうしてそれが影響するの?」

 「家裁の審判に、警察に捜査協力した同じ人物が、被疑少年側の更生を後押しする立場として加わることになるんですよ。今、警察が把握している本人に関する情報は、ほぼ僕が引き出したものでしょう。その内容から大きく逸脱した主張をしにくい構図が出来上がっていると思います」

 「泉くんはダブルスタンダードな立場に置かれているの?」

 「形式的にはそうでしょうが、専門的見地から説明し続ければよいという意味では、そうでもありません」

 「それならよかったわ」

 「それから、再逮捕が早かったのは、警察内で、マアヤさんが事件に走った過程への一定の理解があってのこと、というのは勿論です。ただし、被害者が2人も出て、その遺族もたくさんいるでしょうから、バランスのとり方には配慮が必要ですね」

 「すると、むしろ警察の立場のほうがダブルスタンダードっていうこと?」

 「いや、板挟みかというと、そこまでではありません。現行法に沿って粛々と手続きを進めていけばよいでしょう」

 「ところで、マアヤさんのことを少年って言ってたけど、女子よね?」

 「司法の分野では、男女関係なく未成年を少年、と表現するんです」

 「勉強になるわ。学生時代に戻ったみたい」

 「母親には、午後一番、13時で会えます、と伝えてもらえますか?」

 「はい、これから電話しますね」

 このあと、自分の部屋に戻り、マアヤの目を思い返し、こころへの遠隔潜入を試みることにした。パニック中の感覚刺激にアプローチできないか……。それによって、起こした事件行動の輪郭が具体的に把握できるかもしれない。

― ※☆□△※※ 手が…… ×〇△※ 包丁…… 嫌…… 切れそう…… 子猫…… 手…… おじさん…… 手悪い…… △◇※※ 手なければいい…… 個猫可哀そう…… 手…… 光ってる…… いらない…… 怖い…… 手…… おじさん…… 手首痛そう…… やめて…… 汚い…… 手はいらない…… △●×× 赤きれい…… いいよ…… 私もできるよ…… 気持ちいい…… — 

 キーワードは「おじさん」と「手」だ。恐らく叔父は、包丁で自分の手首を切るところを見せて脅し、マアヤを大人しくさせた。叔父は子猫の手を切ろうとしたか、あるいは実際に切った。それら耐えがたい光景を見せられることを避けられず、マアヤは体験の受容を余儀なくされた。しかしこころの奥では、「手さえなければこんなことは見なくてもしなくてもいいのに」といった思考が渦巻いていた。手を受け入れることと、拒絶し無くすこと。このアンビバレンツが、パニック状態の中、行動化を生じさせた。とすると、損壊の部位は手なのだろう……。

 僕は習志野警察署に電話をかけた。

 「捜査本部の下山さんをお願いします」

 「あなたのお名前は?」

 「泉心理相談所の泉です」

 「あっ。しばらくお待ちください」

 下山「泉先生。昨日はお疲れさまでした」

 「一つ、確認したいことがあります」

 「なんでしょう?」

 「遺体損壊での再逮捕をニュースで知りましたが、手首ではなかったですか?」

 「どうしてそう思われたのですか?」

 「今日、昨夜の彼女の様子を思い返して、こころの中を読んだんです」

 「確かにそうですが……」

 「被害者夫婦のうち、ご主人のほうだけではなかったですか? 右手か、もしくは両手」

 「そうですが……。右手だけです」

 「わかりました。確認できてよかったです」

 「叔父からの虐待と関連があるのでしょうか?」

 「ええ、あります。本人から聴けないのですか?」

 「今朝も、ほとんど話さない状態が続いてまして……」

 「そうなんですね……。少し説明しますね。叔父は、包丁で自分の手首を切って脅したようです。マアヤが従順になってくると、どうやら子猫の手を切るところを見せたりして自分の欲求を満たし出した。叔父は右利きで、右手を使っていたのでは。父親が右利きだったので、ここは推測になりますが。浴室で叔父から猫を殺害する場面を見せられ、激しいパニック状態に陥り、近くの家に飛び込み、激しく揉めた後でその家にあった包丁を使い、憎んでいる右手を落とすという衝動行為に走ったのではないでしょうか」

 「なるほど」

 「これらは仮説ですから、本人の言葉で裏付けをとってください」

 「なかなか喋ってもらえないので難しいですが」

 「問いかけるときは女性がいいでしょう。そして、オープン・クエスチョンだと返事が返ってこないことが予想されます。はいかいいえ、あるいは選択肢を出して選んでもらう、そういったクローズド・クエスチョンも試みてください」

 「アドバイスありがとうございます」

 「はい」

 「いただいた電話で恐縮ですが、あと一点だけ。母親が我々の電話に出てくれないのです」

 「居場所もわからないのですね?」

 「恥ずかしいことですが」

 「弁護士に仲介を頼みましたか?」

 「ええ。弁護士は伝えておきます、と言ってましたがね」

 「母親の、警察への根深い不信が関係しているかもしれません。こちらからも捜査に協力したほうがいいと、伝えてみます」

 「よろしくお願いします」

 「父親や叔父への聴き取りは?」

 「していますが、叔父は可愛い姪だからとか、愛情の証だとか言って、自分の行為を一部認めています。性虐待については否認してます。父親は、知らんの一点張りですね」

 「なるほど。いろいろとご苦労様です。今朝の再逮捕には、ほっとしましたよ」

 「まあ……。本部長も署長も、昨夜のご協力に感謝していましたし……」

 「では、また」

 「はい」

 

【 4 母親の無念 】

 いろいろと確認ができた。あとは母親と会い、「聴いてほしい」ことを聴いてから考えることにしよう。

 午後1時前に、サングラスをかけ、深々と日傘をさした佐木妙美がやってきた。周囲をかなり気にしながら玄関に入ると、対応したマリさんに開口一番「誰かに見られてないかと怖くて……」と言った。

 2回目のカウンセリングが始まった。

 「聴いてほしい、と?」

 「……」

 「お母さん、死のうと考えていましたね?」

 「えっ!……」

 「マアヤさんが事件を起こしたのは自分のせいだと、強く責めていますね?」

 「…………は い……」

 「それは違いますよ。お母さんも、ご主人と義弟の2人に、意思や行動を操られていたのです」

 「どうやって?」

 「たとえば夫の意に反することを言ったりしたりすると怖い、そう思っていませんでしたか? 以前は。最近ではなく……」

 「言われてみれば……。最近は怖いとは思わないようになってました……」

 「以前は違ったのですね」

 「はい。嫌なところがいっぱいありました」

 「それを少し言ったことがある。でもかえってひどくなった……」

 「はい」

 「義弟が来てから、とくに?」

 「はい……。2人が揃ってから、夫も一層おかしくなったようでした」

 「お母さんは、家族を維持するためには2人の機嫌をなだめないといけない状況に置かれた。それで徐々に感覚や感情を麻痺させていったんです」

 「でも結果的に、マアヤを私が守ってやれなかった……。犯罪者にさせてしまった。被害者の方にも申し訳ない……(涙)」

 「マアヤさんに何か起きたとき、妹さんも一緒に連れて出ようと考えたことがあったとか?」

 「ええ、あります。マアヤが4年生のとき、義弟がマアヤにひどいことをしているのを偶然見てしまって……」

 「それは性的虐待なのですね?」

 「は、はい……」

 「夫に話したけれど取り合ってもらえなかった?」

 「そうです。逆上されて……」

 「何て言われましたか?」

 「誰にも言うな。言ったらマアヤを警察に連れて行くからな、って……」

 「もしかして、それ以降も目撃したことがあって……、だけど見過ごすしかできなかった……?」

 「ええーー。だから私のせいなんです!」

 「次第に、マアヤさんは刃物にも興味を持つようになって……?」

 「はい。庭で虫とかを捕まえて……(涙)」

 「実験、ですね」

 「はい……」

 「夫婦の関係は、典型的なDVです。その本質は支配なんです。相手の意思や行動を操ってしまうというものです」

 「でも……」

 「最初に見たときにすぐ家を出なかった、それを随分と後悔していますね?」

 「はい。そのときはまだ私の感情は残っていたので……、操られていなかったと思います」

 「なるほど。最初のうちは、いつか改心してくれるとか、優しいときもあったとか、そういう気持ちが邪魔して、なかなか行動に移せないんものなんですよ」

 「ううっ……(号泣)」

 「夫は警察官。夫への恨みや恐怖を、警察全体にまで広げて感じてしまっていますね。だから捜査になかなか協力する気が起きない」

 「そうかもしれません」

 「これからは、マアヤさんの母親として警察に協力する。その姿勢でもってご遺族への誠意を表しませんか?」

 「うう―……っ、そうします……(号泣)」

 「いずれ家庭裁判所に送られたら、僕も弁護士と一緒に付添人になって、マアヤさんの更生に尽くしたいと思います」

 「はい! よろしくお願いします…!」

 「聴いてほしいことは、ほかにありますか?」

 「いいえ、ありません……」

 「では、ここで少し休憩してください。しばらくしたら、捜査員に迎えに来てもらおうと思います。よろしいですか?」

 「はい! 頑張ります……」

 「最後に、今、妹のサアヤさんがいるホテルはどちらですか?」

 「この近くの、神田リバービジネスホテルです」

 「一時的に保護してもらうよう、依頼しますね」

 「はい」

 僕には、母親の無力感と罪責感だけでなく、責任感の強さも感じた。部屋を出て2階の事務室へ行った。マリさんに、待ってもらっている間、母親に出すお茶をお願いしてから、習志野警察署に電話をした。

 「下山さん。母親がここで待機していますから、目立たないように車を回してもらえますか? もう、話すこころの準備ができていましたので」

 「わかりました。近くの署から普通車を手配します」

 「妹さんが、神田リバービジネスホテルにいますから、そちらの保護もお願いしていいですか?」

 「はい。責任を持って保護します」


【 5 気になること 】

 警察の黒い車が、マアヤの母親を迎えにきた。すでに次女のサアヤが乗っていた。車に乗る間際、僕から母親に話しかけた。

 「妹さんも話を訊かれると思いますが、年齢など考慮して優しく対応してくれるはずです。お母さんも、知っていることはすべて話せるようになるといいですね」

 「はい、そうしてみます」

 「マアヤさんにはすぐには会えないかもしれません。でも、家裁に回されたらお母さんの出番は増えます。その時は水島弁護士と協力して、家族の再出発に向かってください」

 「そうですね。マアヤの治療や更生も含めて考えます。泉先生にもご協力を是非お願いします」

 「ええ、付添人になって、水島弁護士と共に家裁と話そうと思っています」

 「よろしくお願いします」

 警察は、周囲に誰もいないことを確認して、車を出した。車内でサアヤと母親が抱きしめ合っていたのが印象に残った。

 このあと、水島あかね弁護士に、僕が把握したことを急いで文書に纏め、メールで送っておいた。その返事の末尾に、「今日の夕方以降、習志野警察署で接見可能」ということが記されていた。

 2階の事務室で一息つくと、マリさんが心配そうに僕のほうを見ていた。

 「どうしたんですか?」

 「いや……。ちょっと気になっただけよ」

 「何がですか?」

 「泉くんに、いつもと違う雰囲気があって……。どことかははっきり言えないのよね」

 「違う雰囲気ね……。確かに気がかりな点は残っています」

 「それ、実は大きいことじゃないかしら……って」

 「大きいかどうかわかりませんが、気になっている不明確な問題が残っています。それをそのまま放置していていいのかどうか……」

 「私にはわからないわ」

 「神山捜査本部長が言っていたことなんですが。確か、同居している弟を一人にさせておくわけにはいかん、いろいろと厄介なことを抱えておりまして、という表現でした」

 「その弟って、父親の弟、マアヤさんの叔父さんのことね」

 「はい」

 「申込書に書いてあった、35歳のシンヤさん」

 「はい……」

 「警察署にいる泉くんの依頼でお母さんに電話で訊いたことだけど、同居されたのが、マアヤさんが7歳、小学1年生のときよ。習志野市のアパートに引っ越してきたのが、マアヤさん3歳のとき」

 「トラブル続きでアパートにいられなくなって、同居に至ったということでしたね」

 「ええ、アパートで独り暮らしができたのが4年間よね」

 「本部長は、厄介なことを抱えていて一人にさせておけない、と言っていた……。その4年間に起きたトラブルのことを指しているのか」

 「そうかもしれないわね」

 「アパートに越してくる前に何かあったのか……。そういえば、ここがとても引っかかっていること、忘れてました。それまでどこで暮らしていたのでしょう……」

 「泉くんが忘れるってことは、無理に探らないほうがいいのかもしれないわ。その合図かもしれないわね」

 「そうかもしれません……。ここは、しばらくはマアヤさんと母親の支援に専念することにします」

 「そうね。それがいい気がするわ」

 このやりとりのあと、僕の無意識が、この問題に潜入することに制止をかけていることに気づいたような感じがした。マリさんは何かを悟っているような雰囲気も出していた。それは思い過ごしで、マリさんはただ僕の様子を見ていて感じただけなのかもしれない。

 ニュースでは、相変わらず警察は表面的なことしか公表していないことがわかる。ワイドショーでは、独自取材で明らかになったこととして、マアヤの家族関係について、そして近隣住民や学校関係者の話を報じていた。マアヤについては「ちきんと挨拶する大人しい子」「事件など起こすような子ではない」という評が目立った。父親については「警察官であり、近所付き合いがほとんどない」と。叔父については、一部の番組が「前科があるらしいとの情報も得た」と報じていた。本部長が言った「厄介なこと」というのは、もしかしたらそれに関係しているのだろうか。ワイドショーの「らしい」との言い方は当てにならない。いずれ週刊誌がそれについて書くだろうが、それに左右されてはいけない。

 マアヤの処遇が決まった後、余裕があれば、自分自身で確認してみるかもしれない。


【 6 番外編 台風15号 】

 夕方から、関東地方に台風15号が接近し、その後上陸、そして観測史上経験ない暴風に見舞われるとの警報が出されていた。夜になり、ここ都内でも風と雨が強まってきた。ニュースもほとんどが台風関係で占められるようになっていった。

 「今夜はそろそろ寝ましょう」と、マリさんに言った。

 「そうね。この古い家、ガタガタして壊れそう。怖いわー。眠れるかしら」

 「マリさんの寝室は2階ですからね……」

 「ビルに挟まれた一軒家だから当たる風は弱いのかと思っていたけど、違うのね」

 「ビル風で、却って複雑な吹き方をするかもしれませんよ」

 「やだーー! 脅かさないでよ!」

 「すみません。マリさんが怖がるのを見るの、初めてのような気がして、つい……」

 「私で遊んだわね! もう!」

 頬を膨らませながらも、楽しそうな表情をしていた。ふと、思い出した、というか、思いついたこと。今まで、マリさんのこころに潜入して「それ」、つまり隠された本心を探ろうとしたことがない。今でもその気が起きない。なぜだろうと考えるも、すぐにその考えは薄れしてしまう。不思議だ……。

 吹き抜ける風と家を叩く音に悩まされながら、ベッドに身を横たえた。日付が変わると、特に風の勢いが激しさを増していった。体が風に飛ばされるイメージが自然に湧く。いつしか風は水に変わり、僕の身体は強い潮流で大海の深部へと流されていった。

― 夢を見た。僕の両親が金属バッドで殴られている……。バンバンと打つ音がする。助けようとするが、水に流されて両親の近くには行けない。それどころかどんどん遠ざかってしまう。「お父さーん! お母さーん!」と呼んでも、ブクブクと泡立つだけで声にならない。助けてあげられるのは僕だけなのに、それができない。僕は、なんて役に立たない子どもなんだ! こんな人間なんて生きていてもしょうがない! 急に静かになり……、場面が変わった……。僕は知らない部屋の中で、犯人のようなお兄さんと喋っている。「僕はお兄さんの味方だよ」と言っている。子どもながらに、機嫌をとらなくちゃと必死に考えている。そのお兄さんは、ニコリと笑っていた。僕も同じように笑い返した…… —

 悪夢で目が覚めると、朝になっていた。なぜこんな日に、こんな夢を見るのだ。雨風の音が激しかったことが関係しているかもしれない。それにしても、僕の記憶にはない不穏過ぎる内容だった。

 テレビをつけてニュースを見た。千葉県を中心に、関東各地の甚大な被害が映し出されていた。計画運休終了予定の8時を過ぎても、交通機関はほぼストップしていた。いくつもの駅が映され、仕事に行こうとする人たちでごった返していた。

 2階に上がると、マリさんが起きていて、ニュースを食い入るように見ていた。

 「泉くん、習志野は大変みたいよ」

 「習志野署にいるみんな、大丈夫でしょうか……」

 「ほら、今、津田沼駅の行列が映っているわ」

 「確か、習志野市津田沼6丁目が、マアヤの家でしたよね」

 「そうよ。でも今は、誰もいないのよね」

 「そう思いますが……。マアヤは習志野署に、母親と妹は多分、警察署で保護されているでしょう。父親と叔父は警察関連の施設にいるか、それとも叔父だけは違うのか、ちよっとわかりませんね」

 「なんかね、叔父のこと、とっても嫌な感じがするのよ、私」

 「あれ? マリさんにマアヤがされていたこと、話しましたか?」

 「いいえ、具体的には何も聞いていないわ」

 「マリさんの勘ですか?」

 「そうなの。何だか、嫌な胸騒ぎがするの」

 「警察が、一人にはさせておけないと言っていましたから、きっと大丈夫ですよ」

 「そうかしら……。何もないといいんだけれど」

 「そういえば、関係ありませんが、僕、奇妙な夢を見ました。子どもの僕がいて、両親が金属バッドで叩かれるのを見るんです。助けたくて仕方がないのに水で流されて遠ざかってしまう……。そのあと、多分バッドを持っていた人だと思うんですが、その人に話しかけるんです。僕はお兄さんの味方だよ、って……」

 「胸が苦しいわ……」

 「すみません、変な話をして……」

 「それより、早く、交通や停電が復旧するといいわね」

 「そうですね」

 台風が通り過ぎた関東は、9月としては記録的な猛暑に見舞われていた。


【 7 家庭裁判所送致 】

 殺人の容疑で逮捕されてから10日目の昼前、千葉区検察庁は佐木マアヤを殺人と死体損壊の罪で千葉家庭裁判所に送致した。検察官の付けた意見は「児童自立支援施設送致相当」だった。殺人事件で「刑事処分相当」以外の意見が付けられるのは、極めて珍しい。これで、家庭裁判所は保護処分の審判を出しやすい環境が整った。

 しばらくして、水島あかね弁護士から電話が入った。

 「泉先生、マアヤさんが移されたら、すぐに面会に行きますが、一緒に行きますか?」

 「はい、もちろん」

 「夕方4時頃に移送されそうだから、5時くらいにタクシーで回りますね」

 「ありがとうございます。鑑別所は千葉市稲毛区でしたよね?」

 「はい」

 「本人も母親も、僕の付添人を希望していますか?」

 「はい、そこは大丈夫よ」

 電話が終わると、マリさんが心配そうに訊いてきた。

 「鑑別所に行くの?」

 「はい。家庭裁判所には少年の居住スペースがありませんから、少年鑑別所に収容されるんです」

 「そうなのね。泉くんは、もう今日すぐに面会できるの?」

 「付添人になろうとする者、という身分で面会できます」

 「へぇー。誰でも?」

 「さすがに誰でもという訳にはいきませんが、本人と関係があり、更生に資すると考えられる人ならオッケーです。たとえば学校の先生でも可能です」

 「でも、ほとんど弁護士だけが付添人になるんだったのよね?」

 「現実はそうです。家裁で開かれる審判、刑事裁判でいう公判ですね、ここには保護者や児相、学校関係者なども加わる場合が多いです」

 「泉くんはどうしてマアヤさんの付添人になるの?」

 「そうですね……。やはり一番大きいのは、彼女の立ち直りを阻害するような働きかけがなされないようにする、不適切な処遇決定にならないように意見するためですかね」

 「どれくらいで結論が出るの?」

 「審判は、4週間以内に開かなくてはなりません。その間に、家裁調査官が中心となって調べるんです」

 5時前に、タクシーで水島弁護士が到着した。すぐに同乗し、鑑別所に向かった。

 水島「マアヤさん、とても落ち着いています。泉先生に、ありがとうって伝えてください、って言われていました」

 「それはよかった」

 「どうして分かるんだろうって、不思議がっていましたよ。言わないのに、思っていることが伝わっていた、ですって」

 「不思議ですよね……」

 「彼女が叔父からの虐待で被ったPTSDが事件に関わっているのは間違いないので、保護処分は最低限ですね。児童自立支援施設で、疑似家族のような治療チームを作ってもららるのがいいと考えています」

 「僕は、保護観察が適切だと思います。父親と叔父とは離れてもらい、母親と妹との3人家族で過ごすんです。学校に通いながら、カウンセリングも継続する、という案です」

 「それは理想ですけど、殺人で保護観察というのは考えられないです」

 「無理ですかねぇ……」

 鑑別所に着き、少し待たされたが、鍵付きドアで閉ざされた奥へと通された。面談室と書かれた部屋に入ると、そこにジャージ姿のマアヤがいた。そして職員は外へ出ていった。

 マアヤは、顔を上げると、少し笑ったように見えた。

 水島「これからは私と泉先生で、あなたの付添人として社会復帰へ向けた活動をするわね」

 マアヤは軽く頷いた。

 マアヤ「泉先生。ありがとうございました。誰にも分ってもらえないと思っていたこと、先生には全部知られちゃいました」

 「うん、君のこころが叫びたがっていたからね。分かりやすかったよ」

 マアヤ「嬉しかったんです。私が全部いけないと思っていたから。でも、あのあと刑事さんに話していて、こんな私でもいいのかなって思えるようになりました」

 「刑事さんたち、優しかったの?」

 「はい。びっくりしました。同じ警察官なのに、父とは全然違っていました」

 「ところでマアヤさん」

 「……」

 「これから、もうお父さんたちとは一緒に暮らさないで、3人での生活が必要だと僕は考えている」

 「はい。私も」

 「それならオッケー」

 水島「明日、裁判所に付添人選任届を提出しますね。そうしたら、私たちは裁判所の人たちの調査時間以外は、自由に会えるから」

 「はい」

 「学校の先生で、会いたい人はいる?」

 「あの学校は嫌です」

 「どうして?」

 「苦しいときも、何も分かってくれなかったからです」

 「分かってくれなかった?」

 「いつも、頑張れ! お前ならできる! ばっかりでした」

 泉「千葉県外の新しいところにお母さんに引っ越してもらって、新しい学校にしようと思うけど、それでいいかな?」

 「はい。それがいいです」

 「新しい学校では、事件のことは誰にも知られないようにしたいんだけど、それもいいかな?」

 「はい」

 「僕がカウンセリングを続けて、学校にもいろいろ働きかけるつもりでいる」

 「はい」

 水島「マアヤさん。まだ家族と一緒に暮らせて、学校に行けるようになるかは分からないからね。もしかしたら施設に入ることになるかもしれないの」

 「それも仕方ないです」

 「分かっているのね。今日は疲れていると思うから」

 「はい」

 「また来ますね」

 「はい」

 少年鑑別所を出て、僕たちはタクシーに乗った。

 「泉先生は、あくまでも保護観察を目指すのですね?」

 「はい」

 「じゃあ、私もその案に乗ろうかしら」

 「そうしましょう!」

 「明日の朝一番で、付添人選任届を出し、家裁の担当者と話をしてきますね」

 「お願いします」

 順調に進められると思っていた。しかし違っていた。翌日の朝、水島弁護士から慌てた声で電話が入った。

 「家裁が、精神鑑定を実施するつもりだって!」

 「それじゃ、何か月も鑑定留置されてしまう可能性があるということですね」

 「そうなります」

 「もう分かっているのに。不要ですよ!」


【 8 精神鑑定を巡って 】

 僕が電話で声を荒げたのを、マリさんは心配そうに見ていた。

 「いつも冷静なのに、珍しく怒っているみたいね」

 「いやー、困りました。せっかくマアヤも落ち着いてきて、更生の道筋でも付添人としての方針が定まったのに、下手に鑑定留置されて下手な鑑定結果でも出されると、またこじれそうで」

 「鑑定留置って、どこかに閉じ込められるの?」

 「大抵は、鑑定をする精神科医がいる病院の隔離室ですね」

 「そこに長くいるの?」

 「ケースバイケースです。最低でも1か月、長いと半年を超えるようなこともあるんです」

 「半年も? 随分と差があるのね」

 「医師のペースですよ。本務で忙しい人だと、なかなか鑑定作業に時間を充てられないんです」

 「忙しいのに、鑑定を引き受けるものなの?」

 「精神鑑定の実績が、権威の証になるんでしょう」

 「そうなのね。でも、鑑定留置中でも、泉くんはマアヤさんに会えるのよね?」

 「それはわからないです」

 「えっ、どうして?」

 「裁判所の職権で行う鑑定ですから、裁判所から任命された鑑定医の裁量が大きくなります。鑑定医が、自分の病院内でカウンセリングなんかされては困るって言い張れば、多分会えませんね」

 「じゃあ、担当する医師の考え方によって変わってくるのね」

 「ええ、そうです。期間だけでなく、一番厄介なのは鑑定結果です。変な診断を付けられたりしたら、それが報道されたときに病名の一人歩きが起こりかねません。また、更生の可能性の言及も、家裁の判断に影響を与えます」

 「それは困ったわね」

 「こんなことになるなら、裁判所に対して職権の情状鑑定請求をしておけばよかった……」

 「情状鑑定って?」

 「精神疾患と事件との関連という医学的観点からでなく、たとえば僕がやるなら、心理検査も駆使して成育史と事件との関連性を明らかにし、裁判所が判断の参考として使える心理学的な考察をします。責任能力の判定が精神鑑定の主な目的とすれば、情状鑑定はしばしば情状酌量に用いられる可能性ある材料を提供することになります。特に家裁の審判では、更生を視野に入れた心理学的援助を論じることが大切で、逆送するかどうかといったケースでは、その重要性は一層増しますね」

 「泉くん、熱が入っているわね」

 「そうですか……」

 マリさんが、気分転換にとコーヒーを入れてくれることになった。その間、インターネットでマアヤの件について調べていると、この日に発売される写真週刊誌の見出しが目に飛び込んできた。

― 14歳殺人少女の叔父は殺人犯だった!? —

 なんと不謹慎な表現を使うんだ! 僕はまたこころにメラメラと燃えるものを感じた。これじゃあ、殺人が遺伝するような誤解を与えかねないじゃないか! 最後に?マークを付けているのは、確証がないということなのに……。

 「はーい、できたわよー」

 「マリさん! これ見てください」

 「あらー……、この見出しは酷いわね」

 「そう感じますよね?」

 「ええ。人目を引くなら何を書いてもいいみたいな業界ね。この前の泉くんの記事にしてもそうだわ」

 「週刊誌の記者にとっては、それが一番重要なんですよ。人が読みたくなるようなキャッチコピーが」

 「でも……、警察が叔父のことを、一人にしておけないって言っていたのよね。こういうことがあったからなのかしら」

 「そうかもしれません。でも今は、叔父がマアヤを虐げ、追い詰めて事件に走らせたということが大切で、叔父のその行為を犯罪として警察が扱うか、です。こんな記事を書かれると、警察の方針にも影響を与えかねないですよ」

 「泉くん、なんか叔父のことを庇っているみたい……」

 「そうですか……。過去のことは、もう刑罰を受けるなどして一応の清算がなされているはずです。マアヤにしたことを立件できるかどうか、それが問われているんです」

 「確かに、そうよね」

 マリさんが入れてくれたコーヒーを飲んだが、いつものようにゆったりと味わうことができなかった。僕は部屋に戻り、ベッドで天井を仰いだ。

 精神鑑定はすぐに始まることになった。慶早大学付属病院の山田創という精神科医が任命されていた。鑑定期間は2か月。鑑定人の選出に当たっては、それまでに類似の事件の鑑定経験があるかどうかが鍵となる。山田医師は、一昨年起きた18歳の女子大生が起こした殺人事件の鑑定をした経験があった。そのときの鑑定結果は、確か「自閉スペクトラム症、完全責任能力あり」だった。

 鑑定留置されるまで、僕はマアヤの付添人として一度だけ、10分ほどの面会しかすることができなかった。水島弁護士とともに、山田医師に相談したが、「院内での付添人活動は自重してください」と一蹴されてしまった。水島弁護士は、慶早大学付属病院の人権救済委員会に申立てを行った。だが、「裁判所の指示に基づく精神鑑定中であり、鑑定作業に及ぼす影響を考慮すると問題はない」との回答が、翌日に返ってきた。

 2か月もの間、僕たちは付添人活動ができないばかりか、その間のマアヤの精神状態を把握することも叶わない。こころにぽっかりと大きな穴があいたような感じがした。

 その日の夕方、マリさんにある頼みごとをしてみた。

 「マリさん」

 「はい」

 「明日は、マアヤとの面会のために終日スケジュールを空けていたんです」

 「そうよね」

 「僕は今まで、アルコールを飲んだことがありません」

 「そうみたいね」

 「今夜、飲みに連れていってもらえませんか?」

 「あら、やけ酒?」

 「そうです。酔ってみたいです」

 「いいわよー!」

 その後に起きたことは、格段詳細に記すまでもない、傍から見ればごくありふれた光景だったろう。禁煙が絶対条件だったので、連れられて行ったのは、近くにあるお洒落なワイン・バーだった。後から聞くと、僕は甘口の赤ばかり飲んだという。そう、早々に記憶が飛んでしまったのだった。

…………

 この気持ち悪さ、この頭痛、そしてこの独特の臭い……。気がついたのは自分の部屋、ベッドの脇で床に臥せっていた。すぐに吐き気に見舞われ、吐いた。この苦しさは何年ぶりのことだろう。子ども時代に時々あったような気がする。着衣も濡れ、部屋のあちこちに汚物が着いていた。動けないので、その場でまた吐いた。

 再び眠りに落ちたのか、夢の中でいつしか辺りの汚れは真っ赤に染まっていた。血の海だった。その中で僕は溺れている。苦しくて苦しくて、もがいている。血の付いた金属バッドが落ちていた。まるで僕が使ったかのように。

 そしてどれだけ時間が経ったのだろう。しつこく残る頭痛を堪えながら、ゆっくりと上体を起こした。時間は? 掛け時計は午後2時を指していた。着替えなきゃ。シャワーを浴びなきゃ。そして掃除と洗濯をしなくちゃ。忘れていたマアヤのことが蘇ると、まだ怒りが込み上げてきた。やけ酒は、何もいいことがない。

 4時を回った頃、ようやく身体と部屋を綺麗にして、外へ出られる状態が整った。ゆっくりと階段を上り、マリさんがいるはずの2階事務室へ移動した。パソコンに向かっていたマリさんが、その手を止めた。

 「泉くん、初めてのワインはどうだった?」

 「……。記憶なしです」

 「とんだやけ酒になったのね」

 「はい」

 「威勢よく飲み始めたのよ」

 「そうなんですか……。僕はどうやって自分の部屋に戻ったのでしょう?」

 「吐いててタクシーにも乗れない状態だったから、歩いて帰ってきたのよ」

 「歩けたんですか……」

 「とても重たかったけどね」

 「リコの家で睡眠剤入りの飲み物を飲んだとき以来ですね。すみません、迷惑かけて」

 「いいのよ。初めてのやけ酒はこうなるものよ」

 「それで、家についてからは?」

 「泉くんを部屋に入れてから、私は2階へ行ったわ」

 「えっ……。前みたいに介抱してくれなかったということですか?」

 「そうよ。だって、全身汚れていたから、どうしよもないでしょ?(笑)」

 「急性アルコール中毒で危ない、とか、心配にならなかったんですか?」

 「ええ、あまり。たまには過保護なマリをやめてもいいかなと思ったのよね(笑)」

 「本当に?」

 「本当はどうだったかしら。気にしないでいいのよ」

 「本当はどうだったか……?」

 「考えるのをやめて、椅子に座って休みましょ!」

 「は、はい……」

 僕は椅子に座って、大きくため息をついた。頭痛がまだ消えない。少し待って、マリさんが言った。

 「今日のカウンセリングを希望する電話があったけど、断っておいたわ。体調を崩して寝込んでいるので、明日以降に、って。午後を希望していたので、明日の午後3時にしたけど、よかったかしら?」

 「構いません。新規の方?」

 「ええ。でも、泉くんのよく知っている人よ」

 「誰だろう……」

 「習志野警察署の下山さんよ」

 「えっ! 彼が自分のカウンセリングを希望?」

 「そうみたいね」


【 9 身内を失うこと 】

 習志野警察署の下山刑事が初回面接に訪れた。マリさんが事務対応をしてくれた。相談申込書に書かれた相談内容は、「家族のこと」だった。下山ケイタ、40歳、警察官、家族なし。

 下山「その節はご尽力いただきありがとうございました」

 「いえ、こちらこそ。今日はご自身のことで?」

 「そうです」

 「家族のこと、と書かれていますが?」

 「今の家族ではありません」

 「今は、家族欄に、なし、と書かれてますね」

 「いません。独身で通してますし」

 「家族のこと……」

 「死んでしまった家族のことです」

 「それはお辛い話で……」

 「あのぅ、先ほどの事務の方ですが」

 「何か?」

 「違うというのはわかっていますが、気になるので……。ユリという名ではありませんね?」

 「似ていますが、違います」

 「そうですよね。いや、私の姉にそっくりだったもので……」

 「お姉さんがおられるのですか?」

 「いました。ずっと前に死にました」

 「そのお姉さんが、ユリという名で、うちの事務員とよく似ているのですね?」

 「似ているというか、私の面影の中では瓜二つだったので、驚きました」

 「それは驚かれるでしょう。特に、亡くなったお姉さんへの想いが強いと、なおさらでしょう」

 「はい……」

 「ご両親は?」

 「2人とも早くに死にました」

 「それは辛い……。僕の胸も、今、張り裂けそうな感じがしています」

 「少し泣いてもいいですか?」

 「ええ、どうぞ」

 ケイタはうつむき、声を押し殺すように泣いた。涙が両頬を辿り、ズボンにボトボトと落ちた。僕は彼のこころの海の世界に潜り込んだ。

― どうしてあんな奴が現れるんだ! あんな奴と関わったから、姉さんは死んだんだ! 憎い……。カウンセラーなんてみんな悪者だ! —

 下山ケイタは、自分の姉の死、恐らく自死の理由が、カウンセラーとの関係にあると感じている。そしてそのカウンセラーだけでなく、カウンセラー全般を強く憎み、やり場のない感情に苛まれてきていた。

 「泉先生……」

 「はい」

 「あの“術“を使って、私の悩みを読んでもらえましたか?」

 「“術”ではないですが、伝わってくるものはありました」

 「私が大学で心理学を学ぼうとした理由も、その出来事にあるんです」

 「ということは、かなり以前に起きたことのようですね」

 「はい、そうです。何が起きたか、こころを読んでもらえましたか?」

 「下山さんだから、では僕のほうから言いますね。僕が感じたのは、お姉さんの自殺……」

 「そうです」

 「と……、その理由がカウンセラーにあり、憎しみが拭えないこと……」

 「その通りです」

 「この悲しみと憎しみは、誰かに話したことはありますか?」

 「いいえ、ありません」

 「どうして?」

 「話そうと思わなかったし、つい最近までは薄れかかっていたからです」

 「つい最近……。もしや、私が警察署で事件を起こした少女に接した姿を見られてから?」

 「そうです」

 「薄れかかっていたとしても、消えることはない。あの場面をきっかけに、出たがっていた感情が活性化したということですね?」

 「はい、そうです……」

 そう言って、ケイタは再び顔を落とし、泣いた。

― あんなに強くて頼りがいのある姉さんだったのに。弱くなったのはカウンセリングをしていたからだ! カウンセリングなんか受けてなかったら、姉さんは強くて、死なんて選ばなかった! —

 「ケイタさん。お姉さんは、本当に強かったのではないと思います。自分の感情と引き換えにして、無理していたんじゃないでしょうか。でも、その頃のケイタさんには、お姉さんのこころの真実には気づけなかった。だって、ケイタさんの前ではいつも頼りになる存在だったから、気づけなくて仕方がないんです」

 「それでも、カウンセリングに通わなかったら、生きていたと思うんです」

 「そうかもしれません……。ケイタさんは、本当の感情を押し殺して元気なフリをすることが、その本人にとって望ましいと思いますか?」

 「わかりません……。でも、生きててほしかった!」

 「私に、その気持ちを言葉に出してぶつけてください」

 「はい……、では……」

 「どうぞ!」

 「カウンセラーなんて人種がいるから、姉さんは死んだんだーー!」

 「はい」

 「姉さんを殺したのは、カウンセラーだーー!」

 「はい。そうかもしれませんね。カウンセラーである僕のことが憎い、そう言ってください」

 「泉って奴はカウンセラーの一味だ! こいつが憎い、こいつが憎いーー!」

 そう叫ぶと、ケイタは声をあげてワンワンと泣いた。そして沈黙がしばらく続いた。そして僕のほうから沈黙を破った。

 「ケイタさん。刑事として毅然と生きてこられました。そして今、その裏に隠していた思いを初めて打ち明けてくれました」

 「……」

 「時には、やり手の刑事でなく、感情丸出しの人間になってもいいと思いますよ」

 「……」


【 10 真実に向き合う 】

 「今、こころや身体にどんな感じがしていますか?」

 「は、はい……。喉につかえていたモノがとれたような……」

 「こうやって、時々自分の感情に向き合ってあげて、生きることに精を出してください」

 「そういうことなんですね……」

 「はい、そういうことです」

 「姉さんは、ずっと無理して、自分を犠牲にして、弟の僕を支えていたんですね。僕がいなかったら、弱い人でいられたのかもしれませんね」

 「それは分かりません。少なくとも言えるのは、姉にとっては弟が、弟にとっては姉が、かけがえのない存在だったということ」

 「確かに……。姉さんが亡くなったのは28歳で、その時私は13歳でした。両親は私が小学生になった頃にはもう他界していて、姉さんがなんでもやってくれました」

 「ご両親とも、そんなに早くに……」

 「はい。多分、両親も自殺だと思います。姉さんははっきりと言ってくれなかったけど」

 「悲しいです……」

 「すみません。感情の出し方が下手で」

 「いいえ。お姉さんのことは、ケイタさんが13歳、中学1年の頃ですから、27年くらい前のこと……」

 「そうなります」

 「ずっと、その悲しみと憎しみを堪えていたのですね」

 「はい……。姉さんはカウンセリングに通い出してからふさぎ込んだりイライラしたりするようになって、入院させられたんです。退院してから、自分の部屋に鍵をかけ、出てこなくなりました」

 「そうなんですね……」

 「3日間くらい会えなかったでしょうか……。私はふつうに学校に行ってて。ある日帰ってきたら、家にパトカーや救急車が停まっていて……」

 「痛ましい……。のちに病院で、お姉さんが亡くなっていたことを知らされた……」

 「はい」

 「対面して、最後のお別れができましたか?」

 「はい。自殺の跡がわかりました……」

 「その時から、ケイタさんは強く生きようとした?」

 「はい。もう誰にも頼らない、と。そうでした……。大事なことを話さなくては……」

 「この相談所と関わりがある、と?」

 「はい。ここ、私たちが以前暮らしていた家なんです」

 「驚くべき一致としか形容し難いですが、途中からそうかもしれないという気がしていました」

 「あの事件で、被疑少年の両親が足を運んだカウンセラーのところへ向かう途中でそのことに気づいて、正直、足がすくみました」

 「そしてお姉さんは、この相談所の事務員の女性にそっくりだった……」

 「はい。あの直前に戻ったのかと、一瞬錯覚してしまいました」

 「名前は、下山ユリさんだったのですね?」

 「はい、だから思わず名前を訊いてしまい……」

 「事務員の名前は、山下マリといいます」

 「そうですか……」

 僕は、マリさんから聞いた、山下ユリのことを考えていた。そして、先日、摂食障害を主訴としてやってきたケダモノさんこと、家田ユリのことも連想した。17歳の家田ユリは、電話で父親を病院の屋上から突き落としたようなことを言っていた。父親の遺体は発見されたが、ユリ本人と母親がどうなったのかについては音沙汰がない……。確か母親の名前は……、サチコだった。

 「名前も似ていると?」

 「はい……」

 「あのぉ…、まだカウンセリングが終わる間際ですが、僕のほうから訊いてもいいかどうか迷っています……」

 「どうぞ訊いてください。泉先生のお陰で、かなりすっきりしたので構いません」

 「お姉さんがカウンセリング通っていたのはいつ頃ですか?」

 「姉さんがまだ十代の頃だと思います」

 「入院させられたのも?」

 「はい」

 「ケイタさんは、それをどうやって知りましたか?」

 「姉さんが時々話してくれました」

 「どんなふうに?」

 「私は男性のカウンセラーさんに出会って変わったのよ。変わってから無理やり入院させられて、それで家族がごちゃごちゃになっちゃった。こう言ってましたね」

 「そうですか……。無理やり入院させたのも、そのカウンセラーですか?」

 「多分そうです……」

 「誰に入院させられたのかは、はっきり聞いてはいなかったのですね」

 「そういえば、そうです」

 「ケイタさんの両親の名前は、わかりますか?」

 「えーー。うーーん、どこかで聞いたことはあるはずですが。特に母のほうは、接した感じも少し残ってはいるんですが」

 「いくつか名前を言います。その中に聞き覚えのあるものがあったら、教えてください」

 「わかりました」

 「まず、父親から。タケシ……、タダシ……、タイチ……、タロウ……、タカシ……」

 「どれも覚えがありません」

 「では、母親のほう。サチエ……、サトコ……、サトミ……、サチコ」

 「あっ! それです! サチコだったと思います」

 「ありがとう。これで十分ですよ」

 「泉先生、何か知っているんですか?」

 「いやーー、これは困りましたぁ」

 「先生に困ること……」

 「夢の中で、もしかしたらケイタさんのご家族に会っていたかもしれないです。夢の中で、です」

 「その夢の中では、姉さんはどんな人でしたか?」

 「そうですね。夢の中で、ユリさんはとても優しく、いつもニコニコしていました」

 「それで?」

 「まだ聞きたいですか……? とても痩せていましたが、元気でした」

 「ええ、姉さんは痩せてました。食べてもトイレで吐いていたのをこっそり見たことがあります」

 「そうですか。苦しそう……」

 「両親にも会ったのですか? 夢の中で……」

 「もうそれくらいにしておきましょう」

 「そうですか……」

 僕は、ケイタの家族に起きたであろう事実に、もうこれ以上立ち入って触れるには忍びないと感じていた。そして、決意を持って付け加えた。

 「最後に一言です。ケイタさんが憎んでいるカウンセラーを、ずっと憎んでいていいと思いますよ」

 「そうなんですね……」

 「今日は、貴重なお話をありがとうございました」

 「また、来てもいいですか?」

 「はい。必要なら、どうぞ」

 「後ろ髪が引かれる」と言いながら、下山ケイタは帰った。僕はすぐにカウンセリング・ルームの椅子に座り、テーブルにふさぎ込んだ。あの家田ユリは、過去からやってきた下山ユリ、つまりケイタの姉ではないのか。「27年前のユリ」というキーワードは、3つの点を一本の線で繋ぐ。マリさんが説明してくれた山下ユリは、27年前に28歳で、この家で自死した。下山ケイタが説明してくれた姉の下山ユリは、27年前に28歳で、この家で自死した。その時のケイタは13歳。そして僕がカウンセリングで会った17歳の家田ユリは行方がわからなくなっていた。家田ユリに同じ年の差の弟がいるとしたら、2歳……。

 僕の周辺で度々起こる時空の歪み。混乱するが、もう慣れてしまった……。

 あれは下山刑事が2歳の時の出来事だったのか。姉のユリが小児科部長をしていた父親に強制入院させられ、父親を病院の屋上から突き落としたのは……。その後、なんらかの理由で母親が亡くなった。2歳のケイタは、17歳の姉、家田ユリに育てられた。姉が時々話したこと。「男性カウンセラーに出会って変わった」→「無理やり入院させられた」→「家族がごちゃごちゃになった」、これらが直接因果として受け止められ、カウンセラーへの憎しみへと転嫁されたのだろう。

 とすれば、僕が会った家田ユリは、あの11年後にこの家で自死していたことになる。未来と過去が書き換えられる……。3人でひとつの結末。その終焉の舞台が、この家だ!

 僕が神田に拘ったために、この神田紺屋町の古家を起点にして、信じられない事象が続くんだ。


< 第十一話 完  十二話へ続く >



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