diver 第一部 第十四話
【 1 学校というところ 】
僕は大学へ行って心理学の勉強をしたくなった。まず小学校へ行ってみよう。もうすぐ6年生の2学期も終わりに近づく時期だ。喋り方にも、使う言葉にも、困ることはなくなった。これも定一さんが『神田川』を歌ってくれたお陰だ。僕の大切なパパとの記憶の断片を手にしたことが、不登校生活を一変させることになる。パパはお星さまになっても、僕のこころの中で生きている。
ユリ姉ちゃんも、高校を1日休んだだけで復活した。将来カウンセラーになるという2人だけの目標が、2人の勉学に励む支えになった。このことは施設の人たちにも秘密だ。翌朝、定一さんに頼んだ。
「学校へ行きたいです」
定一「無理してないか?」
「はい」
「今日、これから行くかい?」
「はい」
「じゃあ、学校に連絡して、今日は一緒に行こう」
「やったー!」
葉子さんじゃなくてよかった、と内心思っていた。葉子さんは、言っていることと思っていることがズレているので、あまり好きじゃなかった。支度をして、定一さんの車に乗った。
定一「なぜ急に行きたくなったんだい?」
「うーーん。神田川を歌ってくれたからです」
「そうか、そうか(笑)」
「また歌ってくれますか?」
「いいとも!」
すぐに学校に着くと、校長室に通された。
校長「今日は話せますか?」
「はい」
「では、まだ朝の会をやっているから、すぐに教室に入れるかな?」
「はい、入れます」
定一「では校長先生、よろしくお願いします」
校長に連れられて、2階一番奥の6年A組の教室へ入っていった。担任の河出先生も、児童たちもびっくりしたような顔をしていた。また喋らないのではないかと思っているんだろう。
校長「河出先生、あとはお願いします」
河出「大丈夫でしょうかね?」
「うまくやってください」
「はい……」
校長先生は出て行った。
河出「はい、みなさん、ではもう一度、転校生です。自己紹介はできますか?」
「はい。僕は、古泉海斗と言います。土浦から引っ越してきて、今はつくば愛育園のミズキの家に住んでいます。どうぞよろしくお願いします」
児童B「へーー!」
児童C「施設なの?」
「はい、そうです。両親が死んでしまったので、施設に入りました」
児童たち「がやがや……」「えーー」「可哀そう」……
河出「それ以上詳しくは自己紹介しなくていいですよ。質問ある人はいますか?」
児童D「好きなものは何ですか?」
「好きなものは、こころです。あと、百科事典や、歌や……、あっ、猫です」
児童E「得意な科目は何ですか?」
「勉強したことないので、ありません」
児童たち「(笑い声)」
河出「はい、よくできました。ではあの席に着いてください」
「はい。先生、竹刀を使わなくてもきけますので、持ってこないでください」
「えっ? ……そ、そんなもの持ってくるわけありませんよ……」
児童F「えーー、先生、前に持ってきてたよーー」
「ん、んん……。はい、ではみんな、古泉くんと仲良くしていってください」
多数児童「はーーい!」
「ではこれで、朝の会を終わります。10分間休憩したら、1時間目を始めます」
休み時間、何人かの子が僕の周りにやってきて、いろいろと喋ってきた。僕は愛想笑いするしかなかった。こうして急遽、僕の小学校生活がスタートした。
【 2 勉強とテスト 】
休み時間が終わる少し前、担任の河出先生が教室に顔を出し、僕を手招きした。廊下に出て、そのまま職員室へ連れていかれた。
河出「古泉くん、実はね。今日の1時間目の国語は、漢字のテストなんだ。君だけはテスト範囲を教えてなかったから、別の課題をやってもらおうかと思っているんだけど、どうかな?」
「僕はみんなと一緒でいいです」
「そうかぁ……。わかりました。結果が良くなくても気にする必要はないですからね」
「はい」
1時間目が始まった。記憶にある限り、僕の最初の授業だ。
テスト用紙が配られた。最前列なので、自分の分をとってから後ろへ回した。先生の「はい、始めてください」の号令があった。用紙を見ると、ひらがなを漢字に直すものだった。
『 書類を かい らん する。』
かいらん? なんだろう……。そう思い、何気なく教壇に立つ先生の顔を見ると、頭の中が蒼い水の世界に入れ替わり、「回覧」の文字が浮かび上がった。それをそのまま用紙に書き込んだ。次の問題も……、
『 飛行機の も けい をつくる。』
先生の顔を思い浮かべると、「模型」が見え、見えた通りに書いた。
『 むずかしい 問題 』は、「難しい」と書いた。
こうやって50問全部を書いてしまった。「これでいいのかなぁ」とも思ったが、途中からは慣れてしまったのか、先生の顔を思い出さなくても自然に浮かんでしまうので、どうしようもなかった。意味は、全部理解できていた。
河出「早くできた人は、前に持ってきてください」
僕は一番に持って行った。先生は驚きを隠すようにして、採点を始めた。他の誰かが「すげー早いなー!」と言った。しばらくすると、次々とやり終えた児童が出していった。1時間目が終わってもまだやり終えず、途中で提出させられた子もいた。そういえば、この学校はチャイムが鳴らない。
2時間目が始まる直前、また河出先生から呼び出された。
「古泉くん、ちょっと訊いていいかな。学校は行ってなくても、もしかして塾とか家庭教師とかやってたの?」
「いいえ、何もしてません」
「漢字の勉強はしてた?」
「ちょっと前に定一さんにもらった、図鑑百科事典の『植物』を見ただけです」
「そうですか……。わかりました。でも先生には何が起きているのかわかりませんが……。漢字の才能があるのかもしれませんね」
2時間目のはじまりに、漢字テストの結果が配られた。先生の採点って早いんだなと、びっくりした。順に名前が呼ばれ、取りに行ったときに点数が発表される……。そのやり方は嫌だった。
「Gさん……、はい、64点。Hくん……、はい、80点。よくできました! Iさん……はい、38点。もっと頑張りましょう! Jくん……、はい、72点。 古泉くん……、はい、100点。よくできました!」
ここでクラスのほぼ全員が感嘆の声を漏らした。別に他の子に知らせなくてもいいのに……。配布後、算数の授業が始まった。
「今日は、前に習った『割合』『比』ですね、その復習をします。今から黒板に問題を書きますから、その答えと、計算の仕方を考えてください」
『 1 S サイズのカップに200mL のジュースが入っています。SサイズとМサイズのカップに入っているジュースの体積の比は5:7です。Мサイズのカップに入っているジュースは何 mL ですか。』
『 2 まりさんの小学校の児童数は675人で 、 男子と女子の人数の比は 7:8です。女子の人数は何人ですか。』
2つ書いたところで誰かが言った。
「転校生なら簡単なんじゃない?」
「そうだ」「やってみてよ」「おもしろい」という声があがった。先生もまんざらではないような顔だった。
河出「古泉くん、すぐには無理ですよね?」
「答えてもいいですか?」
「わかったのなら、言ってみて」
「はい。Мサイズは280 mLです。女子の人数は360人です」
「正答です。今、計算したんですよね?」(他の児童の歓声に混じって)
「計算というか……。計算の仕方がわかっちゃうので……」
「はい、わかりました。では、次の問題は他のみんなも考えましょう。これ以降、先生は僕には振らないようにしていた。2時間目が終わると、河出先生に誘導されてまた職員室に行った。
河出「古泉くん。本当に何も勉強していないの?」
「はい……。というか、施設に来るまでのこと、まったく覚えていないんです」
「そうだったね。覚えていないときに、いっぱい勉強したのかもしれないね」
「それは……」
言っても信じてもらえないと思い、ここで飲み込んだ。
「先生、逆に質問があります」
「なにかな?」
「とうしてあんなに速く、漢字の採点ができたのですか?」
「あれはね、副担任と空いている先生に手伝ってもらったからだよ」
こうして僕は、教師からも児童からも、勉強がなんでもできる子として見られるようになった。違う目で見られるようになってしまった。この違和感は何だろう。言葉を失った僕も、勉強がわかってしまう僕も、同じ僕なのに。人の考えていることが見えてしまう、聞こえてしまう……。必ず、蒼い水の世界に潜った感覚に見舞われながら……。ミズキの家に来て、記憶が始まってからだ。「これ」をどうしたらいいのか、誰かに話したらいいのか、考えあぐねていた。
【 3 ユリ姉ちゃん 】
学校での初めての1日を思いのほか、無難に終えた。僕のことは、勉強が得意でちょっと変わった転校生、という程度で通用しそうだ。
歩いてミズキの家に戻り、部屋へ入ると、ヒロシくんが既に帰っていて植物図鑑を見ていた。
ヒロシ「学校行ったの?」
「うん、行ったよ」
「喋れるんだね?」
「うん、昨日からね」
「ドラゴンボール見ていいよ」
「うん、ありがとう」
これだけ話して廊下へ出て、窓越しに樫の木を見た。この大きな樫の木は、施設の門を入ったロータリ状の広場の中央の、ちょっとした庭園のようなところに堂々と居座っていた。1本の枝が横に大きく伸びていて、ちょうどそこに人が座れる形になっている。昼間は小さな子どもたちがそこに乗って遊ぶこともある。
ヒロシくんに一言「散歩に行ってくる」と伝え、僕はその樫の枝に行った。そして1人で座った。またユリ姉ちゃんが来て、互いの秘密について話せるのではないかと期待していた。
辺りが少し暗くなりかけた頃、自転車をこいでユリ姉ちゃんが高校から帰ってきた。僕に気づくと、ニコッとして、制服のままやってきた。高校の鞄を足元に置いて隣に座った。
ユリ「秘密の時間、秘密の場所……」
「うん」
「誰も知らない私の家族のこと……」
「どうして誰にも言わないの?」
「どうしてかなぁ……」
「言っても、何も変わらないなら言わないほうがいいよね」
「そうなのよ」
「これからも言わないの?」
「海斗くん以外には言わないわ」
「今までに言おうとしてダメだったことばかりなんだね」
「そう。私の両親は、よその人には愛想いいから」
「ママは、パパがしていたこと、知ってるの?」
「知ってると思うわ。だから父の母への当たりが和らいでいたことも。ある意味、私は生贄ね」
「生贄なんて……」(涙ぐむ)
「仕方なかったの……」
「ユリ姉ちゃん、自分が悪い子だって、パパの気に入るようにしないといい子じゃないって、そう思っちゃったんだね」
「そうねぇ」
「僕、わかっちゃうんだ。人のことが。そんな自分が怖くなる……」
「いつからわかるようになったの?」
「ここに来てからだよ」
「人の目を見たり、その人のこと思い出すとわかるって言ってたわね? すぐにそうなるの?」
「その前にね、蒼色の海の中に潜るんだよ。深く潜っていくと、狐のような色に光ってる玉があって、それを右手で掴むんだ。するとわかっちゃう。これをやるのが難しいときほど、重大な秘密みたい。簡単にできる時は、隠し事じゃないときみたい」
「そうなのね。羨ましいけど、すべてわかっちゃうのもきっと大変よね」
「うん。学校でもね、先生の出す問題が全部わかっちゃった。だから勉強してないのにテストも満点……」
「なんか可哀そうね。でも私はそういう力が欲しいわ」
「どうして?」
「カウンセラーになったら、その人の苦しみの原因とか、理解できるでしょ?」
「うん、そうだね。僕もなれるかなぁ」
「ええ、きっと」
「先にユリ姉ちゃんがなっているよね」
「そうだと嬉しいわ……。あとから海斗くんもなって、一緒にカウンセラーの仕事をやったりしてね」
「それ、僕の夢だ!」
「私もーー!」
こんな「秘密」の会話の時間は心地よく、あっという間に過ぎていく。そろそろ戻らないと夕食の時間になってしまう。ミズキの家に入る間際、ユリ姉ちゃんはボソッと言った。
ユリ「来週、私の両親がここに来るみたい……」
【 4 別れ 】
僕の小学校生活は順調だった。下校後のユリ姉ちゃんとの秘密の対話も素晴らしかった。しかしこんな至福のひとときは、そう長く続くものではない。1週間くらい経って、早くもその日は訪れた。学校から帰ると、知らない夫婦が事務棟の入り口に来ていた。知らない職員さんと、葉子さんが出迎えていた。ユリ姉ちゃんがいつもより早く帰って来た。僕のほうを見て「とうとう来ちゃった……」と漏らしたあと、「行ってくるね」と心細げに言った。
「行かないで!」
「ありがと。海斗くん」
ユリ姉ちゃんは僕と視線を合わせないようにして、急いで事務棟に入っていった。僕はこれから起きることが気になって仕方がなく、建物の外でずっと待っていた。
1時間近く経ち、全員が出てきた。「では、よろしくお願いします」とその夫婦が言うと、葉子さんが「はい。よかったですね」と笑って答えていた。帰っていったあと、ユリ姉ちゃんがこっちのほうへ来た。
「どうだった? 秘密の場所でお話しよ?」
ユリ「今日は疲れたから、ごめんね」
「じゃぁ、明日は!」
「ええ、明日話しましょ」
ユリ姉ちゃんが自分の部屋に入ったあと、僕は葉子さんに詰め寄った。
「ユリ姉ちゃん、どうなるの?」
葉子「児相の許可が下りて、家に帰れるようになったのよ」
「えーー! どうして家に帰しちゃうの?」
「ユリちゃんのご両親ね、ペアレント・トレーニングっていうんだけど、一生懸命に取り組んで、もう一緒に暮らしても大丈夫なんだって」
「そんなのだめだよ!」
「海斗くんには関係ないことですよ」
「児相の人たちも、誰も、本当のことわかってないんだから!」
「しっかりと調べていますよ。自分が親のところに戻れないからって、妬んじゃいけません」
「酷い……。僕はそんなこと思ってない!」
「話し合いで決まったことなんだから、もう静かにしなさい」
「葉子さん! 施設の先生でしょ? 親代わりなんでしょ? なんでユリ姉ちゃんが本当のこと話せるような人にならなかったのさ!」
「いい加減にしなさい!」
そう言って、葉子さんは僕の頬を「ビシッ」と叩いた。僕もスイッチが入ったかのように、いつもは使わない暴言を吐いてしまう。
「本音隠していい顔だけして! こんな人が施設の先生やってていいんかーー!」
今度は「ビシッ、バシッ」と往復ビンタが飛んできた。僕は「ワーーー!」と叫ぶと、ミズキの家に走り込み、定一さんを探した。キッチンにいた定一さんのところへ行き、抱き着きながら言った。
「ユリ姉ちゃんをお家に帰したら絶対ダメだよー!」
定一「そうかぁ。決まったのかぁ……」
「お願い。やめさせて!」
「どうしてなんだい?」
「帰ったら、姉ちゃん酷いことされる。そうしたら何が起こるかわからないんだよ!」
「海斗のことだ。そこまで言うのはきっと何か考えているんだろうね」
「そうだよ! 姉ちゃんには秘密があるんだ!」
「何かありそうだけど、もう変えることはできないんだ」
「ユリ姉ちゃんが死んじゃってもいいの?!」
「児相の人たちがしっかりと見守ってくれる、そう信じよう」
「定一さんなんか、もういい!」
2階に駆け上がり、初めてユリ姉ちゃんの部屋の前に立った。僕に気づいたユリ姉ちゃんは廊下へ出てきて、僕を端へ導いた。部屋には他に中学生の女の子もいたからだろう。
ユリ「海斗くん。心配してくれてありがとう。私も家に戻ることに賛成したの……」
「どうして? ずっとここにいればいいじゃない?」
「ここはね、どっちにしても18歳までしかいられないのよ」
「じゃあ家に帰らないで、アパートとかに住んだほうがいいよ」
「お金がかかるから……」
「今すぐじゃなくてもいい!」
「児童相談所の決まりがあるんだって……」
「また酷い目に遭うよ?」
「もう大丈夫だと思うわ」
「絶対、ダメだよ」
「2人の秘密の約束、忘れてない?」
「秘密? 大人になったらカウンセラーになるっていう、一緒に仕事するっていう約束でしょ?」
「そうよ。夢を目指してお互い頑張りましょ!」
僕はユリ姉ちゃんの目を見た。逸らされる直前に、蒼いこころの海に潜り込んだ。深みに逃げようとする狐色の光を右手で掴んだ。聴こえてきた。何度も同じことを繰り返す声……。
― 私は我慢できる。生贄になる。少しの間だもん。それでお母さんがラクになるんだから。私は我慢できるよ。我慢するよ。 —
「姉ちゃん! ダメだー! 壊れるよ!」
「ありがと。海斗くんは優しいね。最後まで諦めないのね」
「うん、諦めない!」
いつもとは違う大きな声が響いたからだろう。多くの子たちが部屋から顔を出し、僕のほうを見ていた。下から葉子さんが上がってきた。
葉子「騒ぐんじゃないの! 部屋に戻りなさい!」
また「バシッ」と叩かれ、無理やり部屋に戻された。
【 5 喪失感 】
その夜、僕は部屋で壁にもたれ、窓から外を見ながら泣き続けた。ヒロシくんはそっとしておいてくれ、いつもの時間になると布団を敷いて寝た。僕はこっそり部屋を出て、誰もいない庭の樫の木に腰かけた。ここでいっぱい話したけど、もう終わりなんだな。そして脳裏に過ぎるのは、ユリ姉ちゃんの可哀そうなシーンばかり……。
何時間そこにいただろう。寒くて震えてきたので、モヤモヤを残しながら部屋に帰り、布団を敷かずに横になった。
目を覚ますと、もう9時になっていた。みんな学校に行ったあとだった。ユリ姉ちゃんの部屋を覗くと、当然ながら誰もいない。
キッチンの定一さんのところに行った。
「ねえ、ユリ姉ちゃん、今日は帰ってくるよね?」
「なんだかよくわからないんだけど、高校に行って、帰りは両親の迎えで本当の家に帰るらしいんだ」
「えーー! 今日は話すはずだったのに……」
「そうかぁ、それは残念だったな。親のほうが急いでいたみたいだよ」
「本当の家って、近く? 遊びに行けるよね?」
「いや、そんなに近くはないな。東京だってさ。海斗には遠すぎるよなあ」
「僕、行くよ。東京のどこ?」
「詳しくはわからないけど、神田のほうらしいよ」
「神田って、『神田川』の、あの神田?」
「そういえば、そうだな」
「ねぇ、定一さんお願い」
「どうしたんだ?」
「明日土曜日だから、神田のユリ姉ちゃんのところへ連れてって」
「神田のどこだか分からないなぁ……」
「お願い! ちゃんとお別れの挨拶していないんだ。どうしても言いたいんだ」
こう言いながら、僕はユリ姉ちゃんを連れ出すことを考えていた……。
「勝手に会いに行けないからなぁ。保護者に、お別れしたい子がいるって訊いてみるか」
「うん、訊いてほしい」
「多分、ダメだと言われると思うけど、海斗がそこまで言うなら一応訊いてみるな」
「ありがとう!」
定一さんは、事務室で2、3か所に電話をしていたようだ。そして「おーい! 海斗ー!」と呼んだ。僕は飛んで行った。
「挨拶だけならいいって許可でたよ。よかったなー。児相と母親に電話してみたんだ。明日の午前中がいいそうだ」
「うん……。でも、間に合うといいな」
「何に間に合うと?」
「もう遅いけど……。まだ会えるといいなってことだよ」
「会えるさぁ。海斗は心配しすぎだぞ」
翌日朝、朝食を済ませると、定一さんが車を出してくれた。
「場所はわかった?」
「ああ。神田紺屋町の家だそうだ」
「とにかく、急いで」
「何を慌ててるんだい?」
「助けなくちゃ」
「何を言ってるんだい? 挨拶するんだよ」
「挨拶は、生きていないとできないよね?」
「はは、当たり前じゃないかぁ~」
12時前にユリの家についた。ぽつぽつとビルと一軒家が並ぶ中に、2階建てのその家はあった。2階の部屋のカーテンは半分空いていた。定一さんが呼び鈴を鳴らした。
「ピンポーーン!」
「……」
「ピンポーーン! ピンポーーン!」
「……」
定一「おかしいな……。約束したのになぁ」
「何か起きたんじゃない?」
「そうかなぁ」
「定一さん。僕はね、本当はね、ユリ姉ちゃんを連れ戻すために来たんだ。ここにいたら、ユリ姉ちゃん死んじゃうから……」
「そんな変なこと考えてたのかぁ。大丈夫だ。児相がちゃんと見ていてくれる」
「児相ってよく知らないけど、その人たちが知らない秘密があるんだよ」
「秘密? 何だい?」
「約束だから言えないよー」
「そっかぁ」
話していると、ちょうど近所の家から若い男性が顔を出した。
「ねえ、あの人に訊いてみようよ」
「オッケー」
定一さんは近づき、挨拶をした。そして、つい最近、この家で何か起きていなかったか、尋ねた。
男性「ああ、今朝早く、救急車が来てましたよ」
定一「この家に?」
「はい。うるさいので、玄関を出てみたら、この家から誰かが担架で運ばれていきましたね」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
定一「海斗……。大変だ!」
「やっぱり危ないこと、起きてた?」
「どうも、そうらしいんだ……。児相に訊いてみよう」
定一さんは児相担当者の携帯電話にかけた。
「はい、はい……。はい。そうですか……。どちらの? わかりました」
「ねえ、ユリ姉ちゃん、どこにいるの?」
「海斗、悪い……。今日の挨拶はなしだ」
「どうして?」
「詳しい理由はわからないが、挨拶は延期だな」
「ズルい!」
「さあ、ミズキの家へ帰ろう」
「ユリ姉ちゃん、死んじゃったんでしょ?」
「海斗……」
「あれだけ帰しちゃだめって言ったのに、定一さんも葉子さんも、信じてくれなかった!」
「きっとまた会えるさ」
「会えない! もういい!」
「そんなことないさ。ユリが高校卒業したら、ミズキの家に遊びにきてもらおうか」
「もう、いい!」
定一さんは、明らかに隠し事をしていて、慌てていた。目に、はっきりと映っていた。児相の人から聞いた、ユリ姉ちゃんの最期の姿が。自分の部屋で、自分で死んでいる光景が……。病院へ運ばれたが手遅れだった……。僕は絶望的に大きな喪失感にのしかかられて、もう誰とも話したくなかった。
定一「さあ、今日は帰ろう」
帰りの車の中で、僕は一言も口をきかなかった。定一さんの顔を一度も見なかった。ミズキの家に戻ってからすぐに樫の木に座った。そのまま夕方までボーとして過ごした。
誰かが通りかかった。
ヒロシ「この木が好きなんだね」
「……」
「樫の木だよね。花は目立たないけど、とても強い木なんだ」
「……」
「最近、甘い匂いがしてくる。ちょうどキンモクセイの花が咲いてる。オレンジ色の小さな花がいっぱいついてる。あそこに見える。あっちにもあるよ」
「……」
僕は、キンモクセイではなく、隣に座ったユリ姉ちゃんの匂いを思い出していた。
【 6 野良猫 】
身体が痛くて、僕は目が覚めた。少し寒い。ビルの脇の暗い通路のようなところだった。上体を持ち上げると、頭に何かが当たった。ゴミ箱のような容器がコトコトと音を立てて落ちてきた。下は段ボール。コンクリートの上に敷かれていた。
どれくらいの時間がたったんだろう。ここはどこなんだろう。施設の庭の樫の木に座っていたはずなのに……。運動靴がすり減っていて、右側はもうすぐ穴が空きそうになっていた。たくさん歩いたからかなぁ。
何者かが音もたてずに近づいてくる気配がした。目の前の小さな通りを、左からこっちの方へ向かって来る。目を凝らす。なーんだ、猫だ。僕の顔を少しだけ見ると、悠々と右の方向へ通り過ぎていった。
立ち上がろうとしたが、足が痺れていたせいか、うまくいかずに転がってしまった。その時、背後から男の人が話しかけてきた。
「寝れたか?」
振り返ると、さらに奥まったところに段ボールでできた小さな「家」があり、そこから髭だらけの男の人が顔を覗かせていた。怒られるのかな……。
「わしの段ボール、貸してやったぞ。お前さん、コンクリートの上に寝てたからな。それに、ここはわしの寝床じゃ。まだ子どもだからな、可哀そうで、わしの場所を貸してやった」
しゃがれた声に、恐怖は感じなかった。
「ありがとう……」
「ええって。遠慮するな」
「段ボールがおじさんの家ですか?」
「そうじゃ。ここへ住んでもう1年は経つ。段ボールを集めて、こんな立派な家になったわい。冬もな、古い毛布に潜ると温いぞ。何でも手に入る。ゴミ捨て場に行けばな。まだ使えるものがいっぱいあるんじゃ」
「ゴミ……」
「そうじゃ。何でもすぐに捨てたがる。人間も落ちぶれたものじゃ」
「これがおじさんの本当の家?」
「そうじゃ。世の中の人間はホームレスとか言うがな、わしが住んどる家じゃ」
「中は広いの?」
「一人しか入れん。それがちょうどいいんじゃ」
「おじさん、優しいね」
「ほう! そう思うか?」
「うん。だって僕を段ボールの上に寝かせてくれたし、きっと一晩中僕を見守っててくれたんでしょ?」
「見守ってなんかおらん。気になってただけじゃ。それよりお前さんは、わしのことが汚いと思わんのか?」
「うん。髪の毛や服は汚れてるけど、こころは汚いと思わない」
「そうかぁ。変わった子じゃなあ」
「なぜ?」
「みんな、わしらを汚らわしい生き物のように見る。自分の子どもに向かって、『ちゃんと勉強しないとああいう人になる!』と叱る親までおるわ。わしのように世間の片隅でひっそりと暮らす人間はたくさんおる。世間から侮辱されながらなぁ。それでも生きとる」
「おじさんたち、可哀そう」
「お前はまだ子どもじゃ。いずれは世間に戻るじゃろう」
「僕は世間が嫌いなんだよ。本音を隠して、人にいいとこ見せて、結局こころ優しい人が犠牲になる。勉強さえできればいいと思ってる」
「変わった子じゃなぁ。頼もしい。いつかお前さんの力で世間を変えてくれ」
「変えたくてもできないよ。大人は、決まりばっかり作って、それが邪魔するんだ」
「お前さんは賢い子じゃ」
「そんなことない。もう決まりとかが嫌なだけだよ」
「わしもそう思うがな」
「おじさんも辛いことあったんだね」
「まあ、それなりにな」
「騙されて、お金取られて、家族から責められて、追い出されたんだね?」
「おや! なんで知っとるんじゃ?」
「えっ……、ただそう思っただけだよ」
「不思議な子じゃ……。行く場所がなかったら、わしの家の前を使ってもいいぞ」
「ありがとう。おじさん、友達いるの?」
「友達……? ああ、いるいる。いっぱいな」
「どこにいるの?」
「さっきから、わしの家の前を歩いとる」
「野良猫だね!」
「そうじゃ。やつらも、わしらと同じじゃー。見つからないようにひっそりと、世間の陰で好きなように生きとる」
「おじさんは、猫と喋れるの?」
「ああ。何かを想いながら声を出せば、伝わるものじゃ」
「そうだよね。野良猫は友達だよね」
「そうじゃ」
「僕、ちょっと猫たちと話してくる」
そう言って、痺れが治った足で立ち上り、ゆっくりと歩き出した。ビルの反対側の低い空が白んでいた。もうすぐ夜が明けるのだろう。時間に追われず、気ままに動けるのは、野良猫と同じだった。飼い猫は飼い主の都合に合わせなくちゃいけないから、猫は猫でもまったく違う、そう思った。自由がなくなればなくなるほど、決まりが増えれば増えるほど窮屈な生き方をしなくちゃならないのだろう。それで人間は幸せになれるのだろうか。本物の野良猫になりたい……。
【 7 サバイバル 】
足を引きずるようにしながら、その「家」の前から離れた。そこは低いビルと家々がこじんまりとまとまっていた。神田の近くだろうか。しかし、少し歩くだけで建物は減り、田んぼや畑が広がっていて、雰囲気が違う。電柱に「桜町3」と書かれた案内板が括りつけてあった。左半身に夜明けの薄明りを浴びながら進むと、川があった。神田川よりはずっと大きい。通りには車やバイクが増えてきた。動物の散歩をする人、ジョギングをする人もいた。
「ちょっと、君!」
自転車ですれ違いになった男の人からふいに声をかけられた。
「こんなところで一人で何をしてる?」
「……、散歩です」
「それにしては身なりが汚れている。迷子か?」
「いいえ、大丈夫です」
「家はこの近くか?」
「はい、近くです」
その男性の目には疑念が満ち溢れていた。内面の声が聞こえてくる。
― 家出少年だろう。警察に連れていかなくちゃ —
「安全な場所に連れて行ってあげよう」
「いえ、いいです。自分で帰れます」
すると男性は自転車を降り、スタンドを立てた。逃げなくちゃ! 捕まったら、また施設に戻される。あんな「児相が、児相が」と言ってばかりで、「決まり事」の言いなりになっているようなところには戻らない。あれだけ言ったのに、ユリ姉ちゃんを助けられなかったじゃないか!
僕は咄嗟に自転車とは違う方向に走り出した。男の人は「こら、待ちなさい」と言い、自転車に戻った。そして乗って追いかけてきた。民家に隣接した畑の中に逃げ込むと、「ちぇっ!」という声が届いた。諦めたようだ。畑を通り抜け、住宅街を通り抜けると、大通りに出た。大きな建物があり、その奥を電車が走っていた。それは土浦市役所と土浦駅だった。
陽が上る前に、人が急に増えてきた。多くの人が不信の視線を投げかける。いけない……、昼間は人がいないところに隠れていないと! あのおじさんの段ボールの家へ戻らなくちゃ。来た道とは違い、迷いに迷った。家の前で掃除をしていたお婆さんが、「僕はどこのお家の子?」と訊いてきた。すべての大人が敵に見える……。方向感覚を頼りにして、何とか段ボールの家まで辿り着いた。
「おじさん?」と呼んだが返事がない。出かけているようだ。無断ではいけないとも思ったが、怖いので中へ入って隠れることにした。そして、前のめりになって両手で耳を塞いだ。大人たちに取り囲まれ罵られるイメージが、しばらくの間拭えなかった。その人たちはみんな目を吊り上げ、唇を尖らせていた。
「おい、お前さん」
眠っていたようだ。明るい外の世界から、この家のおじさんが声をかけていた。
「ごめんなさい」
「何がさ?」
「勝手に家に入っちゃって……」
「いいさ」
「でも……」
「それよりお前さん、古泉海斗って名か?」
「どうして知ってるの?」
「ほら、この新聞見てみ。行方不明で捜索願が出とる。お前さん、施設から逃げてきたんか」
「捜索願い……。警察に捕まるの?」
「見つかれば、連れ戻されるわな」
「戻りたくない」
「なんかあったんだろな。ここまで歩いてきたのか?」
「覚えてない……」
「施設からここまで、10キロくらいある。お前さんの足なら、3~4時間はかかる」
「わからないです……」
「まあ、しばらくここにいてもいいぞ」
「ありがとう、おじさん」
「お前さんの家のために、段ボール集めてきてやるさ」
この場所は、鉄筋コンクリート造りの2階建て一軒家の脇で、今は誰も住んでいないそうだ。すぐ隣の小さな古いテナントビルも空室で、人通りも少なく、比較的安全な場所らしい。
「ほら、これ食えや」
「パンだ。どうしたの?」
「コンビニで買ってきたさ」
「おじさん、お金持ってるの?」
「ないさ。なくなったら集めにいく」
「それって犯罪じゃないの?」
「どうだかなー。またお前さんに教えてやるさ」
「うん……」
「トイレは、左へ行った公園にある。水も出るからそこを使えや」
「うん……」
「家作る段ボール集めてくるで、ここ出るでないぞ」
そう言って、おじさんはどこかへ行った。そして僕はもらったパンを食べた。外見は汚れていて、心地よい敷布団はなく、何より孤独なはずなのに、幸せを感じているような人だ。自由なお金があって、綺麗な家に住み、家族がいることが、幸せのために絶対必要ではないんだな、しみじみとそう思った。
【 8 桜川 】
段ボールを隔てて、外の世界には午前中の風景が広がっている。みんな自分がしていることが普通だって思っているんだろう。でも、おじさんにとっては、明るい時間にこの狭い家に潜んでいるのが日常だ。いつの間にか大人たちは多数派が「正しい日常」を作り上げ、そこからズレるやり方に対して「逸脱」だとの烙印を押していく。そのために、押し付けやお節介、言い争いがひしめくようになった。烙印はいったん刻まれると、なかなか消えないよなぁ。
烙印……。こんな難しい言葉を小6の僕は知っていた。あの小学校の先生が言っていたように、もしかしたら知らないうちに塾とかで猛勉強していたのかもしれない。わからない。僕って何なんだ!?
アイデンティティの混乱って、専門家は言うんだろう。でも、子どもや若い人の混乱を生んでいるのは、世間の王道を進むいかにも立派な大人たちじゃないのかな。学校の先生でも、総理大臣でも、段ボールのおじさんでも、多分一生懸命に生きている人として違いはないよ。今の僕にとって一番の助けとなっているのは、段ボールのおじさんだということは、きっと誰もわかってくれないだろう。
考え出すと、まるで僕は哲学者になった気分になる。世の中の不条理に目が向き、弱い人たちの立場に立って考えられる。そして、人と会うとその人の目を通して本心がわかってしまう。どうしてこんなことが起こるのかわからないけれど、少なくともこれを使って弱い人を助けられるなら、そうなりたい。いつかそんな大人になりたい。ユリ姉ちゃんとの約束は、姉ちゃんが叶えられなかった分も、やりたい。
知らないうちに涙が溢れていた。
「悲しいことでもあったか?」
おじさんが戻ってきた。悟られないように目をこすりながら「目にゴミが入った」と取り繕った。
「これでお前さんの分の家も作れるぞ」
「ありがとう……」
「いつまでここにいるかわからんが、行くところが見つかるまでは隣同士だな」
そう言うなり、少し小さめの家をテキパキとした手つきで作り上げた。
「さぁ、入ってみな。これから寒くなるから、下は三重にしといたぞ。屋根はビニール貼るから、これで雨でもいける。毛布は、新しいのが見つかるまでわしのを使え」
小さめの段ボールの家に入ると、まんざらでもなかった。道側から中が見えないように、入り口は横を向いていた。
「おじさん、ありがと。でも、どうやってパンとか買ってるの?」
「はは、そこかぁ。今から教えてやる。着いてくるか?」
「うん」
「こっちだ」と言うと、陽が上ってきたほうへ歩き出した。
「今から回る道が、一番多いのさ。自販機がな。人通りも多い。あとは運だ」
おじさんは飲料水の自動販売機を見つける度に、その周囲や下をくまなく探した。機械の下を照らすための懐中電灯も持っていた。3番目のところで機械と地面の隙間に棒を入れ、何かを外へ出そうとした。
「とれるぞ。ほらっ、50円玉だ。これはついてる。普通は10円玉だぞ」
「これって、泥棒にならないの?」
「わからねえな。警察に届けても、面倒がられるだけだろ」
「これで僕のパンを買ってくれたの?」
「ああ、そうだ。いやか?」
「ううん。こうやって貯めてくれたお金で買ってくれたんだね」
「そうさ。でないと、生きてられねえ」
その後も何か所かの自販機を回った。いつしか、川に沿って歩いていた。明け方に僕が見た川だ。
「この川って、神田川?」
「いや、それは東京の有名な川だ。こいつは桜川だ」
「桜が咲くの?」
「この辺じゃ咲かねぇな。上のほうに桜川公園があるしらい。春は大勢の人が集まり、酒盛りするらしいぞ」
「じゃあここは、同じ桜川でも、上のほうのゴミとかも流れているんだね。その上の水はもっと綺麗だよね」
「お前さん、ほんと変わっとるな。普通の子が考えんようなこと言う。同じ桜川でも、場所によって全く違うんじゃ。人間が何でも変えてしまうさ」
「神田川」の歌と共に、川に覆いかぶさるように咲く桜のイメージが浮かんだ。神田川の近くに住んでいた時の僕は、もしかしたら幸せだったのかもしれない。定一さんがギターに合わせて歌う「神田川」をもう一度聞きたいと、ふと思った。
「今日は大収穫だったな。100玉1つ、50玉1つ、十円玉23個。合計380円だ。2人分の食べ物、コンビニで買えるぞ。ただし夕方まで待つぞ。20%割引されるからな」
当時の僕には、自販機の下に落ちた小銭を拾うことが罪になるのかどうか分からなかった。でもこれがなかったら、このおじさんは生きられなかったし、僕も困ったことは間違いない。桜川に神田川のイメージを重ねながら歩き、そして僕たちの段ボールの家に戻った。
【 9 憶測、濡れ衣 】
「おじさん、僕のことが載ってる新聞ある?」
「あるさ」
「新聞も買ったの?」
「いや、こんなものに100円も払えねえ。ゴミ箱を探せばすぐ見つかる。一番上にある新しいのを回収するさ。まだ汚れてねえからな」
「その新聞見たい」
「ああ、いいさ」
おじさんから新聞を借りると、番組欄の裏側に出ていた。
― 小学6年生男児が行方不明 昨夜からつくば市児童養護施設愛育園に入所中のつくば市立岡下小学校6年古泉海斗君(12)が見当たらないとして、捜索願がつくば中央警察署に出された。夕方、1人で園庭にいるところを最後に、見えなくなったという。佐山志津子園長(59)は、「入園して間もないが、普段から大人しい子で、1人で遠くへ出かけるような子ではない。何者かに連れ去られた可能性がある」と話し、「出入口の門は夜8時に閉めている」という。警察は事故と事件の両方の可能性があるとして捜査している。警察では緊急性が高いとして顔写真を公開し、広く情報提供を求めている。 —
園長は佐山っていうんだな。「何者かに連れ去られた」なんてよく言えたものだ。ユリ姉ちゃんの家へ行ってきたことなんかは隠してる……。
「お前さん、つくばじゃ有名人だわな。いずれ土浦も調べられる。どこを通ってきたかしらんが、施設に戻りたければ自分から交番に行ったほうがいい」
「あんなとこ、嫌いだよ」
「そうか。なら、小銭拾いはやめとけ。わしがやるからな」
「わかった……」
新聞を見てから、僕は、人が行き交う時間はなるべく段ボールの家から出ないようにした。退屈凌ぎのために、知ってる人の顔を思い描いてはこころの海に潜り、その人の考えていることを読み取る「遊び」をしていた。この髭のおじさんは……、
― 神山聡、41歳、千葉市の賃貸マンションに住んでいた。千葉県庁の職員だった。昨年春に投資詐欺に遭い借金2千万円を作らされ、自殺を図るが失敗し、家出をした。 —
まだ41歳なんだ。60歳くらいだと思っていた。この人も可哀そう。親戚には生真面目な人たちが多いみたいだ。
「ねえ、おじさん。おじさんの親戚に警察官の人、いる?」
「風の便りじゃ、長男が千葉県警にいるらしいが……。それがどうかしたか?」
「ううん。別に大したことじゃない」
「そういえば、中学生の長男だけが、わしのことを庇ってくれおった」
このおじさんも真面目な人だったんだ。詐欺に遭ってなかったら、今頃は千葉県庁で働いていたんだろうな。そして長男は、父親の詐欺被害を知って、警察官になることを決めたのかもしれないな。
翌日、おじさんがまた新聞を持ってきてくれた。
「ほれ、大変な騒ぎになっておる」
「うわー、表のページに大きく書いてあるね」
「どうやらお前さん、誘拐されたことになっとる」
「ほんとだ」
「専門家のコメントじゃ、小児同性愛者らしいわ」
「こんなのでたらめだ!」
「駅の防犯カメラには映っておらんと。だから大人が連れ去ったことになっとる。警察犬を使うらしいぞ」
「臭いでばれたらどうしよう……」
「自分から交番へ行け。そのほうがいい」
「でもおじさんは?」
「わしはもう人生終わっとる。心配せんでええ」
こんなやりとりをしていると、犬の吠える声がして、複数の人が慌ただしく走る音がした。
「ここだ!」
僕の家の奥に隠れたが、警察官に見つかってしまった。おじさんは別の警察官に捕まえられた。
警官A「古泉海斗君だね。もう安心だ」
「……」
「さあ、まず病院に行って怪我とかないか検査しよう。そしておいしいものを食べるよ」
「……」
警官B「10月28日10時04分、確保! 未成年者略取の容疑で現行犯逮捕する」
「わしは、誘拐などしとらん」
「話は署で聴く!」
僕も「このおじさんは何も関係ないよ~!」と言ったが、聞き入れてくれなかった。僕とおじさんは別々のパトカーに乗り、違う方向へ連れられて行った。
病院での検査後、病室にあったテレビがニュースを流していた。
― 緊急速報です。26日土曜日の夜から行方不明だった小学6年生の男児が、2日目の朝、無事に保護されました。つくば中央署は、少年と一緒にいた無職神山聡容疑者41歳を、未成年者略取または誘拐の容疑で逮捕しました。保護された少年は病院で検査を受け、健康状態に異常がないことがわかりました。 —
おじさん、さよなら……。短い間だったけど、本当にありがとう……。そして、ごめんなさい……。
【 10 大人の世界と子ども 】
病院で僕が入った部屋は個室だった。食事が出された。空腹のはずだったがほとんど喉を通らない。しばらくして、男と女の刑事が2人でやって来た。
男刑事「海斗くんだね。ちょっとお話を聞かせてもらうよ」
「はい」
「怖かっただろうね。よく頑張ったね」
「いいえ」
「それはすごいな。君は強い子だね。それでね、どこで連れ去られたのか、場所は覚えてる?」
「僕、自分であそこに行ったんです」
「あの男の人のことを気にしなくていい。本当のことを言っても、もう怖いことは起こらないよ」
「本当です。気がついたら、あそこにいたんです」
「そうかぁ。気を失っていて、その間に連れていかれたのかもしれないなぁ」
「どこから記憶がないの?」
「ミズキの家の前の樫の木に座っていて、その途中からです」
「その時間は、施設の門は開いているの?」
「8時までは空いてると思います」
「土浦までどうやって来たのか、まったく覚えてない?」
「はい。靴が擦り減っていて足が痛かったから、歩いて行ったんだと思います」
「海斗君、あのね。あの人のことを庇う必要はないんだよ」
「だから、僕は本当のことを言っているだけです!」
「じゃあ質問変えるね。あの場所で、何か変なことをされたりしたかな?」
「段ボールの家を作ってもらい、あとパンもくれました」
「あの場所は、あの人の持ち主じゃないんだよ。不法侵入といって、それだけでもう立派な犯罪なんだ」
「じゃあ、お金がなく、住むところもなく、働けない人は、どうやって生きていけばいいんですか!?」
「それはね、本人が今まで努力した結果じゃないかな。難しい言葉で自業自得っていうんだけどね」
「どんなに頑張ったって、不運なことが起きて、うまくいかない人もいると思います。あの男の人も、詐欺の被害者だったんです!」
「君は何か勘違いしているようだ。あんな人の言うことを信じてはいけないよ」
「そんなことない! あのおじさんは、ほんとはすごく優しい。一生懸命生きていた。そして紛れこんだ僕を助けようとしてくれた!」
「よーし、わかった。今日は疲れているし、退院してからもまた話を聞かせてもらってもいいかな?」
「嫌です」
「それは何故かな?」
「刑事さんははじめから答えを決めていて、そのことだけを訊いてくるから」
「君には、誰が本当のことを言っているのかわかるのかな?」
「はい、わかります」
「それは面白い。じゃあ、この私が今考えていることがわかるかな?」
「じゃあ、僕の目を見てください」
「これでいいかい?」
「はい……。えーーと、刑事さんは、好きな女の人のことを考えてる。結婚したいと思っている。そして、身分と給料が上がることを考えている。もうすぐ上がるんだね」
「そ、そんなことは……。困るなあ。君のことを一番に考えているよ」
「違うよ。早く終わらせたいと思ってる」
隣で聞いていた女性刑事も驚いて、ひどく動揺している様子だった。
「そして今、2人とも混乱している。僕が言ったことが当たっているから。なぜなら、刑事さんの結婚したい人は、隣にいる女の刑事さんだから。名前は……、あ…や……。あやさんだ!」
2人は病室の隅へ行くと、ひそひそ話を始めた。男の刑事が「そういう話をしていないか」と女性刑事に執拗に確認していた。「よし、これで終わりにしよう」と言い、病室を後にした。
翌日、施設の人たちが車で迎えにきた。佐山園長と葉子さんだった。車の中で、「すごく心配していたのよ」「でも、元気でよかった」と言っていた。「近所の人たちも心配しててね。犯人が捕まってこれでやっと安心できるって言ってたわ」「まさか園の中にまで入ってくるとは、何か対策をとらないといけないわ」「テレビでもこの事件のこと、たくさん取り上げられていたのよ」と……。
問題が起きた時は、誰かを悪者にして擦り付ければ解決するんだな。そんな大人ばかりなら、僕は大人になりたくない。そう考えながら終始黙っていた。元はと言えば、僕があれだけダメだと言ったのに、ユリ姉ちゃんを家に帰してしまったこと、そしてすぐに命を落としてしまったことなのに。そこは隠す。「児相が、児相が」と気を遣ってばかりいるくせに……。多分、僕以外の子どもはみんな、大人の言うことがいつも正しいものだと信じ、従ったり反抗したりしているんだろう。
いつの間にか車は施設の中に入っていた。僕はまっすぐに誰もいない自分の部屋に入り、壁にもたれて座った。
子どもは大人の世界に住む奴隷じゃない。
< 第十四話 完 >
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