diver 第一部 第一話
【 1 いつもの幻影 】
奥へ、奥へ。
深く、深く、もっと深く。そして中核へ。
あの先だな。知っているよ。蒼に包まれたこの世界で、あの先に見えるはずのもの。破られることのない静寂で、ずっと待っていてくれる「それ」を。
ぼーっと狐色に光っている。あれだ! あそこまで行かなくちゃ! 早くいかなくちゃ! なぜって、行けばなんとかなる。行けばきっとわかる。だからどうしても行かなくちゃならないんだ。
この僕の手で解決させるために。
僕の足はまるでイルカのフィンのように、しなやかに、強く、蒼い世界を蹴る。気持ちよく踊るように降りていけるのさ。あの狐色の宝物を目指しているのだからね。
それにしても、どれくらい深い世界まで潜ったんだろう。もう何十分も踊り続けているはずだ。不思議だが、僕の息がとても長いことを知っている。なにせ、前々々世はきっとイルカだった。
さあ、潜るよ。もっと沈むよ。
今日は、こんなに奥まで来たのに。あの狐色までは、まだ遠いのかな。う~ん、遠いな……。遠いのか? どっちだろう。どちらだろうと構わない。こうして近づこうとしていることが大切なんだ。貫こう。僕が存在する証なんだから。
それにしても、いったい誰のため? 何のため?
どうしてもわからないことは、不問に伏すのさ。拭えなくとも。運命に従って突き進むことを、諦めらるわけにはいかないんだ。諦めたらそこで終わり。自分でそう決めたのだから。決まっているのだから。他にどう説明すればいい?
おやおや、この益々深い蒼は、まるで深海だ。水圧なんか感じるはずがないのに、今に限ってこの痛み。心臓にチクチクと刺さる。唇が渇き皮がむける。肩が腫れて破裂しそう。眼も思うように開かない。水に溺れるって、こんな感じなのかな。いったいどうなっているんだい? こんなことになるなんて。意識をしっかり保たなくちゃ。そして、そしてもっと核心へ。「それ」が待っているんだもの。それに触れられさえすれば、僕の永遠の旅もゴールを迎えられるかもしれない。
冷静に。沈着に。そう、僕はどんなに不意を突かれても、パニックに陥らない自信があるんだった。
これだ! 見つけたよ。優しく、しっかりと掴みたい。腕をいっぱいに伸ばして。
いや、まだ少し足りないみたいだ。そしてやはり息が変だ。おかしいよ、あの僕がこれくらいでつまずくなんて。これが人間の苦しみというものなの? いや、僕には、苦しいなんて思う資格は与えられていない。
葛藤……。背反する思考。
朦朧……。この邪魔者と闘わなくては。
混濁……。意識の放棄なのか。
いやだよ、もう少しのはず。なのに、僕は死んでしまうのか……。死ぬのは構わない。せめて掴みたかった。触りたかった。答えを知りたかった。そして、教えたかった。僕はこんなに執念深く、往生際が悪いんだな。
イルカの息がこれで限界だなんて、予想が外れたよ。元の大気へ戻って息をするには、深い場所まで来すぎてしまった。もう間に合わない。先に進むという賭けに出るしかない。命が尽きる瞬間がすぐそこに来ている。自分で選んだ結果なのだから、悔いてはならない。だから……、だから、もういいんだ。いよいよ、自分という存在が薄れて、かき消される瞬間がきた……。
あれ? まだここにある、僕という人間の意識。
どれくらい時間が経ったのだろう。時間の感覚がかなり狂っているな。世界のすべてが、スローモーションのように、ゆっくりと移っていく。
左手首のダイバーズ・ウォッチが指し示すのは、何年も前の午前零時過ぎだね。僕はまだ消える途中だったんだね。誰かが言ってた「いまわのきわ」が、きっとこれなんだ。もう考えることをやめよう。ただただ、綺麗だ。痛みも、もうない。この瞬間にあっても、きっと諦めなかった。「それ」に向かっていたよね……。
ごくろうさま、僕。さようなら、僕。
…………
今、触れた? 一瞬、右手のひらから電撃のようなのが走った? そしてこの感覚は……。なに? 意識があるよ。まだこの世界を認識できるよ。
ああっ、今わかったことがある。この蒼い水と僕の濁った涙は、まったく別物で、混じり合おうとはしないことを。
見える。僕が僕を俯瞰している不思議。僕はそのまま蒼の割れ目に身を任せるようにして、どこかへ消えて行った。蒼の世界の最深部、その竜宮に少しでも歓迎される、そんな結末を迎えるのだったら、嬉しい。
ありがとう、今までの僕。
…………
しばらくして我に返り、さっきの「いつもの」時間を幻想と現実の狭間に漂わせながら、「またか」と吐き捨てるようにため息をつくのだった。これが僕の日常だということを、ここに初めて告白することにしよう。そしてこの葛藤も、朦朧も、混濁も、これからもずっと続くんだろう。止められない内的体験には、きっと大切な意味がある。そう信じていく。
僕は、変わり者の心理士だ。年齢は33歳。世間への迎合を嫌い、自分の信念に従い、選択し、行動することを何よりも尊いと信じている。当然ながら組織に群れることはしない。そんな孤立の人間がいてもいいと思う。世間から疎まれてもね。
こんな僕は、日本の首都のど真ん中に生息している。家族のこと? 覚えていない。
【 2 落ちる看板 】
この日の幻影から帰還すると、すでに外は白んでいた。7月の上旬は夜明けが早い。
さっきの感覚がまだ鮮明なうちに辿り直しをしよう。いつもやっているダイビングなのだが、毎回少しずつ違う。新しい気づきもある。これらの体験が、のちに重要な意味を指し示す布置として仕組まれていることを、けっして予想しているわけではない。
さっきまでのダイビングで、気にかかったのは時刻。ダイバーズ・ウォッチは、いつを指していた? 何年も前のことだとわかったのは、なぜだろう。
目を瞑り、ダイバーズ・ウォッチを見た時点に意識を向けてみる。ほどなくその感覚が蘇る。長針と短針は鮮明に見えた。夜中の零時7分だ。年号は…、これだな! 文字盤の12時付近に、弱い青色発光ダイオードが放つような光が浮かび上がっている。1、9……、9、8……。1998年といえば、今は2019年だから、21年前のこと? その頃は何をしていたっけ……。
その当時に意識をフォーカスしようとすると、急に胸騒ぎがして、息苦しくなる。これは何かの警告なんだろうか。「近づくな」と。無理はしない。リラクゼーションのため、気休めに自律訓練法の第一公式「両腕が軽い」を唱え続けた。ほどなく眠りに落ちた。
………
「泉さーん」
「い ず み さーーーーーん!」
僕を呼ぶ声は、大家のマリさんだった。山下マリさん、28歳。彼女は2階に住んでいる。僕は1階の2LDKを間借りしていた。「事故物件」ということで、神田駅まで徒歩10分弱の好立地の割には破格の賃料だったので、ここに決めたのだった。マリさんは、事故のあとに二世帯住宅用にリフォームされたこの一軒家を買い取り、新しいオーナーとなったらしい。彼女が一人で住むにはこの家は確かに大きすぎた。千代田区神田紺屋町、商業ビルが立ち並ぶ一角に、申し訳なさそうに建っている古い鉄骨住宅。
僕のリビングのドアをノックする音が、奥の寝室にまで響き渡っていた。
「い ず み さーーーーーん!」
慌ててジャージに着替えながら、返事をした。
「はーい。朝早くからどうしたんですか?」
「朝早くじゃないわよ。もうお昼よ」
そうか、あれから6時間も眠っていたのか。今日は日曜日だからと、気を抜いてしまっていたんだな。リビングに取り付けたドアのロックを外すと、マリさんが慌てて入ってきた。
「大変だよ、泉さん。看板が落ちてるの。それでね、歩道をふさいじゃってるのよ」
「そうですか。すみません。これから直します」
「私も手伝うわ」
「は、はい。ありがとうございます」
手作りの看板は、薄いベニヤ板に防水の紙を貼った簡単なもの。マリさんに頼みこんで、2階のベランダの格子に針金で止めさせてもらっていたのだが、針金が劣化して切れてしまったのだろう。
「針金がないから、後で買ってきます」
「そうなのね。通行の邪魔になるから、中に入れましょ」
2人で持ち上げ、1階の僕のリビングに運び入れた。
「ありがとうございます」
「気にしなくていいわ。私、あなたのこと応援しているから」
「えっ……」
「泉さん、どこか違うのよね」
「違うって?」
「そこらへんにいる男の人じゃないっていうか……、うーん。そう、不思議な目をしているわ」
「あっ、はい、ありがとうございます」って言うべきなのかな。不思議な目、か……。昔からそう言われていたような気がする。
「とにかく、頑張ってみてね。困ったことがあったら何でも言ってちょうだい」
「はい、ありがとうございます」
「それにしても、すごい看板ね」
そう言ってマリさんはニコッとほほ笑んだ。マリさんは僕の秘密を知っているのだろうか。いや、知るはずがない。
看板に目をやると、3年前に書いた文字が際立っていた。
—— 泉心理相談所 難しいカウンセリングだけ引き受けます 料金は高いほうです 泉海(いずみ かい) ——
「そういうところ、私嫌いじゃないわよ」
マリさんは看板についてそう言い残すと、くるりと身をひるがえし、セミロングの黒髪をなびかせて出て行った。いつになく機嫌が良さそうだった。「不思議な目」か……。そうだな。自分でもわかっている。僕が普通じゃないってことぐらい。
【 3 日曜午後の電話 】
僕の相談所は、過去に相談に来た人に勧められて来る人が多い。いわゆる口コミで繁盛している。看板に「難しいカウンセリングだけ」と書いているだけあって、相当にこじれてしまっているケースがほとんどだ。精神科クリニックや心理カウンセラーをいくつも転々として辿り着く人がふつうだ。僕のところに来たからといって、すべての問題が解決するわけでもないが、命がけでやっているのは間違いない。そう、僕は入り込むとどこまでもエネルギーを注ぎ込む。良い癖でもあり、悪い癖でもある。
クライエントの内的世界に入り込み、そこに漂い、しこりの核心部分に触れる、いわば同一化することによって、深層に隠れた秘密を見つけるのだ。いつからこうやるようになったのかは、覚えていない。
だからカウンセラーというより、心の蒼い世界に潜るダイバーだと自認している。この主観的体験を科学的に説明すると、どんな説が飛び出すことだろう。
マリさんが2階へ戻ったあと、僕はホームセンターへ針金を買いに出かけることにした。まてよ、このあたりにホームセンターはあったかな。都心は便利でもあるし不便でもある。そうだ、日曜日だし、ホコ天をやっている秋葉原にでも散歩ついでに行ってみよう。古い電機部品店に置いてあるかもしれない。
外は陽が射し、少し蒸し暑かった。ジャージからTシャツにひざ丈の短パンへと着替え、リビングに鍵を締め、玄関をまたいだ。ちょうどこのタイミングで、相談受付用の電話が鳴った。
「トゥルルルルルー トゥルルルルルー」
しまった! 留守電にしておくのを忘れた。もしかしたら、危機状態にあって助けを求めている人かもしれない。休みの日にかかってくるくらいだから。いや、「タイミング」には、実は重要な意味を孕んでいるものなのだ。
助けを求められると断れないんだよな。買い物に行くためには電話に出ないほうがいい。すぐに切れてくれればこの葛藤はすぐに解消する。しかし……。
「トゥルルルルルー トゥルルルルルー トゥルルルルルー トゥルルルルルー……」
鳴り止む気配はない。僕はとっさに「戻らねば」閃くと、急いで鍵を開けて戻り、受話器を取った。
「はい!」
「あっ、泉先生」
「はい、どなたですか?」
「ユリです」
「ユリさん?」
「はい、ユリです」
「ユリさん……。苗字は教えてもらえますか?」
「それはだめよ」
「はじめての方ですか?」
「どうでしょうねぇ」
「もしこれまでにお会いしていたら、すみません」
「いえ、わからなくていいんです」
「はぁ」
「今わたし、どこにいると思います?」
「えっ?」
僕は直感で悟った。この会話を過去にも経験したことがある。脳内がクラクラと回転し始めた。この人は自殺しようとして、僕を試している! 受話器越しに、乾いた車の排気音が聞こえた。
「ユリさん! どのビルの屋上にいるの?」
「さすがね。ビルの屋上っだってわかるのね」
「教えてくれないかな?」
「いやよ。警察に知らせたら、私このまま落ちるからね」
「どうしたいの?」
「泉先生に助けに来てもらうの」
「近くなの?」
「ここから先生の相談所が見えるわよ」
「そうか、近いんだね。この表示番号に僕のスマホから非通知でかけなおすから、出てね。だからいったん切るよ」
固定電話の着信履歴の番号をスマホに登録し、家、いや相談所を飛び出した。ここから見えるビル……。あたりを見上げるが、わからない。10階建てくらいのビルが数えきれないほどある。
スマホから、登録した番号の頭に184をつけて、コールバックした。
「はーい、泉先生」
「やあ、出てくれたね」
「こっちよ。先生の見てる方の右側だよ」
「右側だね」
「足をぶらぶらしてるから、見つけてよ」
「見つけるから、落ちないようにしていて!」
「はーーーい」
必死になって探すが、人影が見えない。右側、つまり東方向だな。小走りに移動する。
「まだ僕のこと見えているかな?」
「はい、見えていますよ」
「このまま進めばいい?」
「先生、もう時間切れだよ。心配してくれてありがと」
「だめだ! 待って!」
「来てくれてありがと」
「どこにいるんだい?」
「ユリはね、こんなに心配してくれてうれしいの」
「待って!」
「さようなら、先生。ありがとうねー」
「君はいったい……」
ツー ツー ツー ツー……。
「ありがとうねー」を最後に、電話は切れてしまった。強烈な無力感が押し寄せてきた。もはや針金を買いに秋葉原へ行っている状況ではない。僕は110番通報して、今起きたことを伝えた。警察官から同じ番号に電話をかけてもらったが、通じなかった。しかも……
「ただいまこの番号は使われておりません」
流される自動応答のメッセージに愕然とした。さっきのは何だったのか。ユリって、誰? 僕のスマホに履歴は残っている。それともこれらのすべてが幻影なのか。
【 4 5年前の事件 】
僕が28歳のとき、そう、ちょうど関東心理大学大学院博士後期課程を満期退学して数か月後、本格的にカウンセリングの仕事を始めたあとのことだった。大学院の後輩で博士前期課程2年に在籍していたミクから、深夜に電話がかかってきたことがある。今日のユリの電話は、まさしく5年前の出来事の一部再現だった。
(5年前)
「泉先輩、私どこにいるかわかる?」
「いや、わからない。M2のミクさんだね」
「とっても眺めがいいよ」
「高いところにいるから?」
「うん、風が吹いてる」
「こんな時間にどうしたの?」
「ほら、足ブラブラさせているよ」
「まさか、ビルの屋上?」
「うん、大学院の2号館だよ。7階の屋上」
「危ないから降りてきなよ」
「それなら、先輩迎えに来てよ。パトカーとか救急車きたらすぐに飛び降りるからね!」
「すぐに行くから、必ず待ってて」
「はーい、絶対に先輩が来てくださいね」
「他の人と一緒じゃいけないかな?」
「だめよ」
「どうして?」
「先輩だけだもの。私の心を見透かす不思議な目をもっているのは」
自転車をこぎ、大学院棟を目指す。近づくと確かに7号館の屋上に人影が見える! 脳裏に、人形が落ちていくような光景がリピート再生される。高まる心臓の鼓動。よし、もう一度電話だ。
「もしもーし!」
「はーい、先輩」
「どこから上ったの?」
「非常階段。右側にありまーす」
「そこに行くから、必ず待っていてね」
「わかんない」
非常階段を一気に屋上まで登りきると、フェンスの向こう側にミクは座っていた。息を切らして足早に近づくと、ミクはおもむろに立ち上がり、コンクリートの縁を歩きだした。危ない! 足を滑らしたら落ちる!
「動かないで待っていて!」
「いやよ」
僕は1メートルはあるフェンスを乗り越え、ミクに近づこうとした。ミクはわざと縁を歩いて遠ざかろうとする。明らかに僕を誘導している。ミクが立ち止まり、遠くの夜景に少し視線を向けた瞬間、僕はすぐさま飛び掛かり、右手でフェンスを握り、左手でミクの上着をつかむと、フェンスのほうへ引っ張った。「離して!」と叫びフェンスから離れようとするのを、無理やり持ち上げ、力任せに内側へと投げ入れた。
「痛いーーー!」
「ごめん。さあ、下に降りよう」
「いや」
動かないミクと向かい合って座り、僕は彼女の目をじっと見た。本心は何だろう……。死にたいわけじゃないだろう。
ここで突然、周囲に蒼の世界が広がった。僕はその中に飛び込み、イルカになって泳ぎ始めた。蒼の世界とは、目の前にいるその人の内面のことである。その奥底に、ミクの狐色に輝く魂を発見した。そして伸ばした右手のひらで、そっと掴んでみた。「それ」は確かにこう言った。
「私を嫌わないで」
「私を見捨てないで」
「私を救い出して」
ミクの本音は、行動とは真逆だった。それを悟った瞬間、僕は充実に似た感覚を抱いてしまったかもしれない。それが僕の弱点だと、今はわかっている。
助けてと願っているからこそ屋上にいては危ない。なぜなら、敢えて嫌われるような行為に出て、もっと試そうとするエスカレーションのリスクを孕むのだ。
彼女の来ていたトレーナーを掴むと、転げるように非常階段を下りた。ミクは何度も「怖い」「下は嫌だ」と言ったが、その声はどこか嬉しそうな空気も醸し出していた。下まで降りてステップに座ると、二人の手足のあちこちに擦過傷があり、血が滲んでいた。ノルアドレナリンが大量に放出されている時には、本当に痛みは感じないものだ。
以前に聞いていたので、ミクが幼い頃から親の虐待を受けて育ったことを知っていた。それでも優等生として学校生活を過ごしてきていた。いったん優等生のラベルを貼られると、そのペルソナで演じ続けることのほうがストレスが小さくなる。なぜなら、他人はそのように人を理解しているのだから。違っていれば説明を求められる空気を背負い続け、息苦しい。こうして、弱音を吐いたり、助けを求めたりができなくなってしまう。
屋上での出来事が引き金となって、その後の僕のスタイルのひな型が完成したのかもしれない。人の心の深淵に潜り込むダイバーとなり、核心と直接コンタクトを図るのだ。ダイバーは、内面に広がる蒼の世界を泳ぎ、深く潜り、狐色に光る「秘密」を探し出し、共に振動する。ちまたでいう「共感」を格段にバージョンアップしたものかもしれない。僕の心がそれを望んだからであって、これは決して運命などではない。
言葉や行為はいくらでも嘘をつける。どれだけ偽装されても、ダイバーとなって「それ」に触れられれば、その人の心の真理を知ることができる。
【 5 本当の悪夢と 】
ミクとの本当の闘いは、実は、これからだった。
僕は自転車をひきながら、ミクと並んで歩いた。物騒な世の中だ。深夜2時過ぎに女性が一人でアパートに歩いて帰るには危険すぎる。無事に着くまで付き添うことにした。
「ふらふらするよ~」
「あれだけ激しい解離を起こしたあとだからなあ。精神的疲労は大きいと思うよ」
「お薬のんだ」
「えっ、何を飲んだの?」
「病院でもらったやつだよ」
「ベゲタミンも?」(のちにベゲタミンは強い作用ゆえに処方禁止となる)
「うん。あれもね、だんだん効かなくなってきちゃったけど」
「興奮が強すぎると効きにくいんだ。その代わり興奮が収まると急に効き出すものだよ」
「ふ~ん。今はなんだか眠い」
「病院ではドクターと話をしている?」
「うん」
「どんな話?」
「最近調子はどうですか、とか、眠れますか、とか訊かれて。ふつうですって、適当に答えてる」
「話す時間はどれくらい?」
「5分くらい」
「……。病院ではカウンセリングはやってないの?」
「何もいわれないから、わかんない」(ミクはあくびをする)
「今夜のこと、次に行ったときにドクターに話すんだよ」
「はーい」
15分程ゆっくり歩くと、ミクのアパートに着いた。ミクはドアの鍵を開けっぱなしで出てきていた。玄関を開けると、僕のほうを振り返り、しゃがみこんだ。
「ねえ~~~」
「さあ、休むんだよ」
「あのねぇ~、ミクちゃんね、ミルク飲むの~」
「さあ、寝る時間だ」
「ミクちゃん、嫌だぁ! え~ん、え~ん……」
退行が始まった。何とか引き戻さなければ。
「君は、24歳の大学院生だ」
「わかんなーい。ミクちゃん、赤ちゃん」
「申し訳ないけど、今日はこれでおしまいにするよ。帰るからドアに鍵をかけて」
「やだ~」
「じぉあ、おやすみ」
僕が背を向け歩き出すと、いったんドアが閉まり、ドタバタと走る音が聞こえた。そして再び玄関が開いた。僕は振り返ってしまった。ミクは手に包丁を持ち、刃先を自分のお腹に向けていた。
「卑怯者! 帰っちゃうなら、これで刺すから! 死ぬから!」
このままでは衝動的にやりかねない。刃物を預かっておこう。僕は冷静になってゆっくり近づくと、ミクの瞳に向けて優しく微笑みながら言った。
「君はいけない子じゃないんだよ」
そしてミクの元へゆっくりと近づいた。
「ちょっと近寄らせてもらうね」
そう言って立ちすくむミクの腕を両手で包み、包丁を受け取った。ミクは、予想に反したのか、僕の振る舞いに唖然としているかのようだった。叱られると思ったのか。叱らないでと願ったのか。少なくとも僕が慌てるとは思っていただろう。
「これは、今夜は預かっておく。次の大学院のケース会議の前に返すことにする。ミクは自分を大事にすることを、ゼロから覚えられるといい。おやすみ」
そう伝えるとすぐに僕はミクに背を向け、歩き始めた。
「行かないでーーー! お願ーい!」
「…………」
「わーーーん、わーーーん」
子どものように大泣きする声に後ろ髪を引かれたが、強い葛藤を微塵も見せないようにし、まっすぐに帰った。「振り返ったら終わりだ」と言い聞かせながら。ミクの声が届かなくなる距離まで、ずっと子どもの鳴き声は続いていた。
僕は下宿に戻ってから気づいた。両手を前に包丁を持っていたことに。途中で誰かに見られていたら、きっと警察に通報されていた。そんなことも想像できないほど、表面的な落ち着きとは程遠く、精一杯だったのかもしれない。
【 6 居場所を求めて 】
翌週のケース会議に、ミクは何事もなかったかのようにやってきた。
「やあ、調子はどうかな?」
「だいぶよくなったよ、先輩」
「そう、よく踏ん張ったね」
「先輩、ありがとうございます」
「うん。ほら、これを返そう」
「あっ、あれですね。これからは正しく使います」
「うん。互いに精進していこうよ」
「はい! 泉先輩!」
このとき、ふと思い出した。僕の自転車はいったいどこにいってしまったのだろう。大学院棟7号館の周辺には見当たらなかった。そもそも、僕は自転車をもっていない。昨夜の自転車……。
関東心理大学大学院後期課程を満期退学後、僕は助手のポストについていた。国立大学の教官数は決められていて、空席ができるとそこに人を充てなくちゃいけないらしい。僕が大学院を終えるタイミングで、それまで助手だった先輩が他の大学の准教授として転出することが決まり、指導教官の教授の勧めで後任に決まったのだった。
この大学院の臨床心理系の助手の仕事のほとんどが、修士課程の院生に対するスーパービジョンだった。院生が担当しているカウンセリングの報告書を読んで、見立てや処遇方針を検討し、それに即して適切な心理面接ができているかどうかを細かく指導するのである。
僕には不向きだ。心に深い秘密を持つ人の「それ」とコンタクトし、共に響き合い、過去のしこりに縛られない新しい生き方へと変化を促す、そんな臨床実践のまさしく現場に生きることを願っていたのだから。学生に対してそうした治療的ともいえる働きかけをすることは禁忌だ。あくまで「教育」の範疇に留まらなくてはならない。
僕はゴールデンウィーク明けには、助手の仕事を辞めようと決めた。なんだか俗にいう五月病みたいなタイミングだが、新しい職探しなのだ。僕の心は、人の内面に潜り込むことでしか満ちないことがわかってきた。それを心置きなくやれるとすれば、個人で心理相談所を開業するしかない。というわけで、その拠点を決めるために、休日は足繁く不動産屋に通うようにした。
僕にとっての地元は、ここつくば市になる。家族のことを覚えていないのだから、僕自身の子ども時代の記憶にも、もちろんアクセスできない。自分史が始まるのは、筑波舞台(ぶだい)高校に入って以降だ。高校の寮で生活していた。暗記中心の勉強は嫌いだったが、なぜかテストの点数だけはとれていた。それだけの理由で、教師たちから「大目」に見られていた。部活にも興味が持てず、一人で昆虫や植物のことを調べたり、飼育したりしていた。こうしてごく当たり前のように、地元の国立大学に進んだのだった。
7月に入り、ようやくいい物件が見つかった。「いい」っていうのは、第一に家賃が安いということ。次に、カウンセリングができる部屋が玄関側にあり、その奥に寝食可能な部屋があるということ。僕は月4万5千円で部屋の契約をした。敷金礼金はなし。
7月末で退職した。もちろん、指導教官だった教授からは「お前の考えていることはわからん!」って、怒られたけどね。
さあて、いよいよ相談所を開業だ。と、意気揚々としていたのも秋口まで。相談に来るクライエントが、少ない……。ほとんどいない……。相談料がそれほど高い訳じゃなかったが、多くのケースが近くにある僕の母校の相談室に流れていった。大学院修士課程の院生がカウンセリングを担当することを知ってか知らずか、大学のネームバリューと、1回2000円という低額の相談料金が魅力的だったのだろう。僕のところを訪れていたのは、週に数人くらいだった。
こんな田舎でやるのが間違いなんだ。僕の結論はその一点に収斂した。東京でやろう!
こんな経緯で、今の神田紺屋町の一等地に新しい相談所を移転させたのだった。「どうやって事故物件を見つけたんだ?」って? それには少し説明が必要だ。
東京でやろうと思い立ってから、実はすぐに「神田」が候補に挙がっていた。特に深い意味があるわけではない。表面的にはね。深層では? さて、どうだろう……。
【 7 偶然の神田で 】
僕が生まれる前、南こうせつとかぐや姫というフォーク・ソング・グループが歌う「神田川」が流行っていたそうだ。僕は時々そのメロディーを口ずさんでいた。どうしてこの歌を知ったのかわからないが、「神田川」という語の響きに懐かしい憧れを抱いていたように思う。
東京なら、神田だ!
その年の10月頃から、暇を見つけては、いや正直に言えば暇な日が多かったのだが、神田に通い、物色を始めた。東西に流れる神田川を北限として、北西をお茶の水、南西を神田橋、東を浅草橋とするトライアングル内をくまなく歩いた。できればJR神田駅から徒歩圏内がいい。あちこちの不動産屋を眺めたりもしたが、冬には散歩が目当ての一つになり、人気のない通りに棲みつく猫たちとも話をするようになった。
「にゃお~」と裏声で挨拶をする。いわゆる猫なで声というものに近いだろう。するとけっこうな数の猫たちが、語尾を上げて「にゃお~ん」と返事をしてくれるようになっていった。語尾で、猫の気持ちが随分とわかるものだ。その会話場面を誰かに見られたら、さすがの僕でもちょっと恥ずかしかった。
立春を過ぎてしばらくした頃、猫と話しているところを、あの女性に見られてしまうことになる。
「猫ちゃんが好きなんですか? よく話していますよね」
「えっ、ええ。前にも見られていたっていうことですか?」
「はい。何度か」
「それは恥ずかしいですね……」
「そんなことないですよ。微笑ましいなと思いながら、声をかけずにいたんです」
「そうなんですかぁ」
「近くにお住まいですか?」
「いいえ、他県です」
「どうしてまた、この辺りによくいらっしゃるのでしょう?」
「いやぁ、引っ越しを考えていましてね。神田に。それで物件を探しているのです」
「あら! なんと奇遇な。私、つい最近この近くにちょっとした家を買いましてね。2階建ての一戸建てです。広すぎるので、ワンフロア―を賃貸に出そうと考えていたんですよ」
「いやー、私には無理です。とにかく安くなくちゃいけないんです。それに、リビングから入って、その奥に寝室やダイニングといった生活空間がなければいけないんです。リビングで、対人サービスの仕事をしたくて。そんな都合のいいところ、なかなか見つからなくて」
「ちなみに、賃料はどれくらいを考えられているの? もしよろしければ教えてくださる?」
「恥ずかしいなあ。神田では明らかに非常識な額ですよ。できれば4万円くらい、ですからね」
「あら、私のところでよければ、よろしいですよ。リフォームしたばかりだし、ちょうどいいタイミングですわ」
「うーーーん……。どうしてそんなにお安くできるの? 逆に懐疑的になってしまい、申し訳ないです」
「実は、訳あり物件を買ったんです。とっても安く」
「あぁ、そういうことですか。訳あり、ですね。一度、見せていただいてもいいですか?」
「もちろんです。今日はこれからお時間ありますか?」
「はい」
そこから5分程歩くと、ビルの間に縮こまるように立っている一軒家に辿り着いた。玄関を上がると、右側に2階へ上る階段があり、正面にはリビングに入るドアがあった。リビングの中から、ダイニングキッチンや寝室、浴室へと繋がっていた。僕が描いていた相談所のイメージにかなり近かった。
「このリビングのドアにカギをつけることは可能ですか?」
「もちろんです」
「これは素晴らしい。前向きに検討をお願いできますか?」
「はい! 私、山下マリといいます。フリーのライターをしています」
「僕は、いずみかいと言います。泉に海と書いて、いずみかいです。カウンセラーの仕事をしています」
「あら、カウンセラーさん? 頼もしいです。お一人で使われるの?」
「はい、一人です」
こうして2014年4月、ここに移転したのだった。大学院の5年間を終えて丸1年が経っていた。ここから5年後が、この物語がスタートする「今」だ。
神田では、「泉心理相談所」のホームページを作り、ネットで情報発信をし、ブログを書くなどの工夫をした。宣伝が功を奏したのか、立地の良さのためか、相談者が続々と集まった。首都は他の地域とは別格だ。あっという間に、新規のケースを受け付けられないまでになり、多くの人の「歴史」を抱えることとなった。そして3年目から相談料も大幅に値上げし、例の看板を設置することになったのだ。
さて、2階のベランダから落ちてしまった看板であるが、そろそろ格子に固定するための針金を手に入れなくてはならない。劣化してしまった古い針金を確認すると、それはまだ綺麗な銀色を放っていた。何重にも巻かれた6か所の針金、そのすべてに、ニッパーらしき鋭利な工具で切断された形跡が明らかだった。これは落ちたのではなく、落とされたということ? いったい何が起きたというのか。
夕方、玄関でマリさんの帰りを待った。
「やあ、マリさん」
「あら、私を待ってもらえるなんて、光栄よ」
「実は、看板のことなんだけど、針金を誰かが切断したようなんです」
「えっ、そうなの? 見せてもらえるかしら」
「はい、こちらへどうぞ」
奥の部屋からリビングに運び出しておいた看板、そこに着いた針金を確認してもらった。
「泉さん! これって事件です!」
「マリさんの2階は、何か異変はありませんでしたか?」
「今のところ何もないわ。泉さんのお仕事関係かしら」
「下から梯子をかけて届くものでしょうかね。特に看板の上の部分」
「ということは、誰かが2階のベランダからやった可能性があるわけね」
「そうなんです。だからマリさんに迷惑がかかってはいけないな、と思って。鍵が開いていたこととかありませんか?」
「いいえ、ないと思います。私のことより、泉さんのことが心配だわ。警察に相談してみては?」
「いや、もっと深い事情が隠されているように思います。電話のことも含め。僕なりに対処してみます」
「そうね。私いつも応援しているから、何でも言ってくださいね」
翌日、「切断できない針金」という商品を秋葉原で見つけ、再び看板を取り付けた。
この世界には、合理的な説明のつかない事象が溢れているものだ。といっても、今の知識では説明がつかないのであって、必ずからくりが隠されているはずだが。
< 第一話 完 >
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