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diver 第一部 第六話

【 1 事務員 】

 マリさんから、泉心理相談所の「事務員にしてほしい」との申し出があった。これは驚きだった。連日、中学校へ出向いていたりして疲労がたまった僕は、「後日聞きます」と答え、そのまま数日間ペンディングにしていたのだった。

 確かにこれまでは、事務的な仕事もカウンセリングもすべて一人でやろうとしてきた。そこには根本的な欠陥も孕んでおり、クライエントの人たちに多大な迷惑をかけてきたのは事実だ。

 事務的な仕事とは、問い合わせや予約への対応、カルテなど個人情報の管理、検査用紙や消耗品などの管理、レジや経理、そしてなにより片付けや空調、部屋の掃除といった雑用も多い。カウンセラーである僕が事務員も兼ねるのだから、カウンセリングをしている最中に事務的な仕事ができない。たとえば、カウンセリング中に予約の電話が入っても、出ることができない。逆に、電話での問い合わせへの対応が長引き、カウンセリングに訪れたクライエントを部屋に招くことができないこともある。僕のように現場に出かけていくタイプのカウンセラーは、出先で不慮の事態に遭遇した際に、相談所ですべきことが何もできなくなることだってある。先日も本郷の中学校から本富士警察署へ連れていかれた際に、マリさんに電話で頼まなければならないことが起きた。

 先に書いた根本的な欠陥というのは、事務員の役割とカウンセラーの役割が混合してしまうことを指す。予約の電話を受け付けている際に、事務的な対応に徹することはなかなか困難なのだ。というのも、相手の悩みや課題、現在の取り組み状況がわかっているので、それらに配慮した言動が混じり込んでしまい、つまりカウンセラー的な受け答えにもなってしまう。逆にクライエントにしてみても、あの温かい理解の眼差しに溢れるカウンセラーから事務的な接し方をされたら、つらいものがあるかもしれない。事務とカウンセリングは、質的に異なる両輪ということだ。

 今日、日曜日に、「事務員」についてマリさんと話し合うことにした。2階へ上がり、ノックをしてみた。

 「マリさん。お話いいですか?」

 「はいー! どうぞ」

 テーブルの椅子に案内されると、今日は手作りのデザートとコーヒーを出してくれた。

 「ロールケーキよ。生地も焼いたの」

 「ケーキ作り、どこで覚えたんですか?」

 「趣味で、本を見ながらね」

 「ところで、この間の事務員の件なんだけど」

 「待っていたわ、その話。私やりたいの」

 「どうしてやりたいの?」

 「泉くん見てたら、社会的にもとっても意味のある仕事じゃないかって思ってね。一人だと不都合がありそうで、私がお手伝いできると、もっと捗るんじゃないかしらって、俄然やる気が出てきたの」

 「マリさんの本業、ライターは?」

 「空き時間をみながら続けるつもりよ」

 「とても助かるんですけど。クライエントさんにとってもいいと思うんだけど……。僕はあちこちの現場に行って余計なことまでしてしまうでしょ。たくさんのクライエントを抱えることができなくて、収入が多くないんです。今、自分の生活が精一杯で、雇えないんですよ」

 「それなら心配いらないわ。私のお給料は、なしがいいの」

 「それはいけないよ。責任のある仕事だし、労働基準法にも抵触するし」

 「泉くん」

 「はい」

 「共同運営って、どうかしら?」

 「共同?」

 「そう。2人で泉心理相談室を営んでいくの。だから、家賃も頂かない」

 「そんな、これ以上甘えられないですよ」

 「違うの。私がしたいのよ。それに泉くんも、苦しんでいる人のこころを救いたいでしょ? 私のやりたいことと泉くんのやりたいことが、もっとできるんじゃないかしら」

 「マリさん。その考えに本当に迷いはないの?」

 「はい!」

 こうして、マリさんは正式に泉心理相談所のスタッフになることが決まった。あとは、様々な新しい決めごと。事務室は、2階のマリさんのリビングに移動することにした。1階で僕がカウンセリングをしている最中にも、2階で電話を受けたり、音を立てるのを気にせず仕事をすることができて魅力的だ。1階も2階も、リビングは共用の仕事場とし、その奥の部屋から先をプライベートなエリアにした。給料はなし。2人の共同経営なのだ。

 さっそく事務用の家具や機器を2階に移動し、あっという間にスタンバイできた。もう落ちなくなった看板は、マリさんが書き直してくれた。同じ文面だが、丸みを帯びて可愛らしい雰囲気になった。そこに電話番号とメールアドレスが付け加わった。

 その夜、2階の事務室で、シャンパンを開けて乾杯した。

 僕「新しい門出となりますよーに!」

 マリ「泉くんが無事でいますよーに!」 

 普段まったくお酒を飲まない僕は、一杯だけで酔ってしまったようだ。「よろしくね」と言ってお互いに握手をすると、目が霞んで手の位置がズレてしまったのか、僕の右手はマリさんの右手を素通りしてしまった。バランスを崩し、姿勢を立て直して振り返ると、ちょうどレースのカーテンの隙間に映ったマリさんが見えた。マリさんが二人に見えた。

 そしてそのまま朝まで、そこで眠ってしまったようだ。


【 2 お祝いの後 】

 早朝、目が覚めると、僕は2階の事務室にいた。絨毯の上に横になり、枕代わりにクッション、身体の上にはタオルケットがかかっていた。少し離れたところにマリさんも横になっていて、まだ眠っているようだった。シャンパンの瓶がカラになっていたので、マリさんはかなり酔ったのではないかと思う。

 マリさんはどんな夢を見ているのだろうか。こころに潜入してみたいと思った。いやそれは控えよう、との躊躇が邪魔した。マリさんの寝顔を見ていると、いつしか異空間に吸い込まれていた。そこはいつもの蒼い水の世界ではなく、空のようでもあり、つまり空間、「無」だった。そこで泳ぐことも、何かを探すこともできなかった。不思議な場所だった。

 マリさんは寝返りを打ちたいのか、少し上体を揺らした。そこで僕は我に返った。マリさんは続いて息をフーっと吐いた。奥の部屋から、ユニットバスの戸を開けるような乾いた音がした。おかしいな、誰もいないはずなのに……。そら耳だろうと結論づけたのだが、ふとあることが思い出された。マリさんと初めて会ったときに、ここを「事故物件」と話していたことだ。まさか……。僕は幽霊とかオカルト的なことを信じていない。けれど、さっきのは……。こんなことを問答していると、マリさんが急に目を大きく開き、そして僕のほうを見た。こっちのほうにひどく驚いた。

 「あら~、おはよう。泉くん」

 「おはようございます」

 「飲み過ぎて、そのまま眠ってしまったみたい」

 「僕もそうです。すみません、クッションとかタオルケット、ありがとうございます」

 「なんのこと?」

 「これ、マリさんがかけてくれたんですよね?」

 「私は知らないわ」

 「そうなんですか。じゃあ、もしかすると僕がまた夢中遊行を起こして、マリさんの奥の部屋から持ってきてしまったのかな」

 「奥の部屋? 私の部屋のこと? それ、私のものじゃないわよ」

 「それはおかしいな。下の僕の部屋にもないものですから」

 「ここって、時々便利なことが起きるから!」

 そう言ってマリさんは茶目っ気たっぷりに笑った。僕は愛想笑いを返すしかなかった。

 「ねえ、泉くん。お盆は、休みをとるの?」

 「誰からも予約が入らなければ、休みにしようと思います」

 「ねえ、休みにしたら、ドライブに行きません?」

 「いいですね」

 「一緒に行きたいところがあるのよ」

 「そこ、きっと僕にとってもいいところのような気がします」

 「そうよ。三保と京丹後なの。行きましょ!」

 「やっぱりそうきましたか」

 「ええ」

 「車で行きますか?」

 「そのほうがよくない? フットワーク軽くなるんじゃないかしら」

 「そうですね」

 「運転、泉くんお願いできる?」

 「はい、もちろん」

 「じゃあ私、プランを立てておくわ」

 「マリさんにとって、そこへ行く目的は、取材絡み?」

 「そうともいえるわね。それは泉くんにも同じなのよ」

 「なるほど。三差路で止まっている僕のこころのルーツ。それを探すヒントになるっていうこと?」

 「関係しているわ」

 「三保の羽衣伝説は昇天型。京丹後の羽衣伝説は非昇天型」

 「あら、泉くんも調べているのね」

 「とっても意味のある旅になりそうですね」

 「そうね」

 「あのぅーー。唐突だけど、この家を事故物件って言っていましたよね?」

 「ええ」

 「事情を知っていたら、教えてもらえませんか?」

 「知っているわ。でも、そのうちにわかるわよ。焦らないで」

 「はぁ……」


【 3 不可解なこと 】

 窓の外から、ミンミンゼミの鳴き声が聞こえてきた。マリさんは思い立ったかのように「外は暑くなりそうね」と言い、「シャワー浴びなきゃ。泉くん、またね」と、奥の部屋へ入っていった。昨夜、乾杯をしてから、2人ともそのまま眠ってしまっていたな。僕も1階へ下り、シャワーを浴びることにした。

 9時を過ぎた。食パンとインスタントコーヒー、ヨーグルトで朝食を済ませ、2階の事務室に上がった。今日は月曜日だ。相談所の電話が鳴った。マリさんはまだ奥の部屋にいるようだ。

 「はい、泉心理相談所です」

 「看板を見て電話しました」

 聞いたことのある声だった。はて、誰だろう……。

 「初めて電話されますか?」

 「いいえ、前にもかけたことがあるわ」

 「では、相談所のクライエントさん?」

 「いいえ、まだよ」

 「まだお会いしてないんですね?」

 「いいえ、会ってるわ」

 「そうですか……。それは失礼。お名前、教えていただけますか?」

 「はい。ユリです」

 「えっ、電話で話した、あのユリさん? ビルの上からの……」

 「はい。そうよ」

 「あーー、よかった。無事だったんですね。とても心配していたんです」

 「ありがとう。泉先生が私の命を守ろうとするのを知っているわ。それがとても嬉しかったの。私の親よりも、先生のほうがずっと心配してくれたの」

 「いや、当然ですよ。あのとき、なんとしてもあなたの命を守らなきゃって、もう必死でした。今日は電話をかけてきてくれてありがとう」

 「看板が変わって、番号が書いてあったから、かけやすかったわ」

 「はい、昨日少し変えたんです」

 「あれは、マリの字かしら?」

 「……。マリさんとお知り合いなんですか?」

 「ええ」

 「失礼でなければ、どんなお知り合いか……」

 「とっても親しいわ」

 「だから看板のことも聞いたのかな?」

 「いいえ、聞いてはいないの。看板を見てわかったの」

 「そうなんですね。以前に僕と会ったことがある、と……」

 「はい」

 「すみません。思い出せなくて。いつ頃お会いしました?」

 「8年前よ」

 「そんなに前なんですね」

 「最初は、ミズキの家で会ったの」

 「ミズキ! つくば市の施設。そうだったんだね」

 「もう今日は時間よ」

 「あっ、ちょっと待って!」

 「またね」

 前回と同様、一方的に切れてしまった。8年前、僕は大学院の後期課程に進み、修士の院生を引率して児童養護施設に実習に出かけていた時だ。僕の担当は2人の院生で、ミズキの家だった。タクトと会ったのもここだ。今月のはじめにバスジャック事件を起こして、再開した子だった。ユリもそこにいて僕に会ったという。だが、思い出せない……。

 今日は午後3時まで時間がある。ミズキの家へ行って確認したい。ユリという人を。ディスプレイに記された着信履歴をスマホに再登録して、出かけることにした。

 「マリさーーん」と、部屋のドアを叩いた。だが返事がない。おかしいな、こんなに長くシャワーに入っているのか、疲れて眠ってしまったのか、それとも急に外出したのか。僕はメモを残して、急いでつくばへ向かった。

 昼前には施設に着いた。案の定、門に入るなり多くの子どもたちが寄ってきた。ミズキの家へ向かい、そして玄関で職員を呼んだ。

 「あら、珍しい。泉先生じゃない。今日はどうされたの?」

 「お久しぶりです。確認したいことがあって」

 「どうぞ、暑いので中でどうぞ」

 職員室へ案内された。

 「もうすぐ昼食の用意なの。でも10分くらいなら大丈夫ですよ」

 「ありがとうございます。8年前、僕が引率で来ていた頃、こちらの家にユリっていう女性はいましたか?」

 「ああ、いたわよ」

 「どんな子ですか?」

 「確かあの時は17歳、高校2年生で、次の年に出ていった子ね。児童相談所で保護されてきていた子です。1年生のときだったかしら」

 「虐待ですか?」

 「ええ、父親からの性虐待よ。そうそう、とっても素直ないい子だったけど、みんなとは遊ばないで、いつもあの樫の木の太い根っこに座って、景色を眺めていたわね」

 「彼女は、僕とは話しましたか?」

 「ええ、根っこの横に座って、何か話していたのを見たわよ。他の人が一緒に座るのを嫌がっていたから、珍しいって思ったのを覚えているわ」

 「ユリさんの苗字がわからないんです」

 「えーーと、山下じゃなかったかしら」

 それを聞いて、僕はその偶然にひどく驚いた。マリさんも山下だから……。年齢は、8年前のマリさんは二十歳だから、それより2、3歳下ということになる。

 「そろそろ昼食の配膳の時間なの」

 「はい。助かりました! あっ、あと一つだけお願いします」

 「ええ」

 「タクトくんのその後のことは、何か聞いていますか?」

 「タクトくん? 私ずっとここにいますが、そのような名前の子はミズキにいたことはないわね。知らないわ」

 僕が知らないユリという子とここで会っていて、僕が知っているタクトはここにいなかった……。いったいどうなっているんだ。混乱したまま、神田への岐路についた。


【 4 マリとユリ 】

 あまりのんびりしていられない。3時から新規カウンセリングの予約が入っている。つくば駅12時41分発のつくばエクスプレスに乗りたい。スマホのアプリでタクシーを呼ぶと、幸いにも5分くらいで迎えがきた。

 タクシーの中で、登録しておいたユリの番号にかけてみた。080で始まるので、携帯だということはわかる。ビルの上からかけてきたときは、使われていない番号になっていたが……。

 トゥルルルルルルー トゥルルルルルー 

 「はい! もしもしー」

 出た。女性の声だ。

 「あのー、ユリさんの携帯ですか?」

 「いいえ」

 「山下ユリさんではないですか?」

 「いいえ、ちがいますよ」

 「すみません。泉心理相談室といいますが、こちらへ電話をされたことはありますか?」

 「泉くん、何を言ってるのよ」

 「えっ、その声は、マリさん?」

 「そうよ。泉くんどこにいるの? 3時から新しいクライエントさんよ」

 「ええ、知っています。もうすぐつくば駅から乗って、13時40分には神田駅に着きます」

 「それならよかった。心配したわ」

 「出かけるときにマリさん見当たらなくて、メモを残したんですけど」

 「見たわ。急につくばへ行くって書いてあったから、驚いたわ」

 「ユリさんからまた電話がかかってきて、前に僕に会ったことがあるって言われて。つくばの施設のミズキの家で会ったって。それでミズキの家へ来ていたんです」

 「それでわかったのね? 山下ユリって、名字が」

 「はい、そうです」

 「でもどうして私の携帯にかけたの?」

 「そのときに受信した番号を、このスマホに登録しておいたんです。かけたら、マリさんにつながって……」

 「私の携帯なら、登録してあるはずだから、私の名前が出るはずよね。もしかして、最初に184をつけて登録しなかった?」

 「ああ、しました」

 「だから私の携帯の番号だとわからなかったのね。この電話、非通知でかかってきているのよ」

 「そういうことなんですね。でも、さっき2階の事務室の固定電話にかかってきた番号が、これだったんです。ユリさんから」

 「泉くん、番号を写し間違えたんじゃない?」

 「そんなはずないんですけど……、不思議です。あ、つくば駅についたので、電話切りますね」

 「はーい、気をつけてー。待ってるわ」

 予定の快速に乗り、僕はここにきて釈然としない出来事の嵐に見舞われ、途方に暮れていた。マリさんとユリさん……。2人とも名字は山下。年の差は2つか3っつ。マリさんはユリさんのことを知っているようだった。ユリさんも僕のことを知っていると言うが、僕だけがユリさんのことを知らない……。

 マリさんとユリさんの関係は、僕にとって未知の、何かとても重要な真実を指し示しているような気がする。それが何なのかはわからない。それに、あれだけ鮮明に覚えているタクトが、実は存在していないかもしれないなんて……。僕の中で歴史はどうなってしまったのだろう。


【 5 新しい相談 】

 2時前には相談所に戻った。マリさんが2階の事務室から下りてきた。

 「おかえりなさい」

 「心配かけました~」

 「お疲れさま。お昼は済ませた?」

 「いや、まだですけど」

 「お米を炊いたの。たくさん余っているから、チャーハンでも作ろうか? 次のお仕事の前に少し食べたほうがいいわ」

 「はい。ありがたいです」

 2階の事務室に上がり、次の新規クライエントの電話申し込み時の情報に目を通した。相談内容は「小3の息子の問題について」だった。奥の部屋から中華鍋の中でジュ―という音が聞こえ、「できましたよー」というマリさんの声がした。そして、純白の八角皿に丸く固められたチャーハンと中華スープを持って事務室に入って来た。マリさんは、何をやっても手早いな。

 「さあ、どうぞ」

 「いただきます!」

 食べながら、すぐにでも訊いてみたいことがあったが、いつものように「そのうちにわかるわよ」と言われることがわかっていた。マリさんとユリさんの関係……。もう少しで食べ終わるというときに、玄関のチャイムが鳴った。

 「私、対応するね。初仕事だわー」と言い、下りて行った。申込用紙とボールペン、領収書、それに「カウンセリングを始めるに当たっての確認事項」という用紙を手にして。

 10分も経たないうちに2階に戻ってきて、新しいクライエントが記入した申込書を渡してくれた。クライエントは専業主婦である母親。品川区の地方公務員の夫と小3の息子との3人家族だ。困っていることとして「息子が宿題をやらない」と書かれていた。

 3時まであと8分。僕は目を閉じて、今日起きた不思議なことから「今」へとこころの向かう先を修正した。

 そして午後3時になり、新しい出会いに向かった。

 「今日は暑い中、わざわざお越しくださり、ありがとうございます。泉心理相談所の泉です」

 「は、はい。どうぞよろしくお願いします」

 「息子さんが宿題をやらないことで困っているのですね」

 「はい」

 「えーと、息子さんの名前は、、、(申込書を見ながら)タツヤくん」

 「はい」

 母親の名はシノブ。僕は彼女の内面世界に潜入した。葦のような草が覆い茂り、身動きがとれず、息苦しい。葦の一本一本を辿っていくと、シノブの母親が握っているのだった。

 「お母さん、タツヤくんが自分で自分のペースで宿題をやれるように、一緒に取り組みませんか?」

 「はい、それが理想です」

 「では、タツヤくんが自分でやる宿題の量とか速さには、何も期待しないでくださいね」

 「はい」

 「仮に、やれる宿題の量が0になったとしても、ですよ?」

 「えっ、それはタツヤにとっていいことなのですか?」

 「はい、もちろんです。タツヤくんが自分の力で、自分のペースで。この目標を覚えておきましょう」

 「は、はい」

 「では、今日はタツヤくんのことを考えるのは止めにします」

 「どうしてですか?」

 「目標に近づくだめですよ」

 「本当ですか? 信じていいんですか?」

 「信じるかどうか、それは今日のカウンセリングを終えてから、ご自身で決めていただければいいですよ」

 「では今日は、何をするのですか?」

 「お母さんをがんじがらめにしている葦の森から、抜け出しましょうよ」

 「葦の森?」

 「はい。お母さんの手足に絡みついているものですよ」

 「先生、なんだか涙が込み上げてきそうです……」

 「うん、いいですね」


【 6 葦の源 】

 「お母さんの手足に絡みついてるもの」の言葉に、シノブのこころは大きく震え、一気に涙腺を緩めた。このキーワードが、無意識水準でシノブが抱える苦悩を端的に表すものだったからだろう。心理カウンセラーは、いかに正確に、そして迅速に、クライエントのこころが求める救いの核心に気づき、緩やかに刺激することで、自己変革へと誘う。そこに専門職としての意義がある、僕はそう考えている。しばしば、核心には本人さえ気づいていない。僕は潜入、つまり目の前にいるその人のこころへのダイブという方法で、それを目指す。

 シノブの手足にまとわりつく葦によって、彼女は自由に身動きがとれない。ずっと昔からできなかったし、今も抜け出せないでいる。それどころか、自分も葦を伸ばし、その触手を子どもに向けていた。抜け出せない、そんな自分でも存在していいとの赦しを得るために、自分の子どもを同じようなやり方で操るというあまのじゃくで、親子はしばしば結ばれる。本当は解放されたい、だができない。ふがいない自分を認めるために縛る親と同一化するという連鎖の罠は、あちこちに待ち受ける。彼女の救いは、葦から自由になること。そのために、葦を操るものの正体に気づき、自分の力でそれを振り払うことが必要だった。

 「なぜ涙が出ちゃうんだろ……」とシノブは言った。

 「その涙は、嫌ですか?」

 「いいえ。とても不思議な感じがします」

 「不思議とは?」

 「ずっと出したくて出せなかったような……、懐かしいというか……」

 「そうなんですね」

 「はい……」

 「そうなんですね」の相槌は、クライエントの内的世界への理解が一段と深まったときに使うべきものだ。分かってもらえている、伝わっているとの感覚は、クライエント自らさらなる深い自己探求へと降りる勇気を注ぐ。軽々しい相槌では、すぐに見破られ、カウンセラーとクライエントが共に降りていくという共同作業を阻害する。

 シノブは、涙を「懐かしい」と感じ、そう伝えた。子ども時代から「出したくて出せなかった」ものであるということを。

 「がんじがらめにしている葦と聞いて、何を思いますか?」

 「がんじがらめにしている葦……」

 「はい」

 「葦……」

 「はい、誰をがんじがらめにしているのですか?」

 「私……」

 「そう」

 「その葦の源は、何なのでしょうね」

 「葦の源?」

 「はい」

 「葦の源……」

 「そう、何か感じますか? 何か見えますか?」

 「葦の源……」

 シノブは途中から目を閉じ、イメージの旅をしているようだった。

 「感じたもの、見えたもの、何でも教えてくれますか?」

 「葦の源……。はっ! はあぁぁぁぁーーーー!」

 何かに辿り着いたのか、シノブは声をあげて泣き始めた。僕はしばらくの間、待った。すると、

 「……。源は、お母さん……」

 「はい」

 「目を吊り上げた、怒ったお母さん」

 「そうなんですね」

 「怒ったお母さんの前に私がいる……。まだ幼い私……」

 「はい」

 「怖い。怖い。怖い……」

 「それは可哀そうな……。怖くてどうしているの?」

 「お母さんの言うとおりにしてる……」

 「そして?」

 「でもお母さんの言うとおりにできないから、困って……る」

 「できないと、お母さんどうなる?」

 「もっと怖くなる」

 「もっと怖くなると、その子はどうするの?」

 「もっと頑張るの……。でも、できない」

 「できない、って言わないの?」

 「言えない」

 「嫌だ、怒らないでって、言わないの?」

 「言えない」

 「本当は言いたいの?」

 「うん……。でも、言うと、もっと嫌われちゃう」

 「誰から?」

 「お母さんから」

 「嫌われたくないんだね?」

 「うん」

 「泣きたい?」

 「うん……。でも泣かない」

 「なぜ?」

 「泣くとお母さんを困らせるから」

 「そうなんだね。その子は、お母さんにこれ以上嫌われたくなくて、全部我慢していたんだね」

 「はあぁぁぁぁぁーーー!」(号泣)

 

【 7 連鎖を断つ 】

 ひとしきり泣いたあと。シノブは言った。

 「私が、息子を追い詰めていたんですね……」

 「いや、お母さん。今日はタツヤくんのことを考えるのはなし、でしたよ」

 「は、はい」

 「今、ここにあなたのお母さんはいません。今だったら、我慢をやめて、思うことを言葉にしてもいいんです」

 「お母さんに嫌われたくなかったーー!」

 「嫌われていたの?」

 「はい」

 「どうしてわかるの?」

 「お母さんの言うとおりにできなかったから」

 「言うとおりにできるのかなあ……」

 「できない」

 「どうして?」

 「難しいし、たくさんだったから」

 「そうなんだね」

 「うん……」

 「あなたが悪かったの?」

 「ううん、違う」

 「あなたがいけなかったの?」

 「違う!」

 「そう思うよ。どんな子だって、お母さんの言う通りにはできなかったと思うなぁ」

 「うん、できない」

 「今なら、言えるようだね」

 「お母さん、酷いよ~。そんなにたくさん、やれって。間違えるなって。休むなって……」

 「そうだよね」

 「どんなに頑張ったって、無理だよ!」

 「うん、そうだね」

 「私がこんなに必死にやってるのに、気づいてくれなくて!」

 「そうね、ごめんね」

 「謝って済むと思わないで!」

 「そうね、もう取り返しがつかないものね」

 「そうよ! 私の人生を返してよ!」

 「本当にごめんね。シノブちゃん」

 「うわーーーーん!」

 「泣きたかったの?」

 「うん、わーーーーん!」

 「そんなに辛かったのね」

 「うん。悲しかったよーー」

 「あなたのこと、気づかなくてごめんなさい」

 「お母さーーん!」

 「もう泣いていいのよ。そんなに頑張らなくていいのよ」

 「お母さーーん!」

 「お母さんは、あなたができなくても、嫌いにならないわ」

 「えーーーん!」

 いつしかシノブの母になっていた僕は、口調を元に戻して、そっと言った。

 「シノブさんは、ずっと小さい頃の願望に縛られていたんですね。母親に嫌われないように頑張りたい、という」

 「……はい。思い出しました……」

 「嫌われないように、怒ったり泣いたりしなかった」

 「はい、その通りだと思います」

 「今日は、そんなご自身が長年封じ込めてきた思いに接し、大切にする、そんな日にしてください」

 「はい……。でも、そんな私の母も、子どもの頃、同じようにつらい時間を過ごしたんじゃないかって……」

 「それは考えない。子どもは親のことを心配しないのがいいんです。それは、シノブさんのお母さんが自分自身で取り組むべき課題だったんです」

 「それでいいんですか?」

 「シノブさん、また自分を責める癖が出てしまいますよ」

 「は、はい。そうですね」

 「今、どんな気持ちですか?」

 「わけがわからない感じです」

 「はい、それで結構です。俗に言う『はじめてのおつかい体験』です。今日はこれで終わりにしましょう。よくご自身のことに取り組まれました。次回、どうされますか?」

 「来週、もう一度お願いしてもいいですか?」

 「はい、わかりました」

 予約を済ますと、シノブは静かに帰っていった。クライエントが過去の旅をしているとき、カウンセラーは親の代理役になることがある。それで絡みつく葦をほどくことになるのなら、喜んでこころの親代わりになろう。


【 8 もう一つの連鎖 】

 実は僕は、シノブの手足に絡むもう一つの葦が存在することに気づいていた。しかしそれを扱うのは、より原初のものから解放されてからにしよう、そう考えて一切扱わずにいた。

 翌週、シノブは予約した通りにやってきた。

 「いかがですか? 今日はタツヤくんのことについて話してもいいですよ」

 「はい。先週ここでお話してから、私がタツヤを縛ろうとしていたことに気づいて、もうそんなことはしたくなくなったんです。180℃変わっちゃって、勉強してもしなくても本人に任せたいっていう気持ちになったんです」

 「ええ。それでお母さんはラクになりましたか?」

 「はい、全然気にならないので」

 「それで、タツヤくんは宿題とかやっていますか?」

 「わかりません」

 「それならオッケーです」

 「知っていたら、タツヤくんの勉強のことを気にしていることになりますからね」

 「あっ、そうですね」

 「この一週間で、学校の先生から何か連絡が入りましたか?」

 「いいえ、ないです」

 「そうなんですね。不思議ですね」

 「そういえば、そうです! 以前は、ちょくちょく宿題がやれていない、っていう連絡があったのに」

 「それはさておき、次の課題に移りたいと思います」

 「次の課題?」

 「はい。お母さん、もしかしてもう一つ別の葦に絡まれてはいませんか?」

 「別の葦……? ちょっとわかりません」

 「そうですか……」

 「何か思い浮かびませんか?」

 「特には……」

 「ではお尋ねします。ご主人には、お母さんが勉強を見なくなったことを伝えましたか?」

 「いいえ」

 「それはなぜですか?」

 「なぜ……。なぜ言ってないのかしら……。あっ!」

 「どうされました?」

 「怖いからです。知られると……」

 「そうなんですね。知られるとどうなりますか?」

 「絶対に許してくれません」

 「誰を? 何を?」

 「私とタツヤを。勉強させないこと、勉強しないこと」

 「そうでしたか……」

 「これが、もう一つの葦だったのかもしれません。もしかしてお母さんは、常にご主人の機嫌を損ねないように気を遣ってきたのでは?」

 「はい。とてもしっかりした人ですが、頑固で、言い出したことは絶対に曲げないんです」

 「勉強については?」

 「タツヤが人一倍努力して勉強するよう、私に常に見ているよう言われてきました」

 「だから言えなかったんですね」

 「はい、言ったらすごく叱られます。怖いですし、私、見捨てられてしまいます」

 「その思い、幼い頃の母親に抱いていたものと似ていますか?」

 「どうでしょう。怒らせないようにしていたことは似ていると思います」

 「人は、子どもの頃に親との間で形成した関係性を、そのまま引きずって、夫婦間で再現してしまうこともあるのです」

 「そうなんですか」

 「はい。だからお母さんの手足、それに口まで絡めているもう一つの葦は、ご主人の存在だという可能性が高まってきたようです」


【 9 油断 】

 「どうしたらいいでしょう」

 「ご主人に、カウンセリングに通っていることは伝えましたか?」

 「はい。タツヤの勉強のことを相談してくる、と言ってあります」

 「そのあと、お母さんがタツヤくんの勉強を見なくなったことはどうですか?」

 「言えてないです」

 「今夜、言ってみましょうか」

 「それはちょっと……」

 「いずれは知られます。カウンセラーのアドバイスだ、って言ってもらって構いません。するとご主人はここに確認しに来るかもしれない。そうなったらチャンスです」

 「メモに書いて渡すのでもいいですか?」

 「うーーん。いいですよ。それだけ怖いんですね」

 「はい、すみません……」

 「いえいえ、お母さんが謝ることではないです」

 「はい……」

 「それまで、お父さん、お母さん、タツヤくん、この3人で安定していた人間関係がありました。タツヤくんに勉強をさせるという点で、ご夫婦の関係は良好でした。良好を+(プラス)と呼びましょう。タツヤくんは、言わないと勉強をなかなかしない、だからご両親はそれに不満で、何度も注意して勉強をさせようと思ってきた。だからご両親はどちらもタツヤくんとの関係は不良でした。不良を-(マイナス)と呼びましょう」

 「はい……」

 「3人を三角形の角にします。タツヤくんは頂点。そして、それぞれを線でつないで、線の横に関係性を+か-の印で表してみてください」

 「こうですか?」

 「そうですね。見ると、上の頂点から左下のお父さんとつなぐ線は-ですね。同様に、右下のお母さんとつなぐ線も-ですね。下の両親をつなぐ線は+ですね」

 「はい」

 「3つの+か-を掛け算すると、結果はどちらになりますか?」

 「-かける-かける+、なので、+です」

 「はい、その通り」

 「3人の関係性が安定しているときは、掛け算をすると+になる。安定というのは、変化しようとしない、誰も変わろうとしないという意味です。もしどこがの符号がが変わると、たとえばお母さんとタツヤくんの関係が良好になると、ここが+になる。カウンセリングに来られてから、今はそうですよね」

 「はい」

 「では、その状態で3つの符号を掛け算してみてください」

 「-になります」

 「はい。-のときは3人の関係が不安定なので、どこかの符号が変わろうと自然に誰かが動き出すんです。もしかすると、タツヤくんとお父さんの関係が+になるかもしれないし、お父さんとお母さんの関係が-になるかもしれない。この考え方は、バランス理論って呼ばれているものです」

 「難しそうですけど、わかりました」

 「お母さんは、夫婦の関係が-になることを恐れていますね」

 「はい、その通りです。だから言いませんでした」

 「もしご主人が-の態度で出てきたとして、お母さんはそれを無理に+に戻そうとしないでください」

 「どうしてですか?」

 「それは、お母さんとタツヤくんの関係を-に戻すことでないと実現しない、つまり以前のお母さんに戻ってしまうことを意味します」

 「なるほど」

 「最終的に、お父さんとタツヤくんの関係が+になることを目指します。お父さんも、勉強をタツヤくんに任せられるようになるということです」

 「そんなこと起こるのかしら」

 「地道な長い作業になるかもしれませんが、お母さんに取り組もうとする意欲があれば、応援します」

 「やってみます。私たち夫婦は、仲が悪くなってもいいんですね」

 「はい、一時的に意見が合わない状態になります。お父さんに押し切られないでください」

 「はい、頑張ってみます」

 こうして、タツヤの父親に変化を促す計画をスタートしたのだった。シノブのこころに恐怖がはっきり見えたので、僕は最後にどうしても一言を付け加えたくなった。

 「もし計画遂行中に限界だと感じる時がきたら、ここに電話をください。危機介入をするかもしれませんので」

 「はい。ありがとうございます」

 次週の予約をして、シノブは家へ帰っていった。

 その日の夜、8時半頃。相談所の電話が鳴った。ディスプレイはシノブの携帯を示していた。急いでマリさんに頼んで出てもらった。

 「泉くーん。今日カウンセリングをしたシノブさんが、緊急なので先生に、って」

 「はい、代わります」

 シノブ「先生! 助けてください! 夫が包丁を……。キャッ!」

 「すぐ、行きます!」と言って、電話を切った。


【 10 逆境こそのチャンス 】

 マリさんにタクシー呼んでもらい、一緒に品川へ行ってもらうことにした。急いで駆け付け、一戸建ての玄関ドアのインターフォンを鳴らした。出ない。ドアノブを回すと、鍵が開いていた。少し開けて、声を張り「泉でーす! 入りますよー」と言い、2人で中に入った。

 廊下を通り、階段を上がった。開け放たれた子ども部屋のドア越しに、3人の姿があった。父親は少し落ち着きを取り戻しているようで、2人を諭しているようだった。子ども部屋の奥で抱き合い怯えて座り込むシノブとタツヤ。ぶら下がった左手に包丁を持ちながら、威勢のいい父親の声。僕は父親のこころの浅い層に潜入した。

― お前らは、変なカウンセラーに洗脳されたんだ。カウンセラーを信じるな。俺が正しい。カウンセラーなんて邪魔だ —

 なるほど、シノブは助言を参考にして、タツヤを縛らなくなった理由を「カウンセラーのアドバイス」と伝えたんだな。よく言えた。それで自分の考えよりカウンセラーのほうを優先した妻を許せなくなって、激高した。俗に言うキレた、パニックに陥った状態で、衝動的に台所の包丁を持ち出し、シノブに元に戻るよう迫った。脅しながら説教するうちに、少しずつ我を取り戻し、妻をそうさせたカウンセラーに対する敵意へと変わっていたのだった。僕たちの気配を察した父親と、目が合った。

 以前、本郷の中学校のとき、校長判断の入校禁止を聞きながらそれに逆らって入ったため、不法侵入の疑いで警察に連行された。しかし今回はシノブからの介入要請があり、人命の保護目的が優先されるはずだ。声をかけながら中に入った。

 「泉心理相談所の泉です。突然にお邪魔してすみません」

 父親は僕を見るなり、「お前かー!」と叫んだ。しまった、再び沸騰させてしまった……。

 父親は左手の包丁を突き出して、僕のほうへ飛んできた。僕は身を翻したが、包丁の刃が軽く右上腕部を擦った。父親は勢い余って僕の後ろで転び、廊下の壁にぶつかり、痛そうにうずくまった。僕の右腕から血がしたたり落ちた。

 マリ「救急車呼びますね」

 「いや、呼ばないで! お母さん、タオルを数枚お願いします」

 シノブ「は、はい! どうしましょ! すぐ持ってきます」

 マリ「すぐに病院行かないと」

 「行きますよ。まず止血してからね。救急車を呼ぶと、事件性が明らかだから警察が呼ばれます。そしてお父さんが逮捕されます。それを防ぎたい」

 マリ「でも、これ傷害事件ですよ!」

 「これがチャンスなんです。お父さんと僕のこころが触れ合うかもしれない。お父さんも、人を刺したくて刺したんじゃない。自分の信念への強い拘りを自覚し、苛まれてきていたんです」

 マリ「そうなの?」

 「はい。それにお父さんが育った家庭で、父親が刃物を持ち出すところを何度も見てきている。そのトラウマも抱えているんです。しつけも厳しく、本来の左利きを右利きに矯正された」

 マリ「そういう話は確かなの? 聞いたの?」

 「いいえ、お父さんの悲しい瞳を見れば一目瞭然ですよ」

 このやりとりを聴いていた父親は、涙を流しながら起き上がり、「本当に申し訳ない」と言い、シノブが持ってきたタオルを受け取ると、僕の右腕の止血を手伝ってくれた。

 父親「申し訳ない、申し訳ない……」

 「お父さん、僕はお父さんを責めていませんよ。ずっと昔から、子どもの頃から、本当にご苦労様でした」

 父親「せんせ~ぇ! こんな私でも変われますかぁ~?」

 泣き崩れ、懇願するような父親の元に、シノブとタツヤが寄ってきて、しがみついた。

 父親「みんな、ごめんな。お父さんも自分を変えたい。カウンセリングに通うよ」

 「やあ、タツヤくん。お父さん不器用かもしれないけれど、失敗だらけかもしれないけれど、長い目で見て待ってあげてくれるかい?」 

 タツヤ「うん。お父さんのこと、待つ!」

 シノブ「あなたーー!」 

 3人が初めて+で結ばれた。3つの+を掛け合わせると、もちろん+になる。止血が終わったところで、僕の携帯をマリさんに渡し、山岡さんの携帯に電話をかけてくれるように頼んだ。

 山岡「泉先生!」

 「ちょっと助けが必要なんです」

 「遠慮なく言ってください」

 「山岡さんの信頼できる、救急外科を今すぐ紹介してください。僕の腕が刃物で切れてしまったんです」

 「事情は察しました。GPSが示すとろこに、所轄から車を迎えに行かせます」

 「助かります」

 「泉先生、相変わらずですね」

 「はい。すべての人が救われなくてはならないと思っています」

 「ご自愛を」

 すぐに黒塗りの車が到着し、霞が関近くにある知らない病院に連れていかれた。全治2週間の軽傷だった。だが、最初の1週間は右腕を使えない、とのことだった。あ、そうそう。車に乗り込むところを週刊誌の記者らしき人物が写真に収めていたのを、僕は見た。

 マリさんが言った。

 「もう。それが泉くんのやり方だから、言ってもきかないわよね」 

 「はい、すみません」

 「そんなところ、嫌いじゃないわよ。でも、お盆のドライブ、私が運転しなくちゃいけないかもね」

 「あっ、そのこと忘れてました」

 「そのときに考えましょ」

 マリさんは、決して僕のことを責めない。寄り添うようにアシストしてくれる。本当に不思議な人だ。

 翌日、シノブから電話があった。

 「昨夜は本当に申し訳ありません。お怪我は?」

 「軽傷でした」

 「あのあと話し合って、もし先生が受けていただけるのなら、私たち夫婦でカウンセリングに通わせていただきたいと……」

 「ご主人がそのようなことを?」

 「はい、大変勝手なんですが」

 「わかりました。もうご家族のカウンセリング、半分は終わっていますね」

 「そんな感じです。一時的かもしれませんが、夫の雰囲気が変わりました」 

 「よかった。お母さんのもう一つの葦からも自由になれそうで」

 「本当です。こんなこと、起こるんですね」

 「はい、諦めてしまわなければ、人生に何が起きるかわからないんです」


< 第六話 完 >

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