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diver 第一部 第七話

【 1 電話の向こう 】

 右腕の傷が癒えるまで、この数日間は字を書いたりすることを医者から止められている。そこでクライエントには、事務員のマリさんがカウンセリングに同席してカルテへの記録を行ってもらうことを了承してもらった。了承してもらえない場合の代替案として録音を提案しようとしたが、今のところすべて大丈夫だった。

 午前のカウンセリングを終え、昼食の休憩に入った。最近は、1階の自分のキッチンへ行って何か作るより、2階の事務室で打ち合わせをしながら、マリさんのちょっとした手作り料理で済ますことが多くなった。今日は、初めて口にする甘いトーストだった。

 「マリさん、このトーストとてもおいしいです」

 「そうでしょ? これはね、粗挽きの黒胡椒の量がポイントよ」

 「胡椒? でも、甘みがすごいですね。厚い甘みというか……。テレビのCМのキャッチコピーを借りると、深いコクがある感じです」

 「でしょ? はちみつの甘さを別の角度からとらえる感覚かなぁ。ハニー・バター・チーズ・トーストっていうのよ」

 「そういうレシピがあるんですね」

 「ええ」

 「いつも忙しそうなのに、いつレパートリーを広げているのか不思議です」

 「では、不思議の国のマリスとお呼びください」

 「えっ?」

 「オヤジギャグよ。泉くん私よりオヤジなのに、ギャグが通じないんだから、言った私が恥ずかしくなってしまうわ」

 「すみません……」

 「もう、真面目ばかりから少しは脱線しましょうよ」

 「はい。頑張ってはいるんですけど」

 「人のためばかりでなく、たまには自分も楽しまなくっちゃ」

 「それ、いつもマリさんから言われてることですね。僕もクライエントさんたちには届けられるんですが、そのメッセージを。自分のこととなると忘れてしまうんです」

 「その自分探しの旅にも、いつか安らかなゴールが来るといいわね」

 「その言い方、意味深ですね……」

 「はい、そうよ」

 こんな穏やかな昼食のひとときがいつも来るわけではない。来たとしても、いつまでも続くわけはない。穏やかな空間のどこか彼方で、人々は苦しみ、助けを求める悶絶の声は溢れかえっている。そしていつ僕たちはその声に接触するのか、予測ができない。

 電話が鳴った。公衆電話からだ。今どき公衆電話とはめずらしい……。

 「私、出まーす」

 「お願いします」

 「はい、泉心理相談所です」

 若い男性の声「助けて」

 「はい、どうされました?」

 「助けて、助けて」

 「カウンセリングのご希望ですか?」

 「閉じ込められてる」

 「閉じ込められてる? どこに?」

 「泉先生、助けて……」

 「ちょっと待ってくださいね」

 マリさんのやりとりを聞いて、予約をとる余裕がないのを察し、僕が代わって話すことにした。

 「代わりました、泉です」

 「泉先生、助けて」

 「助けるよ」

 「本当?」

 「うん! 閉じ込められているって、もしかしてそこは病院?」

 「そうです。わかるの?」

 「君の声で十分に伝わってきたよ」

 「ほんと? 僕をここから出して」

 「そこは苦しいの?」

 「はい」

 「どれくらい苦しい?」

 「死にそうです」

 「ということは、強制入院かな?」

 「はい」

 「どんな症状なんだろう?」

 「統合失調症と言われました」

 「でもそれで強制入院はできないはずだよ」

 「そうなの?」

 「うん、強制はできない」

 「時間がないよ。見つかっちゃう」

 「電話は許可されていないんだね」

 「公衆電話のとろこにいます。見つかると怒られちゃう」

 「君の名前と年齢を教えて」

 「ユウです。20歳です」

 「名前、覚えたよ」

 「誰かきます!」

 そう言うと、突然、電話が切れた。

 「マリさん、次に公衆電話からユウくんの電話がかかったら、なるべく早く僕に代わってください。僕がカウンセリング中のときは、そのことを伝えて、またかけてほしいと言ってくれますか?」

 「はい、わかりました。泉先生!」

 「ユウくんの名前を聞いて、少しだけ潜入できた気がした。彼は病院の閉鎖病棟に強制入院させられている。統合失調症の診断名を出していたけど、話した限りは違うようだなぁ。親が手に余って、医師に自傷他害の恐れとかを言い、医療保護入院させられたんだと思う」

 「そんなことできるの?」

 「指定医、精神保健指定医というんだけど、入院の必要を認め、家族の同意があれば、そのまま入院させることができる。精神科入院患者の4割が、そういった経路で入院していると言われているんだ」

 「そんなの、人権上の問題があるんじゃないかしら」

 「確かに。入院時に抵抗して拘束される人も多い」

 「拘束って……」

 「うん、ベッドに縛られることもある。鎮静の注射を打たれることもある」

 「ひどい……」

 「国連の委員会、拷問禁止委員会だったかな、そこが日本に是正勧告をしたこともあったんだ」

 「ユウくんにとって最適の医療サービスが受けられるといいわね」

 「そういうこと。そのために僕ができることは少ないかもしれないけれど……」

 「いつになく弱気なのね」

 「医師会というか、医師のプライドと闘わなくちゃいけないとなると、一筋縄ではいかないと思うんだ」


【 2 時空の歪み 】

 その日はもう、ユウから電話がかかることはなかった。職員の目を避けて公衆電話に辿り着き、かける。今のユウにとって、それだけのことをするのが困難な状況なのだろう。電話を禁じられているということは、入院したばかりなのかもしれない。入院後、大人しく過ごしていれば、電話、家族との面会、制限付きの外出、といった順で行動の自由が広がっていくのが一般だ。

 医師と保護者の判断によって通話制限が設けられているのに、関係のない僕が、それも医療関係者ではないのに、本人の「助けて」の声に応えて介入することなどできるのだろうか。試みてもよいのだろうか……。主治医が的確な判断と入念な計画の元に行っている治療行為だとすれば、それを邪魔することにもなりかねない。開業心理士が医師の意に反して支援を行えば、強烈な圧力がかかるだろう。そしてこの心理臨床の世界で生きていく上で、様々な障壁が生まれることが目に見えている。だから一般の心理士は大きく悩むことなく、医師に合わせる。

 他方で、精神医療が孕む問題性があちこちで議論され、例の国連の拷問禁止委員会も、人道的側面から日本の現状に対して辛口の提言を行っている。「薬漬け治療」「3分間診療」などと揶揄することばが存在するように、患者の話をじっくりと聴かず、投薬だけに頼っている精神科医もいるだろう。精神科医にかかっていた人が、家族間抗争や自殺企図などによって「命」を失う事態に至ってしまうことも少なくない。

 医療保護入院で最も懸念されるのは、無理やり入院させた家族への恨みを募らせ、その後の関係修復を困難にしてしまうという経路だ。ここに、入院が長期化する根源があると、僕なりにこの世界を外から眺めてきて感じるところだった。

 そこへきての、ユウからの助けを求める電話だった。公衆電話では、こちらからかけ直すことができない。待つしかない。

 その夜、多分未明だろう、僕は夢で何度もうなされた。

― 蒼い世界の激流に揉まれている。どこを目指せばいいか、何をすればいいか、手足をどう動かせばいいか、息をしていいのか、生きていていいのか……。今いる蒼い世界を取り巻く360℃のすべてが危険な水域で、早く脱出しないと僕は粉々になってしまう。でも焦っていることだけしかできない —

― 僕のこころ、僕のこころを見なくちゃと急き立てられ、一生懸命に海底を潜っている。海底に辿り着いて、そこで漕いでいる。知らないうちに自転車をこいでいる。自転車はあまりにも遅く、見える範囲には何も目印がない。ただペダルをこぐ。ずっとずっとあてもなく、ペダルをこぐ…… —

― やっと見つけた! 狐色に光る僕の「それ」。左手に掴もうとすると、パッと消えてしまう。別の場所に見つけた。また掴もうとして、消える。何度も繰り返し、「それ」に触れられそうになった瞬間がある。その途端に景色がぐるぐる回転し、複数の残像がフラッシュしながら視野を遮った。バッド……?、赤い絨毯……、怒鳴り声…… —

― 相反する声に責め立てられる。「あなたは生きているの?」「あなたは死にたいの?」「あなたは生きたいの?」「あなたは死んでいるの?」。「あなたは誰?」「あなたは自分のことを知っているの?」「早く見つけなさい」「早く気づきなさい」「見るのをやめなさい!」。「夢を追うのは諦めなさい」「諦めたときが終わり、だから諦めてはいけません」 —

― 金縛りの状態で動けない、怖い。見たい方向が見えない。見たいものが見えない。たくさん人がいる気配……。笑いながら僕を覗き込んでいるの? 僕の身体が弄ばれている。次々と人影が僕を襲う。「まだ? まだ?」とこころの声で訊いている。帰ってくるのは嘲笑、そして酒の臭い。嫌な臭い —

 悪夢に覚醒して、汗で濡れたパジャマに不快を覚え、また次の悪夢に入る。まるで僕の寿命を削っているかのような、エンドレスに慄く瞬間だった。このサイクルを何度か周回して、ようやく朝の目覚めを迎えられた。6時半だった。

 なんとリアリティが高い悪夢なんだ……。感覚が残っている。

 シャワーで汗を流し、日を浴びるために玄関から外に出た。朝日が大きすぎて、茶色にくすみ、歪んで見えた。

 おや、古い自転車がある。この自転車は……。つくば市に住んでいた頃、屋上にいた大学院生の後輩を助けにいくときに使ったものに違いない。なぜ今? なぜここに? まだ夢の中なのかと疑った。もう一度太陽を見ると、今度は眩しい。

 慌てて玄関に入り、2階の事務室に上がった。特に変わったところは……、ない……。看板は? ついている。マリさんは? まだ奥の部屋にいるようだ。あれ? 奥に続くマリさんのドアに、あの鈴がない。いつもと違っていることが多すぎる。電話は? 電話線が外れている! どうなっているんだ。この世界の秩序に異変が生じているのか、それとも僕の心が狂いかけているのか。

 必死のあまり、マリさんの部屋をノックした。「マリさーん!」と呼びながら。しかし返事はない。鈴がないということは、マリさんはここから出て行ったということなのか。生きていることの苦しみをひしひしと噛みしめながら、僕はその場で脱力して、臥せるしかなかった。

 自分の心臓の鼓動が感じられない。意識が遠のいていく……。消える間際に、『神田川』を歌う男の声が聞こえたような気がした。


【 3 狭間 】

 突然電話が鳴った。また悪夢の続きが始まったのか……。

 トゥルルルルルー トゥルルルルル― トゥルルルルルー

 鳴り止まない。立ち眩みを堪えながら、電話に出た。

 「はーい」

 「泉先生ですか?」

 「はい」

 「朝からごめんなさい」

 「い、いえ」

 時計を見ると9時を少し回ったところだった。時刻すら信じられない、狐につままれたような自分がいた。

 「泉先生、大丈夫?」

 「あっ、心配おかけします。もしかして、マリさん?」

 「いいえ、違うわ~」

 「それはすみません。人違いでした。昨夜ちょっと疲れてしまったようで」

 「それはそうよね」

 誰かと会話することで、僕は徐々に我を取り戻していく感じがした。 

 「その語り……。あなたは、ユリさんだね」

 「はい、覚えてもらえて嬉しいわ」

 「山下ユリさん?」

 「あらっ、名字がばれてしまったみたい」

 「ミズキの家へ行って調べさせてもらったんです」

 「嬉しい! あの時のこと思い出してくれました?」

 「僕と君は、樫の木の根っこに座っていたんだっけ……」

 「はい、そうです!」

 「でも、話した記憶がないんですよ」

 「泉先生は人気者で、たくさんの人たちと話していたから。でも私のところに来てくれて嬉しかったの」

 「本当に僕が?」

 「はい。私が初めて本当のことを話したのが、先生ですよ」

 「本当のこと……」

 「私が父親からされてきたこと」

 「ああっ、あれは少女にとって僕らの想像を絶するようなこと。もっと早く気づいてあげられなくて、ごめんなさいね」

 「謝らないで。私、話せる人が現れるなんて信じていなかったから、すごく嬉しかったの」

 「そんなこと言われると、泣きたくなるよ。話せる人が世の中にもっとたくさんいなくちゃ。世の中のほうがおかしい」

 「いいの先生。ありがと。いつも見ているわ」

 「いつも見ている? 僕の力では君のこころへは近づけないんだ」

 「いいの。もう十分よ。今は私が見てる」

 「どういうこと?」

 「今日はもう時間がきたわ」

 「いつも数分間なんだね。逆シンデレラになった気分だよ」

 「ええ、時間には限りがあるの。またね、泉先生。マリにもよろしくね」

 電話が切れた。マリさんによろしく、か……。

 今朝の悪夢から、時間と空間が自然科学のパラダイムでは動いていないような気がしていた。ユリと話すことで、現実感を取り戻しつつある。そうだ、僕は今、病院から電話をかけてきたユウからの連絡を待っていたんだ。電話が鳴ったということは、電話線が元通りに戻っている。だからユリの電話を受けられた。僕が臥せっている間に、誰かが戻してくれたんだな。もちろん、マリさんしかいない。

 「マリさーん」とドアに向かって呼んでみた。だが、返事がない。あの鈴もまだない。羽衣伝説の地、京丹後市の神社で買ってきたという鈴。ドアが開閉する度に柔らかくチリン、チリンの音を放っていた。マリさんはどこへ行ったのだろう。鈴とともに。

 今朝がた見た自転車のことを思い出した。悪夢ゆえの時空の歪の中で、早朝に玄関先で見た、以前使ったことがある古い自転車。現実感を取り戻せた今なら、存在しないことがわかるはずだ。階下へ下り、玄関を開けた。自転車はそこにあった……。脳内に走る血の臭いと味。それにも慣れてきてしまったようだ。

 時空の歪んだ世界と、現実の世界があって、僕はその両方を旅しているのだろうか。パラレルワールド……。あってもおかしくない。その間を行き来することがあってもおかしくない。いや、科学的にはおかしいが、僕のこころの現象としてはおかしくないと言い変えた方が語弊がない。

 1階の自分のキッチンへ戻り、冷やしておいた麦茶を飲んだ。そして、ベッドに仰向けに身体を横たえ、腕を伸ばした。急に右腕にピリピリと痛みが走った。怪我をしていたこと、今の今まで忘れていたんだ。ちょっとだけ横になろう。今日に備えて。


【 4 病院の塀を越えて 】

 昼前に起き、2階の事務室へ移動した。独りでメロンパンとインスタントのカフェオレを食した。そして電話機が鳴らないかと気にしながら、ソファに身を委ねた。右腕の傷が疼いていた。そういえば何針縫ったのか聞いていなかったな。

 ユウから電話がかかったのは、昨日の12時半過ぎだった。今はその時間だ。気配を感じる。

トゥルルルルルー トゥルルルルルー

 「はい、泉心理相談室です」

 「先生!」

 「ユウくんだね」

 「はい。助けて」

 「うん、助けたいと思う。何が怖い?」

 「縛られる」

 「断っても?」

 「嫌だっ、て言うともっときつく縛られる」

 「ベッドに?」

 「はい、助けて」

 「病院へ来たのは?」

 「3日前です」

 「どうして病院へ来たの?」

 「お父さんとお母さんに連れられてきました」

 「素直についてきたの?」

 「はい。病院へ行けばラクになるよ、って言われたから」

 「病院へ来て、どうなったの?」

 「すぐに親と離されました」

 「それからどうなったの?」

 「部屋に入れられました」

 「どんな部屋?」

 「白くて、何もない部屋です」

 「何にもないの?」

 「あー、ベッドはあります」

 「他には?」

 「トイレもあります」

 「どんなトイレ?」

 「便器があるだけです」

 「部屋に入ってどうしたの?」

 「出して、って言いました」

 「そうしたら?」

 「たくさんの人が来ました」

 「そして?」

 「ベッドに縛られました」

 「縛られたのは、どこ?」

 「手と足です」

 「どれくらいの間、縛られてたの?」

 「わかりません。怖くて。ねえ、助けて」

 「病院の名前はわかる?」

 「えっ、わからない」

 「その近くに掲示物とかないかな?」

 「武蔵台病院、って書いてある紙が貼ってあります」

 「よし、病院はわかったよ」

 「助けて。見つかっちゃうよ」

 「うん、なんとかして助けたいと思ってる」

 「ユウくんの名字を教えてくれるかな?」

 「小川です」

 「携帯電話は?」

 「没収されました」

 「病院へ来た日に?」

 「はい」

 「公衆電話は使えるの?」

 「使えません」

 「今はどうして使えるの?」

 「お昼の30分だけ、外に出れるからです」

 「部屋から外にだね。そして電話を見つかると叱られる?」

 「はい。助けて。耐えられないです」

 「何が耐えられない?」

 「縛られるの怖いです」

 「他にはある?」

 「注射も怖いです」

 「まだある?」

 「知らない人だらけで怖いです」

 「だいたいわかったよ」

 「助けて、泉先生!」

 「できることはやってみる」

 「もう時間がないです」

 「最後に一つ。どうして僕のところへ電話をかけたの?」

 「ずっと前から調べてて、電話番号覚えてたからです」

 「僕のところだけ?」

 「たくさん覚えてました」

 「どれくらい?」

 「10個は覚えてました」

 「また電話できたら、かけ……」

 突然ブツッ、と電話が切れた。誰かが来たのかもしれない。タイムリミットだったのだろう。


【 5 帰宅 】

 午後6時過ぎ。突然ドシン!という音がしたかと思うと、部屋中がビリビリと小刻みに震え、続いて大きくユラユラと横に揺れた。横揺れは30秒以上続いてやっと止まった。地震だ。スマホでニュース速報を見ると、「千葉県館山市付近を震源とする、マグニチュード6.3の地震で津波の恐れはない。震源の深さは約20キロメートル……」と表示されていた。神田橋近くにある気象庁での震度は4だった。最大震度は千葉県館山市で6、神奈川県横須賀市で5強だった。

 最近は全国あちこちで地震が起きている。首都直下型地震や南海トラフ地震など、いくつかの大地震が近いうちに起こる確率は高いという。本当に人口の何割かが減ってしまうくらいの地震が、いつ起きてもおかしくない。テレビで、ここ神田にも1階の屋根が沈むくらいの津波が押し寄せるシミュレーションを、コンピューターグラフィックスの映像で見たことがある。人間は自然の猛威を前にしてギリギリの世界を生きているんだな。

 そして……。玄関が勢いよく開く音がした。

 「ただいまー!」

 マリさんが戻ってきた。僕はほっとした。玄関まで迎えに行くと、トートバッグ一つだけの身軽さだった。

 「ごめんなさーい。朝6時前に起きて出たものだから、泉くん寝てて、言えずに行ってきたの。心配かけたかな?」

 「はい、もちろん心配しましたよ。最初は、ひどく疲れていて部屋の中で寝ているのかもしれないって思いました」

 「そうなの? それにしても、泉くん無事でよかったわ」

 「無事って、地震の被害からですか?」

 「いいえ、違うわ」

 「朝から何か急な用事でもあったのですか?」

 「そうね、緊急と言えば緊急になるわね。6時16分発ののぞみに乗って、京丹後市へ行ってきたの。峰山っていう京都丹後鉄道の駅だけど、昼ぐらいにしか着かないのよね。やっぱり遠いわ」

 「何をしに行ったのですか?」

 「ああ、これよ」

 マリさんはそう言って、トートバッグから神社の鈴を出した。

 「こっちが新しいほうで、こっちは今までドアに着けていたほう」

 「2つも必要なんですか?」

 「そうね、1つじゃご利益(りやく)が足りなくなってきたの。これでしばらくは大丈夫たと思うわ」

 「マリさんがそう言うんだから、きっと必要なんでしょうね」

 「ええ」

 「今朝、悪夢を何度も見たんです」

 「知ってるわ。うなされている声を聞いたもの」

 「2階にも響いたんですか?」

 「出かけるときに玄関で聞こえたのよ。あっ、これは大変だって思った」

 「そうだったんですね。あと、不思議なことがいくつかあって。まず、ずっと前に使ったことがある自転車が、玄関出たところに置いてあったんです」

 「あれは、私のよ。もう1週間以上前になるかしら、近くの取材先の人からね、暑い中を歩くのは大変だろうって譲っていただいたの」

 「そうだったんだ……。僕は、今朝気づきました」

 「泉くん、とっても疲れているものね」

 「その人の名前は憶えています?」

 「確か……、山本ミクさんだった思うわ」

 「年齢はマリさんと同じくらいですか?」

 「ええ、正確にはわからなけれど、多分同じくらいね」

 「あと、今朝早く、事務室の電話のコードが外されていたんです。そして、知らないうちにまた繋がっていたんです。マリさんが繋げてくれたんだと思ってました」

 「それ、泉くんがお得意の睡眠時遊行でしたんじゃないかしらね」

 「だとしたら、動機はなんだろう……」

 「精神的に疲れてて、もう電話をとりたくないっていうサインじゃないかしら。あら、失礼。ずぶの素人の私が言うことだから気にしないで」

 「いや、確かにそうかもしれません。以前の看板の落下といい……。カウンセラーの仕事を終わらせようとする力が、無意識で働いているとしか考えられないんです」

 「そうよね」

 「でも僕は、絶対に辞めたくない。あの世へ行ってもまだやり足りないっていう、そんな情熱ですよ」

 そして、今日かかってきたユウからの電話のことを説明した。明日以降も、また昼の12時半過ぎにかかってくる可能性が高いことも。

 「ユウくんのことも助けたいのね」

 「はい。助けると約束しました」

 「そうなのね。ところで、夕食はまだよね?」

 「はい」

 「もうこんな時間だし、久しぶりに、外食でもしません?」

 「いいですね」

 マリさんは、鈴を2つドアノブに掛けてから、部屋の中へ入り、食事に出かける準備をした。僕も、服を着替えなくちゃ。ずっとジャージ姿だったから。

 自転車を譲ってもらったという山本ミクという人は、5年前に僕が助けに行った大学院生と同姓同名だ。年齢も、僕の知っているミクは5年前に大学院生で23歳くらいだから、今なら28歳くらい。一致している。僕が自転車を使い、見失ったのはミクのアパートへ送った後だった。そのミクが、マリさんの取材対象者だったのだろうか。だとすると、何の取材だったんだろう?


【 6 精神科病院 】

 ユウが教えてくれた武蔵台病院を調べてみた。武蔵野市内、三鷹駅から歩いていけるところにある、戦後間もなく建てられた民間の精神科病院だった。「暴れてしまう患者」を積極的に受け入れ、しばしば刑事裁判の被告人の鑑定留置も行っており、そのための施設やスタッフも揃っている。病床数600以上の大きな規模で、複数の閉鎖病棟や解放病棟、それにストレスケア病棟も備える。勤務する精神科医師は17人、そのうち14人が精神保健指定医だった。

 次の日も、12時半過ぎに公衆電話でユウから電話が入った。

 「泉先生、助けて!」

 「その方法を考えよう。いくつか教えてほしいことがあるんだ。いいかな?」

 「はい」

 「まだ携帯電話は使えない?」

 「はい」

 「両親の面会はある?」

 「ないです」

 「縛られたのは、最初の一回だけ?」

 「違います。大声出したりすると縛られます」

 「注射は?」

 「今までに3回打たれました」

 「打たれたらどうなるの?」

 「寝ちゃいます」

 「看護師さんたちは優しい?」

 「怖いです」

 「どうして怖いの?」

 「大きい声で怒鳴ってます」

 「何かきまりを破ると、怖くなるの?」

 「基本、いつも怖いです」

 「主治医から、今後の計画を聞いた?」

 「計画って何ですか?」

 「うーん、たとえば、いつから携帯電話が使えるか、いつから開放病棟に移れるか、いつ両親と会えるか、とか」

 「何もないです」

 「統合失調症って言われたのは本当?」

 「はい」

 「自分では納得してる?」

 「してないです」

 「それはなぜかな?」

 「前に通ってた病院で、言われてないからです」

 「前の病院では、なんと言われていたか覚えている?」

 「発達障害とかなんとか言われてました」

 「そうなんだ。今の病院に来るのに、何かきっかけはあったかな?」

 「はい。僕がパニくって、お父さんとお母さんに怒鳴って、物をぶつけたときです」

 「その時は、どうしてパニくったのかな?」

 「お父さんとお母さんから、大学行けって、わーと言われたとき、訳がわからなくなりました」

 「そうなんだね。では、今病院で毎日飲んでる薬の名前はわかる?」

 「えーと、ジプレキサと……、リスパダールと……、ロヒプノールと……、あとセレネースとかかな」

 「たくさんだね。それにしてもよく覚えているね。飲み出してから何か変わったところあるかな?」

 「ずっと眠い感じになってます」

 「他にはある?」

 「しゃべりにくくなりました。手が震える時が増えました」

 「なるほど。電話機の近くに、人権委員会とか倫理委員会の電話番号が掲示されていないかな?」

 「えーと……、あ、あります!」

 「そこに電話をしてみてもいいかもしれない。そして今まで話してくれたことを全部話すといいよ」

 「はい、そうします」

 「もうすぐ時間だね」

 「はい」

 「今日は最後に、両親の名前と携帯電話の番号を教えてくれるかな?」

 「はい」

 この日は、電話のやりとりをマリさんに記録にとってもらっていた。父親は小川マサハル、母親は小川トモコ。父親は財務省に勤める国家公務員で、母親は耳鼻科開業医だということもわかった。

 マリ「泉くん、どうする? 病院に電話してみる?」

 「いや、そうすると彼につらいことが起きてしまう」

 「あっ、そうか。禁止されてる電話を使ったから、罰を受けるかもしれない……」

 「その通り。保護室からなかなか出してもらえなくなったり、身体拘束や鎮静剤を注射されたり、ね。治療という名の監視が強くなってしまってはよくない」


【 7 病院の処遇 】

 「何かアイデアでもあるの?」

 「保護者の依頼、ということであれば、まだ動きやすくなりますね」

 「それで両親の電話番号を訊いていたのね」

 「ええ。心理士が口を出す立場ではないんですけど、ユウくんの説明通りだと、あの病院のやり方には納得がいかない点が多くて」

 「そうなの?」

 「ええ、まず診断が。会話をする限り統合失調症スペクトラムとは思えない」

 「統合失調症スペクトラム?」

 「最新の診断名で、今は統合失調症はそう言い換えられているんです。自閉スペクトラム症と同じです。つまり、統合失調症でもそれに特有な各症状は連続的で、程度が強かったり弱かったりという個人差があると考えるようになっています。一般の人、定型と呼ばれているんですけど、これらの人にもその傾向が見られる人が結構いる。だから境目が明確に線引きできない場合が多いんです」

 「境目がはっきりしていないのね? それで病気って言えるのかしら」

 「境目付近にいる人たちはグレーゾーンって呼ばれ、日常生活に明らかな支障をきたしている場合に診断がつけられて病気にされる。たとえば、統合失調症スペクトラムの陽性症状に典型的な妄想を取り上げてみても、その確信度や生活への支障の程度には、違いがとても大きいんです」

 「確かに、私も妄想に近いような空想をすることはあるわ」

 「そう。訂正不能な確信的妄想から、やや確信的なもの、本人も妄想だって気づいているものまでさまざまあります。空想だと自覚しながら空想することなら、ふつうにありますよね」

 「あるわ。大抵の人は空想するんじゃないかしら。空想の内容はいろいろあるとしても」

 「ユウくんの説明には飛躍がなく、病院からひどい処遇を受けていることを主張するんですけど、誇張された迫害妄想だとは思えない。何より、話してくれることに納得できるんです。了解可能性っていうんですけど、それが十分に保たれている」

 「そうなのね……」

 「それに、会話にいくつか特徴があります。その特徴が、前の病院で指摘された発達障害の中に含まれる自閉スペクトラム症で理解したほうが、納得できるんです」

 「どんな点が?」

 「そうですね。まず、具体的に訊かれたことには的確に答えられるところですね」

 「なるほど。それで泉くんは具体的に一つずつ質問していたのね?」

 「はい、そうです。電話がかかってきてからすぐにその特徴が気になり、意識して話してきました。毎回、同じような答え方をしたり、決まった言葉を繰り返す特徴もありますね。助けて、と何度も言ってきましたし」

 「その自閉スペクトラム症というのは、話し方だけに特徴があるの?」

 「いえ、様々な特徴で示されますよ。スペクトラムという概念はここでも重要で、すべての人が、それら特徴で強い域から弱い域という軸のどこかにいると考えなくてはなりません。僕やマリさんも含めて」

 「他にはどんな特徴があるものなの?」

 「うーん、そうですね。ユウくんの場合、記憶の仕方にも独特さがあると言えそうです」

 「記憶の仕方?」

 「ええ、ここも含めて10か所以上の相談機関の名前や電話番号を覚えていました。あの病院で出された薬も、正確に名前を言えました」

 「記憶力がいいということではないの?」

 「入院する前にあれだけの相談機関を覚えるには、前提としてそれらを知っておきたいというこだわりがないとできません」

 「なるほどね」

 「興味があることには高い記憶力を発揮することが多いんです」

 「じゃあ、あの病院の治療は適切ではないと考えているの?」

 「ええ。自閉スペクトラム症の人は、予期しない出来事への柔軟な対処が苦手で、それが苦痛や恐怖を伴う場合には、トラウマにもなりかねない」

 「トラウマにもなるの?」

 「はい。場合によっては、治療行為が別の症状を作り、全体として状態を悪化させることが起きるんです」

 「ユウくんの状態は悪化しているの?」

 「僕はそう思いましたね。身体拘束や薬を用いて一時的にしのぐことが、長期的に見て改善につながるとは思えません。それから、入院のきっかけについても訊きました」

 「そうよね」

 「両親から大学へ通うことを畳みかけられるように注意され、訳がわからなくなって暴力的になったようです。入力情報が過多になると、いわゆるパニックという状態になって、理性が衝動を制御できなくなることが起きるんです」

 「それで両親が病院へ入院させるという決心をしたのね」

 「はい。恐らく一回だけでなく、これまでに何度も生じたので、両親としてはあの方法しか選択の余地がなかったんでしょう」

 「両親も苦労されてきたのね」

 「そう思いますね。もしかすると両親も柔軟な対応ができず、大学へ行かなければならないといったこだわり思考が強く、ユウくんの大学での辛さに共感できていなかった可能性が考えられます」

 「説明を聞いていると、ユウくんがあの病院にいるのは何だか可哀そうだわ」

 「薬の出し方も、すごく心配ですね。毎日飲んでいる薬の中に、セレネースがありましたが、あれは興奮時の鎮静目的で使われるんです。それを入院後も毎日服用するのは疑問です。病院で大人しくさせたいという意図を読み取ってしまいます。注射は3回あったと言ってましたね。セレネースは筋肉注射としても用いられます」

 「患者さんを無理に大人しくさせるような病院なのかしら」

 「そう勘ぐってしまいますね。急性期に一時的に自傷他害に対処するため、というのならわかりますが、もう何日も続いているようで……。ユウくんはロヒプノールという眠剤も挙げていましたね。あれは昨年の秋から販売停止になっているものです。在庫がたくさん残っていて、使っているのかもしれませんが、そうだとすればカルテや処方箋管理をどうやっているのか、疑念が生じます」

 「そんなに危険な薬だったの?」

 「鎮静作用の強さや、副作用、依存性などの問題が指摘されていましたね。自殺致死率の高さも、です」

 「怖いわー」

 「仮に統合失調症スペクトラムだとして、ジプレキサとリスパダールはその治療薬の中で第二世代の新薬と言われ、ドーパミン系だけでなくセロトニン系にも作用し、陽性症状にも陰性症状にも効果が期待されていますが、一種類を使うのが一般的です。二種類も同時に使う必然性が思いつかない」

 「私には薬の種類とか、全然理解できないわ」

 「すみません、難しいことばかりで……。でもユウくんは、喋りにくくなったとか、手が震えるようになったと言ってましたね。これら強い薬を急に飲み始め、数日経って現れた副作用かもしれません。もし暴れてしまったことが発達障害の症状だったのに精神病の薬を使い続けていたら、薬漬けの状態になってしまい、入院はかなり長期に渡るのではないか、とても心配です」


【 8 医師との関係 】

 マリ「どうして精神科や心療内科って、薬漬けのイメージが強いのかしら?」

 「精神療法をやる医師が少ないからでしょう」

 「精神療法をやれないのかしら」

 「結果的にそうなっていると思います。患者さん一人ひとりに精神療法を行っていたら、時間がない」

 「確かに、メンタルクリニックはいつもとても混み合っているわ」

 「薬を処方するだけだったら、次々と患者さんを診れて、回転させていける。精神療法をしないでいるから、益々そのスキルが身につかないという悪いサイクルで回っている」

 「それは仕方ないって感じかしら?」

 「診療報酬の点数を見れば、経営上の理由も一因になっているのがわかると思いますよ」

 「診療報酬ってよく耳にする言葉だわ」

 「そうですよ。1点当たり10円換算なんですが、精神科では5分以上の診察、指導、精神療法で点数がつくんですよね。5分以上30分未満で330点、30分以上60分未満で400点、60分以上で540点。極端な計算になりますが、一人に60分行えば1時間当たり5400円ですよね。5分ずつ行えば1時間で最高12人分できますから、39600円にもなるんです。クリニックを経営するためには後者を選択するのが効率がよいというわけです」

 「だから5分くらいで症状を聞き、処方箋を書いておしまいになってしまうのね」

 「薬に頼る傾向を生んだもう一つの大きな因子が、製薬会社とのしがらみです」

 「製薬会社の影響があるの?」

 「たとえば同じタイプの薬を、複数の会社から別の商品名で出している。製薬会社はクリニックや病院で使ってもらうために、様々に工夫するんです。便宜を図ったり、接待したりしてね。医師のほうもその甘い汁を吸ってしまいやすくなる」

 「どこにでもありそうな話ね」

 「はい。使い方によって危険性が高い薬に対しても、なかなか法規制がかかりません。政治家や厚労省との癒着も指摘されているくらいなんです」

 「怖い世界だわ……」

 「そう、精神医療がなかなか変わらない背後に、様々な力がひしめき合っているんですよ。現場では医師がトップのピラミッド構造ができあがり、この権力が心理職の国家資格化にも大きく影響しましたね」

 「えっ、心理士の資格にも影響しているの?」

 「ええ、議論の中で医師会からの強い圧力がありましたね。ここに国家資格化が遅れた主因があります。一昨年前にようやく施行された公認心理師法では、医師の指示を受けることが義務付けられました。これがなければ医師会は反対し続け、国家資格はまだ誕生しなかったでしょう」

 「心理の人たちは納得したの?」

 「それはまちまちです。心理の人たちの中でも意見は大きく分かれました」

 「じゃあ、最終的にはどうやってまとまったの?」

 「まとまったというより、当時の心理士代表の人が医師会の要望に妥協したと言ったほうが正確かな。国家資格化をいつまでも遅らせるより、そろそろ公的資格にしたほうが公務員としての求人も増えるなど、長い目でみたら心理士の労働環境改善につながる、そう考えたのかもしれません」

 「そうなのね。病院で勤めていなくても、医師の指示を受けなくちゃならないの?」

 「はい。自分の担当するクライエントが医師に診てもらっているときには、その主治医の指示を受けなくてはならない。それはこの相談所でも同じです」

 「納得しにくいわ」

 「精神療法やカウンセリング、それに心理検査も、心理職のほうがスキルが高いのに、独自の判断でクライエントに向き合えず、医師の指示を受けてから取り組まなくてはならないなんて、どこか本末転倒な感じがしませんか?」

 「そうね。話を聞いていると、大学生が小学生の指示を受けて働くというイメージがしてくるわ」

 「ちょっと愚痴になりすぎちゃいましたね」

 「私には勉強になったわよ」

 「それならよかったです」

 「泉くんは、その国家資格は持っていないの?」

 「今は、持っていないですよ。だから医師の指導に縛られなくていい」

 「今は、って?」

 「昨年の第一回国家試験を受けて公認心理師となったんですが、僕のやり方で思う存分に人のこころを助けることができないから、返上したんです」

 「もったいない……」

 「そうかなぁ。多くの人が憧れる資格かもしれませんが、それがなくても心理カウンセリングはやれますから。それに、筆記試験で6割の正答を出せば受かる仕組み。詰め込み知識でこの資格はとれてしまうんです。資格はあるが困っている人の助けにならない専門家がいっぱいいる世界には、僕は住みたくないなあ」

 「まあ、泉くんらしいといえばそうね」

 「もし公認心理師のままでいたら、ユウくんの親に連絡する前に、いやユウくんからの電話を受け続ける前に、この病院の主治医の指導を受けなくてはならなかったんですよ」

 「こうして電話を受けて、いろいろ尋ねることができるのも、その国家資格を持っていないため?」

 「はい!」

 「なるほど……。複雑な心境だわ」

 「では、仕事にかかりますか!」

 「両親に電話をすれば、ユウくんのこと理解してもらえるかしら」

 「それを祈ります」


【 9 動こうとした矢先 】

 ユウくんから聞いた父親の携帯電話にかけてみた。出た!

 男性の声「もしもし」

 「あのぅ、小川マサハルさんの携帯でしょうか?」

 「いえ、違いますよ」

 「すみません。番号の確認ですが、090ー△△△△ー△△△△で間違いないですか?」

 「そうですが?」

 「あ、本当にすみません。この携帯電話、もしかして最近契約されましたか?」

 「はい、今月のはじめですが」

 「はい、わかりました。その番号の前の持ち主の方にかけるつもりだったんですが、解約されたようです。どうもありがとうございました」

 マリ「別の人の番号だったのね?」

 「はい。これから母親のほうにもかけてみます」

 若い女性の声「もしもーし!」

 「あのう、小川トモコさんの携帯でしょうか?」

 「えっ? 違うって! うちは戸川ミレイだよ」

 「すみません。間違い電話かもしれません。番号は、080ー◇◇◇◇ー◇◇◇◇であっていますか?」

 「うん、それうちのだよ」

 「えっと、ミレイさん。まだ若いようですね」

 「うん、中1だよー。スマホ、夏休みに買ってもらったばっかだよ」

 「あ、ありがとう。その番号を以前に使っていた人のところにかけようとして、僕のほうが間違えたみたい。ごめんね」

 「そうなん? いいよー。じゃあ、ばいばーい」

 マリ「こちらも間違い電話だったみたいね。ユウくんが覚えていた番号が違っていたということ?」

 「いいや、違う」

 「どうしてわかるの?」

 「どちらにも共通していたのは、最近手に入れた新しい電話だったことです」

 「どういうことかしら」

 「携帯電話の番号は足りなくなっていて、解約されると数か月後に再利用されるんですよ」

 「ユウくんの両親の携帯電話は両方とも、再利用されているということなの?」

 「はい、そうです」

 「でも、再利用まで数か月のインターバルがあるんですよね?」

 「ええ」

 「ユウくんが教えてくれたのは、今日よ」

 「そう。時間軸では説明できない、タイムラグを感じるんですよ。最近、僕の身の回りでよく起きているようなんです」

 「もしかして……」

 「そうです。何か月か前のユウくんと繋がって、電話で話した可能性があるということです」

 マリさんは、急に何か観念したかのような表情になり、僕の正面に来た。

 「泉くん」

 「はい?」

 「ユウくんのことを助けたかったのよね」

 「はい」

 「その強い想いが関係しているのかもしれないわ」

 「マリさんはこの謎を解く鍵を知っているのですか?」

 「いいえ……。私はただ泉くんの助けになりたい、それだけよ」

 「では、これから病院に電話してみますね。それで今回の件は真実が明らかになると思います」

 「ええ」

 僕は、何が起きるかを予想しながら、武蔵台病院へ電話をした。

 代表「はい、武蔵台病院、総合受付です」

 「泉心理相談所で心理士をしている泉と言いますが、閉鎖病棟の看護師長さんいらっしゃいますか?」

 「はい、少しお待ちください」

 — 保留音 —

 「はい、お待たせしました。長瀬です」

 「看護師長の長瀬さんですか?」

 「はい、そうですが。心理士の泉先生ですか?」

 「ええ、泉です。以前そちらに入院していた小川ユウくんのことでお尋ねしたいことがありまして」

 「はい、あの子ですね。私も泉先生とお話したいと思っていました」

 「それはなぜですか?」

 「あの子のノートに、泉先生の名前がぎっしり書いてあったからです」

 「そうなんですか……」

 「はい、あの子が亡くなったのは、今年の1月2日でした。もう8か月も経つんですね」

 「亡くなった理由を教えていただけますか?」

 「院内自殺です」

 「そうなんですね……。両親は面会に来ていましたか?」

 「一度も来ませんでした。あの子、18歳で児童養護施設を出て、両親と共に1年余り過ごしたあと、両親への暴力を理由として医療保護入院になったんです」

 「正月も面会に来てくれない……。寂しかったでしょうね」

 「はい、私たち看護師の間でも、話題になっていました」

 「彼は、身体拘束をひどく恐れていましたか?」

 「はい。落ち着かせようとすればするほど興奮して、かえって強く拘束しなくてはならない状態にさせていました。興奮が覚めてから、すごく怯えていました。よく覚えています」

 「診断は、統合失調症でしたか?」

 「私たちにはそう見えませんでした。両親との話し合いか何かで、そういうことに決められたみたいです。詳しいことはわかりませんが」

 「いろいろ教えてくださりありがとうございます。最後に確認を一つ。彼が入っていた施設は、つくば市内で、ミズキの家ではなかったですか?」

 「そうです! ノートにミズキの家とも書いてありましたから」

 「腑に落ちました。本当にありがとうございます」

 「いいえ。私のほうからも質問を一ついいですか?」

 「はい、どうぞ」

 「どうして今日、電話であの子のことを訊いていただけたのですか?」

 「僕のところに電話で会いに来てくれたからです」

 「えっ? どういうこと?」

 「ここ数日、助けてって、病院から出してって、彼のすがる声を何度も聴きました」

 「なぜ、今頃……」

 「お盆ですから」

 「ありがとうございますぅっっ……(涙)」


 < 第七話 完 >

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