diver 第一部 第十三話
【 1 ここから 】
「海斗くん。はじめまして。葉子(ようこ)と言います」
「……」
「この家の、お母さんよ。家族もいっぱいいるわ」
「……」
「同じ部屋は、3歳年上のヒロシくん。中学3年。今学校に行ってるけど、夕方帰ってくると思うわ」
「……」
「まだ来たばかりだから慣れないと思うけど、困ったことがあったら何でも言ってね」
「……」
「夕食は6時から。下の食堂で。疲れてると思うから、それまでゆっくりしていてね」
「……」
「あっ。まだ無理して話さなくてもいいから、気にしないで」
葉子さんは、そう言って部屋から出ていった。僕は知らない車に乗って、ここへ連れてこられた。どこでどうして車に乗ったのか、覚えていなかった。ただ、人と会うのが嫌だった。胸がギューとなり、喉に塊が詰まっているような感じがした。あと、年上の男の人がとにかく怖かった。
部屋は8畳くらいかな。机と椅子、本棚のセットが2つある。押入れが見えた。1つの机には本やノートなどの物が置かれていて、本棚にはコミックスがたくさん入っていた。『ドラゴンボール』はいっぱいある。その隣の机や本棚は、綺麗に片づけられていた。これが僕の使うほうなんだな……。
机の上に、絵はがきが置いてある。見ると「古泉海斗くん! わが家へようこそ!」と手書きで記されていた。この机の横に収納箱があり、真新しい服や下着、パジャマ、歯ブラシなど、日常生活に必要なものが入っていた。僕ってこういう名前なんだ。誰がつけた名なんだろう。この家でそう決まったのかなぁ。年はいくつ? 4歳年上のヒロシくんという人が中学3年生なら、小学6年生なのかな……。さっきの葉子さんは「この家のお母さん」と言っていた。初めて会った人だから、これから僕のお母さんになる人かな。
今は何もやる気がないし、やることは何もない。ただ、ぼーっとしていたい。畳部屋の壁に背をもたれかけて座っていた。窓から外が見えた。木々と青空が広がり、小鳥のさえずりがする。ここは2階みたいだ。下の階から、幼い子どもが騒ぎながら走る音が聞こえてきた。何人家族なんだろう……。考えると頭が痛くなるから、窓から木と空、そして雲のかたちが変わるのを眺めていた。そうしていれば、何となく落ち着く。
ずっと窓辺の風景を眺めていたら、元気よく階段を上ってくる足音が聞こえてきた。そしてその足音はこの部屋に入って来た。僕はその人をチラッと見た。
「新しい子だね」
それだけ言うと、通学カバンを置いて外へ出ていった。あの人が多分、ヒロシくん。眼鏡をかけていた。僕にはあまり関心がないようだった。
廊下を、多くの子が行ったり来たりするようになった。学校から帰って来たようだ。4、5人はいただろうか。そのうち、小学生くらいの男の子と女の子が、外から部屋を覗いて僕の顔を見た。しばらくして、ヒロシくんが戻ってきた。
「ご飯の時間だよ」
「……」
「一緒に下へ行こうよ」
「……」
僕は黙って立ち上がり、ヒロシくんについて1階の食堂へ行った。とても大きいテーブルが1つあった。ヒロシくんの手招きで、隣の椅子に座った。他の子も次々と集まってきた。全部で子どもが8人くらい。そして大人が3人いた。葉子さんが「みんな揃ったかな~?」と言うと、小さな子たちが「はーい!」と答えた。
葉子「みんなに紹介するわね。今日からこの家に来た、古泉海斗くんです」
「……」
「まだ来たばかりで緊張しているかもしれないけど、すぐに慣れるわよ」
「……」
「みんなよろしくね~」
「はーい!」という返事が上がった。僕は何を喋ったらいいかわからなかったし、声が出るのかどうか自信もなかった。どれくらいの間、喋っていないだろう……。食卓の上には、とんかつとポテトサラダ、魚の煮物、昆布のみそ汁、そしてご飯の茶碗とコップがあった。ご飯と水は、自分で好きな分だけ入れるみたいだ。高校生くらいの女の人が「いただきまーす」と言うと、それに続けて他の人たちも「いただきまーす」と言った。喋りながらのにぎやかな食卓だった。
葉子「海斗くん、食べないの?」
「……」
「来たばかりだから、まだ食欲ないのね」
そう言う葉子さんの目を見た瞬間に、不思議な体験をした。辺りが蒼色に染まり、まるで水の中に潜ったような感覚。その中で薄明るく光る場所が見えた。近づくよう吸い込まれる感じで、その光に接した。すると、聞こえてくる声。葉子さんの声……。
― この子は扱いにくいわ。喋らないし、食べないし、何もしようとしない。手がかかりそう。早く馴染んでほしいわ! —
我に返って蒼い世界から戻ると、葉子さんは僕の方を見て、ニコッと笑った。僕がじっと見ていたからだろうか。それにしても、耳の中で聞こえたさっきの声は何だったのだろう。
食卓を囲んでいた別の男の人が言った。
「そう無理しなくたっていいさ」
「……」
ヒロシ「お腹空いてないの?」
「……」
ヒロシくんは、黙っている僕をよそ眼に、あっという間に自分の分を食べ終えた。
「食べ終わったら、自分のをあそこへ持っていくんだ」
ヒロシくんは「ごちそうさま」と言い、食器を運ぶと、自分の部屋へ戻っていった。すべての子どもが次々に食べ終わると、多くの子は隣のリビングでテレビを観たり、遊んだりして、テーブルには食事に手をつけずにいる僕だけが残った。
葉子「少しでも食べたらどう?」
「まあ、自由にさせてあげればいいさ」
葉子「もう、定一(さだいち)さんはいつも甘いんだから」
「そうかなぁ。ねえ、海斗くん。食べられなかったらもう椅子から離れていいよ。あとは片づけておくから」
そう言われて、僕はテーブルを立った。
定一「そうだ。伝えてあったかな? お風呂は1階ね。一応、夜の10時までだ」
「……」
「トイレや洗面所は、1階と2階の廊下の端にある。好きに使いなよ」
「……」
僕は何も言わずに、食堂を出た。階段の横に玄関があった。正面に掲示物などが貼ってあり、いろいろなパンフレットもあった。何気なく目をやると、ここは、つくば愛育園という施設の中だとわかった。
【 2 ミズキの家 】
部屋に戻ると、ヒロシくんが寝そべって図鑑のようなものを見ていた。僕は来たときと同じ場所に座り、壁にもたれて窓の外を見た。もうすぐ満月になりそうな月が、木々の葉の隙間にあった。
ヒロシ「あの木、知ってる?」
「……」
「ねむの木っていうんだよ」
「……」
「7月にピンクの細かい花が咲くよ。冬は葉っぱが落ちるけどね。マメ科なんだって」
「……」
「この家の入口にあるのは、ハナミズキ。4月終わりにピンク色の花が咲くよ」
「……」
「ミズキ科なんだ。アメリカから送られたって」
「……」
「だからかな。この家、ミズキの家っていう名前なのさ」
「……」
僕は傍に行き、図鑑を覗き込んだ。『図解 花木百科事典』だった。ヒロシくんは花木のことがすごく好きみたいだ。
「僕は将来、庭師さんになるよ。花が咲く木をたくさん植えたいんだ」
「……」
「あのね、僕は小学校に入る前からここにいるよ」
「……」
「8時になったらお風呂に行こうよ」
こう言って、ヒロシくんはまた図鑑を眺め続けた。僕は元の壁に戻って、またねむの木を見た。月はさっきより高く上っていた。
…………
<(低い男の声で)読者の諸君、再びの登場だ。始めから読んできた人には至極容易に理解されよう。33歳のカウンセラーだった泉海(いずみ かい)が、今は12歳の古泉海斗(こいずみ かいと)として児童養護施設での生活を始めているということを。かつての泉は、高校生からの記憶しか持ち合わせていなかった。この謎も十分に理解されたはずだ。目の前で両親が殺害されたその精神的ショックは計り知れないほど大きい。子どもの彼には、それを受け止めるに足りる僅かな耐性さえ持ち合わせていなかった。すべてを忘れるという解離性健忘によって、なんとかこの世で存在する道が開かれた。33歳になり、カウンセラーとして修業を重ねることで、理性はその事実を受け止めるだけの力を備えた。こうして泉は、敢えて自らのこころに潜り込み、事実の受容を成し遂げたのだった。>
<マアヤの事件は痛かったなあ……。泉は、マアヤの精神的安定のほうを優先し、マアヤの叔父を処罰する道を捨てた。この選択の直後に突きつけられた事実は余りにも惨い。その叔父こそが、目の前で両親を殺害した犯人、元少年だったのだ。解離性健忘にもほころびが出始め、時空の歪みに苛まれていた33歳の彼の内的世界は、ギリギリのところで保っていた適応を放棄するしかなかった。こうして両親殺害事件発生の直後の時点に、その事実を忘れた少年として、人生の辿り直しを始めたのだ。12歳の古泉海斗が忘れていたのはそれ以前の記憶だけではなかった。話す言葉の方法さえも……。だが、それと引き換えに、人のこころに潜り込むという“術”を手にしかけていた。この“術”こそが、危険極まりない世の中を生きるためには欠かせないものだと思い知らされたから。のちに心理士ダイバーとして活躍する原点が、彼の最大の悲運にあるというわけだ。>
<つくば市の児童養護施設、つくば愛育園のミズキの家。ここに連れてこられた1人の少年がその何年も後に、大学院生の実習としてまたここを訪れるようになるとは、誰も想像しなかった。ミズキの家は、様々に人と出会い、自分を見つめ直し、新しいアイデンティティを固めていく上での出発点でもあった。>
<彼にまつわる謎は多い。その一端が、ミズキの家での生活によって明かされることになるだろう。ただしこれはさらに重大な謎の一部にすぎないことを、読者の諸君には、忘れないでいてほしい。>
<こころに潜入し読むことが役立つ社会があるということは、人類存在が孕む災いの権化に他ならない。>
…………
ヒロシ「8時になったからお風呂にいくよ。タオルだけ持っていけばいいんだ」
「……」
僕は無言のまま、自分の箱の中からタオルを見つけると、それを持ってヒロシくんの後を追った。ヒロシくんは、相手の返事を期待しないで一人で喋る。そこがなんとも居心地よかった。風呂場に着き、見よう見真似で身体を洗い、浴槽に浸かった。10月の夜には温かくて気持ちがいいお湯だった。
「僕は来年、筑波舞台高校へ行って、もっと植物の勉強をするんだ」
「……」
「僕が一番好きなのはサクラ。サクラの枝は切っちゃいけないんだ。切ったところから腐ってしまう。だからサクラは切られないのさ」
「……」
「ウメは切らないといけないけどね。切らないと春に咲かないからね」
「……」
「サクラ切るバカ ウメ切らぬバカ …… ……」
ヒロシくんはこの言葉を何回か繰り返していた。そして「10分たった」と言って浴槽から出るとタオルで身体を拭いた。僕も同じようにした。ヒロシくんは部屋へ戻ると、パジャマに着替え、押入れから布団を出して敷いた。
「こっちの布団が、君のだよ」
そう言うと、自分の布団の上にうつ伏せになり、また図鑑を見始めた。僕も箱からパジャマを探し出し、着替え終わると、教えてもらった布団を出して敷いた。そしてしばらく、さっきの壁にもたれて窓の外を見ていた。月はもう見えなくなっていた。「ヒロシくんでよかった」と思った。年上の男の人だったが、ヒロシくんに関しては怖いと思わない。
廊下を歩く足音がして、誰かが部屋をノックした。
定一「どうだい? この家で初めての夜だ。困ったことがあったら、ヒロシくんや僕に訊くといい」
それだけ言うと、出ていった。
ヒロシ「定一父さんだよ。父さんは甘いからね」
【 3 龍神への願い事 】
ヒロシ「10時になった。僕は寝るからね」
「……」
「君が寝る時に、電気を消しておいてね」
「……」
僕はきれいに並んだ『ドラゴンボール』が気になって、本棚のほうを見た。中身は知らないが、並んだ背表紙が繋がっていて面白い。一から七までで龍の絵になっていて、それぞれがボールを1つずつ持っている。ボールの中の星マークが1つから7つに増えていく。八から後ろに書かれた人みたいなのは登場人物だろうか……。
ヒロシ「ドラゴンボール、見たかったら見ていいよ」
「やったー」と思い、『ドラゴンボール一』をとった。それをもって布団の上にうつ伏せになった。表紙には、龍に乗った子どもが空を飛び、楽しそうに景色を眺めていた。そしてページをめくった。
「むかしむかしのこと…… この奇想天外な物語は……」という説明があった。尻尾の生えた子どもが、切り取ったらしい太い木の幹に乗って転がしていた。サルの子に向かって「やあ オッス」と喋ると、親ザルにぶら下がりながら「キキッ」と返事をしている。びっくりした。子ザルも「オッス」と返事をしているのがかわった。この変わった子どもは、幹を投げ上げると、ジャンプしてキックした。バラバラになり「薪割りおしまい」と言った。またびっくりした。そして「ハラ減ったな……」と家に入って、ボールに向かって手を合わせ、「じいちゃん エサとってくる」と言った。エサ……?
車に乗って女の子がやってきた。丸いレーダーのようなものを見て「このあたりのハズなんだよね」と言って、何かを探しているみたいだ。
尻尾の生えた男の子は、クマとかトラとかは食べたばっかりだからと言い、高い崖の上から川まで飛び降りたから、またびっくり。服を脱ぎ、尻尾を川につけると、身体の何倍もある大きな肉食魚が食いつこうとした。その瞬間、子どもは魚を蹴り、捕まえると「大漁 大漁」と満足げに道を引きずって歩いた。そこへ女の子の車が猛スピードで飛び込んできて、ぶつかった。
怪物(車)の中から妖怪が現れ、獲物を横取りするつもりだろうと思った男の子は、妖怪を退治しようとする。女の子は応戦し、拳銃で撃った。弾が当たったのだが、「いって~ いてー」と言うだけで怪我もしない。またまたびっくりした。女の子は自分のことを「人間の女」であると説明し、男の子はじいちゃんから「女と出会うことがあったらやさしく」と聞かされていたので、家に招いてご馳走をすることにした。
男の子の家に入ると、女の子はじいちゃんの形見として大切にされていたたボールを見つけ、「あったー ドラゴンボールだ」と叫んだ。中に4つの星があるので、それは四星球だという。女の子は自分のボールを2個出して、二星球と五星球だと言った。そしてこのボールを7つ集めて呪文を唱えると、龍神(シェンロン)が現れ、どんな願い事でも1つだけ叶えてくれるという説明をしていた。こうして2人は、ボール集めに出かけることになる。男の子の名は「孫悟空」で、女の子の名前は「ブルマ」だった。
「へー、こんな不思議なことがあるんだ」と僕の胸はワクワクした。ヒロシくんのほうを見るともう眠っていたので、そこで閉じ、『ドラゴンボール』を枕元に置いて、電気を消した。眠ろうとしたが、龍神が叶えるという願い事のことが頭から離れなかった。僕がボールを集めて呪文を唱えたら、何を願おう……。あれこれ迷った。至った結論は、「誰の記憶にも残らないように、この世から僕の存在を消してください」だった。そうしたらなぜか安心して眠りに落ちた。
翌朝、物音で目を覚ますと、ヒロシくんが動き回っていた。6時半だった。学校へ行く用意をしているのかな。僕は上体を起こした。枕元を見ると、昨夜読みかけのままにしていた『ドラゴンボール』は、本棚に戻されていた。
ヒロシ「朝ごはん行くよ」
「……」
ヒロシくんの後を追い、食堂へ行った。お腹が空いていたので、ごはんを一杯だけ食べた。葉子さんが僕に何か言っていたが、よく聞き取れなかった。朝は、全員一斉で食べるわけではなさそうだ。出かける時間が違うからかな。部屋へ戻ると、ヒロシくんは「学校行ってくる」と言って出ていった。
葉子「海斗くん、今日は新しい学校へ行ってみましょう」
「……」
「7時半に出るから、服を着替え、靴を履いて、玄関で待っていてくださいね」
「……」
予定の時間になったので玄関で待っていると、葉子さんが施設の車を運転してきた。「さあ、乗って」と言われるまま乗ると、すぐに車は走り出した。
葉子「歩いて15分くらいで着くけど、今日は初めてだから、特別に車ね」
「……」
「新しい学校はね、岡下小学校よ。着いたらまず校長先生と話して、そして担任の先生からクラスのお友達に紹介してもらうの」
「……」
「学校の先生やお友達に、少しでも話せるといいわね」
「……」
岡下小学校の校門を通り抜け、玄関の隣に車を停めた。葉子さんは僕を校舎の「校長室」と書かれた部屋へ連れて行った。「トントン」とノックすると中から「はーい」と低い声がした。ドアを開けて入ると、ソファーとテーブルがあった。奥の机には男の先生がいた。
「わざわざありがとうございます。こちらが古泉海斗くん?」
葉子「校長先生。まだ緊張がとれず、なかなか喋れないようですが、どうぞよろしくお願いします」
「わかりました。きっとすぐに慣れますよ」
葉子さんはすぐに帰っていった。
校長「海斗君だったね?」
「……」
「まだ緊張しているのかな。私はこの学校の校長です。今、担任の先生が来ますから……」
間髪入れず、来たところとは違うもう一つのドアをノックする音がし、ノートのようなものを抱えた若い男の先生が入ってきた。
校長「ではよろしく頼みますよ」
担任「はい。…… 私は、君の担任の河出といいます。一緒に教室へ行きましょう。友達がたくさんいて楽しいですよ」
「……」
担任の先生に連れられ、2階の一番奥の教室へ行った。3年A組だ。僕は教壇の横に立った。みんな「シーン」として、好奇心に満ちた瞳を僕のほうに向けた。
担任「はい、みなさん。今日からこのクラスに来た転校生です」
誰かが「わーい!」と言った。
担任「自己紹介をしてもらいましょう。名前を言って、挨拶をしてください」
「……」
「名前は?」
「……」
僕が何も言わないからか、教室は静まりかえった。
担任「名前だけでいいから、言えますね?」
「……」
「名字は?」
「……」
「知らないんですか?」
「……」
「仕方がない。今日はよしとしましょう。先生のほうから皆さんに伝えますね。古泉海斗くんと言います」
児童A「カッケー!」(格好いい名前という意味か……)
担任「みんなに、よろしくお願いしますと言えますか?」
「……」
「これからよろしく、って言ってください」
「……」
「ではもういいです。一番前の隅っこ、あそこの空いている席が、古泉くんの席です」
「……」
「さあ、席について。今日使う教材とか、机の横にかけた袋に入っていますから」
「……」
「はいっ、席についてください」
「……」
「古泉くん! 席に座ってください!」
「……」
先生が僕の手を掴み、引っ張ったので、僕は怖くてたまらなくなった。咄嗟に無言で振り払い、廊下へ飛び出した。そして来たのとは逆に駆け足で戻り、そのまま校門へ急いだ。頭の中は「逃げなくちゃいけない!」でいっぱいになり、一度も振り返らず、家や畑に囲まれた道を一目散に駆け抜けた。途中で息切れがして、道端にしゃがみ込んだ。さっき担任から腕を掴まれたとき、怒った先生の声が頭の中で響いたのだった。
― こいつは頑固な奴だな。こいつのためにも厳しく指導してやらねば。「お前、いい加減にしろー!」と一喝しないといけないな。舐められてはダメだ。次はあの竹刀を持ってこようか。流石にビビって、少しは言うことをきくだろう。 —
そして、竹刀を振り上げる生々しい絵が浮かび、怖くて怖くてしかたがなかった。しゃがむと、手も足も震えていた。手で頭を覆った。どれくらいの間、ここにうずくまっていただろう……。
「やあ、海斗くんじゃないか。さあ、乗った、乗ったぁ~」
聞き覚えのあるその声は、定一さんだった。車の運転席から顔を出して笑っていた。
定一「学校で何かあったかな? 無理しないようになぁ。さあ、家に帰ろう」
「……」
ミズキの家に戻り、自分の部屋に駆け上がった。布団を出して敷くと、その上に伏した。「龍神さん、僕の願いを叶えてください。僕をすぐに消してください」と、何度もお願いした。涙が溢れてきた。
【 4 烙印と僕の生きる日々 】
こうして早々に僕の不登校生活が始まった。きっけかは、「喋らない子」「教師に反抗的な子」という誤解からだ。僕は反抗して黙っていたんじゃない。喋り方がわからなかったのに……。それなのに「頑固」「喋ろうとしない」、つまり「反抗的で厄介な子」という烙印が押された。一度つけられた烙印は、まず消えない。僕は大人たちの習性を本能的に感じ取った。押された烙印によって、その誤りは他の人にまで広がっていく。
今朝の空想がまた始まった。孫悟空とブルマは、ボールを7つ集められるのだろうか。そしてどんな願い事をするのだろう。僕だったら……、とも考えた。浮かんできた願い事は、朝と変わっていなかった。
本の続きが気になった。でも、ヒロシくんは早朝に本棚にそれを戻していた。きっとヒロシくんにとって大切な本なんだろうな。枕元に置かれて嫌な思いをしていたのかな。そう考えると借りるのが申し訳なく、もう書棚に手を伸ばすことができなかった。起き上がり、壁に背を付け、窓から見えるねむの木に手を合わせた。「龍神(シェンロン)さん、僕を早く消してください。お願いします」と、木に向かってこころの声で喋った。
「海斗くーん、部屋かい?」と言いながら、定一さんが入ってきた。
「学校で何かあったかぁ?」
「……」
「辛かったらなぁ、そんなところからは逃げるんだ」
「……」
「堂々と逃げるんだ。いいかい? 逃げることは悪いことじゃない」
定一さんが去ったあと、僕はとても不思議な気持ちになった。温かい涙が頬を伝った。あんな男の人もいるんだな……。僕は何も言っていないのに、分かってくれていた。
落ち着きを取り戻すと、窓から見えるねむの木のところへ行きたくなった。そっと階段を降り、食堂の近くを通って玄関へ出ると、定一さんが葉子さんに何か説明しているような声が聞こえた。
初めてねむの木の根本に来た。下から見ると大きいな。下の方には枝がない。見上げると、枝分かれの先に細長いたくさんの葉が連なって、伸びやかに広がり、垂れているものもあった。その先端には真っ盛りのピンクの細い花がついていた。見る位置によって印象はまったく変わるんだな。僕があの学校から逃げたことは、きっと悪い事じゃない。不思議とそんな感じがしてきた。
目の前の幹を見た。薄い緑色と白が混ざったような色で、ツルツルとしている。白っぽい斑点のようなものも見えた。きっとヒロシくんは、この枝のことも知っているんだろう。ちょうどナナホシテントウムシが歩いているのを見つけた。指で掴んで手のひらに乗せたら、黄色い汁を出した。そして歩き回り、指先までいくと、飛んで行った。液の臭いを嗅いだら、臭かった。
身の回りには知らないことがたくさんある。いろんなことを知りたい。施設の中を歩き回り、探検することにした。知らない木や花、虫たち……。
大きな音を立てて、一台の車が施設の門を入って来た。中には小学校で見た先生が乗っている。探しに来たのかな。僕は見つからないように木々の奥へ進んだ。運転していた先生の顔を思い出して目を瞑ると、そこは蒼い水の中だった。淡くボーっと光るものがある。これは何色だろう……。白っぽいような黄色いような。淡い茶色も混じっている。前に何かの本で見た狐を思い浮かべたので、「狐色」と名付けた。その光を右手で触ると、校長の声が聞こえてきた。
― 本人のために、学校と養護施設で指導を一貫、徹底し、学校生活に適応させなくてはいけない —
怖くなって目を開けた。連れ戻される……。「本人のために?」と聞こえたけど、僕のためだったら大人の力で引っ張らないでほしい。無理に喋らせないでほしい。竹刀なんて怖いこと考えないでほしい。定一さんの「逃げることは悪しことじゃない」の言葉を思い出すと元気が出て、僕は茂みの中で探検を続けることにした。学校へ行かないで生きるのも、こうして自然と触れ合えれば十分だ。この施設の中は、好奇心を掻き立てるものがいっぱいある。このワクワクした気持ちは、龍神への願い事を一時的に忘れさせてくれる。
さっきのテントウムシが出した黄色の液がついた手のひらを見た。これは何だろう? 調べてみたい。さらに足元を見ると、蜘蛛やダンゴムシ、蟻が動いている。深い茂みの下に、キノコのようなものも生えている。もうひとつ向こうの茂みのほうへ顔をやると、誰かと目があったような気がした。誰かいる? いた! 黒猫だ! 身をすくめ警戒しているようだった。
「僕は君と友達になりたい」と、こころの声で喋りかけた。するとその猫は耳を動かした。猫の鳴き真似をしてみた。
「………ぁ…」
その声はかすれていたけれど、ちょっとは音になっていたかな。もう一度……。
「ゃ……ぁ……」
すると黒猫は「みゃあーーお」と返事をして、どこかへ歩いていった。猫とは話ができるかもしれない。人間を怖がっているとしたら、僕と同じだ。
施設内の隅々を探検して、ミズキの家のほかにも、3つの家があるのがわかった。そして、人が立ち入らないような秘密の場所がたくさんあることを知った。そこには、人間には気づかれない、いろんな命が息づいていた。
駐車場を見ると、もう学校の車はなくなっている。部屋へ戻り、布団の上に仰向けになり、目を瞑る。さっき見てきた多くの生き物の姿が蘇った。
【 5 宝物 】
定一「戻ったようだね」
「……」
定一「ちょっと入らせてもらうよ」
学校のことを何か言われるのかと思ったが、違っていた。
「海斗くん、何か欲しいものはあるかな?」
予想外の質問にびっくりした。
「君は何も持っていなかったから、きっと退屈だろう。ここに来たお祝いに何かプレゼントするよ。好きなもの、興味のあるものはあるかい?」
「……」
「なんでもいいさ。教えてくれるかぁ?」
僕は、考えた。僕が欲しいもの……。「ああ!」と思い立ち、起き上がるとヒロシくんの本棚に近づき、『花木百科』を指さした。
定一「君もその図鑑が欲しいのかい?」
僕は首を横に振った。
「違う図鑑が欲しいのかな?」
縦に振った。
「どんな図鑑だろう?」
ノートと鉛筆を取り出して、絵を描いた。テントウムシ、ダンゴムシ、蟻……。
「昆虫図鑑かな?」
さらに書き続けた。キノコ、猫、ねむの木の花、木の幹……。
「生き物図鑑かな?」
車、月、雲、そして海、化石……。
「なんでも乗ってる図鑑だな?」
僕は勢いよく、首を縦に振った。
「それなら百科事典がいい! よーし、父さんが、探してきてあげるよ」
嬉しくなって、思わずニコッとした。定一さんには、喋らなくても通じる。そういえば、ヒロシくんにも似ているところがある。定一さんは、すぐに車に乗って出かけていった。僕はまた壁にもたれ、窓から外の世界を眺めた。
いつのまにか、うとうとしていたらしい。定一さんの階段を上る音で我に返った。
定一「さあて、これはどうだい?」
大きな紙袋を持っていた。中から取り出される分厚い本。1冊、2冊、3冊……、、。たくさんだ! 僕も近寄って出すのを手伝った。全部で10冊もある。第一巻が「動物」、第二巻が「植物」、順に「昆虫」、「魚」、「両生類・爬虫類」、「鳥」、「水の生物」、「星と星座」、「宇宙」、「地球」だった。中を開くと、絵や写真がたくさん載っていて、わかりやすかった。
「心配するなよー。家にあったものだ。もう使わなくなったから、今日からは君のものだ」
僕は嬉しさまのあまり、小さくガッツポーズをした。早速、テントウムシを調べてみた。黄色い液はお尻から出していると思っていたが、違っていた。足の関節部分の膜を破って出しているとのこと。臭くて苦いのは、天敵の鳥などに食べられないようにするためだった。僕が熱心に調べているのを見て、定一さんは笑っていた。
さっそく、「昆虫」を持って、外へ出た。さっきの場所にダンゴムシがいた。図鑑で調べると、正式名はオカダンゴムシだった。足は左右7本ずつで計14本。生まれた頃は12本で、大きくなると増える。落ち葉などを食べて土を肥やしにする働きがある。
これさえされば、施設の敷地内のどこでも、部屋の中でも、気になったものを確かめることができる。やったー、僕の宝物だぁ! 定一さんにお礼を伝えてなかったので、急いでミズキの家に戻った。事務室のようなところにいたので、開けてあったドアをトントンと叩いてから、頭を下げて礼をした。
「そっかー。気に入ってくれたか。よかった、よかったぁ」
僕は定一さんが大好きだ! 部屋に戻る途中、何故かまた目に涙が溜まっていた。
【 6 声 】
夕方、ヒロシくんが帰ってくると、すぐに僕の本棚の百科事典に気づいた。
「わー! 辞典だー」と言い、僕の本棚に駆け寄った。
「この植物、見てもいい?」と言うなり、もう手にとっていた。そして自分の机の近くに座って開いた。気になるページをじっと見ていた。「ヒロシくんらしいな」と思った。夕食の時間になるまで、ずっと見続けていた。
この日の夕食、僕はご飯とみそ汁だけ食べた。葉子さんはもう、昨日みたいには喋ってこなかった。そのほうが落ち着くので、いいな。
食事が終わると、定一さんがギターを持ってきた。そのまま庭に出て、木の切り株の椅子に座った。そして何かを弾こうとしていた。僕は少し離れた切り株に座った。聞きたかったから……。定一さんはギターを伴奏に、いろいろな曲を歌い出した。何曲目かにさしかかったとき、僕の全身に突然、電撃が走ったような感覚を覚えた。そして、視界が暗くなると、光の粒が僕の身体の中から次々と生まれ、やがて粒が上下に連なって天空まで届くほどに伸び、この曲が頭蓋に響き始めたのだ。そう、この歌を知っている! 忘れていたが、僕にはとっても大切な歌のはずだ!
♬ 貴男は もう忘れたかしら
赤い手拭 マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって 言ったのに
いつも私が待たされた
洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴男は私の 身体を抱いて
冷たいねって 言ったのよ
若かったあの頃 何も恐くなかった
ただ貴男の優しさが 恐かった
貴男は もうすてたのかしら
24色のクレパス買って
貴男が書いた 私の似顔絵
うまく描いてねって 言ったのに
いつも一寸も 似てないの
窓の下には神田川
三畳一間の小さな下宿
貴男は私の指先見つめ
悲しいかいって 聞いたのよ
貴男は私の 身体を抱いて
冷たいねって 言ったのよ
若かったあの頃 何も恐くなかった
ただ貴男の優しさが 恐かった ♬
(出典:神田川/作詞:喜多條忠 作曲:南こうせつ)
「わーーーーん!」「わーーーーーーん!」「ひっ、ひっ……」
僕は大きな声を出して泣いた。
定一「この歌、知ってるのかい?」
「うん……」
「海斗くんの、とっても大事な歌のようだ。この歌で、君は声を取り戻したようだなぁ」
「うん……」
定一さんは、近くに来て言った。
「神田川は、定一父さんにとっても大事なんだ。若い頃にいろいろあってね。みんな一緒なんだなぁって慰められたよ」
「……」
「貴男はもう、って女性が言っているような歌詞だけど、作詞者はね、男でも女でもどちらでもいいって言ってたんだってさ。この時代は、若者の間で男の長髪が流行っていたんだ」
「僕のパパは?」
「覚えているのかい?」
「これ、いつも歌ってたから」
「海斗くんのお父さんが神田川を歌っていたの? 思い出したのかい?」
「うん……。神田川散歩して、パパがよく歌ってた」
「そうかぁ。神田川の近くに住んでいたのかなぁ」
「うん。パパと手を繋いで歩いて」
「そうかぁ。優しそうなお父さんだなぁ」
「うん。優しい」
「パパは、この歌のどこが好きだったんだろうね」
「最初のところ……」
「貴男はもう 忘れたかしら、かぁ」
「うん……。僕にそう言ってる」
「ん? 海斗くんに、海斗はもうパパのこと忘れたかな?って、そう言いたかったのかなぁ」
「うん……。今も言ってる……」
「そうなんだぁ」
「だから忘れてた……」
「でも、また思い出したんだね?」
「うん……。パパはどうしてここにいないの?」
「海斗くんは、パパが今どこにいるか知らないんだね?」
「うん……。定一さん知ってる?」
「……」
「ねえ! 教えて!」
「もしかしたら、あのお星さまになって、見ているかもしれないな……」
「お星さま……。違う! パパはどっかにいる!」
「そうだね……。よくわからないよ」
「神田川にいるのかな?」
「それはわからないなぁ」
鼻をすする音がした。目をやると、近くの樫の木の枝に座った女の人が、すすり泣いていた。僕たちの話を聴いていたようだった。
「ねえ、あの人、誰?」
「同じ家の高校生のお姉さんだよ。ほら、夕食のとき、いただきますって挨拶していただろ?」
「うん……。高校生……」
「2年生だなぁ」
「名前は?」
「ユリ、山下ユリ、っていう名だよ」
【 7 樫の木で 】
「どうして泣いているの?」
定一「優しい子だからだよ」
「うん……」
「さあ、そろそろ中に入るよ」
定一父さんがそう言うと、ギターを持って家に入っていった。僕は樫の木のところへ行き、「ありがとう」と言いながらユリ姉さんの頭を撫でた。彼女は涙を拭い、顔を上げて「大丈夫」とほほ笑んだ。
僕も家に戻った。階段を上る途中で、定一さんと葉子さんが喋っている声が聞こえた。深刻そうだった。
部屋では、ヒロシくんが百科事典の「植物」を見ていた。
「借りてるよ」
「いいよ」
僕が声を出したので、ヒロシくんは一瞬驚いたように目を丸めて僕の顔を見、また本に戻った。僕は壁にもたれ、さっきの定一さんたちが喋っている声に注意を向けた。すると、またあの蒼い水の世界に包まれた。狐色の光るほうに手を伸ばすと聞こえるかもしれない、と思って……。
― 定一「海斗の両親が亡くなったのは、土浦でしたよね?」。葉子「そうですよ。神田川にいたなんて、きっと作り話をしているのよ」。「そうかなぁ、真実を思い出して語っていたとしか思えないんだが」。「深く考えすぎないほうがいいわよ」。「念のために、児相に、海斗くんの転居歴について照会してみようと思う」。「あんまり余計なことしないほうがいいわ」。「それにしても、両親が亡くなったことをうまく伝えられなくて、辛かったなぁ」。「定一さん、気が小さいんじゃない? 私から話そうか?」。「いや葉子さん、それは待ってくれないか」。 —
そっか、僕のパパもママも、土浦で死んじゃったんだ……。だから僕だけでここにいるのか……。
その日の夜はずーっと、声を出さないように苦労して、泣いた。なかなか寝付けなかった。「龍神(シェンロン)、助けて。僕もパパとママのところに連れていってください」。そう祈って両手を組んだ。
翌日の朝、異変が起きていた。葉子さんの誰かを叱る声で目が覚めた。同じ2階の、階段を挟んで反対の方向から聞こえてくる。そっと近づき、そこがユリ姉ちゃんの部屋であることがわかった。
葉子「そんなことで、学校休んじゃだめ。あなたは頑張り屋さんなんだから、できるわ!」
ユリ「ごめんなさい……。今日だけ……」
葉子「胸が苦しいのなら、病院に行きなさい」
ユリ「大丈夫。休めば治ります……」
葉子さんが出てきそうだったので、慌てて自分の部屋に戻った。ユリ姉ちゃんが可哀そうだった。葉子さんがそのまま僕の部屋にも顔を出したのでびっくりした。
葉子「海斗くん! 呼んでも降りてこなかったから、朝食は片づけましたからね」
「……」
そっかぁ、僕は寝坊をしたんだな。ヒロシくんも学校へ行っていて、もういなかったし。
その後、百科事典を見る気持ちにもなれず、壁にもたれて窓の外を見ていた。この日は曇っていた。ねむの木の茂みの中から、神田川に沿って歩きながら聞いたパパの歌声が響いてきた。
お昼のおにぎり、まだできていないかな。そう思って廊下に出て反対側の窓から外を見ると、玄関の屋根の先、樫の木の曲がった低い枝に座る、ユリ姉ちゃんの姿が見えた。部屋へ戻り樫の木を図鑑で調べると、樫や楢などを総称してオークといい、その花言葉は「強さ」だった。昨夜のすすり泣きの後の「大丈夫」の言葉が、思い出された。僕は急いで樫の木へ向かった。
ユリ姉ちゃんが樫の木に座るのは、本当は弱いからだ。
樫の木まで走っていき、ユリ姉ちゃんに「昨日はありがとう」と言った。促されて、隣に座った。
ユリ「海斗くんの両親、きっとどこかにいるわよ」
「天国に行ったんだよ」
「そうなの?」
「うん。定一さんたちから聞いた」
「つらいわね……」
「全然覚えていないんだ。パパの歌う神田川だけだよ」
「優しいパパだったのね」
「多分……」
「ユリ姉ちゃんは、パパやママのこと覚えてる?」
「うん……、少し……」
そう答えながら一瞬曇った瞳を、僕は見逃さなかった。その目を見ていると、吸い込まれるようにして蒼く広い海の世界に潜っていた。そうしながら、深いところまで泳いでいかなくていけない責任があるような気がした。ひれのようになった足をくねらせて潜っていくと、小さく、けれども強く光を放つ、狐色の玉が見つかった。しばらくじっと見ていたが、その鋭さに目が眩み、思わず右手を伸ばしてそれを包んでみた。
【 8 初めて話せるということ 】
聴こえる……。
― (男の声)絶対に秘密だよ。(ユリ)うん……。ほんとは嫌。触らないで。脱がさないで。見ないで。汚いことしないで。痛いことしないで。……ごめんなさい……。言うこときくから怒らないで。パパのこと好き……。ユリはパパのいい子になるよ。なんでもできるよ。だからママを叩かないでね。ありがとう、パパ……。私は大丈夫よ。秘密、守るよ。 —
よくわからない部分もあったが、なんとなく置かれている状況が伝わってきた。僕の心臓はバクバク鳴った。これをユリ姉ちゃんに確認していいのだろうか。とても躊躇っていた。
ユリ「どうしたの? 海斗くん」
「……。なんでもないよ」
「顔色が悪いわ」
「……」
「私のこと心配しているの? それなら大丈夫よ」
「ユリ姉ちゃん! 大丈夫じゃないよー!」
僕は意に反して声を荒げてしまった。そして涙を止めることができなかった。どうしてこんなに優しい人が、こんなに惨い経験をしていなきゃいけないんだ。子どもながらに理不尽さを悟り、悔しくて悔しくて……。
「あのぅ……、ユリ姉ちゃん、どうしてここに来たの?」
「家で生活するのが良くないって、そう判断されたの」
「パパやママが悪いことするから?」
「悪いことっていうより、ちゃんと子育てしなかったからかな。児相の人が、ネグレクトって言ってたんだ……」
「ネグレクト……?」
「海斗くんには難しい言葉ね。育児放棄のことよ」
「それだけなの?」
「そうね。児相の人たちはそう言っていたわよ」
「……(涙が益々こぼれる)」
「どうしたの? 海斗くん……」
「誰にも言えないよね……。言っても信じてくれないかもしれないよね」
「えっ! なんのことかなあ……」
「……いいんだ。思い出すと、ユリ姉ちゃん可哀そうだもん」
ここまで言うと、ユリ姉ちゃんは急に重い雰囲気に変わった。それまで見せていた笑みは消えた。元気に笑い、まじめな生徒になって、悪夢の時間を忘れようとしていたんだなあ。
「誰にも言えないことがあるの」
「あんな酷いこと、言わなくていいよー!(涙)」
「海斗くん、知ってるの?」
「ごめんなさい、ユリ姉ちゃん。知っちゃった……」
「誰も知らないことなのに、どうやって知ったの?」
「……、ユリ姉ちゃんの目から、伝わってきちゃった」
「どんなことが伝わったかな?」
「言うの、可哀そうだよ」
「私は教えてほしいわ」
「……」
「お願い。海斗くん」
「あのね……」
「ええ」
「ユリ姉ちゃんのパパがね、ユリ姉ちゃんにすごく嫌なことをしていた」
「すごく嫌なこと……」
「嫌だけど、パパの機嫌が悪くならないように、パパのこと好きだって言って……、我慢して、それでパパのする通りに任せてた」
「嫌なこと……」
「言いにくいけど、いやらしいこと……。パパから秘密だよって約束させられてた」
「そうよ………、本当よ……(しくしく)」
「ごめんなさい……」
「誰にも言ってこなかったこと、たくさんあるの……」
「うん……」
「ここで、少しずつ、海斗くんに話していくかもしれない」
「いいよ。そうしないとユリ姉ちゃん潰れちゃう気がする」
ユリ姉ちゃんは、しばらくの間シクシクと泣き続けた。昨夜、僕の両親が生きていないことを漏れ聞いて、それがきっかけとなって泣いてくれた。それが今日の学校を休むことに繋がったのだと思う。
【 9 2人だけの秘密 】
その日から、ユリ姉ちゃんが学校から帰った夕方、僕とユリ姉ちゃんは樫の木の枝に座り、2人だけの話をするようになった。
ユリ「海斗くんは私の話を信じてくれた。というより、言う前に察してくれてた……」
「勝手に想像してごめんなさい」
「いいえ。初めて言えて、本物の元気が出てきたわ」
「本物の元気?」
「そう。今まではただ忘れようとして、大人が喜ぶようなことをしてたの。でも、昨日の夜、話を聴いてもらって、胸のつかえが取れた感じがするの。私のしたいことをやりたい、って気持ちが出てきたの」
「そうなの? よかったぁ。したいことあるの?」
「ええ。つらい人のこころを感じ取れるようなカウンセラーになりたい。そのために勉強したい」
「すごいね、ユリ姉ちゃんは」
「海斗くんは、もう既にすごいわよ。私の目から感じ取っちゃうんだから」
「違うんだ。不思議なんだけど、ここに来てから、人の目を見たり、その人のことを思い出したりすると、頭の中で喋っている声が聞こえてくるんだよ。どうしてなのかわからないけど……」
「きっと、目の小さな動きを読み取る観察力が凄いのね」
「そうなのかなぁ。でも自分のことはほとんどわからないんだ……」
「神田川を歌うパパと散歩していたのを思い出したのよね?」
「そうだよ。神田川の横を歩きながらね。パパが、好きな歌なんだって言ってた。定一さんが歌ってくれて、急に思い出したんだよ。そうしたら、忘れてた喋り方を思い出したんだ」
「そう……。神田川って、東京にある川のこと?」
「どこにあるのかわからないけど、ここよりは都会だったような気がする」
「歌いながら散歩してくれるんだぁ。優しいパパだったんだぁ」
「うん! でも、パパもママも死んじゃったんだ……」
「辛いね……(涙)。どうしてそんなことに……。あっ、ごめんなさいね」
「いいよ。理由はわからないや。でもユリ姉ちゃんが聴いてくれるのは、ちょっと嬉しいよ」
「そうなのね……。カウンセラーってね、人の話を聴いて、その人の気持ちがラクになるようにするのがお仕事なの」
「いいなー……。ユリ姉ちゃん、カウンセラーになって、また僕の話を聴いて」
「うん! 頑張るわ。海斗くんも、カウンセラーに向いていると思うな」
「ほんと?」
「ええ」
「なれるのなら、なりたいな……」
「ねえ海斗くん。これ2人の秘密にしない?」
「これって?」
「カウンセラーになることよ」
「うん! する!」
「大人になって、カウンセラーになったら、また会えるものね」
「うん!」
「カウンセラーになるには、どうしたらいいの?」
「そうね。大学で心理学っていうのを勉強して、そのあと大学院に行ってまた勉強するのよ」
「たくさん勉強するんだね」
「そうよ。海斗くんとの秘密ができて、私、頑張れそうな気がする」
「うん、ユリ姉ちゃんならできるよ。優しいもん!」
「ありがと……(シクシクと泣き出した)」
「姉ちゃん……」
この日、話し終わって部屋に戻ろうとしたとき、1階の部屋で定一さんと葉子さんが喋っていた。階段を上り、定一さんの顔を思い出すと、また周囲が蒼い世界に変わり、定一さんの声が響いてきた。
― 児相に確認したところ、土浦に来る前は神田駅の近くの家に間借りしていたそうだ。両親で小さな印刷・出版業を手伝っていたが、経営が傾き、解雇されたそうだ。それで知人を頼って土浦に引っ越し、レンコン畑を引き継いだ。だが、引っ越して僅か2か月足らずで、あの事件が起きてしまったということだ。 —
やっばりそうだったんだ。僕はずっと神田川の近くにいたんだ。パパやママと一緒に……。土浦に引っ越して来なかったら、今もパパやママと一緒に暮らしていたんだ……。
< 第十三話 完 >
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?