diver 第一部 第三話
diver 第一部 第三話
【 1 ニュース 】
今年の東京は梅雨末期の大雨が少ない気がする。去年が、全国的にあまりにも激しかったためにそう感じるだけなのかもしれない。それにしてもすっきりしない天気が続く。7月とは思えない肌寒い日もあった。いずれ梅雨が明けると、地球温暖化と歩調を合わせたような酷暑に見舞われるのだろう。米国の大統領が言い放った「地球温暖化はフェイク・ニュースだ」は、誰にも信じられていないフェイクだ。テレビやネットから流れるニュースをそのまま鵜呑みにはできない、情報が交錯するややこしい社会になった。
テレビのニュース番組を観ながら、内容そっちのけに「情報量と情報リテラシーのアンバランス」について、あれこれ物思いに耽っていた。そういえば、今日は土曜日だ。明日はカウンセリングの仕事はお休みにしたから、大雨でなければどこかに出かけようか。久しぶりに海が見たいな。映画「海獣の子供」の舞台となった新江の島水族館にでも行ってみようかな……。本物のイルカと喋りたい。
ふいにテレビから緊急ニュースを知らせるアラーム音が鳴った。テロップに「神奈川県内東名高速道でバスジャック。人質が多数いる模様」と流れていた。僕は覚醒し、関心をテレビの続報に移した。
しばらくして、各チャンネルとも続々と放送内容を変更し、この事件を伝える緊急番組に変わった。警察の発表も加わり、刻々と詳細が判明していく。テレビ局などが飛ばしたヘリコプターが、神奈川県海老名市の東名高速道路を上り方面へゆっくりと走る高速バスの姿をとらえていた。僕たちはその映像を見ているわけだ。バスの前後を多数の警察車両が走る。神奈川県から東京インターチェンジの区間は既に閉鎖されていた。警察の調べで、このバスは水井交通バス会社の定期便で、静岡駅から東京駅へ向かっており、乗客が33名いることが明らかとなった。予定では午後7時17分に東京駅日本橋口に到着する。すでに8時を過ぎており、なぜ遅れているかについては不明だ。
僕は固唾(かたず)を飲みながらこの放送を観守るのだろうと思っていた。のちにとんでもない巻き込まれ方をすることになろうとは、まったく予想していなかった。
ヘリコプターに乗る記者が、「バスは50キロぐらいの低速で走っている模様です。緊急事態発生中の文字が、空からもはっきりと見えます」と、興奮気味に繰り返していた。今の公共交通の多くは、過去に起きたバスジャック事件や運転手の体調不良による事故などの教訓から、車内に異変を感じた際に運転手や乗客が緊急ボタンを押せる仕組みになっている。そのエマージェンシー・シグナルを見た人が110番通報することで、いち早く警察に知らせ、その車両を特定することができ、早期の解決に資することになる。
スタジオの報道アナウンサーは、警察が発表した資料を見ながら説明していた。立ち寄った静岡県足柄サービスエリアを出発し本線に合流したところで、シグナルを見た他の車両から最初の110番通報が入り、以降続々と通報が寄せられたという。そのときからバスは40キロ~50キロの速度でゆっくりと走っていた。静岡県警はすぐに神奈川県警と連携し、緊急配備についた。警察車両が続々と到着し、停止を指示したが止まらないため、前後に着いて伴走する状態になったのだった。
バリケードを張ればいいじゃないかと思う人がいるかもしれない。だが、安全確保という点からはどうだろう。バリケードでバスの進行を妨げたら、事故を起こすかもしれないし、犯人が興奮して何かをするかもしれない。今の段階では、犯人がいるのか、いるとすればどんな人物なのかすらわからない。凶器を持っているかもしれない。警察にとっては、乗客や乗務員の命を守るために、伴走して様子をみるしかないようだ。
静岡市に本社があるバス会社広報部による会見情報も入ってきた。このバスには無線機が取り付けられているし、運転手に緊急連絡用の携帯電話も持たせているのだが、会社から連絡をとっても応答がないという。なお、運転手は51歳の男性で、25年以上のキャリアを持つベテランだそうだ。そして、乗客名簿によると、乗客33人のうち男性が23人、女性が10人で、そのうち未成年者は5歳の女児1人、12歳男子1人、14歳男子1人、17歳女子2人、19歳男子1人の6人。氏名は公表されていない。バスの定員は補助席なしの45人だった。およそ4分の3の座席が埋まっていることになる。
足柄サービスエリアを出てからずっと低速運転をしていたから、予定時刻が大幅に遅れ、今頃、海老名市を走っているのか。このまま走り続けると、横浜町田インターチェンジ、港北パーキングエリア、横浜青葉インターチェンジ、東名川崎インターチェンジ、東京インターチェンジを通り、首都高速3号渋谷線に繋がり、渋谷、六本木、そして霞が関のほうへ来る公算が高い。しかし東京インターチェンジには料金所があり、ETCを搭載したバスは徐行してゲートを通らざるをえない。このときがチャンスか……。
僕はすっかりニュースにのめり込み、勝手にプロファイリングを進めていた。もちろん、これだけの情報で、特段目新しいことがわかることはない。僕が漠然と描いた仮説は、犯人は少年か若者で男性、刃物で運転手を脅して運転させている、外部との通信機器を切らせている、子どもや女性を人質にとっている、男性乗客を後部座席に移動させている、乗客の携帯電話など通信機器は没収している、そして犯人は焦っている、のような誰もが考えることである。最近「拡大自殺」事件が多発していたので、全員が無事で一見落着となることを祈っていた。
犯人の顔が見えれば、そのこころに潜入できるかもしれない。それが事件の解決に役立つかもしれない、とも思った。
【 2 心配とけんか 】
今夜はマリさんの帰りが遅いなぁ。心配になった。「潜水士」の記事を書くために、静岡のほうへ取材に出ることは聞いて知っていた。「帰りは8時過ぎ」と聞いていたのに、もう10時を回っている。
まさか、あのバスに乗っているってことはないだろうなぁ。
「絶対に違う」と言い聞かせるが、それを思いついたら不安が込み上げてきた。もし乗客名簿が公開されて、その中に「山下マリ」の名があったら、僕はどうするだろうか。ここで待っていられるだろうか。警察署の対策本部に行くかもしれない。「家族です」と。
アナウンサーが「バスは横浜町田インターチェンジを通過しました」と言った。解説者が「仮にこのまま移動し続けるとしたら、ガソリンはあと何時間もつのでしょう」と疑問を投げかけ、「バスが動けなくなった時に何か起こるかもしれないですね」と続けた。そのあと、高速バスに詳しい専門家が出てきて「このバスは恐らくスーパーハイデッガーと考えられ、この速度で高速道路を走り続けてもあと400キロくらいは走れるかもしれません。東北自動車道に入れば宮城県まで行ってしまうかもしれません」と、予測した。
バスは、港北パーキングエリアを過ぎ、横浜青葉インターチェンジに近づいていた。このあたりの地中深くで、リニア新幹線のトンネルを掘るのだな。それにしても警察は何もできないのだろうか。
マリさんはあのバスに乗っていないよね。心配を鎮めることができず、僕はマリさんの携帯電話にかけてみた。着信のオルゴール・メロディーが鳴っている。米津玄師の「海の幽霊」だ。映画『海獣の子供』のエンド・ロールで流される。「ん?」、「幽霊……?」。「海……?」。よく一抹の不安と言うが、僕のそれは一万抹の不安だ。マリさんが電話に出ない。
行かなくちゃ!
まもなく東名川崎インターチェンジを通過する。乗客の家族らは、どこへ行っているのかな。僕はどこへ行ったらいいのか。とりあえず万世橋警察署にでも行ってみようか……。
ここで、マリが帰ってきた!
「あーー、遅くなっちゃったぁ」
ドアを開け、僕は言った。
「もう、マリさん! すごく心配したんだから!」
「あらごめんなさい。何がそんなに心配なの?」
「バスジャックの被害に遭ったんじゃないかって。今日は静岡のほうへ行くって言ってましたよね」
「ええ、そうよ。三保の松原へ行ってきたわ」
「バスジャックのバスに乗っているかと思いましたよ!」
「私は静岡駅までは往復新幹線よ」
「もうーーー!」
「泉さん、なにをそんなに慌ててるの?」
「ほら、こっちのテレビを観てごらんよ」
「入っていいのかしら?」
「ええ」
「では失礼しまーす」
「ほら、テレビ、緊急放送中ですよ」
「えーー、知らなかった。本当にバスジャックが起きてるのね」
「そうですよ。静岡発東京行のバスです」
「わかったわ。私の帰りが遅いから、静岡発のこのバスに乗っているかもしれないって思ってしまったのね」
「そうですよ」
「でも、ほら。私、ピンピンしてるでしょ?」
「はい。でも電話したのに、『海の幽霊』が流れるし……」
「うふふ。お気に入りの歌よ。電車が混んでて、きっと気がつかなかったのね。マナーモードだもの」
「それより、テレビ見てください。このあと、バスはどうなるのかな。被害者はいるのでしょうか? 犯人をなんとか止めたいです」
「うーん。そうね……」
「どうかしましたか?」
「泉さん、また自分がなんとかしたいって、考えていない?」
「考えちゃいます」
「私、怒りますよ!」
「泉さんには、やることがあるでしょ!」
「仕事ですか?」
「自分のこころを見つめることよ!」
「はい、それもやります! でもこれも何とかしたいんです!」
「私の気持ちをわかってもらえないのなら、もう話しません!」
マリさんの強い言葉が残った。2人とも黙り込み、テレビの声だけが僕のダイニングキッチンに響いた。僕はマリさんの前に出ると子どもみたいになってしまうんだな、と改めて思った。
【 3 伝説の地 】
マリさんは三保の松原まで出かけていたのか……。古くから万葉集に詠まれたり、広重が描いたりと、人々のこころを魅了してきた場所だ。2013年、富士山がユネスコの世界文化遺産に選ばれるとき、三保の松原も含めるかどうかで揉めていたな。ここから望む富士山や伊豆半島の眺望と、数万本の松林、砂浜、白波の構図がすばらしいとされ、結果として「富士山・信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産として世界遺産登録されたことは記憶に新しい。
三保の松原には、羽衣の松と呼ばれる樹齢数百年のクロマツがある。今の羽衣の松は、三代目だそうだ。全国にこうした羽衣伝説が残っている。ここ三保半島は、空から降りてきた天女(白鳥)が着ていた羽衣を脱ぎ、松にかけて水浴しているところを漁師が見つけて衣を持ち去ろうとするが、天女から「それがないと戻れません」と懇願され、「天の舞を見せてもらう」ことと引き換えに衣を返し、天女は戻っていったとするいわゆる「昇天型」のもの、ハッピーエンドだ。
現実には、三保の松原も松枯れが激しく進み、その対策に力が入れられている。海岸の浸食も進んで砂浜が消える危機に陥り、それを止めるための防波堤が設置されている。
以前、マリさんは「潜水士」について調べていると言っていたが、どうやら何年か前にこの砂浜で男性の溺死体が発見されたらしい。しかしその死体が行方不明になり、天と地の間で彷徨っているいるとの「新しい伝説」が生まれていた。その男性が潜水士だったらしいのだ。マリさんは言い伝えられていることすべてが単なる伝説ではなく、実際に起きたことも含まれるのではないかと思い、調べているようだった。「ダイバー伝説」に立ち向かっているのだった。
なぜなんだろう。マリさんの、この潜水士への強い関心はどこから来るのだろう。
僕とマリさんが言い合いをしてから、しばらくは沈黙を保ちつつテレビに見入った。バスは東名川崎インターチェンジを通過した。もう少しで東京に入り、東京インターチェンジに達してしまう。ここで一般道に降りるのか、料金所のバーをくぐり首都高速へ入るのか。状況を報じるテレビの声は大きくなり、警察の動きも慌ただしくなってきたようだ。バスが動いている限り、警察は思い切った行動に出られない。一般道に降りれば、規制が十分にかけられず、事故の発生率が高まる。高速道路を走り続ければ、長期化が予想された。僕は徐々に報道に集中し、マリさんと軽い衝突を起こしたことは忘れていった。そもそも、衝突かどうかあやふやだった。
マリさんが伝説の地から無事に帰還したのだから、それでよかったのに。そんな後悔もあったが、今は意識からはじき出されていた。
バスがいよいよ東京インターチェンジに差し掛かる! どっちを選ぶ? ……、そのまま直進だ!
「そっちでよかったー」
僕は思わず声に出した。マリさんは黙っていた。
「料金所はどうなる?」
バスはゆっくりとETCのバーを通過した。用賀から首都高速に入ることになる……。ここでヘリコプターから中継する記者の声が一段と大きくなった。「バスが、徐行しています! ここで、左へ向きを変えるようです! 用賀パーキングエリアに入っていきます!」。バスが停止すると、少し離れて、警察車両が周囲を取り囲んだ。
マリさんは一言も発していなかった。僕が事件のほうに関心を向けているのとは対照的に、マリさんのこころは僕に向いていたようだ。
「伝説の地」を訪ねてきたばかりのマリさんは、単なるテレビの一視聴者ではなかった。
【 4 若者と人質 】
車両から多数の警察官が降り、バスを包囲したが、突入する様子はない。しばらくすると、運転手が窓を開け、手招きをしたようだった。武装した警察官が近づき、何か話している。しかしすぐにバスから離れ、大きな警察車両のほうへ戻った。ここに現場の指令室が置かれたようだ。天井からパラボラアンテナを出していた。テレビの映像は、用賀パーキングエリアのすぐ脇にあるビルからの固定カメラに変わり、バスの中の様子もわかるようになってきた。
乗客が座っているばすの窓は、すべてカーテン閉められている。運転手の姿ははっきりと捉えられ、そのすぐ脇に人影が見えた。一人ではないようだ。
「泉さん。きっとこれから疲れると思うから、何か飲み物を持ってくるね。私も、着替えてきたいし」
そうだ、マリさんと一緒に見ていたんだ。
「はい、ありがとうございます」
「飲み物は何がいい?」
「この間のハーブティーできますか? あっ、どんなハーブでもいいです」
「わかったわ。少し待っててね」
マリさんが出ていくと、僕は再びテレビに見入った。何が起きているんだろう。リポーターが声を大きくした。「運転手の隣にいるのは、若い男性のようです! 幼い子どもを抱えているようです!」。
警察関係者の話では、というかたちでリポーターが報告した現状は、次の通りだった。20代の男性が、刃物を持ち、5歳の女児を人質として運転席横にいる。「誰かがバスに乗り込もうとしたら、女児の命がない」と脅しているため、犯人を刺激することを控えている。
しばらくすると、一人の捜査員らしき人物がビニール袋を持って運転席に近づき、運転手に手渡した。運転手は中のペットボトルだけを取り出し、ビニール袋は外に捨てられた。ビニール袋の中に小型盗聴器が仕込まれていたようだが、犯人が警戒して運転手にそう指示したのだった。人質となった女児は、恐怖のあまりか、大人しくしているようだった。
再び、運転手が手招きをし、捜査員一人を呼び寄せた。捜査員が言った一言で激高したらしく、「今、犯人と思われる人物の大きな声がしました!」とリポーター。そして犯人は、捜査員に向かって何か話し続けている。
「トントン」とドアを叩く音がして、マリさんが戻ってきた。
「泉さん、お待たせー。カモミール・ティーよ。ラベンダーもブレンドしたわ」
「ありがとうございます」
「その後はどんな状況かしら」
「犯人は若者で、女の子を人質にとってます。さっきから捜査員を呼んで、何か要求を出しているようなんです」
「そうなのね。誰も傷つくことなく早く終わればいいのにね」
「本当にそうです!」
「あなた、泉さんもよ」
「えっ? 僕はテレビを観ているだけですから……」
「それで終わるといいわね」
「どういうことですか?」
「だって泉さん、助けに行きたいと思っているでしょ? 女の子や乗客の人たち、それに犯人のことも」
「……。確かにそうですが、テレビで見守るしかありません。警察は、警察以外の人にはなかなか手を貸してほしいって思わない、そんな体質の中で仕事をしているんですよ」
「そうなのね」
僕はハーブティーを飲んだ。いつものように温かい気持ちで満たされた。
「あの女の子、大丈夫かしら」
「怪我をしていないとしても、精神的ショックは相当に大きいでしょうね。無事に解放されたら、急性ストレス反応の治療をして、PTSDを予防しなくちゃ」
「急性ストレス反応とPTSDは、違うの?」
「強いストレスフルな体験の直後に生じる症状を急性ストレス反応と言い、それが何か月も長引くとPTSDに分類する、そんな違いです。急性症状期にしっかりケアを行えば、PTSDに移行するのを抑えることができるかもしれません」
「そうなのね。長期化するとPTSDになるのね」
「急性ストレス反応が見られず、何年も経ってからPTSDが現れることもあるんですよ。そういうのは遅延型PTSDと呼んだりします」
「人のこころは、複雑なのね」
「はい、その通りです」
突然、僕の相談所の電話が鳴った。こんな時間、もうすぐ12時だというのに。マリさんも驚いて、2人は顔を見合わせた。
「嫌な予感がします」
「私も同じよ」
【 5 警視庁 】
「夜分に恐縮です。警視庁刑事部の山岡といいます」
「はい……」
「泉相談所の泉さんでいらっしゃいますか?」
「はい、そうですが……」
僕はマリさんのほうを見て、小声で「警視庁からですよ」と伝えた。
「ニュースでご存知と思いますが、バスジャック事件のことで、ご相談があるのですが」
「はい、テレビで観ていました。山岡さんは機動捜査ですか? 刑事課ですか?」
「第二機動捜査隊です。上の許可はとってあります」
「わかりました。初動の段階ですね」
「はい。それで、緊急にお話をうかがえないかと」
「もちろん構いませんが」
「電話では何なので、迎えにやらせてもよいでしょうか?」
「僕が警察署に行くっていうことですね?」
「はい。現場になります」
「現場というと、用賀?」
「はい、既にそちらに警察車両を向かわせています」
「わかりました。準備しておきます」
「では、用賀でお待ちしています」
第二機動捜査隊の山岡さんの声が大きかったので、概要はマリさんにも理解できたようだ。マリさんは言った。
「この際、思う存分やってきたらどう?」
珍しいな。最近は僕に対して、むしろセーブをかける雰囲気が強かったので。
「はい、どうして僕なのか、何を期待されているのかわかりませんが、依頼された限り、人々の安全に資するためなら、僕らしさを貫きたいと思っています」
「着替えは?」
「今のままで。いつものジーパンとポロシャツが一番ラクですから。あとは財布を持つだけですね。靴も履きなれたスニーカーで行きます」
「泉さんらしいわ。刑事さんの黒いスーツにネクタイってイメージとは正反対だわ」
マリさんは、こうやって雑談に花を咲かせることで、僕を普段の僕に近づけさせてくれているんだな。ふとそう思った。
「あっ、泉さん、携帯は必需品よ」
「そうですね」
相談所のチャイムが鳴り、玄関先に黒塗りの車が待っていた。
「いってらっしゃい!」
「はい。静岡行きで疲れているでしょうから、マリさんは休んでくださいね」
そう言って車に乗り込んだ。前席に2人の刑事が乗っており、僕が後部席に座るとすぐに発車した。
「私は、第二機動隊の山田です。運転は同じく、山本です」
「泉です。皆さん山なんですね」
「ああ、偶然ですね。これから緊急出動とします。サイレン鳴らしますがどうか気にされないで」
「はい」
首都高の向かうルートが全面閉鎖とされており、用賀まであっという間に着いた。
【 6 要請と記憶 】
用賀の現地指令本部の車両で、山岡警部が待っていた。警察が僕を呼ぶ理由は、山岡警部の目に軽く潜入することで察しがついた。犯人が僕を呼んだんだろう。
「実は、泉さん。やつがあなたを指名したんです。あなたでないと交渉に応じないと。あなたを連れてこなければ、人質を刺すと」
「やはりそうですか。で、どうして僕なんですか?」
「私らもまだ分からないんですが、あなたにどこかで会ったことがあると思われます。顔を見れば、思い出せるかもしれません」
「そうですね。顔を見れますか?」
「これが、先ほど撮った写真です。どうですか?」
「ああ! 覚えています。彼にカウンセリングをしたことがあります」
「それはいつ頃? 年はいくつですか? どんな人物ですか? 名前はわかりますか?」
僕が大学院の博士後期課程に進んだあとだから、25歳の頃になる。もう8年も経つのか。修士課程の院生の付き添いで児童養護施設へ実習に出かけていた。比較的新しい施設で、大きな敷地の中に複数の家が建てられており、各家に10人程度の子どもと親代わりのスタッフがいる、小舎制をとっていた。小舎制とは、子どもの数が12人以下の場合を指す。
院生は、各家に散らばり、子どもたちと一定時間を共に過ごし、様々に精神的課題を抱えた子どもたちの特徴を理解し、寄り添い、信頼関係を築く訓練をするのだ。これを2週間続ける。施設で生活するのは「18歳までの児童」とされている。ほとんどの子どもが、親から虐待を受けるなど家族関係に問題を抱えており、ここでの温かい家族的雰囲気で過ごす生活は、子どもたちの未来に対して重要な役割を果たすことになる。
この施設では、各家に樹木の名が付けられていた。その一つに「ミズキ」と名付けられた家があった。ミズキの花言葉は「成熟した精神」。ミズキ科でよく知られた花木にハナミズキがあり、この花言葉は「返礼」「思いを受け取ってください」が代表的なものである。元々ハナミズキは日本になく、1912年にアメリカの求めに応じて6000本以上のサクラを送った返礼として贈られたものが、100年の時を経て日本の街路を飾る代表的な樹木になったのだ。8年前、ミズキと名付けられた家を見て、数年前から流行っていた歌「ハナミズキ」を思い浮かべた。3番で「母の日になれば、ミズキの葉贈ってください」と一青窈が歌っていた。この歌にも、「返礼」や「思いを受け取って」の意が込められていたのだろう。母の日に、母に対して……。
初日は、雨が降っていた。この家に入ると、子どもたちが一斉に寄ってきた。僕や2人の院生の腕を掴んだり、背中に乗ろうとする子もいる。どんな相手かわからないのに過剰な親愛を行動で示すことを「無差別的愛着行動」と呼ぶ。急接近することによって未知なる人物がどんな態度をとるのか、早く察知して安心したいのだろうなと思った。
中学2年生のタクトという名の少年は、居間に座り、窓から外をぼーっと眺めていた。人にはまったく興味がない様子だった。1人の院生がタクトの近くに行き、話しかけようとした。それに気づいた職員が慌てて止めに入った。そして「あの子は、興奮して何をするかわからないから、気をつけてください」と僕たちに助言した。
僕はタクトの様子を見ていた。すると、すっと彼のこころに吸い込まれ、蒼い海の中を泳いだのだった。この頃から僕は人のこころに潜り込む習慣が出来上がっていたのだ。イルカのように泳ぎ、狐色に光る玉を見つけ、右手で優しく握りしめると、ある想いが言葉になって聴こえてきた。
— 大人は恐怖だ。大人は操ろうとする。言う通りにしないと殺される。だから僕は目立っちゃいけない。見つかってはいけない。大人から隠れるんだ。操り人形はもういやだ —
僕はタクトのそばに行って、横向きに座った。2時間の実習の間、ずっとそうしていた。ただそばにいるというのは、かなり積極的でエネルギーのいる行いなのだ。人は沈黙に耐えられず、言葉でごまかそうとし、取り繕おうとする。タクトは、言葉で操られることを非常に恐れているようだった。僕は結局、その日は彼に一言も声をかけずに帰った。
翌日もタクトのところへ来た。そして同じように過ごした。2週間、毎日ずっとではなかったが、頻繁にタクトのところへ行っては、黙ってそばにいた。そしてだんだんと自分の昔のことを思い出そうとするかのように、空想に耽っていたのだった。実習の最終日、帰り際に一言、「ありがとう」とだけ伝えた。大人をあそこまで怖がるタクトが、大人である僕がそばにいることを許してくれたお礼のつもりだった。
実習が終わって数日後、この施設から大学院に連絡が入った。
「タクト君が、泉先生と話したいと言うんです!」
こうして、タクトにカウンセリングをするという名目で、1人で施設を訪れたのだった。彼はカウンセリング・ルームで壁にもたれて座って待っていた。僕が入っても喋らなかったが、チラッと目を合わせた。僕は彼の横に座り、背中を壁につけた。
「大人は汚いよ」
「……」
「子どもをまるで操り人形だと勘違いしている。大人が正しいから、と思い上がっている」
「……」
「上手に操れないと、子どもに恐怖を与える。子どもには逃げ場がない」
「……」
「僕は、そんな世間の大人の常識が大嫌いなんだ」
「先生……」
はじめてタクトが口を開いた。
「うん」
「先生は僕と同じなんだね」
「同じかぁ……。いやタクト君のほうが純粋だ。僕は、そう思いながらも、かろうじてこの世間で綱渡りをしているからなぁ」
「先生は変わってる」
「うん、そう思う。みんなからもそう言われるよ」
たったこれだけの会話だった。だが、タクトの未来に大きな困難が降りかかったときに、僕のことを思い出してくれるかもしれないな、そう思った。
「泉先生、どうなんですか?」
山岡警部からの質問に、まだ答えていなかった。
【 7 攻防 】
「彼の名はタクト。苗字は覚えていません。年齢は、22歳くらいだと思います。つくば市の児童養護施設で会ったことがあります」
「やつは、凶暴な性格ですか?」
「それはこちらの対応次第でしょうね」
「先生と話をさせても、大丈夫ですか?」
「警察の皆さんが協力してもらえれば、ですね」
「どんな協力を? できる限り、します」
「では、バスを取り囲んでいる人たちや車両を、見えないところまで遠ざけてください」
「いやーー、それは無理です」
「なぜですか?」
「バスが再び動き出すかもしれない」
「僕を呼んだのだから、彼の要求は僕と話すことです」
「万一の逃亡の隙は与えられません」
「では、僕1人でバスに行かせてください」
「いやー、それもできません。民間の方を危険にさらすようなことは……」
「警察の沽券に関わる、とでも?」
「そういうわけではなく……。市民の安全確保が第一ですから……」
「できる限り協力すると言われたのに、嘘つきですね。僕を警察のやり方で操ろうとしていませんか」
「そう受け取られると辛いものがありますが……」
「では、こちらから質問します。僕がバスに近づき、彼と1対1で話をすることはできないんですか?」
「捜査員を同行させます」
「それは絶対に譲れない条件ですか?」
「はい、そうですね」
「彼が何もしない限り、捜査員が僕より前に出ないようにしてもらえますか?」
「それなら、できます」
「もう1つ。私服の女性捜査員で、丸腰にしてください」
「ふーーぅ。ちょっと待っていてください。交渉してみます」
山岡警部は車を降り、電話で誰かと話をしているようだった。
「先生、許可が出ました」
僕が山岡警部の目が泳ぐのを見逃すはずがない。
「丸腰ではないようですね。銃を持たせますね?」
「え……。はぁ、泉先生の万一に備えて……」
「わかりました。では僕のほうが譲歩しますので。次のことだけは、必ず守るようにしてください」
「はい、何でしょう?」
「僕が明らかに命が危ないという状況にならない限り、その捜査員は僕より後ろにいてください。そして、何もしない、何も言わない。これを守ってください」
「はい」
「最後の条件です。僕の手、ロープで手首のところを結んでください。蝶々結びでね。固く」
「えっ、それは必要ですか?」
「念のためです」
「その必要性はないと思いますが」
「では、僕は警察の依頼を断ります。そして、勝手に行動させてもらいます」
「それは困る。公務執行妨害で先生を捕まえなくてはならない……」
「いいんです。僕が逮捕されても。その代わり、人質になっている女の子の命は保証しません」
「……」
「さて、車から降りますね」
「いや、ちょっと待ってください。そのー、先生のやり方なら、人質を助けることができるんですか?」
「はい。でも、いいんです。警察のやり方に反しますからね。行かせてもらいます。そして僕を捕まえてください」
「まいったな、これは……」
「ここまでよく話に付き合っていただきました。では」
そう言って車から出ようとすると、山岡警部の手が僕の腕をつかんだ。
「先生、わかりました。先生の譲歩案でいきましょう!」
「ありがとうございます。最後に大事なことを1つお願いするのを忘れていました。この指令車の前に、救急車をつけておいてください」
「怪我人のためですか?」
「いいえ違います。誰も怪我人は出したくない。彼をまず病院へ運んでほしいんです。救急車には僕も同乗します」
「彼を取り調べないと……」
「彼が精神的に落ち着いてからにしてください。だから、受け入れ先病院の手配も。中野の警察病院で構いませんから。病室に入ったら僕は帰り、あとはお任せします」
「わかりました」
「山岡警部、また嘘だったら許しませんからね!」
「は、はい。協力します」
こうして僕の計画は実行へと移されることになった。山岡警部と話し合っていると、なぜか僕のこころに力が入ってしまった。マリさんが見送ってくれた言葉「この際、思う存分やってきたらどう?」に勇気付けられたのかもしれない。
【 8 再会 】
女性捜査員が到着し、ロープも用意された。僕は彼女に念を押した。
「けっして、僕より前に出ないでください。合図がない限り何もしないでください。僕が死んだときだけが例外です」
「わかりました」
「では、僕の手首を縛って」
「それは私がやろう」
と、山岡警部が間に割って入った。
「なるべく固く締めてください。蝶々のリボンの部分をしっかりと作ってください」
「泉先生、これでいいですか?」
「はい、いいかな。ところでこちらの婦警さんのお名前は?」
「あっ、私は山中薫です」
「山中さん、では約束をお願いしますね」
(妙に「山」が多いな……)
「はい」
泉相談所では、僕の部屋でテレビを見守るマリさんがいた。リポーターが興奮したように話す。
「たった今、警察車両から出てきた2人がバスのほうへ歩きだしました!」
マリは身を乗り出した。「いよいよ、出番ね」と思い。中継するリポーターが解説する。
「2人のうち、1人は私服の女性です。もう1人は男性で、半袖のシャツにジーンズのようなズボンをはいており……。両手を前に出しているようです、が……。何が起きようとしているのでしょう! 捜査員が変装しているのでしょうか」
マリにはすぐわかった。「あの歩き方は泉さんよ。でもどうして両手をお腹の辺りに出してるのかしら」。少し心配になった。「派手にやりすぎないといいけど……」
「男性の手は、ロープで縛られているようです。何でしょう。犯人の要求でしょうか。間もなく運転席の下に到達します。その後を女性が着いていきます」
テレビには犯罪心理の専門家が加わっており、解説をしていた。
「恐らく、変装した捜査員でしょう。犯人の要求で、手をロープで縛っているのだと思いますねぇ。こういう場合、犯人を刺激しないようにすることが重要ですから。隙をついて取り押さえるのではないでしょうか」
「その後、警察のほうからは、何の公式発表もありません。加藤先生、何が起きているのでしょうか?」
「これから本作戦に入るので、公表を差し控えているのではないでしょうかねぇ。あっけなく終わるかもしれません、作戦実行まで1時間以上要しており、相当に綿密な計画が立てられていると思われますね」
「加藤先生は、大学教授になられる前、警察に勤務されていたことがおありとうかがっていますが?」
「ええ、科学警察研究所で犯罪心理学の主任研究員を務めていました」
「では、警察の中の犯罪心理学のエキスパートといえるわけですね」
「まあ、世間ではそう言われますが……」
「さあ、これから加藤先生が予想される逮捕劇が見られるのでしょうか!」
「2人の捜査員が、バスの運転席の下に着きました!」
マリは、チャンネルを変えた。別のテレビ局もこの事件の中継をしていた。そして「泉先生、ファイト!」と言って腕を突き上げた。
僕が頷くと、運転手が窓を開けた。そのすぐ後ろに中学生のときの面影を残したタクトの顔が見えた。僕とタクトは目を合わせた。タクトのこころに潜り込む……。意識でも求めているときには、比較的容易に「それ」と出会えるものだ。
― あの時の泉先生? 僕はあの時のタクトだよ。怖いよ。だからもう逃げたいよ。怖かったから逃げてきたんだよ。ミズキの家を出てから、ずっと怖かったんだ。今でも怖いよ! —
なるほど。施設を出てからかなり酷い扱いを受けてきたようだ。
「運転手さん、ドアを開けてもらえますか? 僕1人で入ります」
タクトに聞こえるように、大きな声で言った。
「いいんですか?」
「いいんです。彼にも伝えますね。おーい! 聞こえるかい?」
タクトは軽く頷いた。
久しぶりの、奇妙な再会だった。
【 9 加害者と被害者 】
運転手が昇降ドアを開けた。
「山中薫さんでしたね。僕が先に入りますから、僕が死なない限り、邪魔をしないでください。人の命がかかっているんですからね!」
「は、はい!」
ステップから見上げると、女児に刃物を向けたタクトがいた。
「上っていいかい? 1人で行くよ」
「……」(頷く)
「僕の手、見える? ロープで縛ってあるんだ」
「……」(頷く)
「じゃあ、ゆっくり上がってタクトくんのところまで行くね」
「……」(頷く)
僕はタクトの目の前に行くと、しゃがんだ。
「今から、ゆっくり回るから、僕の身体に何か怪しいものがついていないか、見てくれるかな?」
しゃがんだまま、一周した。
「では、立つよ。ジーパンのポケットに、財布と携帯が入っていると思うから、手で触って確認してもらえるかな?」
そう言って、タクトに背を向け、ズボンの後ろポケットを触らせた。
「ありがとう」
「……」(頷く)
「タクト君が、ミズキの家を出てから、酷い目に遭ったんだろうと思う。それで人が怖くて、大人が怖くて、訳が分からなくなってしまったんだと思う。ずっと前からそうだったよね。幼い時から」
「……」(頷く)
「今も怖いんだろうなぁ?」
「……」(頷く)
「僕は君を助けたい。もう怖い目に遭わせたくない。ここから連れ出そうと思っているよ」
「……」(頷く)
「その前に、僕を助けてほしいんだ。この手では、君を守ることができない。そのナイフで、ロープの輪のところを切ってもらえない?」
「う、うん」
僕は手を差し出した。タクトは女児を離し、ロープを切ろうとしてくれる。簡単には切れないようだが、それでも苦労しながらなんとか切ってくれた。
「じゃあ、今切ったところ、線を引っ張って、ほどいてくれるかい?」
「うん」
「ありがとう。これで自由だ。あとは僕がタクトくんをここから自由にする番だね。手をつなごう。そして一緒に、パトカーじゃなくて、救急車に乗ろう。行先は病院だ。あそこに見えるかな?」
タクトは、バスから一番近くに停まっている救急車に目をやった。そして頷いた。
「あっ、そうだ。ナイフはもう役に立ったから、必要ないかな。このお陰で僕の手は自由になったよ。だから僕が預かるね」
タクトはそれを手にしていたことを忘れていた。そして僕に渡した。2人は手を繋いだ。そしてバスから降りた。バスの中から歓声が漏れていた。
ナイフを山中さんに渡してから、タクトに「静岡でいったい何があったの?」と訊いた。
タクトは、18歳になった翌年にミズキの家を出たあと、茨城県内の自立援助ホームにいた。20歳になる直前、静岡にいた父親に見つかり、無理やり父親の営む居酒屋に連れていかれた。知らない女性もいて、父親から「母さんと呼べ」と言われていた。「仕事だ」と言われ、袋に入ったものを渡したり、受け取ったりさせられた。父親の居酒屋には、しばしば父親と顔見知りの男たちが集まり、酔っては暴行を受けた。女性は「あんまりやると、使えなくなるよ」と言って笑った。服を脱がされそうになったとき……。ここから記憶がないという。
気がついたらバスに乗っており、鞄にナイフがあることに気づくと同時に、「バスの中で殺される」と恐怖が蘇り、そこから記憶が混乱してうまく説明できないようだった。
「タクトくんは、子ども時代ずっと虐待の被害者だった。児童養護施設と自立援助ホームだけが、まだ安心できる場所だった。父親に見つかってから、また暴力の被害者になった。君のこころはずっと助けを求めていたんだよ。これから本当の助けが来るといいな」
【 10 裏切りの交錯 】
「さあ、救急車へ行こうか」
「うん」
「あっ、ちょっと待って」
僕はバスから離れる前に、携帯電話を出すと、マリさんに電話をかけた。もう午前2時だが、マリさんはテレビを観ながら待っているだろう。
「泉さん?」
「はい」
「テレビでずっと観てたわよ」
「はい。お願いがあるのですが、今どの部屋にいますか?」
「泉くんの部屋よ」
「ちょうどいい。テレビの下にメモを置いておきました。僕の馴染みの弁護士の携帯の番号です。それを転送してもらえませんか?」
「えーーと、あっ、これね。見つけたわ。ショートメールで送るわ」
「助かります」
「どうしてメモ用意したのに持って行かなかったの?」
「いやーー、大した理由じゃないんですが。テレビ越しに電話してみるのも面白いかな、と思って」
「泉くん、それも計画していたの?」
「さて、どうかなぁ。ではのちほど」
タクトに説明した。
「これから行く病院に、親しい弁護士さんにも行ってもらうよ。病院に入院することは、警察の人が約束してくれた。君が今説明してくれたことは、この携帯に録音してある。このデータも弁護士さんに渡そうと思う。きっと力になってくれるはずだ」
「うん」
「君が、誰も怪我させずいてくれて、本当によかった! よく僕を呼んでくれた」
「……」(頷く)
「僕も救急車に一緒に乗って、病院についていくからね。さあ、行こうか」
タクトの手を引き、歩く。バスから10メートル程離れたところで、突然、多くの捜査員が走り寄ってきた。あっという間に取り囲まれ、タクトはアスファルトに押し付けられ、拘束されてしまった。それを振り払おうとする僕も、羽交い絞めにされた。僕も抵抗したのだろうか、顔をアスファルトに押し付けられていた。口の中に血の味がした。
「そんな……、なんて酷い……。これが正義という大義の裏に潜む不条理なんだ」
遠くに目をやると、別の場所でも争いが起きていた。1人の男性が何人かによって抑え込まれている。なんだ、これは? 腕にチクリと痛みが走ったかと思うと、意識が遠のいていった。
目が覚めると、そこは病院だった。僕はベッドに横たわっていた。
「泉くん!」
「マリさん!」
マリさんの目は赤く、泣き腫らしたあとのようだった。
「元気になったら、また相談所に戻りましょ!」
「はい、そうします」
「泉くんは、警察に騙されたの?」
「そうとも言えないです」
「意味がよくわからないわ」
「もう1人、取り押さえられた男性がいたと思うんですけど」
「テレビで映っていたわ」
「あれ、山岡警部です。現場の指揮官。山岡さんは僕との約束を守ろうとした。上司に電話でかけ合い、猛反対され、辞表を用意するからって押し通したんです。山岡警部も、結果的に上層部に利用されたんです」
「ひどいわ!」
「僕は、山岡警部の上司を知らないから、そのこころに潜り込めなかった。残念です。でも、信じてくれる警部がいたことが、せめてもの救いです」
「そう思うしかないわね。泉くん随分と強くなったね」
「そうですか。タクトくんはどうなりました?」
「それがね……」
「はい?」
「人質強要罪で現行犯逮捕。警察が会見で言ってたわ。一人も怪我人を出さずに済み、無事に本事件が解決した、って」
「そうですか……」
「会見で、泉くんのことは何も言っていなかったわ。警察内部で多少の足並みの乱れがあった、くらいしか」
「それでいいです」
「私は気が収まらないわ」
「あっ、そうそう」
「なあに?」
「彼、タクトくんって言うんですが、静岡からバスに乗ったのは、市内に住む父親たちからの暴行に耐えられなくなったからでした」
「被害者だったのに、可哀そうね」
「静岡市内のどこだと思います?」
「繁華街かな」
「いいえ、三保の松原でしたよ」
「えーーー! なに、それ!」
「1つ質問があるので。どうして僕のこと、泉さんから泉くんに変えたんですか?」
「あらっ、全然気がつかなかったわ」
< 第三話 完 >
【 幕間 】
日曜日のうちに僕は退院した。顔と腕のあちこちに包帯が付いたままだ。
部屋でのんびりする平和なひと時を満喫していた。日が暮れかけた頃、マリさんが僕の部屋のドアをノックした。
「泉くん、お客さんみたいよ」
マリさんが外出から戻ると、家の前でうろうろしている不審な男性がいたので、声をかけたそうだ。その男性は、「いや、別に大した用はないんですけどね」としながら、「泉先生のことが気になりまして……」と申し訳なさそうに言ったという。それでマリさんが僕に声をかけてくれたのだった。
「その人って、40歳くらいで、長身の人ですか?」
「ええ、そうよ」
「僕も気にしていたので、会いたいです」
そう告げると、玄関に出た。
「泉先生……」
「山岡警部」
「本当に申し訳ない」
「いや、警部のほうこそ。いやー、怖いですね」
「どこも同じですよ。そしてもう私は、警部じゃないです」
「降格ですか?」
「いえ、警察は辞めてきました」
「これからは?」
「これからのことはこれから考えます」
「あたなのような方がいて、よかった」
「私こそ。巨大な壁に立ち向かっていく若者がいるってことがわかり、こころが踊りました」
「警察は、私たちのこと、どう公表していますか?」
「あまり触れていませんね」
「記者会見では?」
「ああ。指揮系統を逸脱した一部職員のミスを、全捜査員でカバーし、被害者を出すことなく無事解決に至ったとか……」
「山岡さんと僕が、その一部職員なんですね」
「はい」
「記者から質問は?」
「ありましたよ。あの変装した捜査員は?って」
「何と答えたのでしょうね?」
「途中までは順調だったが、最後に小さなミスをした、と。今は謹慎処分中で、個人情報は明かせない、だそうです」
「ところで、タクトっていう名を聞いて、何か連想しませんか?」
「タクト……、タクト……かぁ。オーケストラの指揮者が持つ、指揮棒くらいですかね」
「そうです。演奏者は皆、指揮者のタクトに注目し、合わせるんです。合わなければはじき出されます。はじき出されないようにと必死になる余り、自分のこころと支配者の意向との区別がつかなくなるんです。その点は、警察もどこも同じではないかなぁ。彼にはタクトと名付けられ、父親に恐怖で支配される運命が与えられた。でも彼はこんなかたちだけど、やっとタクトから逃れることができるのではないでしょうか」
「なるほど。そして私も、タクトに合わず、はじき出されたというわけですね」
「そう、それはあなたが、自分のこころを組織の中に埋没させなかったから」
「嫌な世の中ですわ」
「山岡さん、ご家族には?」
「これから話します。子どもいるんでね。長男は父ちゃんみたいな刑事になるんだっ、てずっと言ってましたが」
「つらいですね」
「長男の未来は、本人の選択に任せます」
「それがいいと思います」
「泉先生、どうかご自愛を」
「山岡さんこそ」
「さようなら」
「ご苦労様でした」
固い握手を交わすと、山岡元警部は足早に黄昏の中に消えていった。
一緒に見送ったマリさんが僕に言った。
「人間が組織を動かしているのでなく、動かされているのよね」
「ええ」
「私から2人に、ドント・マインド! よ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「マリさん、大したことじゃあないけど、ひっかかることがもう一つあるんです」
「興味深いわ」
「名前を聞いた警察の人にみんな、山、という字がついていたんです。今の山岡元警部、私と一緒にバスに近づいた女性が山中薫、ここから用賀まで車で運んだ人が山田、山本運転手でした」
「あらっ」
「ね?」
「そうねぇ。山よりも高く、海よりも深く、って言うでしょ? 警察が山なら、泉さんは海よ。あちらが父性であなたが母性、仕事の住み分けができているじゃない」
「それは分かります。でも、親の恩は山よりも高く海よりも深く、と使われるので……。今の家族から、適切な父性も母性も消えてしまっているようで、なんだかきついです」
僕の名前は、泉(いずみ)海(かい)だ。
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