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diver 第一部 第十二話

【 1 疑念 】

 その夜、雑誌から消えかかった足について、マリさんにも確認してみたいと思った。

 「例の写真週刊誌、『マンデー』でしたっけ、今どこにありましたか?」

 「私の奥の部屋の書棚に入れてあるわ」

 「僕たちの写真、見ましたよね?」

 「ええ、見たわよ」

 「何かおかしいと思いませんでした?」

 「説明がデタラメばかりでおかしいと思ったけど……」

 「いや、写真そのものです」

 「何かあったかなぁ……。気づかなかったわ」

 「よく見ると、足の下のほうが薄くなっているんですよ」

 「そうなの? ちょっと取ってくるわね」

 マリさんは気づいていなかったのか……。注意深く見ないと気づかないものなんだな。だから読者の間でも話題にならなかったのだうろ。「心霊写真」とかで……。そんなふうに考えていた。

 「はい、これ。えーと、このページね」

 「どの写真でもいいです。人の足元をよく見てください」

 「足元……?」

 「はっきり映っているわよ。薄い感じはしないわ」

 「そんなはずがない!」

 僕はその場所を指し示そうとして、マリさんが持つ雑誌を覗き込んだ。ふつうに写っていた……。

 「あれ? 今はふつうですね……」と呟き、しばらく考え込んだ。そして内心の強い不安を隠すことに努めた。反して、しばらく前から湧き上がっていたある疑問は、いっそう強くなった。僕が関わった人の存在した痕跡が消えていくという事態が、余りにも多すぎる。あの児童養護施設のミズキの家で会った人たちもそうだし、もちろんユリがその代表格だ。

 羽衣伝説の地へドライブに出る前、この部屋でマリさんの手を触ろうとしたとき、触れられなかったこと……。そのときに、レースのカーテンの隙間から窓ガラスに見えたマリさんのような姿。僕はあれをマリさんの姿が反射したのだと思ったが、二重のように見えるのは変だし、反射なら僕自身も映っていなくてはおかしい……。そして電話をかけてきた山下ユリのこと。下山刑事が言っていた、下山ユリとマリさんが瓜二つ。時々コンタクトしていた山下ユリは、あれ以降、まったく感じられなくなった。そう、彼女が勧めていた三保の松原へは、結局行かなかったからだ。

 この後の確認で、山下ユリという人が、下山刑事の姉であり、家田ユリであることは、わかった。27年前にこの家で自死の道を選んだ人で、時を超えて僕と会っていたのだった。彼女の魂が、大きな未練を残したままこの世を去り、何かを伝えようとしてこの世界に留まっていたのだろう。まるでオカルトの話のようだが、ここまでの推論はクリアになってきた。

 疑問の尽きない中、最大の疑念はマリさんの方に向かった。もしかしたらマリさんも、いずれ消えるのではないか……。ユリのことを知っていながら、なかなか打ち明けてくれなかった。何でもこなし、父性と母性を兼ね備え、ユーモアもあり冷静な人格。特に人の内面を察する能力は格別だった。そんな出来過ぎた人物は、本当はこの世に存在せず、未練を残して漂う魂なのではないか!

 そんなことを疑うと、罪悪感に心がかき乱される。現に、こんなにお世話になり、常に応援してくれているのに。この場にいるのが気まずくて……。

 「ちょっと散歩に出かけてきます」

 マリ「わかったわ。いってらっしゃい」

 いつものように、詮索はしないんだな……。外へ出た。一時期の猛暑は和らぎ、陽が落ちたあとは随分と涼しくなった。そんな神田の夜道を、こころの迷路を遡るように、トボトボと歩いた。考えが止まらなかった。

 マリさんだけは、どうしてもこころに潜入できない。ほかの過去に生きた人たちにはできたこと。この違いは、何を意味している? 山下マリという人物は、もしかして、過去にも現在にも存在していないということ……。それ以外に考えが行きつく所はない。

 家を出て、道なりに南へ、西へと歩いた。この辺りの格子状の道路は、東西南北に沿った筋ではないので、こうやって移動することで南方へ行ける。間もなく、千代田区から中央区に入った。すぐに西南西へ向かうと神田橋に近づく地点になる。ふと、ある「もの」が僕を呼ぶ声がした。懐かしい……。

 「にゃお~……」

 あの時の猫に違いない。道端にしゃがむと、ゆっくりと黒猫が近づいてきた。僕も返事をした」

 「にゃお~~ん」

 猫「にゃ~お」

 「にゃお~~~……」

 猫「にゃ~~~お」

 さらに近づくと、しっぽをピンと立て、僕の足元に絡みつくように擦りながら歩いた。覚えていてくれたらしい。

 「君は、消えてしまわないんだね」

 猫「にゃお~~ん」

 「勝手に消えないでおくれ……」

 猫「にゃお~~ぉ」

 この子はきっと「消えないよ」と答えてくれた。嬉しくて、こんなことなのに目頭が熱くなった。僕たちの対話が聞こえたのか、数匹の猫たちが集まってきていた。

 「今日は、何も食べ物を用意していないよ。それでもいいのかい?」

 猫たち「にゃおーー」「にゃ~~」「にゃおーー」……

 「君たちも、食べ物だけでなく温もりを欲しているんだね」

 猫たち「にゃ~~」「みゃあ~~お」「にゃー」……

 「僕も安らげる温もりが欲しい。君たちと一緒だよ。こんな弱音は君たちにしか吐き出せない。ここで待っていてくれて嬉しい……」

 猫たち「みゃ~お」「にゃーお」「にゃ~~~」……

 「僕の仲間だね。どうか勝手に消えないでいておくれ……。君たちは町を汚す野良猫ではない。人間のエゴによって捨てられ、行き場を失いながらも一生懸命に生きているんだ。人間たちにどう思われようが関係ないからね」

 猫たち「にゃーぉ」「みゃ~~」……

 「僕の周りから大切な人が次々と消えてしまうんだ……」

 僕に身を寄せていた黒猫が、見上げ、僕の目を見た。そして、力なく垂れ下がった僕の手を舐めた。温かいザラザラした感触は、以前のままだ。お礼にと、黒猫の首元を撫でると、ゴロンと横になって、お腹を見せた。

 「君は今、安心しているんだね」

 猫「ゴロゴロ」(喉を鳴らす)

 「いつまでも友達でいよう。にゃぉ~~~ん」

 その猫は、尻尾をしなやかに揺すった。


【 2 消えるということ 】

 いた人がいなくなる。あったものが無くなる、消える、薄れる……。逆に、濃くなる。それが実体として存在していたのか、認識の中で存在していたのか。ふつうの人間は、実体と認識は一致していると考えているかもしれないが、そうではないことはいくらでもある。

 元々「ないもの」を「ある」と思い込み続け、「ない」という現実に晒されたとき、人は「なくなった」と理解する。そしてなくなったことに、様々に理由や意味を探そうとするだろう。僕の身の回りで起きているこの不可解な現象は、そう認識している僕の問題なのかもしれない。強い未練を抱えた人が現れ、消え去るとの表現を用いるのは、「強い未練を抱えている魂の痕跡」だと、僕がそう推測しているからなのではないか。外に見えるもの、聞こえるもの、触れるもの、これらのすべては、僕の内面世界で展開されている心理的な作用に過ぎないのかもしれない。つまり、僕の中に強い「想い」があり、そのエネルギーが外界と関わりながら様々に認識される、そう、あくまでも内面の現象だということである。

 ということは、ユリという人も、僕が作り出し、消したりしていた可能性がある。その他の人たちもそうだ。雑誌の写真も、僕が足を薄くしたり、濃くしたりして見ている。マリさんが僕と同じような体験をしているから、客観的な事実ではないか? いや、そういった論理はすべて無意味になる。マリさんという人をも、僕が認識しているに過ぎず、いつ消えても、いや、いつ消してもおかしくはないのだ。

 マリさんに初めて会い、声をかけられたのがちょうどこの辺りだった。この現象を正しく言い換えてみよう。ここで猫と話しているところを見られ、声をかけられ、そして今の家を間借りすることになって様々な経験を共にすることになった……。これらは、僕がそう認識しているのだ、になる。

 認識の背景にある欲求なり、動機なりが大きく変わらなければ、過去と現在を行き来したり、現れたり消えたりすることはない。恐らく想像する僕の内面で何か重大なものが揺らいでいるから、外界で体験する現象もこんなに不安定になるのだろう。

 子どもは想像力が豊かだ。科学的な知識や理論、それを参照しながら触れる経験に浸食されていない分、純粋な想像の世界で生きている。ある子にとって大切な人が亡くなったとき、大人は「お星さまになったんだ」と教える。子どもは、本当に夜空にその人を見ているのだ。そして天を指して言う。「お母さんは、あそこから私を見てるんだね」と。天邪鬼な大人が「馬鹿なこと言うんじゃない。人は死んだらいなくなるんだ」と諭しても、子どもは信じない。「違う! お母さんはあそこにいる!」と反論するだろう。その子には、天空に母親が生きているからだ。お母さんに見てもらっているから、何かに励み、耐えることができているのだ。

 僕は人のこころに潜り込んで、その人間が抱える強い想い、「秘密」に直接触れることができる「ダイバー」だ。その人間を苦悩や偽装から救うために、この技を駆使している。今までずっとそうやって認識してきた。でも、もしかしたら違うのかもしれない。僕が悩めるその人間を作り出し、悩みに繋がる秘密をも作り出し、潜って接近して触れる。用意していたものだから、当然のように察知できる。それを錯覚していただけなのかもしれない。マリさんに限ってこころに潜入できないのは、僕にとっての彼女の存在意義が、その技を適用できない仕組みを作って創造されたからかもしれないし、あるいは創造されたものでなく客観的に実在している人物だからなのだろうか。

 今、僕は、深夜の道端にしゃがんで、目を瞑り、哲学の世界を旅していた。この間だけは、周囲に猫たちが取り囲んでいることをすっかり忘れていた。何らかの事情で忘れ続けることになったら、あるいは忘れたほうがいいと僕のこころが選んだら、猫たちは消えてしまうのだろうか。そうでなくても、目を瞑ったままこの場を離れれば、目を開いたときに猫がいないはずだから、猫がいなかったと力強く言うこともでき、存在の記憶すら消せる。

 物理的世界と心理的世界の接点で生きるということは、よく考えると不思議な営みなんだな。

 僕にとって、マリさんという人はなんのために存在しているのだろう。歯がゆさを覚えながらも、いくら考えても分からない。今は……。いつか知るときが来るのだろう。

 随分前に出会った猫たちは、僕のことを覚えていた。それは、猫たちにとっては、僕という存在を認識から消す理由がなかったからだ。僕も、猫たちを消さなくてはならない理由はどこにもない。安心する。目を瞑ったままで、一番傍で寝転んでいるはずの黒猫を思い出し、その方向に手を伸ばした。黒猫のお腹の柔らかい感触という刺激が、指を伝って僕の脳に届いた。なぜなら、僕のこころには今、この黒猫を消す理由が全くないから起こる内的体験なんだな。

 目を開くと、僕の周囲に7、8匹の猫がいて、それぞれにくつろいでいた。僕と猫のこのような触れ合いについて、そう認識するどの主体にとっても、認め続けることに不都合がないから。

 ふと、この近くに来ないで、少し離れたごみ箱に半分身を隠すようにして、僕たちの様子を窺っている白猫がいるのに気づいた。僕はその猫に潜入してみた。

― 飼い主だろうか、見知らぬ男性が白猫を狭いケージに閉じ込めている。まだ子猫だ。ケージの上は開放されていて、男性が棒で叩く。子猫はパニックになり、狭いケージを走り回り、柵に激突している。隅に追いやられ、「うぎゃーー!」と精一杯の反撃の声をあげるが、かえって飼い主を興奮させてしまい、エスカレートを生んだ。この子猫にとって、世界は自らを虐げるだけだった。 —

 僕は、その白猫を見ながら、その歪んだ過去と現在の世界を恨んだ。他の猫たちにも排除され、のけ者扱いされていたんだな。不信は、他の仲間に伝播する。僕は潜入しながら、その白猫に優しく手を伸ばし、抱きしめた。生々しい癒えない傷があり、震えている。

 これは認識世界の真実だ。実際には、白猫は僕から遠くにいて、抱きしめることなどできない。このままどこから行ってしまえば、白猫との触れ合いは単なる想像で終わり、その記憶は薄れていくだろう。それが寂しくて、僕は白猫に向けて、声に出して語った。

 「君が悪かったんじゃないんだよ」 

 白猫「……」

 「君も、仲間だ」

 白猫は耳を立て、こちらにアンテナを向けた。

 「僕の周囲では、君は仲間外れにされないし、叩かれないのさ」

 白猫「……」

 「信じられても、信じられなくても、構わない。君の自由さ」

 白猫「みゃ……」

 「他の猫たちも、きっと認めてくれる」

 白猫は、恐る恐る歩を進め、近づいてきた。他の猫たちがその様子を見ていた。

 僕の傍にくると、寝転んでいた黒猫が身を起こし、白猫を舐めた。黒と白が仲良く混じり合っているさまは綺麗だ。僕は下から手を伸ばし、首下をマッサージした。とてもとても深く震えていた。でもこれで、他の猫たちにも受け入れられるかもしれない。

 人間だけではないんだな……。その白猫の存在に対する認識も、僕の中では貴重な位置に居座ることになるのか。逆にこの白猫の認識世界にも、僕が入り込むことになるのかな。救ってあげたい。白猫が植え付けられた苦痛や不信だらけを、少しでも修正することができたらどんなに素晴らしいだろう。

  白猫の首を両手で包みながら、もう一度そのこころに潜った。

― 子猫時代……。目の前で、親猫だろうか、人間の子どもに虐められている。バッドで叩かれている。親猫は、すぐそばで物陰にいる子猫の存在が悟られないように、子猫には目もくれず、流血する後ろ足を引きずり、遠ざかろうと足掻いている。人間の子どもは興奮し、目を輝かせ、笑っている。何度も叩かれ、ついに倒れた。微動だにしなくなった2匹の親猫。人間の子どもは、「もう終わりか」と言い残すと、バッドを捨ててどこかへ行った……。子猫は、何もできずに、その場に固まっていた。 —

 僕は白猫に言った。

 「やっぱり君は、僕と同じなんだね」

 白猫「みゃっ」

 古びて土色の綻びだらけの首輪があった。

 「前は、飼われていたんだね。飼い主の子どもにやられたのかい?」

 白猫「……」

 首輪に、金属製の小さなプレートが付いていた。僕はその錆びたプレートの表面を擦った。憑りつかれたように何度も擦っていると、そこに刻まれたものが徐々にクリアになってきた。アルファベット。

―  K A I T О  —

 「カイト……。これは君の名前かい?」

 白猫「……」

 ネットで検索した情報によると、僕は小学6年生のときに、14歳の少年に両親を金属バッドで殺害されるところを、クローゼットに隠れて見ていた。僕の名前は、小泉海都だった。白猫のカイトは僕だった……。

 フリーズしてしまう。黒猫が白猫に身を寄せた。2匹は絡み合うようにしてその場にうずくまり、やがて眠りについた。金縛りから解放された僕は、黒と白の周囲を包み込むように身体を丸めた。少し冷えたアスファルトの上で、僕も眠りに落ちた。「猫になりたい」と思いつつ。

…………

 遠くで自転車のブレーキの音が聞こえた。この雑音で我に返った。目を開けて辺りを見た。東の空が白み始めていた。もうすぐ朝だ。ここにいたはずの黒猫も白猫もいない。どの猫もみんな消えていた。「そうだよな。僕もいずれ消えるんだよ」と、自分に言った。そのあとでふと思った。「もう消えているのかもしれないな……」。


【 3 次の闘い 】

 僕は一晩を、神田橋東方の路上で過ごしたのだった。全身の痛みを堪えてやっと起き上がると、神田紺屋町の「家」へ向かって歩いた。とても遠く感じる。マリさんは起きて待っているのだろうか。会うのが少し怖い……。

 玄関の鍵は開いたままだった。照明はすべて消え、誰かいる気配はない。中に入ると、後から人がやって来た。

 「あら、泉くん」

 「マリさん……」

 「私も、今帰ったところよ」

 「えっ、出かけていたんですか?」

 「ええ、近くを散歩していたの」

 「近く?」

 「そうよ。猫と遊ぶ泉くんに、初めて声をかけた場所の近くね」

 「やはり、そうだったんですね……」

 「傷つき、可哀そうな白猫がいたわ。寄り添っていたの」

 「ありがとうございました」

 「あら、何のことかしら?」

 「いえ、なんでもないです。僕たちは世界の歪の中を生きているんですね。時間も場所も因果律さえも狂っている……」

 「あら、私もその中に生きているの?」

 「はい。恐らく……」

 「そうそう。2人とも疲れていると思うの。シャワー浴びて、少しでも眠りましょ!」

 「はい。そうですね」

…………

 家庭裁判所の職権で行われた精神鑑定の結果が出た。マアヤは少年鑑別所に帰ってきた。調査官らは、その鑑定書を参考にしてマアヤの事件調査を行い、最終的に家裁判事に対して意見を出すのだ。付添人である水島弁護士と僕はいち早く鑑定書を見ることができた。そこには、あの鑑定医に想定していた文字列があった。

― 鑑定主文 少年は事理弁識及び行動制御能力を有している。自閉スペクトラム症と共感性欠如、素行障害、特定不能の解離性障害に罹患しており、親族から虐待を受けていたが、本件へ与えた影響は限定的である。刃物で人を解剖したいとの理由で、見ず知らずの夫妻を殺害したのは自己中心的と言わざるをえず、刑事処分が相当である。 —

 水島法律事務所の一室で……。

 水島「困りましたねぇ。家裁の審判、鑑定書に引きずられて難航するでしょうね」

 「マアヤは、鑑定に協力的でなかったんでしょう。ほとんど自発的に喋らなかったんだと思います」

 「そうかもしれないわね……。検察官は保護処分相当の意見書を付けてきました。その理由も書いていたはずです。鑑定に当たっては調書も読んでいるはず。取り調べには協力的で、鑑定にはそうではなかったかもしれないです」

 「ちょっと待ってください。鑑定日時のところをよく見てください」

 「鑑定日時……。あら、朝早いですね。6時からとか、6時半からとか」

 「要した時間はどう思います?」

 「30分、が多いわ……」

 「例外的に長い日もありますよね。5時間とか、3時間とか」

 「本当ですね。この長い時間の日には心理検査がなされています」

 「えーと、心理士が検査を行ったのが、5日間で20時間あります。それも集中的になされていますね。その他が6日間で、のべ3時間です」

 「山田医師が診たのは、たったこれだけなの?!」

 「慶早大学付属病院の精神科、とくに児童青年期発達教室は全国から患者が集まり、多忙極まりないんです。山田創医師は、鑑定を引き受けたものの、それに割く十分な時間がなかったと。こういう場合には、事件行動の状況を鑑定意見に反映させてしまうという錯誤が起きやすいんですよね……」

 「こういう精神鑑定書、時々見ます」

 「心理検査は比較的しっかりやられていても、心理士から回ってきた報告書をそのまま挿入するだけで、鑑定意見には反映されていないというのも、見ませんか?」

 「あります、あります。2か月も鑑定留置され、付添人の面会も断られたのに、なんて不誠実な結果でしょう! 冷静ではいられないわー」

 「鑑定人選出において過去の実績主義がスタンダードになっている。実績といっても、担当したかどうか……。その弊害の一つの表れなんですね」

 「私たちから、再鑑定請求を出しましょうか?」

 「いや。審判の場で、僕たちが頑張って意見したほうがスムーズに運ぶんじゃないでしょうか」

 「泉先生には、山田鑑定を論破するための、何か策はあります?」

 「ええ、マアヤ本人に目の前で語ってもらう、これが効くでしょう」

 「マアヤさん、話してくれるかしら」

 「ちょっと確かめてみます……」

 僕はマアヤの目を思い出し、そのイメージを強く描いた。その瞬間、自然に彼女のこころに潜入した。

― 信用できない。すぐに決めつける。すぐに「終わります」って言って出て行く。ボソボソ何言っているかわからない。5分で何を話せばいいの? 私はもう喋らない。体重測定で、どうして下着も脱がなきゃいけないの! 先生、私頑張るから、耐えるから、病院から出れたらお願いします。あと、お母さんと妹も、助けてください。 —

 「水島さん。マアヤは鑑定医に嫌悪感を覚えていましたね。それで鑑定に協力的な態度をとっていませんでした。鑑定書には30分と記載されていますが、そんなに時間かけていないかもしれません」

 「なに、それ!」

 「そこを追及してもマアヤの付添人としては役に立ちません。やはり先程の方針でいきましょう」

 「喋ってくれそうですか?」

 「ええ、むしろ僕たちの問いに答えるのを待っているくらいです」

 「安心しました。泉先生の勘って、いつも精度が高いから」

 「まあ、それは置いておいて……。もう一つ懸念材料があります。この鑑定結果がむやみに広がってしまわないか、ということです」

 「少年審判は基本的にクローズでも、審判結果の公表と同時に、要旨が記者クラブに配布されることがありますからね」

 「家裁に配慮を要請しましょう」

 水島弁護士は、少年鑑別所に電話をし、今日の面会の是非を尋ねていた。午後5時以降なら会えるということだった。

 水島「夕方、マアヤさんに会いにいきましょう」

 「オッケーです」


【 4 協議 】

 まだ少し時間があったので、僕と水島弁護士はタクシーを使い、千葉家庭裁判所に寄ることにした。いきなり調査官室を覗くと、女性職員が怪訝そうに「何か御用ですか?」と訊いてきた。「佐木マアヤさんの付添人、泉と水島です」と言うと、その職員は「あっ、ちょっとお待ちください」と言い、奥の方へ小走りに行ってしまった。入れ代わりにある男性が現れた。

 「調査官の石川といいます。奥へどうぞ」

 調査官室前の通路を通り、応接室のようなところへ通された。

 石川「わざわざ、ご苦労様です」

 「弁護士の水島です。こちらは付添人の泉先生」

 「はい、承知しています」

 僕はすぐに石川調査官のこころに潜入した。

― 渡りに船だ。強い意見を出してもらえるとありがたい。検察官の取り調べ報告書は本当によく理解できた。取り調べは泉先生の協力なくしては成し得なかったことが記されていた。それに対して精神鑑定書は中身がない。家裁判事には、鑑定書に流されることのない、英断を期待している。 —

 「石川さん。担当直入に伺いますが、マアヤさんの社会内更生に前向きなお考えをお持ちではないですか?」

 「えっ……。これから慎重に調査していきますが……」

 「僕たちは、彼女には母親と妹の3人で生活してもらい、叔父と父親の虐待で被った後遺症への配慮をしながら、付添人としての役割が終わっても継続的に支援していこうと思っています」

 「は、はい」

 「叔父とは今後会わない、というのは必要条件ですね」

 「そうですね」

 「1年間の試験観察ののちに5年間の保護観察、これで二十歳になりますね。ふつうに学校に通ってもらう」

 「はい……。そのような更生が最適であることを、判事に理解してもらえると?」

 「はい」

 「どうやって?」

 「審判で彼女の姿、僕たちとのやりとりを見てもらいます」

 「実は、私も今日、面談したのですが……。一言も話しませんでした」

 「それはそうでしょう」

 「何が起きているのでしょうか?」

 「精神鑑定の実施を決めたのは、ここ、家裁ですね?」

 「ええ。判事とも相談して、専門家の鑑定を避けては通れないと。何しろ殺人と損壊……、猟奇的事件ですから……」

 「その発生機序は、多分、調書に説明されていたのでは?」

 「まあ……。しかし捜査機関は専門家ではないので、念のために……」

 「専門ではないのに、よく分析されていたとは感じませんでしたか?」

 「そうですね。泉先生が協力されたというのは、間違いないですか?」

 「はい」

 「私たちにも話してくれればいいんですが」

 「ここ家裁は、マアヤさんにとっては、いわば二次虐待の加担者なんです。精神鑑定で辛い経験をしました。その鑑定を命じたのが、ここ。家裁を、自分に迫害を加える集団だと誤認してしまっているんです」

 「その誤解は解けるでしょうか?」

 「はい、できます」

 「なんとかお願いできませんか?」

 「喜んで!」

 「そうですか、ありがたいです」

 「このあと僕たちは、鑑別所へ行って面会します。石川さんが望まれるのでしたら、ご一緒されても構いませんが」

 「本当ですか? でも、付添人活動の邪魔になりませんか?」

 「いや、石川さんも彼女の罰によらない更生を重要視されているのを知っていますので、立場は違いますが、協働できると思ってますよ」

 水島「石川調査官、家裁から咎められたりしないかしら……」

 石川「……」

 「いいじゃないですか、そんなこと。石川さんのこの心意気に乗りましょうよ」

 石川「ではすぐ準備します。ここでお待ちを」

 「わかりました」

 (石川調査官が出て行く)

 水島「泉先生、相変わらず思い切ったことを提案しますね」

 「絶好のチャンスですよ。彼は、我々と似た考えを持っています。それを後押しできるとすれば、逃す手はないです。すでに、友好的な協議が始まっていると考えてみてください」

 「そういえば、そうですね」

 「調査官のことを信頼しているみたいですね」

 「はい。名前に水系の文字が付いている人は、すぐに安心してしまいます」

 「あら、泉……、私は水……、彼は川……。泉先生も元を担ぐんですか」

 「まあ、そんな感じです」

 「なぜなんでしょう?」

 「人の大切な心は、水の底に沈んでいいるから、ですかね」

 間もなく石川調査官が戻った。家裁の公用車で行くことになった。ここから北へ3kmほどだ。さて、2か月ぶりにマアヤに会う!

 石川「なぜ、習志野署は泉先生に頼ったのでしょう?」

 「ご存知なかったのですか? マアヤさんが逮捕されてすぐ、両親と僕がコンタクトをとっていたからです」

 「あと、不思議な感じがして……。失礼になっては申し訳ないですが、私の考えていることが読み取られているような……」

 「ああ、それですね。石川さんが感受性の高い人だから、そう思ったのでしょうね。素晴らしいことです」

 人間と人間のコミュニケーションは、必ずしも言語に依らない。人間と動物との通い合いの成立にそれは端的に表される。感じ合う対人関係を軽視する風潮が広がっているのは、非常に残念だ。言葉と言葉のすれ違いが、世界中で軋轢を生じ、しばしば殺戮をも引き起こしているのだ。

 3人は車を降り、鑑別所の門をくぐった。すでに連絡が届いており、すんなりと鍵の奥、面会室に通された。


【 5 審判へ向けて 】

 面会室で待っていると、鑑別所の2人の女性職員に挟まれるようにして、マアヤが入ってきた。水島弁護士が女性だったこともあり、職員は「終わりましたらお知らせください」と言い残して出ていった。マアヤは、うつむいたまま椅子に座った。石川調査官は、心配そうに僕たちのほうを見た。

 「長い間、大変だったね」

 マアヤ「……」

 「久しぶりだ」

 「……、えっ!」

 マアヤは、周囲に聞こえるような声を出し、顔を上げた。そして……

 「先生!……、くっ、くっ……」

 堪え切れず、泣き出した。

 「そうだよ。泉だよ。やっと、また会えた」

 「くっ、くっ……、くっ……」

 「また少しお話しよう。マアヤさんは疲れているから、今日は短めね」

 マアヤは、泣きながら頷いた。それを確認し、僕は石川調査官に依頼した。

 「石川さん、ここでの様子、記録にとっておいてもらえますか? 調査結果として使用されても構いません」

 石川「はい……」

 彼はスマホで録画を始めた。

 「マアヤさん。僕が話すことで、そうだと思ったら、はい、違うと思ったら、いいえ、と教えてくれるかな? こうやって、僕が君のことで理解している内容を確認させてもらうね?」

 「……はい」

 「分からなかったら、首を横に振ってくれればいいよ」

 「はい」

 「家族と離れて、落ち着いてきましたか?」

 「はい」

 「会いたい人は、お母さん、それと妹さんですか?」

 「はい」

 「お父さんとは会いたいですか?」

 「いいえ」

 「一番会いたくないのは、叔父さんですか?」

 「ううっーーーー……、はい」

 「叔父さんのこと、とても辛いけど、少し質問してもいいかな?」

 「……はい」

 「途中で苦しくなり過ぎたら止めるから、教えてね」

 「……はい」

 「叔父さんが家に来たのは、マアヤさんが小学校に入ったとき?」

 「多分、はい」

 「叔父さんから嫌なことをされたのは覚えている?」

 「……はい」

 「怖いことをされたのも、覚えている?」

 「……はい」

 「そういうことをされると、途中から訳がわからなくなる感じがしたかな?」

 「……はい」

 「途中から、覚えていないことが多かった?」

 「はい」

 「そんなことが始まったのは、1年生の夏だったかな?」

 「多分……、はい」

 「嫌なこと、怖いことは、誰かに話した?」

 「いいえ」

 「それは、話しちゃいけないと思ったから?」

 「はい」

 「叔父さんだけでなく、お父さんからも、言うなと注意された?」

 「はい」

 「でも、お母さんに知られたことがあって、それは4年生のときかな?」

 「多分、はい」

 「そのとき、両親は大喧嘩になったのかな?」

 「はい」

 「だから余計に、知られないようにしなくちゃって、考えた?」

 「はい」

 「叔父さんが来てから、いろいろなことがあって、自分のことが嫌いになっていった?」

 「はい」

 「頭が混乱して覚えていないことも多くなっていった?」

 「はい」

 「マアヤさんが叔父さんの言うとおりにするのがいい、って思った?」

 「はい」

 「虫の実験も、そうかな?」

 「はい」

 「じゃあ、こうやって家族みんなと離れて過ごしてみて、混乱するのは減ったかな?」

 「はい」

 「叔父さんの言うとおりにするのがいいって、今も思ってるかな?」

 「いいえ」

 「じゃあ、次の質問は、警察に連れられて行く日のことね」

 「……はい」

 「浴室で、叔父さんから酷いことを見せられた?」

 「あっ……、?、?、……、はい!」

 「今まで、忘れかけていたの?」

 「は、はい……」

 「もう少し辛抱できるかな?」

 「はい!」

 「詳しくは言わないけど、叔父さんは猫に何かしたんだね?」

 「……はい……」

 「そのあとのことは、何か覚えているかな?」

 「……いいえ」

 「浴室を出て、家を飛び出したかな?」

 「……(首を横に振る)」

 「どこかに行ったのかな?」

 「……(首を横に振る)」

 「何も覚えていないんだね?」

 「はい」

 「思い出せるのは、もしかして、僕が警察署に会いに行ったときからかな?」

 「はい」

 「あと、病院では、退屈だった?」

 「はい」

 「先生、男のお医者さんのことだけど、安心できた?」

 「いや! ……いいえ」

 「ありがとう。大体のことは質問できたよ。最後に、これからのことを訊いていいかい?」

 「はい」

 「家族と一緒に住みたい? あっ、お母さんと妹と、3人だけで」

 「はい!」

 「学校は行きたい?」

 「はい」

 「今までの学校とは違う学校でも、いい?」

 「はい」

 「時々僕と会って話をするのは、嫌かな?」

 「いいえ」

 「二十歳になるまでかもしれないよ。すごく長いけど話していきたい?」

 「はい」

 石川調査官を見ると、彼は静かに頷いた。

 「マアヤさん」

 「はい」

 「こちらにいるのが、僕と同じお手伝いをする水島先生だよ」

 「はい」

 水島「マアヤさん、よろしく」

 「はい」

 「こっち側にいる男の人は、家庭裁判所調査官の石川先生ね」

 「はい……」

 「石川先生は、僕も信頼している人だから、安心していいよ」

 「……はい」

 石川「マアヤさん、石川です」

 「はい」

 石川「今日も昼間に会ったんだけど、覚えてますか?」

 「いいえ」

 「石川先生、ここで初めて覚えてもらえますよ。そしてこれからは、石川先生とは少しずつ話しができると思います」 

 石川「そうですか……。マアヤさん、よろしくお願いします」

 「はい。よろしくお願いします」

 「遅くまでありがとう。今日は僕たちは帰るからね」

 「泉先生……」

 「どうしたの?」

 「もう帰っちゃうの?」

 「うん。また来るから」

 「私……、泉先生以外は信用しないって決めてたけど、他の先生もいいの?」

 「そうだよ。少なくとも水島先生や石川先生は、いいよ」

 「わかった……。寂しいし、怖いけど、頑張る」

 「ありがとう」

 「お母さんとも近々会えるからね」

 「……会いたい……(涙)」

 部屋の中に設置されていたブザーを押し、職員に終了の合図をした。迎えがくると、マアヤは部屋の外に連れていかれた。1度振り返って僕の顔を見た。パニック状態からはすっかり回復できているようだった。身近に過激な刺激がなければ適応できる、そう感じた。


【 6 家族再生 】

 その夜、僕はまた同じような夢を見た。最後のシーンだけは新しい展開だったが……。

― 暗い海を潜っていく。左手の奥へ。ブラックホールのように吸い込む渦がある。その下には、錆びた狐色に光る「それ」があるのを知っていて、身を任せる……。金属バッド。何かに当たる鈍い音がする。何度も響く。金属バッドの次に広がるのは赤い色。それが何なのか、正体を知ったはずなのに、知らないかのように振る舞い、そこに留まるイルカの僕だった。おや? 大事な「それ」はここだけじゃあないな。まだどこかに、嫌な狐色に光るところがあるはずだ。準備が整ったら、それを探す水の旅に出よう。 —

 昼休み、石川調査官から電話があった。マアヤが対話に応じてくれるようになったお礼を言っていた。他の家裁職員に対しても同様らしい。

 「明日、母親と妹さんを連れて会いに行きたいと思っています。久しぶりの対面になります。家裁内で、その点についてのコンセンサス、お願いします」

 石川「承知しました。ところで父親は、本当に蚊帳の外でいいのですか?」

 「母親は離婚を決意していて、父親も同意するそうです。叔父との接触から免れるためにも、そのほうがいいですね」

 「確かに、叔父のことを考えると。ところで叔父は、暴行や動物虐待で、検挙されないですかね?」

 「最大の被害者であるマアヤの意向が反映されるでしょう。ただ僕は、もうマアヤには警察で叔父のことを話させたくないです」

 「わかりました。社会内更生を図るなら、叔父との接触はないという環境を用意して臨みたいのものですから」

 「それは極めて重要な条件ですね。担当判事の意向はどうでしょう?」

 「それが、よくわからないのです」

 「調査官の腕の見せ所です。期待していますよ」

 「努めます」

 「ところで主任調査官はどなたですか?」

 「ああ、お伝えしてなかったですね。私です」

 「それは心強い」

 約束していた午後3時、母親と妹のサアヤが相談所に来た。まだ転居先が決まらず、ホテル暮らしの生活を続けていて、サアヤの新しい学校も未定だった。

 母親「マアヤはどんな様子ですか?」

 「かなり落ち着いています」

 「よかった……(涙)」

 「マアヤは罰せられますか?」

 「そうならないように、いろいろと調整しているところです」

 「母親として守ってやれず、本当にあの子には申し訳ない……」

 「今日面会するときには、そのことを口にしないでください。以前とは違って、お母さんは今、明るく自由に暮らしているんですよ」

 「そうですね。離婚届けは、いつでも出せる状態です。印鑑も押してもらっています」

 「サアヤさんも、両親の離婚のことは知っているかな?」

 サアヤ「……はい……」

 僕は初めてサアヤのこころに潜入した。

― 怖い、汚い……、もう嫌! パパの顔も見たくない! あんなのはパパじゃない。 —

 「サアヤさん。あなたが嫌っている父親のこと、少しだけお母さんに話していいかな?」

 「……。知ってるの?」

 「うん、大体のことはわかったよ」

 「話していいです……」

 「わかった。では、お母さん。サアヤさんは父親から虐待されていたようです」

 母親「本当ですか?」

 「サアヤさん、今、詳しくは説明しなくていいからね」

 サアヤ「はい……」

 「お父さんから嫌なことされていたね?」

 「はい……」

 「でも、お母さんに心配かけないように、黙っていたんだね?」

 「はい……(涙)」

 「はい、もうそれで十分だよ」

 母親「ごめんなさいーー。サアヤまで……」

 「さあ、これからは、母と娘の3人で、安心して暮らしましょう! それが3人にとって一番いい」

 「はい! 気持ちを切り替えたいです。サアヤのこころのケアもお願いできますか?」

 「はい。もちろん」

 「よろしくお願いします」

 「ところで、住む場所や学校に、希望はありますか?」

 「できれば、ここの近くがいいです」

 「わかりました。この辺りの物件はマリさんが詳しいので、探すのを手伝ってもらいましょうか?」

 「はい。ありがとうございます」

 「なるべく早く居住地と在籍学校が決まり、審判に備えたほうがいいです。サアヤさんもそれでいいかな?」

 サアヤ「はい」

 「届けを出したら、名字はどうされますか?」

 母親「旧姓に戻したいです」

 「いいですね。なんというのですか?」

 「はい、古泉(こいずみ)です」

 「えっ?!」

 「何か……?」

 「念のためにお尋ねします……。お母さん方の古泉家で、茨城県の土浦方面に住んでいた人は?」

 「います。私は結婚前は水戸に住んでいました」

 高鳴る胸をカモフラージュして、僕は目を瞑り、ゆっくりと息をした。そして言った。ネットで調べてわかっていたこと……。それは21年前、僕が小学6年生当の時、土浦市に住んでいて、近所に住む14歳の少年によって両親が殺されてしまう現場をクローゼットに隠れて見ていたことと、僕の氏名が古泉海斗であったということ。高校生以前の記憶を持たない僕には、わからなかった。もしかすると、マアヤの母親の家系と僕自身の家系は、どこかで繋がっているのかもしれない……。

 「そろそろ、マアヤさんのところへ出かける準備をしましょう」

 僕たちはタクシーで少年鑑別所に移動した。妹の面会は認められないと制限されたが、家裁の石川主任調査官に電話で依頼し許可を出してもらうことで、なんとか認められた。

 3人で前回の面会室で待っていると、間もなくマアヤが連れられてきた。

 マアヤ「お母さん……」

 母親「マアヤ、大変だったね」

 「私、頑張ったよ」

 「そうね」

 どちらからともなく、2人は抱き合った。そこに妹も混じった。しばらくの間、彼女らのすすり泣く声が続いた。

 「お母さん。これからはどのように生きていきたいですか?」

 母親「今までみたいに、誰かに気を遣ったり、我慢したりしないで、伸び伸びと楽しく生きていきたいです」

 マアヤ「本当? ねえ、お母さん、本当?」

 「ええ、本当よ。もう嫌な人とはかかわらない。そう決めたの」

 「じゃあ、パパとか叔父さんは?」

 「あの人たちとは、もう他人になるわ。だからもう会わないし、連絡もとらない」

 「本当?」

 「本当よ」

 「サアヤもそれでいいの?」

 サアヤ「うん、そうだよ。お姉ちゃん」

 「よかった……」と言うと、マアヤは人目をはばからず声を出し、泣いた。

 母親「今まで、ごめんなさいね」

 「お母さん、それはもう言う必要はないですよ……」

 「はい、泉先生。つい……。でもこれを最後にします」

 「それがいいと思います。マアヤさんがここを出たら、僕の相談所の近くで3人で暮らしましょう。マアヤさんとサアヤさんは、新しい学校に通いましょう。学校の人たちには、何も分からないように手配するつもりです。生活に慣れてきたら、お母さんはお仕事を始められるといいですね」

 母親「そうできるのなら、とてもありがたいです」

 マアヤ「私、学校に行けるの?」

 「行けると思ってる。そうできるように、僕たちが頑張ってみるね。ただし、初めのうちは、時々さっきの調査官の先生と面談をしなくちゃいけないかな。その後もしばらくは、僕や水島先生と話す期間が続くと思うよ」

 「泉先生とは話したい。大人になったら、先生みたいに仕事をしたい」

 「随分先のことまで考えているんだね」

 「はい。でも、お母さんが帰ってきてくれたのが一番嬉しいです……」

 母親の佐木、いや古泉妙美は、声を出すのをぐっと堪えて、目を赤くして涙を流していた。

 「今日は特別に許可をもらって、サアヤさんもここに来ることができたんだ。次からは来れないと思っていてね」

 マアヤ「はい」

 「ここから出られるまでに何週間かかかるけど、みんなで力を合わせて乗り切りましょう。その後の3人の生活を希望にして」

 マアヤ、母親「はい」

 親子3人で今後の生活方針の確認をして、面会室を後にした。母親は精神的に参っているようだったが、娘たちの前で気丈に振舞っていた。

 帰りのタクシーから降りる際、母親に付け加えた。急いでしなくてはならないもう一つの課題が残っていたからた。

 「お母さん、明日、時間をとってもらえますか?」

 「はい、もちろん」

 「お母さんにはとっても苦しい、でも避けては通れない役割に、早く取りかかりたいのです」

 「避けては通れない役割?」

 「遺族の方に、お詫びに行きましょう。水島弁護士も一緒に行ってくれます。拒まれなかったら、です」

 「……はい。それは私もしたいです……」

 「ではまた明日。お疲れさまでした」

 相談所の事務室に戻ると、マリさんが食事を用意して待っていてくれた。僕の家だという感覚が蘇り、とてもありがたかった。だが、脳内では「古泉の家系……」の音がリピート再生されているのだった。もちろん、マリさんという人物の謎についても、まったく晴れてはいなかった。


【 7 被害者遺族 】

 日曜日。僕と水島弁護士、そしてマアヤの母親は、マアヤが殺めてしまった夫婦が住んでいた習志野市津田沼6丁目にある家を訪れた。2階建ての日本家屋で、植木がきっちりと剪定されていた。玄関のチャイムを鳴らしたが、何の応答もない。部屋には照明が燈されているようで、中に誰かいる気配がある。

 水島弁護士がインターホン越しに「弁護士の水島です。ちょっとお話があってうかがいました」と言った。すると、足音が聞こえ、インターホンから男性の声がした。

 「何のご用ですか?」

 水島「この度の事件のことで、ご遺族の方に是非ともお伝えしたいことがありまして」

 「もう警察からいろいろ聞きましたから」

 「あのぉ……、事件を起こした少女の母親がここにいます。どうしてもお詫びを伝えたいと」

 「……」

 「是非、お願いします」

 「……、そんなの今更聞いても遅いじゃないですか!」

 「はい、もうご夫妻は帰ってこられませんが。お願いできないでしょうか?」

 「うるさいんだよ! もう! 少しは休ませてくれよ!」

 「お疲れですよね。当然のことです。それでもどうしてもお会いしたと」

 「今、姉ちゃん買い物で外へ出てるから、帰ってきてから相談して決めます!」

 「では、郵便受けに私の名刺を入れておきます。お姉さんと相談されてから、この携帯電話の番号にかけて教えていただけますか?」

 「わかったよ!」

 まだ若い声だった。姉と2人が残されたのだろうか。加害者の親と会うことを自分一人では決めかねていた。会って謝罪の言葉を聞けるほど単純な出来事ではないことはよくわかる。

 津田沼駅方面へ歩き、途中にある喫茶店に入って、待つことにした。「買い物」という言い方から、それほど時間を要さないだろう、と感じた。

 冷たいドリンクを飲みながら、僕たちはしばらく待った。僕には、母親にどうしても確認したいことがあった。

 「お母さん。関係のない話ですがちょっとよろしいですか?」

 「はい、構いません」

 「お母さんの身内の方で、以前、犯罪に巻き込まれた方はおられませんか?」

 「いるんです。確か、私がまだ30歳になる前だったと……」

 「どなたかが、亡くなられた?」

 「ええ、私の兄夫婦でした」

 「その方にご遺族は?」

 「一人息子がいました」

 「その息子さんはどうなりました?」

 「施設に行ったんだと思います」

 「その息子さん、今はどうしているんでしょう?」

 「それが……。施設に行ってから、行方がわからなくなってしまったようなんです」

 「そうなんですね。名前は憶えていますか?」

 「確か……、海斗くんだったかな」

 「男の子、一人」

 「はい。当時の年齢は、中学に上がる前ですかね。ああ、思い出しました。息子さんの誕生日で、そのお祝いを始めるときに起きてしまったんじゃなかったかしら……」

 「……。その海斗くんには会ったことがありますか?」

 「はい、もちろん」

 「……お母さんも、犯罪被害者の遺族の一人だったんですね」

 「そうなります」

 「だから、余計に遺族の気持ちがわかると?」

 「はい。そう思っています」

 この母親、古泉妙美は、僕の叔母さんだということになる。犯罪被害者遺族である僕らが、のちには事件の加害者側に回って、別の被害者遺族に謝罪をする、こんな反転現象が起きていた。ここで水島弁護士の携帯が鳴った。

 「はい、弁護士の水島です。—— はい、そうですか……。やはり難しいですか……。 —— では、示談金のご相談など、お宅様の弁護士さんを通して進めさせていただきます。ご連絡ありがとうございました」

 母親「どうでしたか?」

 「先ほどの男性のお姉さんが、酷く怒ってらして、2度と来るな、って言っていたそうです」

 母親「やはりそうですよね。私もあの時、犯人、まだ中学生だったんですか、そんなふうに育てた親のことをすごく憎みましたから……」

 水島「そうですか……。泉先生、静かですね。どうかされましたか?」

 「いえ……。ちょっと考え事をしていまして」

 これは知らせないでおいたほうがいい。マアヤの母親は僕の叔母で、21年前に土浦市の自宅で殺害された夫婦が、僕の両親だということ。僕の誕生日の出来事は、この親子の未来のために、伏せておく。

 水島「では、相手の弁護士さんに託しましょう。お母さん、ご遺族へのお気持ちを手紙にしていただくことは?」

 「はい、書きます」

 水島「できる限り尽くしましょう!」


【 8 審理 】

 担当する家裁判事は、渕沼流太郎というベテラン裁判官だった。第一回目の期日がやってきた。マアヤ本人と、家裁からは判事、調査官、書記官らが参加し、外部からは僕と水島弁護士の付添人、母親が加わった。

 渕沼「調査結果は、十分に信頼できるものですか?」

 石川「はい。本人からも聴き取り、関係者の証言との一致度も高いです」

 「犯行時の記憶がまったくないというのは、生じうるのですか?」

 「はい」

 「その原因は、身内からの凄惨な虐待というわけですね」

 「はい」

 「虐待を受けている人でも、犯罪に走らない人はたくさんいます。それが原因だと断定できるのですか?」

 「はい。多数の心理検査を実施しましたが、同じ結果を指しています」

 「ところで、鑑定書の内容と調査結果は、大きく食い違っているようです」

 泉「精神鑑定書の中には、信頼性の高いものがある一方、そうでないものもあります」

 「精神科医でない人が、そのような評価を出せるものですか?」

 「診断行為はできませんが、一定水準のスキルと経験を備えた心理士であれば、今回の精神鑑定書のお粗末さがわかるはずです」

 「鑑定書では、自閉スペクトラム症他の診断が出されていますが?」

 「これは過剰診断と言えます。裁判長、ここで強い要望があります。鑑定書に記された診断名を一切盛り込まないでいただきたいのです」

 「ほう、それは?」

 「診断名を巡って、世間に安易なラベリングが広がってしまいます。この診断名を有する人は危険人物だと認識され、多くの方の回復を阻害してしまいます」

 「調査官も同意ですか?」

 石川「はい。全く同じです」

 「では、本少年は、何も精神医学的問題を有していなかったということですか?」

 泉「敢えて記載するなら、PTSDが妥当かと。その症状の一環として、解離を伴う、本人にも十分自覚も制御も困難な、行動が起きてしまいました」

 「本件は、その症状として起こったということですか?」

 「まさに、そうです。パニックを起こし、記憶がない状態で行われています。パニックのきっかけが、浴室で叔父から見せられた凄惨な動物虐待でした」

 「ではマアヤさんに質問します」

 マアヤ「はい」

 「事件のことを覚えていますか?」

 「いいえ」

 「何も覚えていないのですか?」

 「はい……」

 「あなたがしてしまったことは、いけないことだというのはわかりますか?」

 「はい。本当にごめんなさい」

 「誰に謝っているのですか?」

 「被害に遭った人と、ご遺族の方です」

 「記憶にないのなら、また同じように繰り返してしまうと思いませんか?」

 水島「裁判長。そうならないような環境調整を進めています。まずカウンセリング継続します。そして、今回きっかけになった叔父との接触は一切停止します」

 「社会内で更生させることで、他の子どもたちに悪影響を与える心配はありませんか?」

 「まずないと考えます。基本的にマアヤさんは、優しい性格です。母親と本人、妹の3人で平和に暮らしてもらいます。そして、付添人である泉心理士とのカウンセリングを、二十歳になるまで継続し、経過を観察します」

 「カウンセリングは、必ず効果が出るものですか?」

 泉「はい!」

 「なぜ断言できるのですか?」

 「僕が担うからです」

 「あなたが担うと、なぜ必ず効果が保障できるのですか?」

 「僕は、本件少年の本音や状態を察知することができるからです」

 「奇妙なことを言いますね……。自信過剰というか、妄想的というか……」

 「イラついていらっしゃる……? では、渕沼裁判長の本音をここで察し、話すことで証明させていただいても構いませんか?」

 「これは面白いことをおっしゃる。是非、見せてほしいものです」

 水島「泉先生、やり過ぎないほうが……」

 石川「そうです。裁判長の心証に好ましくないかも……」

 「裁判長に信じていただくには、ほかに示しようがありません」

 渕沼「いいでしょう。私自身の、他人には知られたくない本音を、察知してみていただけますか?」

 「わかりました」

 僕は、裁判長のこころに潜入した……。

― マッチで火遊び。山火事。昇格で金銭。贈賄。娘。自殺。家裁内の花山香書記官。彼女の家。幼児への興味。画像収集。…… —

 「一応、ざっと見てきました。ここではお話できないことが多いです」

 「なぜですか?」

 「裁判官の失職に繋がりかねないからです」

 水島「泉先生! 自重されたほうが……」

 石川「いや、私は聞きたいです」

 渕沼「荒唐無稽なことを言われると、付添人の主張の信用性を損ねてしまいますよ。それを覚悟でということなら、どうぞおっしゃってください」

 「では、僕が察知した事象の、キーワードだけ列挙します。火遊び、贈賄、娘さん、H女性書記官、児童ポル……」

 「それで十分です! それ以上は聞く必要はないようです。調査官も、付添人も、試験観察を経て保護観察という社会内更生が最善だとの結論で、変わりないですか?」

 「はい」

 「わかりました。次回期日で、本人と母親に、今後の計画などをお聞きし、なるべく早く決定を出したいと考えます」

 終わった。

 石川「さっき話された裁判官の本音というのは……」

 「裁判長も人間なのだから、道から逸れてもいいんじゃないでしょうか。違法部分は、是正していただけるでしょう」


【 9 それぞれの道 】

 家裁での第一回審判が終わったあとの夕方、僕はマアヤに面会に行った。叔父や父親に「刑事罰」を与えたいと思っているかどうか、その真意を確かめるためだった。この時期の6時はもう随分と暗い。

 「これからの話は今夜で最後にするつもりだよ」

 マアヤ「はい」

 「いいかい? 本当の気持ちを答えてほしい」

 「はい」

 「君に酷いことをした叔父さんを逮捕して、刑務所に入れてほしい?」

 「そうしたら一生出てこない?」

 「いいや、何年かしたら出てきてしまうと思う」

 「それなら、何もなくていい」

 「恨まれるのが怖いからだね?」

 「はい。お母さんもまた可哀そうだし」

 「わかったよ。絶対に会わないように工夫しないとね」

 「はい。もう会わない!」

 「教えてくれてありがとう」

 それだけを確認すると、僕は早々に家である相談所に戻った。玄関に入るとマリさんが駆け寄ってきて、嬉しそうに「いいところが見つかったわ!」と言った。

 「いいところ?」

 「マアヤさんたちの新しいお家よ」

 「ああ、お願いしていたアパートですね」

 「以前仕事でお会いした方が不動産投資をやっていてね、安全でお安くしてもらえるところを頼んでいたの。浅草線東日本橋駅の南なんだけど、9月で一部屋空くんですって。その方がオーナーで、半額でいいよって言ってくれたの」

 「それはいいですね」

 「久松警察署のすぐ隣だから、万一の時も安全かなって思うの」

 「なおさら、いいです!」

 「資料あるから、もって来るわね」

 夜の9時近かったが、マアヤの母親に電話をした。住む場所について、明日打ち合わせに来てほしいと伝え、承諾を得た。続いて、習志野警察署の下山捜査員に電話をした。

 「はい、下山です」

 「泉ですが、先ほどマアヤと話して確認してきました。叔父や父親を立件してほしくないようです」

 「そうですか」

 「立件となると、マアヤからいろいろ話を聞かなくてはならないから避けたいと思っていたんですが、彼女は、出所してから自分たちが恨まれるのではないかと酷く恐れてました」

 「二重の理由で、泉先生もそっとしておいてほしいということですね」

 「はい、そうなります」

 「泉先生……」

 「なんでしょう?」

 「本当にいいんですね?」

 「ええ、やはり彼女の胸をこれ以上痛めたくないですね」

 「泉先生にとっても、本当にいいんですね?」

 「僕にとって……。どういうことですか?」

 「泉先生は、あの叔父がこのまま社会の中で普通に生きていくことに、のちのち後悔しませんか? 勘の鋭い先生です」

 「それはわかりません。1人に1つずつ与えられた人生。どこで誰と会い、それで何が起き、その結果自分がどうなるか、完璧に予測なんてできるものではないですから。のちのち何かがあっても、それを引き受けていくしかないんです」

 「わかりました。マアヤ本人と泉先生の意向として、本部長と上の者に伝えさせていただきます。またいつか、じっくりお話しさせてください」

 「はい。よろしくお願いします」

 僕はこの対話中、下山捜査員のこころへの遠隔潜入をしなかった。「しないほうがいい」と囁く声が常に聞こえていたのだった。

 翌日の朝、マアヤの母親がやってきた。そして候補に上がった物件について説明した。

 マリ「東日本橋駅から歩いて、5、6分くらいですね。この久松警察署のすぐ隣。サアヤさんは、隣接している久松小学校への転校になります。マアヤさんは、学校へ通えるようになったら、この北側にある日本橋中学校に通うことになります」

 「僕からも念のために。久松警察署は警視庁の管轄ですから、父親の千葉県警とは人事は別になります。転校に当たっては、学校長と教育委員会の担当責任者だけの胸の内に留めてもらうよう手配します。一般教師や子どもたちは事情を一切知らないという状況を作ります」

 母親「いい場所とご配慮を、ありがとうございます。あの……、家賃は私でも払えますか?」

 マリ「半分でいいそうですよ。3DKで4万8千円ですって」

 母親「こんなにいい条件で……。引っ越して、私も早く仕事を探します」

 「よかったですね。あとは、家裁の審判結果を待つのみです。それまでに、急いでホテル暮らしからアパートに移って落ち着きましょう!」

 「はい」

 「やっと3人とも、自由になれますね」

 「はい……(涙)」

 母親が帰ったあと、僕はマリさんに、あの事実を打ち明けることにした。

 「マリさん、真剣な話があるんです」

 「いいわ。それを聞くために、少しでもリラックスできる、ラベンダー・ティーを入れるわね」

 「お願いします」

 マリさんが飲み物の用意をしている間、下山捜査員が何度も言っていた「あのこと」がぐるぐるとしていた。「僕にとってもいいのか?」。叔父や父親を検挙しないことだ。そこにどんな秘密が隠されていても、受け入れ、生きていかなくては!

 マリ「はい、どうぞ」

 「ありがとうございます」

 「一口飲んでから、深刻なことを聴くわ」

 「はい」

 僕たちは、しばらくの間、黙って飲んだ。富良野の爽やかなラベンダーの絨毯をイメージした。そして切り出した。

 「マアヤの母親は、離婚届けを提出し、子どもたちの親権をとり、旧姓に戻りました」

 「ええ」

 「そして、母親の氏名は古泉妙美になりました」

 「古泉? 泉くんのご両親の事件で出ていた名字なのね……」

 「はい、多分マリさんが想像している通り、いやそれ以上です」

 「泉くんと親族関係にあるの?」

 「21年前に、妙美さんの兄夫婦が、14歳の少年に殺害されたそうです」

 「まさか……」

 「兄夫婦には1人息子がいて、名前は古泉海斗だったそうです。中学に入る前だったと。事件後、その海斗くんは施設に行ったらしいのです」

 「……。泉くんのお父様の妹が、マアヤのお母さんなのね」

 「はい。マアヤとサアヤは、僕の従妹です」

 「そうなのね……。そして、当時の記憶のない泉くんは、施設で生活していたかもしれない」

 「そういうことです」

 「そのこと、マアヤの母親は知っているの?」

 「いや、僕の胸の中だけに収めようと思います。あっ、でもこれでマリさんの胸の中にも入ってしまいましたね」

 「わかったわ。だから私、泉くんのことをいつも応援しているの」

 「だから?」

 「それは弾みで出た言葉。いっつも応援しているわ。これからも……」

 「ありがとうございます」

 「たとえ猫になってでも、応援するわ」

 「比喩と真実が混じっていますね」

 「ええ、まあね!」


【 10 やり場無いこころ 】

 家裁送致から3週間程が経過して、千葉家庭裁判所は審判の決定内容を公表した。それは事件の重大さの割には極めてシンプルで、多くを述べてはいなかった。決定要旨を抜粋すると次のようになる。

 主文 半年間の試験観察及び5年間の保護観察処分とする。

・複雑性PTSDに罹患しており、事件との関連性が認められる。

・事件時はパニック状態に陥っており事理弁識及び行動制御能力がかなり損なわれていた。

・安全な生活環境下での心理的治療による更生が十分に期待される。

 マスコミは「殺人事件で保護観察?!」など大きな見出しで報じたが、家裁の公表内容から抜粋して議論を展開することができずにいた。専門家や評論家も、憶測の持論しか述べていなかった。一部の新聞が「闇に葬られた審判」と揶揄した見出しをつけていたくらいだ。

 基本的に少年審判は非公開である。観察処分になった以上、少年法の精神に則り、やみくもに世間に対して情報を拡散させることがあってはならない。あの精神鑑定書が重要視されなかったこと、何よりそこに記載されていた事項や用語が公表されなかったことには、本当に胸を撫でおろした。無用な誹謗中傷が飛び交うことなく、無関係な多数の人たちが傷つかなくて済むから。

 母と2人の娘は、姓を佐木から古泉に変えていた。マアヤの処分決定の前に、2人は中央区日本橋久松町のマンションの一室に住み、サアヤは久松小学校に通っていた。家裁の決定を受けて、翌日の朝、僕と水島弁護士は、中央区の小林教育長に面談を申し入れた。

 小林「緊急、と聞きましたが?」

 水島「はい、そうです。教育長と、他に必要最低限の方だけに共有する極めて重大な情報として、お聞きください」

 「はい。最終的にはご説明いただいた上で判断することになりますが」

 「それで結構です」

 「こちらは?」

 「僕は心理士ですが、ある少年審判で水島弁護士と共に付添人をしていました。今は、その少女の心理的ケアを担っています。警察署や家庭裁判所の期待を背負って取り組んでいます」

 「深刻な話とお見受けしました。奥の応接室へどうぞ」

 隣接する部屋へ通された。教育長のこころへ少しだけ潜入した……。

― 昨日の少女のことだろう。中央区に関係するとすれば心して聞かなくては。誰にも口外できない次元のことだ。 —

 僕は水島弁護士に耳打ちした。「信頼してもいいですよ」と……。

 「僕のほうから説明させてもらいます」

 「はい、お願いします」

 「昨日からのニュースでご存知と思いますが、千葉家裁が昨日、習志野市で起きた女子中学生による事件の審判決定を公表しました」

 「ああ、あれですね。承知しております」

 「観察処分が出され、自宅で生活することになります」

 「はい……」

 「今、自宅は中央区内にあります。この事実を知っているのは、捜査関係者と家裁など法務関係職員の一部に限られます」

 「そうですか。それは私どもにとっても重大な守秘責任を課されることになります」

 「そう受け止めていただけると助かります。彼女は間もなく、区内のある中学校に通うことになります。普通の転校生として」

 「知られてしまうと、他の生徒や保護者だけでなく、教職員にも動揺が走り、誰の利益にもならないというわけですね」

 「そういうことです。教育委員会内での情報管理はお任せします。学校現場は、まず校長には伝え、理解してもらわねばなりません」

 「もっともです。学校名はお教えいただけますか?」

 「日本橋中学校です」

 「それはよかった! 私と親しい信頼のおける者が校長をしております。そこに赴任して2年目になります。3年務めてから教育委員会に戻るでしょう」

 「まず、校長への連絡をお願いしてもいいですか? そのあと、教育的配慮について、直接、詰めて話し合いたいと思っています」

 「よくわかりました。学校教育も彼女の更生に役立つよう、できる限りのことをさせていただきます。当面は、この情報は私と校長だけで収めておきたいと……」

 「それはありがたいですね」

 「ところで一点、念のためにお尋ねしておきたいのですが、その生徒が学校で問題を起こすようなことはないのですか?」

 「そのリスクは0に近いとお考えください。ただし、万全を期して安全な学校環境が用意されなくてはなりません」

 「安全というと?」

 「それは校長と詰めようと考えていたことですが、たとえば、生徒間のいじめ、教師からの体罰、そういった不適切な刺激がないことだとお考えください」

 「理解しました。これから校長に来てもらい、説明します。そして早急にあなた方との話し合いを始めるよう、指示を出します」

 「ありがとうございます!」

 教育長室を後にして、僕たち2人は安堵の息をつき、すぐに次の作業に取り掛かることにした。マアヤの移送についてだ。家裁の決定後、その場から出られないでいる。誰にも知られないよう、見られないようにして、新しい家に連れてこなくてはならない。

 「警察に頼ってもいいですかね?」

 水島「手伝ってくれるかしら」

 「きっと……」と答えるなり、習志野署の下山刑事に電話をかけた。

 「お久しぶり。泉です」

 下山「はい、なんとなく想像がつきますね。今度は何をご希望で?」

 「下山さんならわかりますよね。移送で困っているんです」

 「家裁から自宅へ、ですね。どちらでしょう?」

 「中央区の、とあるマンションです」

 「個人的に動かれると足がつきかねません。まだマスコミが大勢、家裁で待機してますから」

 「その通りで……。彼女には、なるべく自然なかたちで、学校を含めた地域に溶け込んでほしいのです」

 「私たちが協力するとしたら、大作戦に出ても構いませんか?」

 「大作戦? まさか清掃員の格好をさせるとか?」

 「いやいや泉先生、こんなときにジョークを。それはあの自動車会社の元会長のことですよね」

 「ええ、まあ……。大作戦、可能ですか?」

 「恐らく。本件でもあれだけお世話になりましたからね。これから上と練りますが、時期は早いほうがよろしいですか?」

 「できれば、明日。遅くても3日後くらいで」

 「わかりました。一応、明日を予定しておいてください。泉先生には本人との同行をお願いすることになるでしょう。あと、家裁はまだ知らないですね?」

 「ええ、まだです」

 「では、付添人として自宅への移送を千葉県警に依頼したことだけは、伝えておいていただけますか?」

 「わかりました。ありがとうございます」

 電話を切り、水島弁護士に伝えた。

 「何か大きな策を考えてくれるようですよ。恐らく、明日」

 水島「よかったわ。どんな策かしら」

 「わかりません。これから家裁に電話しておきます」

 翌日の朝9時に、マリさんが電話を受けた。千葉県警が「これから迎えに行く」とのことだった。約束の時間まで約1時間。マリさんが言った。

 「ねえ、泉くん」

 「なんですか?」

 「これから、ゆっくりとデザートタイムを過ごしましょ」

 「ええ……、構いませんが」

 「はい、今日は、梨とブラック・ベリーのタルトよ。梨の白とベリーの黒がいつまでも寄り添いますように。そんな思いで作ったの」

 「マリさん、今日は何故か神妙な雰囲気ですね」

 「このまま泉くんが帰ってこなかったらどうしよう、って思いがよぎったからかもしれないね」

 「ちゃんと帰ってきますよ。あの……。そういえばマリさんって、この前、たとえ猫になっても、って言ってましたが……。正体は黒猫、っていうことはないですよね?」

 「あら、違うわ。泉くんが猫と話しているところを見ると、いつもとっても安らいだ表情をしているからよ」

 「そうなんですね。…… この白と黒、色も綺麗ですし、とってもおいしいです!」

 「デザートタイムをゆっくり楽しみましょ」

…………

 予定よりも少し早く、迎えの車が着いた。僕はマリさんに手を挙げて、そそくさと乗り込んだ。後部座席から後ろを振り返ると、マリさんは、視界から消えるまでずっと手を振っていた。

 移動中の車内で、つい、うとうとして、夢想に入っていた。

― 秋空の日、僕はマリさんと川遊びをしていた。すると、上流で雨が振ったのか、水かさがみるみる増してきた。流されまいとして、手を握り合い、岸へ向かう。水は勢い増し、岸を覆っていく。手を繋いで急いで歩くが追いつかない。水が胸付近に達っしたとき、しっかり握った手が離れてしまった。マリさんは下へ流されていく。僕はイルカになり、川に潜ってマリさんのところへ向かわなきゃ。しかしここは海とは勝手が違った。予測不能の流れが錯綜し、方向感覚さえ狂わされた。フィンを勢いよく蹴り、ただただ闇雲に泳ぎ回るしかなかった…… —

 「着きました」の運転手の声で目が覚めると、習志野署の玄関前にいた。マリさんからあんなに手を振って見送られたので、こんな幻影を見たのか……。

 刑事1課の応接室に行くと、下山刑事や神山警視をはじめ、数名の職員がいた。ここで署を挙げての「大作戦」について簡単な説明を受けるはずだったが、任せていたので、言われるがままに振る舞うことにした。下山刑事から一言、「泉先生と本人は、私と一緒に動いてください」とだけ言われた。

 僕は捜査員のような服に着替え、促されて、来た時とは別の車に乗った。似たような車が縦列する後方だった。他の車にも、号令でもかかったかのように1、2名ずつ乗った。そして次々と発車すると、家庭裁判所に向かった。下山刑事に、車が何台あるのかを訊くと「10は下りません」とのことだった。もちろん車の後部座席は外からは見えないガラスだ。前列との間は、肩の高さ以下は布で仕切られていた。なるほど、この布で正面からも見えにくくなる。

 この動きを察知したのか、家庭裁判所に終結せよとの連絡が各マスコミで飛び交ったようだ。家裁に着くと、前の車から順に次々と捜査員と中学生らしき少女が降り、家裁の裏門から中へ入っていった。この少女たちは皆、中学生の制服を着ていた。僕たちの車の番が来て、2人で中に入った。規制線が貼られており、地裁建物等でコの字状に囲まれた駐車スペースには、関係者以外は入れないようになっていた。

 中の広い会議室のようなところに全員集合した。マアヤもそこにいて、既に他の女性と同じ制服に着替えていた。「では行きましょう」の掛け声で、女性たちは婦警のお面を着け、捜査員と女性で2、3人のグループを作り、外へ出て次々と車に乗り込んでいった。下山刑事は僕とマアヤに向かって「さあ、いきましょう」と言い、出ていくと、来た時とは違う車に乗った。もちろんマアヤもお面を着けている……。

 すでに多くのマスコミがカメラを構えていた。しかし、どの車にターゲットを絞ったらよいか戸惑っているようだった。裁判所の敷地から出た道を行き、本通りに突き当たると、車は一台おきに、左折、右折と二分した。どちらも6台くらいはあるようだ。僕たちの車は、右折車の一群に混じっていた。そして最初の大きな交差点で、さらに左折、直進、右折と3つに分かれた。この車は左折だった。結局2台で北方面に向かったことになる。しばらく直進した後、長沼という交差点で左折し、残りの1台は右折した。これで1台だけになった。計12台の警察車両があったとすれば、そのどれを追えばいいのか分からない、という作戦だったようだ。

 「下山さん、追跡されていませんかね?」

 下山「実はこの少し後ろに別の車がいて、尾行がいないかどうか確認しています」

 「そうですか。それにしても、たくさんの女子中学生……」

 「近くの交番から小柄な女性職員を集めたんです」

 「ということは、みなさん大人?」

 「ですね」

 「清掃員姿への変装案と、大した差がないじゃないですか」

 「まあ……」

 「それにしてもよくここまで応援を頼めましたね」

 「署長から県警への強い働きと、あと、噂によれば東京の警視庁からの後押しもあったようです」

 「なるほど……」

 マアヤは、たまった疲れに一気に襲われたように、シートに身を預けて安心して眠っていた。ゆっくりと時間をかけて都内に入った。後続車からは異常の連絡はなかった。

 下山「それで、目的地は?」

 「日本橋の久松署隣のマンションです」

 「では、行きましょう」

 待機中の母親に電話かをかけ、すぐに入れるよう待機を依頼した。ほどなく到着し、お面だけを外したマアヤは、1人で母親が待つエレベーターホールへ走っていった。エレベーターに乗る直前、僕たちのほうへ手を振った。

 「下山さん。状況はどうですか?」

 下山「無線連絡では、マスコミはてんてこ舞いだそうです」

 「よかったです。感謝します」

 下山「いえいえ。実は……、罪滅ぼしの意味もあって……」

 「罪滅ぼし?」

 「立ち入った話になりますが、よろしいですか?」

 「ええ……」

 「ではご自宅までお送りする途中、どこか落ち着ける場所に停めましょう」

 車は公園の駐車場に停まった。

 「泉先生。個人的にどうしてもお話しておきたかったことがあります。これは職務ではありません」

 「では、今は下山ケイタさんとしてお聞きしましょう」

 「そうですね……」

 「ケイタさんのお姉さんは、僕のあの家で自ら……」

 「そのことはあの話をして以来、喉のつかえがとれたようにラクになっています」

 「それが本当ならよかったです」

 「今日は私のことではありません。マアヤの叔父です」

 「佐木シンヤ?」

 「ええ、先生は叔父への処罰には消極的でした」

 「そうです。マアヤの処遇を勘案しても……」

 「彼は、これから社会で自由に生きていきます」

 「はい」

 「佐木シンヤは11年前、更生施設から出てきました」

 「ええ……」

 「10年間、施設で特別更生プログラムを受けていたのです」

 「……」

 「21年前に起こした事件というのが……、マアヤと類似しているのですが」

 「夫婦殺害?」

 「そうです」

 「凶器は金属バッド」

 「そうです」

 「場所は、土浦市桜町?」

 「そうです」

 「5月22日金曜日の午後6時過ぎ?」(脳が押し潰されるような感覚が……)

 「そうです。当時12歳の1人息子 さんが、目撃 /し てい ※ たよう で ◎★ す ◇」

 「…××××…××……」

 「ショック の余り何 も話せ なく ◇◎ なり……。◇○※児童相 談所の判断 で、☆ つくば 市内の児童 × 養護施設の ミズキの\ 家へ ☆ー◆※ そう /●× で ×◎ー△……………


< 第十二話 完 >

 

 


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