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diver 第一部 第九話

【 1 天に帰った魂 】

 お盆が終わった。この時期は毎年、人々は先祖の魂があの世とこの世を行き来することに想像を膨らませながら、全国で様々な行事が行われている。

 僕たちは、あの西の地で、仙人のような神主から古い鈴を託された。これからどんな新しい出会いがあるだろう。どんな別れがあるだろう……。未知の自分との出会いも、新たな目標になった。

 朝、2階の事務室へ行くとマリさんがノートに何やら書きこんでいた。

 「今朝、新規の申し込みがあったわ」

 「さっそくですね」

 「今日の夕方がインテークよ」

 「主訴は?」

 「高校2年生の娘さんの摂食障害。お母さんからの電話で、一緒にいらっしゃるわ」

 「わかりました」

 「摂食障害の方は、これまでに担当したことはある?」

 「はい、ありますよ」

 「うまく解決するものなの?」

 「明確なゴールという境目がはっきりしませんね」

 「どういうこと?」

 「僕は、摂食行動を改善することを目指していないからです」

 「じゃあ、何を目指すの?」

 「簡単に言えば、本人や家族の認識ですね。自分に対する」

 「難しそうだわ……」

 「大抵、体型への認識が歪んでいるんですが、それは自分という存在に対する認識の質が反映されているものなんです。自己否定のエネルギーが体型へ向かい、食行動がうまくいかないためだと悩み、そこへのこだわりを強める。食行動が完璧にいかないといったちょっとした狂いが挫折感を強め、さらに自己否定を助長する。自分には価値はないという自己否定を証明するために、食の調整失敗が材料になってしまっている。その循環を弱めたい、というのが僕の目指すところですね」

 「では、改善しようとするのは、むしろ認識のほうなの?」

 「基本はそうですが、僕は意識されている認知はあまり重視しません」

 「もっと深いものということ?」

 「はい。無意識に刻印されていて、源泉から自然に湧き上がってくる温泉のようなもの。源泉自体に働きかけたいですね。しかし脳の満腹・空腹中枢とも絡み合ってしまうので、働きかけの効果は微妙です」

 「ますます難しそう。今日みえる方もラクになるといいわー」

 「はい、そうですね。ところで昨日から、僕の中から何かが消えたような、身近な場所から何かがなくなったような、そんな感じがしているんです」

 「それは不快な気持ち?」

 「つっかえていたものが無くなったようですっきりしますが、同時に寂しくもあります」

 「お盆のドライブを通して起きたことに関係しているかもしれないわね」

 「ええ、きっとそうです」

 「特に神主さんが言った言葉は響いたかしら?」

 「はい。あれがあって、三保の松原へは行かないと決めましたから」

 「泉くんは、三保ではなく、京丹後のほうを選んだ……」

 「はい……。そうか! 無くなったような気がするのは、盛んに三保を勧めてきたユリさんの存在感です。帰り道、三保へ向かうためのジャンクションを通り過ぎたとき、薄くなったユリさんの影をちょっとだけ感じました。それが今はなくなっている」

 「ユリは、心残りなく天へ帰れたのかしら……」

 「ユリさんって、実在している人じゃなかったんですか?」

 「……」

 「僕は、ユリさんの魂と電話で語り合い、幻影を見たりしたんでしょうか」

 「それは心理学的には説明つくの?」

 「内的体験としては、説明できると言っていいでしょう」

 「ユリは、このお盆で、この世界からあの世界に帰れたのかもしれないわね……」

 「ユリさんは、マリによろしくと言っていました。2人が知り合いだということは薄々感じていました。ユリさんのこと、知っている範囲で教えてもらえますか?」

 「いいわ。でも、簡単には説明を尽くせないから、インテークが終わって、時間とこころにゆとりがあるときにしましょ」

 「はい、お願いします」

 マリさんもユリさんも、名字は山下だった。年は3つくらい違う。喋り方も似ていて、電話がかかったときに間違えたくらいだ。以前、僕の精神に疲労が蓄積したとき、この部屋のガラスにマリさんが二重に映ったように見えたが、あれはもしかしてもう一人はユリさんだったのかもしれない。ユリさんの電話にかけたときに、マリさんに繫がったこともあった……。内的イメージが外界に投影されて物体として見えることがある、ユングはそう言っていた。

 ふと思い出したこと。バスジャック事件のときに会った警察官は、みな名字に「山」がついていた。マリさん、ユリさんも、同じ「山」だ……。山は高さの代名詞。対して海は深さだ。みんなは山で、僕だけが「海(かい)」だ。

 僕を取り巻くあらゆる人間関係が、僕自身の秘密と関係しているような感じがしてくるの。昨日から、僕はいつも比沼麻奈為神社の特別な鈴を身に着けている。その見えざる助けに支えられ、自分の内界に潜る際にもう流されてしまうことはないだろうという安心があった。

 

【 2 摂食障害の娘と母 】

 夕方4時半前に2人はやってきた。1階のカウンセリングルームで記入された申込書を、マリさんが持ってきてくれた。

― 氏名 家田ユリ 2002年5月22日生 17歳 

  母親 家田サチコ 1974年8月20日生 45歳 —

 記された名前を見て、思わずマリさんと顔を見合わせた。ユリさん……。新しいユリがやってきた。偶然の中には単なる偶然と意味のある偶然がある、というが……。

 もう一つの偶然、それは誕生日が僕と同じということ。まだ別の偶然が隠されているかもしれないが、わからない。僕自身の過去の中に、未知が多すぎるから。

 カウンセリングが始まった。笑顔で丁寧な挨拶を送ってくる母子。娘のユリの目から入り、彼女の蒼い内界に潜った。

― 私はどうせ誰からも嫌われるに決まってる。絶対にそうだ。いつもそうだ。私のせいだから。 — 

 「病院にはかかっていますか?」

 ユリ「はい」

 母親「もう5年も。薬を飲んでいるんですけど、なかなか治らなくて」

 「カウンセリングには?」

 ユリ「通いました」

 母親「病院で勧められて病院のカウンセラーの先生に見てもらいましたが、2回だけで、もう行かないと言うので……」

 「わかりました。ユリさんに質問していいですか?」

 ユリ「はい」

 「自分を生き物にたとえると?」

 「ケダモノです」

 「赤ちゃんのときならどう?」

 「ケダモノの子どもです」

 「じゃあ、生まれる前は?」

 「ケダモノができる前の状態です」

 「そっかぁ。ではケダモノを生んだお母さんは?」

 「白鳥かな」

 「お母さんのどんなところが白鳥なんだろう?」

 「うーーん……。華麗なところかな」

 「お母さんは華麗な雰囲気があるんだね」

 「はい。生き方が華麗です」

 「では、白鳥からケダモノが生まれたのは、なぜだろう?」

 「うーん。そういう運命だからかな」

 「運命って、なあに?」

 「うーん。決まっていて、どうしようもないもの、かな」

 「ユリちゃんは、生まれる前からケダモノになることが決まっていて、どんなことをしてもその運命から逃れられないんだね?」

 「はい、そうです」

 「では、将来はケダモノから別の生き物に変わりたい?」

 「いいえ。ケダモノは、一生ケダモノです」

 「それはもう決まっているの?」

 「はい」

 「そうなんだね。ではケダモノさんに質問します」

 「はい」

 「何かこうなりたいとか、こうしたいとか、何でもいいから自分のことで希望はあるかな?」

 「うーん。ずっと悩んでいたいっていうか、苦しみ続けていたい、かな」

 「そうなんだね。では、これからずっと悩み、苦しみ続けることについて、話し合いをしていこうか。そういうカウンセリングなら、引き受けるよ」

 「はい! お願いします」

 母親「あの……。先生……。カウンセリングって、よくなるためにするものではないのですか?」

 「はい。そうですが」

 「ずっと悩み、ずっと苦しむというのは……」

 「それがユリちゃんの希望ですよね。僕は応援します。それを孤独でしてもらうより、誰かと分かち合いながらやってもらうほうがいいんじゃないかと思うんです」

 「苦しみ続ける姿を見るのは、母親としてつらいです」

 「お母さんは、ユリちゃんのこの希望を応援するのはつらいんですね。そのお母さんの気持ちはわかりました。ユリちゃんの立場になったら、お母さんにも応援してもらえたらどんなに心強いか、って思っただけです。でもお母さんにはつらすぎるので、僕が応援しようかと考えたんです」

 「それがユリのためになるのなら、私もやったほうがいいでしょうか?」

 「お母さんに任せます」

 「具体的には、どうしたらいいのでしょう?」

 「ユリちゃんの希望が叶っていたら、お母さんは喜んでもらえればいい」

 「ということは、ユリが悩んだり苦しんだりしたら、喜ぶんですか?」

 「はい。喜ぶフリじゃなく、こころで喜ぶんです」

 「難しいです……」

 「でしょうね。だから当面は僕がやります。お母さんはあまり無理されないでくださいね」

 「はぁ……。摂食障害の相談なんですが、そっちの話はなくていいのでしょうか?」

 「ええ。なくていいです。病院に通ってもらっていますよね?」

 「はい」

 「心身の危険な状態になれば、病院で診てもらえます。ここでは、もっと根本に目を向けていきましょう」

 「たくさん食べて吐いたりすることとか、そういうのは話さなくていいんですか?」

 「はい。ユリちゃんが話したければ、もちろん聴きますけど」

 母親「ユリ。そういうお話、するわよね?」

 ユリ「わかんない。質問されたらするけど」

 「ケダモノのユリさん。話したければ話せばいいし、話す意味を感じなければ質問にも答えなくていいんだ。それは自分が決めること。自分にとって大切なことを、本当は自分が知っているはずだからね」

 「はい!」

 こんな奇妙なやりとりでカウンセリングは始まった。終わりがけ、半信半疑の母親に、ユリは訊いた。

 ユリ「ここに通っていい?」

 母親「ユリがそうしたいのなら……」

 「通いたーい!」

 「先生、どれくらいのペースがいいでしょう?」

 「1週間に1度か、2週間に1度くらいかな。ユリちゃんの意向もありますが」

 ユリ「毎週来たい」

 母親「私は同席したほうがいいでしょうか?」

 「それもユリちゃん次第ですね」

 ユリ「次は一人がいい」

 母親「わかりました。それでお願いします」

 「はい、ではこの条件で引き受けます」

 こうして母子は対照的な心境で帰っていった。事務室に戻り、マリさんに次回の予約表へ記入してもらった。

 マリ「どうだった? 源泉に辿り着けそう?」

 「はい。もう辿り着いてはいますね。あとは、この源泉と現実との結び付ける作業です。あっ、僕の中での話です」

 その日の夜、ユリの母親から電話があった。

 母親は「娘が、私はケダモノって言い続けているんです。不安で……」と訴えた。僕はマリさんに「そのままにしてあげてください」との伝言を頼んだ。


【 3 山下ユリという人 】

 「伝言に対して、母親の反応はどうでした?」

 「不安が半分、信頼が半分、っていう感じかな。あと、娘は早く次のカウンセリングが来ないかと楽しみにしている、とも言ってたわ。ケダモノって、何なのかしら」

 「ユリちゃんが自分で自分を生き物にたとえたんです。そうしたらケダモノだと」

 「名字が家田(いえだ)よね。けだ、とも読めるわね。家田の者は、ケダモノね」

 「はい、気づきましたか。単なる偶然じゃないような」

 「泉くんにしては、珍しく腑に落ちない雰囲気ね」

 「いや……、こっちのユリちゃんではなく、今までのユリさんのことが気になって。ユリさんの存在感が薄れて、ユリちゅんが現れた。このユリちゃんは自分のことをケダモノだって信じている……」

 「そうよね。ユリのお話しなくちゃいけなかったわ」

 「はい、聴きたいです」

 「ユリも、自分のことを多分ケダモノだって感じてたと思うの」

 「どうしてわかるのですか?」

 「だって、ケダモノは生きてちゃいけないって、いつも考えていたから」

 「マリさんには、ユリさんの考えがわかるのですか?」

 「ええ、そう言うのを聴いてきたからよ」

 「もしかしユリさんは、ケダモノの自分は生きてちゃいけないって信じ込んでいて、死のうとした……」

 「ええ……。そうよ」

 「でも死にきれなかった……」

 「ええ、そうよ」

 「なぜ死にきれなかったんでしょう?」

 「ケダモノの自分に向き合ってくれる人がいたからよ」

 「それは幸かったですね」

 「その人から、あなたはケダモノではない、と言われていたの」

 「ケダモノというのは、思い込みですから。セルフ・ラベリングです」

 「そうね。そして、その人のことを何度も試したわ」

 「結局、その人はめげずに応え続けた?」

 「そうよ。何度も命を助けられた。そして、あなたは生きていていいって言われたの」

 「でもユリさんにはなかなか信じられない。自分がケダモノではないなんて」

 「ええ。だから何度も繰り返したのね。死のうとして助けられることを。もちろん感謝の気持ちも強かったけど、その分、自分がいると迷惑をかけてしまうっていう気持ちも大きくなっていったの」

 「その先は、なんとなく読めます」

 「多分その通りよ。迷惑かけないために、いずれは嫌われてしまわないために、感謝の気持ちを持って消えてしまったの。助けてくれた人にはわからないようにして……」

 「助けた人は、知らないんですね? ユリさんが亡くなったこと」

 「ええ。ずっと知らなかったわ」

 「どんな人なんですか? ケダモノを助けた人というのは」

 「カウンセラーだったわ。まだ若い男性」

 「いつ頃のことですか?」

 「もう27年くらい前かしら」

 「随分と経つんですね。僕が6歳の頃なんだ……」

 「そうかもしれないし、そうではないかもしれないわ……」

 「ん……? 亡くなった場所はわかりますか?」

 「この部屋よ」

 「……」

 「当時、あのユリは28歳ね。家族はバラバラになっていて、発見されるまで、亡くなってから3日もかかったわ。まるで孤独死みたい……」

 「そうだったんですか。とても残念です」

 「残念よね」

 「でも、マリさんは当時、生まれたばかりか、生まれる前。どうしてユリさんの言葉を聴けたんですか?」

 「こころの声よ」

 「時間をスリップして聴こえたということなんだ……」

 「そうかもね。それでこの古い一軒家は、事故物件になっていたの。買い手がなくて、私が買ったのよ」

 「そういうことだったんですか……」

 「じゃあ僕は、生前のユリさんとコンタクトをとっていたということですね」

 「ええ、多分そうよ」

 「なぜそんなことができるんでしょう?」

 「それは泉くんのほうが専門だから……」

 「僕の深層心理に、ユリさんを強く思う気持ちがあるのなら、説明がつきますが」

 「そうなのね。泉くんの中に、そういった記憶はないのね」

 「はい、僕が6歳までのことですから。自分の記憶すらないんです。マリさんがユリさんのことを知っている理由も釈然としません。タイムスリップと言われても……」

 「ええ。それが私にも不思議なところなの」

 「いずれにしても、とても悲しいお話です。誰も助けられなかったんですね」

 「ええ。見つけてくれて、助けてくれる人が現れたから、この世を去ったのね。もしその人と出会わなければ、ケダモノとして、みんなに嫌われながらまだ生きたかもしれないもの」

 「胸がきしみます……」

 「ごめんなさいね。泉くんを苦しめるような話になってしまったわ」

 「いえ。謎が一つ解けました。いずれ、すべてが明らかになるような気がしています」

 「ええ。泉くん、気をつけてね。私応援しているから」

 「はい、ありがとうございます」

 その日は、なかなか寝つけなかった。自分の蒼い内界を彷徨いながら、ユリさんの面影を探し続けていた。タイムスリップで語り合ったという説明では片付かないような、リアリティの高い、温もりある接触感を覚える。どこかで本当に会っていたような。これも錯覚なのだろうか。作られたリアリティなのだろうか。ずっとその感覚を求めながら、ベットの中でグルグルとしていた。

 衝撃と共に受け入れなくてはならないこと。ユリさんはもうこの世にいないということ。そして、この家にユリさんが住んでいたということ。


【 4 ケダモノさん 】

 翌週、高校2年生の家田ユリがやってきた。ニコニコしてカウンセリングルームに入ってきた。

 「ユリちゃんのこと、なんて呼んだらいいかな?」

 「ケダモノさんがいいです」

 「はい、ケダモノさんね。ではケダモノさんに質問です」

 「はい!」

 「ケダモノさんは、いつもニコニコしているのを知っていますか?」

 「いいえ」

 「ケダモノさんは、誰かに怒ったことがありますか?」

 「いいえ」

 「では、3つ目の質問です。ケダモノさんは、この一週間、苦しみ続けましたか?」

 「いいえ」

 「最初の質問だけど、いつもニコニコしているのを知らないんだね?」

 「知りません。普通の顔をしてると思います」

 「なるほど。ケダモノさんの普通の顔が、他の人にはニコニコに見えるということがわかりました」

 「私の顔、ニコニコしているように見えるんですか?」

 「そうだよ。誰が見ても、いつもニコニコに見えると思います」

 「えーー、知らなかったです」

 「顔のかたちが生まれつきニコニコなのではなくて、ニコニコした楽しい表情を作っているんですよ」

 「全然そんなつもりはありませんでした」

 「ニコニコの表情が自然に身についたのは、そうしていたほうがいい、何か理由があるからなんだね」

 「えーー、なんだろう……」

 「これはいったん置いておいて、次ね。二つ目の質問から、誰にも怒ったことがないことがわかりました」

 「はい。怒る理由がないので」

 「それは、怒りたいと思ったことがないということですね?」

 「はい、ありません」

 「人から、嫌なことをされたり、言われたり、そういうことはなかったのかな?」

 「ないと思います」

 「では、いつも人からは、楽しいことばかり言われたり、されたりしてきたの?」

 「楽しいことばかりとは限らないけど、普通だと思います」

 「じゃあ、ちょっと訊き方を変えますね。なにかを我慢したことはありますか?」

 「う……ん。あるかもしれません」

 「どんな我慢?」

 「笑いたいけど笑っちゃいけないときとか、喋りたいのに静かにしなきゃいけないときとか、かな」

 「なにか欲しいのに我慢するとか、嫌いな食べ物なのに我慢して食べなきゃいけないとか、そういう我慢は?」

 「ないと思います」

 「では、誰かが泣いていたり、けんかしていたりしたときは、どんな気持ちになりますか?」

 「慰めてあげたいし、けんかは止めてあげたいです」

 「そういうときは、我慢しないの?」

 「えーと……。うまくできないだけで、別に我慢しているんじゃないです」

 「うまくできないとき、自分のことをどう考えますか?」

 「ちゃんとできなくてダメだな、って考えてます」

 「人を慰めたり、けんかを止めたりできなくて、ダメだなって思うんですね?」

 「はい」

 「では、誰かから怒られたときは、どんな気持ちになるでしょう?」

 「怒られて当然だなって、そんな感じだと思います」

 「こんなことで怒らなくてもいいのに、と思ったことはありますか?」

 「ありません」

 「そうなんだね。よくわかりました」

 「では最後に、ケダモノさんの希望だった、ずっと悩み続ける、ずっと苦しみ続けるが、この一週間できなかったんですね?」

 「はい」

 「まったくできなかったの?」

 「はい、全然できませんでした」

 「どうしたら苦しめるようになるんだろう?」

 「えーー! わかりません」

 「では提案をします。一番目の質問に、ニコニコの表情がありました。ケダモノさんはニコニコしていることを知りませんでした。そこで、毎日一回は鏡を見て、ニコニコしているのを見てみましょう。これがニコニコなんだと、気づいてみましょう。そして、ニコニコじゃない、それとは反対の顔を作ってみましょう。そうだなあ、悲しそうな顔とかがいいかな」

 「へーー、できるかな」

 「やってみようか?」

 「はい、やってみます」

 「はい。二番目の質問に、怒ったことがないことがありました。ケダモノさんは今までに怒ったことがないし、怒りたいと思ったこともありませんでした。そこで、毎日一回は、誰かに怒ってみましょう」

 「気持ちは怒ってないのに、どうすればいいんですか?」

 「言葉だけで怒ればいいですよ」

 「誰にでもいいの?」

 「そうだなぁ、お母さんがいいかな」

 「ひゃーー! できるかなぁ……」

 「お母さんには伝えておくので、やってみてくださいな」

 「はい、わかりました」

 「この二つをやってくれれば、悩むとか、苦しむとかいう、ケダモノさんの希望が少し叶うかもしれません」

 「そうなんですか? やってみたいです」

 「オッケーです! カウンセリングでこのような会話をするのは、ケダモノさんにはどう感じますか?」

 「よくわからないんですけど、なんだか私にとって必要なんだっていう気がしてきます」

 「それはいつから?」

 「先週からです」

 「はい、わかりました。では来週、今日出した挑戦の結果どうだったか、教えてもらいますね」

 「はい。お願いします」

 ケダモノさんは、嬉しそうに帰っていった。自分が無自覚に禁じている嫌な気持ちにの存在には微塵も気づかないまま。ユリ自身がその軋みに痛々しさを感じていないところが、とても痛々しかった。

 周囲の大人は、子どもの表情に惑わされてしまう。明るくしていれば、それでよしとしてしまう。それ以外の目に見える行動や症状にばかり、関心を寄せてしまう。主訴とは、本当は副次的なものだ。副次を主と捉えてしまうから、人はなかなか変われない。これはかなり普遍的な法則なのだ。


【 5 暗雲 】

 ユリの母親に電話をした。母親に怒る練習を開始するので、それを受け止めてほしい、と依頼した。母親は「わかりました」と了承したくれた。

 翌週、予約した時間にユリはやってきた。

 「ケダモノさん、挑戦のほうはどうでしたか?」

 「はい。鏡を見て、ニコニコしている自分がわかって、びっくりしました。私、何も思っていないのにニコニコの顔だなぁって」

 「そのニコニコを止めることはできましたか?」

 「気をつけてると、止めれます」

 「お母さんの前でもできますか?」

 「はい、できます」

 「ニコニコを止めるのは、難しいですか?」

 「難しくはないけど、忘れちゃうと元に戻っちゃいますね」

 「わかりました。では、お母さんに何か怒ってみるというほうは、どうでしたか?」

 「やろうとしましたが、すっごく難しかったです」

 「怒る理由がないから、難しいよね」

 「でも、怒ろうとしていて、怒鳴っちゃったこともありました」

 「そうなんだ。何て怒鳴ったのが、覚えていますか?」

 「はい。確か、くそババぁ! あんたらのせいだろ! って言ったと思います」

 「どうしてその言葉が出てきたんでしょうね?」

 「私もびっくりしました。言ったら、お母さん泣いちゃって……」

 「そうだよね。今まで言われてないから、お母さん慣れてなくて、余計にびっくりしますよね」

 「はい」

 「その言葉は、ケダモノさんが考えて言ったものなの?」

 「いいえ。何か怒らなきゃ、っていろいろと考えてたら……」

 「考えてたら?」

 「考えるというか、思い出した、というか……」

 「思い出したっていう感じなんだね」

 「はい。言ってみたら、あっ、私こう思ったことあるかもって」

 「あんたらのせいだろ、って?」

 「はい」

 「いつ頃のことだろう?」

 「わからないです……」

 「今、摂食障害ということで病院にかかっていますね?」

 「病院に通うようになってからのことかなぁ……」

 「ちょっとわからないですけど、もっと前のような気もします」

 「その叫んだ言葉、大切になるかもしれないから、覚えておきましょう。もし今後ピンチになることがあったら、思い出してみましょう」

 「はい、わかりました」

 「では、3つ目の希望のことなんだけど、結果として、悩み続けることができましたか?」

 「あっ、忘れていました。でも、お母さんを泣かせてしまったのは、悩みになっています」

 「悩み続けるためには、お母さんを泣かせ続けないといけませんね?」

 「それは困ります」

 「困るけど、悩めるのではない?」

 「そうですけど……。自分のことで悩み続けたいです」

 「自分がお母さんに言い続けると、悩み続けることができるよ?」

 「うーーん。だったら、悩むっていう希望を変えたくなります」

 「うん、もちろん希望は、途中で変わってもいいものですよ」

 「はい……」(うつむく)

 「どうしたの?」

 「お父さんが……」

 「笑顔を減らすとか、お母さんに怒るとか、そういうカウンセリングはおかしいって……」

 「そうなんだ。お母さんには反対されないけど、お父さんはどう思っているかわからないんだね?」

 「はい」

 「ユリちゃん」

 「はい」

 「自分で決めることが大事だ」

 「はい」

 「だから、君に任せる。これからどうするか、を」

 「私はここに通って変わりたいです」

 「どうして?」

 「私、わーーーって、思い出してきたんです。両親のけんかをいつも止めようとしていた……。でもできなかった……。止めようとすると私が叩かれた。だから私、笑って親を慰めようとしていた……。笑って父親の機嫌をとろうとしてきた……。だって、私いけない子だから……」

 「いけない子、は違うんだ。そう信じ込むから、ニコニコして、気持ちも押し込めてしまった。いけない自分を生かすために、摂食障害で身もこころも痛みつけることで、自分を罰してきたんだ。それが根本原因だと思う。ユリちゃんはこれから、自然な表情ができて、言いたいことも言えるようになる。それがカウンセリングの目標になる」

 「私、本当にそうなれますか?」

 「うん、この方針でいけばなれると思う」

 「そうなりたい……です」

 「お母さんにも応援してもらえるといいね」

 「それは……」と躊躇した。

 僕はユリの蒼いこころの世界に潜った。

― お母さんが可哀そう。またお父さんに怒られちゃう。お母さんを守ってあげられない私は、無能なダメな子 —

 「ユリちゃんの家では、昔からお父さんとお母さんの仲が良くなかったみたいだ」

 「えっ! どうしてわかったのですか?」

 「自分のことをダメな人間だって信じ込んで、いつもニコニコしている子の場合、両親の関係が悪いことが多いんだ。DVの場合もそう。止められない自分がいけない子だ、って間違ってしまうんだよ」

 「父は、よく母に暴力を振っていました……」

 「そうなんだね。申込書にはお父さんの職業欄に、公務員って書いてあるけど?」

 「それ、お母さんが書きました。お父さんは都立病院の医者です」

 「そうなんだ……。何科かわかる?」

 「小児科です」

 「ユリちゃんは、その病院にかかっているの?」

 「はい」

 「精神科?」

 「いいえ、小児科です」

 「そうか……。次はどうする?」

 「また来週来ます」

 「ここで踏ん張ってみよう! お母さんのことも、そしてお父さんのこともなんとかしなくちゃ」

 「はい」

 「ケダモノさんという呼び名は、これでおしまいだよ。これからは、ユリちゃん」

 「はい、わかりました」


【 6 場外戦 】

 翌日の朝早く、ユリから電話がかかってきた。マリさんが出た。

 ユリ「お父さんが、もうカウンセリング代は払わない、って」

 マリ「この電話番号は、ユリちゃんの携帯電話?」

 「はい」

 「泉先生に伝えてみるね」

 「はい」

 「ユリちゃんは、来週来たいの?」

 「はい」

 「それなら、どうぞ来て」

 「でも、お金が……」

 「気にしなくていいから。泉先生に伝えておくから」

 「はい……。すみません。行きます」

 僕が事務室へ上がると、マリさんは待ちわびていたようで、すぐに報告してくれた。

 「泉くん、ユリちゃんから電話があったわ。お父さんからカウンセリング代はもう払わない、って」

 「そうきましたか」

 「どうする?」

 「本人はどうしたいか、何か言ってましたか?」

 「はっきりと、来たい、って言ってたわ」

 「では料金免除申請書に必要事項を記載して、免除対象としましょう」

 「私が書くわ。理由は何と書けばいいかな?」

 「 — カウンセリングが必要な事例であり、クライエント本人も当相談所の方針でカウンセリングを受けることを望んでいる。しかし、父親の個人的理由から、カウンセリング料金を支払ってもらえず、高校生のクライエントにとっては支払いが不可能となった。この措置の期限は、差し当たり1か月とする — これでお願いします」

 「わかったわ」

 父親は、ユリが摂食障害を呈した背景に、DVなど夫婦関係の問題があることが露呈されることを恐れている。娘のユリは、生育過程で自己否定感を強め、本音を強く抑圧してきた。本音に気づき、それを受け入れ、徐々に行動に表していけるようになることによって、自己処罰動機がもたらしていた摂食障害も軽減されることが期待される。父親は、その職業地位を利用し、投薬治療に終始することで、家族全体の問題として取り組む姿勢を放棄していた。

 ユリが目指すのは「自己一致」である。自己一致とは、意識・無意識で形成されている自己像と、表情・発言・行為などで表される観察可能な行動から読み取れる人物像の間に、ズレが小さい状態のことである。

 さらに、夫のハラスメントに対して服従的に接している妻にも、同様な観点から自己一致を促すことができればよい。これらの試みによって、父親もその態度を変化させなくてはならない状況に置かれるだろうと考えられた。

 「マリさん。ユリちゃんの携帯、わかります?」

 「ええ、今朝かかってきたのはユリちゃんの携帯からよ」

 「電話をかけて、料金はなしでできるようになったことを伝えてください。遠慮や申し訳なさが勝って、来れなくなるのを防ぐためです」

 「わかったわ」

 「夏休みですけど、もし学校へ行っていて出られないようでしたら、留守電には入れず、夕方帰ってきたときに、口頭で伝えてください」

 「留守電はなぜよくないの?」

 「父親が詮索して、場合によっては携帯を取り上げたりして、聞いてしまうかもしれないからです」

 「オッケーよ!」

 マリさんが電話をかけたとき、タイミングよくユリは電話を受けることができた。そしてカウンセリングの料金のことは解決したから持ってこなくていいことを伝えた。

 マリ「泉くん、母親には連絡しておく?」

 「母親の前で予約を立てた通りに来てもらうのだから、しないでおきましょう」

 こうして、ユリの受け入れ態勢を整えた。次のカウンセリング、ユリは時間通りにやってきた。

 「一人で来たの?」

 「いいえ、お母さんと一緒に来ました」

 「お母さんは?」

 「外で買い物して待っている、って言っていました」

 「お母さんには、料金のこと話したかな?」

 「はい。そうしたら、これで出しなさいって、くれました」

 ユリが差し出した白い封筒には、カウンセリング料金と短い手紙が入っていた。

― ユリのこと、お願いします。ユリがこんなに自分を変えようと一生懸命になる姿を見るのは初めてです。私もようやく、自分のこころを押し殺していたことに気づきました。どうぞお願いいたします。ユリを救ってやってください。この手紙の件は、どうか主人には内密にお願いします —

 よし、これで保護者の同意は得られた。カウンセリングに臨む。

 「ユリちゃん、この一週間はどうだったかな?」

 「最初はお母さんにイライラして怒鳴ったりしたけど、減ってきたと思います」

 「なぜ、減ったの?」

 「お父さんのほうにイライラするようになったから、かな」

 「そのイライラは、どうしてるの?」

 「お父さんには言えないから、いないときにお母さんと一緒に嫌なこと吐き出しています」

 「そうかぁ。今の表情、確かにニコニコしていない。お父さんのこと話すときには怒っている感じが伝わってくるよ」

 「本当ですか? そうだとしたら嬉しいです」

 「なぜ嬉しいの?」

 「泉先生の出してくれた課題がやれてるからです」

 「その理由では、まだだよ」

 「はい……」

 「誰かの期待に応えるのでなく、自分のこころが自由になって、喜べるようになることが重要なんだ」

 「はい。頑張ってみます」

 「ユリちゃん、自分を生き物にたとえると、今なら何になる?」

 「うーーーん。ネコかな」

 「どうして?」

 「甘えん坊さんみたいだし、マイペースなところです」

 「最近怒ったことはあるかな?」

 「はい。お母さんに怒ったし、お父さんには聞こえないように怒ってます」

 「では、将来の希望はなにかあるかな?」

 「うーーーん。自由になりたいです」

 「何から自由になりたいの?」

 「すべての人からです」

 「自由になって、何をやりたい?」

 「よくわからないけど、ペット屋さんに関係したこと。今、思いつきました」

 「そうかぁ。初めて来たときに聴いたのと、全部変わったね」

 「はい。そうですね」

 「来週も来れるかな?」

 「はい。お母さんが予約入れていい、って言ってました」

 ユリの変化は順調だった。母親との同盟関係が出来上がっていたのも功を奏した。母親は、ユリの変化を見て、自分も夫婦関係に挑まなければならないことを悟ったようだ。

 しかし……。

 翌週、ユリは来なかった。マリさんに電話をしてもらったが、ユリの携帯電話は電源が切られた状態だった。その2日後、家田法律事務所の家田サトルという弁護士から簡易書留が届いたのだった。中には警告文が入っていた。

― 貴殿は、家田タイチの長女、家田ユリに対し、保護者の意に反して、カウンセリングと称して保護者への反抗的態度を教え込もうとしている。家田タイチは小児科医で、責任をもって長女の治療に当たっている。本文書を受け取り次第、家田家のいかなる者との接触も断つよう警告する。従わない場合は、法的手段に訴える。代理人弁護士 家田サトル  —

 マリ「なに、これ! 脅迫文じゃない? 家田サトル弁護士って、父親の兄弟か親戚よね……」

 「ここまでとは。父親は怖くて仕方がないんですね」


【 7 諦めるか挑むか 】

 「何が怖いのかしら?」

 「自分の家の実情に目を向けることが、ですよ」

 「実情?」

 「つまり、父親が恐怖で家族を縛っていることです。妻には暴力や暴言、娘には面前DVなどで抑圧させいい子をやらせる、そんな支配で成り立っている家」

 「確かに……。父親は、力で維持されているだけの見かけの家族という虚像を、壊されたくないのね」

 「マリさん、的確な表現使いますね」

 「あら、そうかしら。それで泉くん、どうするの?」

 「あの弁護士の警告文には、法的な拘束力はありません。法的措置をとられても、本人と母親の希望に沿ってやっているので、問題とはならないでしょう」

 そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。

 「書留でーす」

 また簡易書留が届いた。差出人は、東京都医師会小児科部会だった。中には、また警告文が入っていた。

— 貴殿は、東京都立中央病院小児科で治療中の家田ユリに対して、主治医家田タイチの指示に従わず、カウンセリングと称した洗脳行為を行っている。公認心理師法においても、主治医があるときは指示に従うことが明記されている。家田家とのかかわりを即刻停止しなければ、法律違反ならびに重大な倫理違反として法的措置を講ずる。東京都医師会小児科部会長 家田タイチ —

 マリ「また脅迫じゃない!」

 「ユリの父親は、小児科部会長なんですね」

 「ユリちゃんと、お母さんが可哀そうだわ」

 「僕は諦めませんよ」

 「そうよね」

 「短期間でここまでこころを開いてくれた母子を、なんとか助けたい!」

 「私も、気持ち的にほかってられないわ」

 「弁護士と小児科部会に、意見書を書きます」

 「はい!」

 意見書の骨子は以下の通りだった。守秘義務を順守するため、具体的な記載は避けた。

― 長女の摂食障害の背景に、家族関係の問題があり、カウンセリングにおいてその改善を図るとともに長女の回復を目指していた。何より、長女自身がカウンセリングを強く希望しており、保護者である母親も協力的である。小児科における医学的治療を阻害するものではなく、補完的に機能するものであり、この点についての理解をお願いしたい —

 依然として、ユリの携帯や自宅に、電話はつながらなかった。金曜日の夜、マリさんが慌てて僕の部屋のドアを叩いた。

 「泉くん! 大変よ!」

 出ると、マリさんは写真週刊誌を手にしていた。そして……、

 「ほら、ここ……」

 差し出されたページを見ると、僕の写真がたくさん載ったページだった。見出しには「怪しいカウンセラー 泉海の素顔」と書かれていた。リコの家から出ようとしてフラついている(母親が手を差し伸べている)、山岡元警部と握手している、山岡警視正と車に乗って喋っている、文京区立中学校の校門を強引に入ろうとしてる、中学校から警察官と共に出てくる、ホームセンターで針金を買っている、児童養護施設のミズキの家の玄関にいる、この家のベランダに立ってぼっーと景色を見ている、僕とマリさんがレンタカーの中で眠っている、タクシーを降りてマリさんに抱えられて家に入ろうとしている、比沼麻奈為神社の神主と手を触れ合っている、そして二通の警告文……。

 「よくこんなに写真を集めましたね。ストーカーじゃないですか」

 「泉くん、大丈夫かしら」

 「何が?」

 「世間の人はこれを読んで、泉くんがおかしい人間だと思ってしまうのでは」

 「誤解されてもいいです」

 「声明文でも出して、釈明したら?」

 「それでは、守秘義務を貫けません」

 「みんな真に受けて、もう相談に来なくなったりでもしたら……」

 「ああ、それならいいです。写真週刊誌が面白おかしく書くことをそのまま真に受ける人は、受ければいいと思います。それでも僕のところに助けを求めてくる人に、全力を尽くしたいです」

 「だって、この女性と同棲してるって書いてあるわよ」

 「同じ屋根の下ですからね。堂々としていればいいと思いますよ」

 「泉くん、精神的に強いのね」

 「いやー、変り者なだけでしょう」

 「じゃあ、この雑誌はそのままほかっておくの?」

 「はい。忙しいですから」

 「わかったわ。私も気にしないようにするわね」

 「マリさんに迷惑はかけたくないです。だから、事務員を続けてもらわなくてもいいですよ」

 「いいえ、私はやるわ。泉くんの役に立ちたいの」

 「それはありがとうございます」

 「共同運営ですもの」

 「そうでしたね」


【 8 顛末 】 

 翌日、僕とマリさんは、相談申込書に記された家田ユリの家を訪ねた。母親が出てきた。母親は泣き叫ぶかのような表情を見せた。顔や腕に真新しい痣があった。

 「その後、ユリちゃんと連絡がとれないんです」

 母親「本当に申し訳ありません」

 「ユリちゃん、どうかされましたか?」

 母親「入院させれられました」

 「えーー、そんなこと考えられない!」

 「ええ、私は反対したんです。ユリも強く拒みました。そして携帯電話が取り上げられました。この家の電話も使えないようにされました」

 「だからお母さんとも連絡がつかなかったのですね」

 「はい。私が泉先生に会わないようにと、叱られ、約束させられるまで何度も殴られました」

 「女性相談センターに通報してもいいですか?」

 「うーー、どうしましょう。それよりユリのほうが心配です」

 「確かに。ユリちゃんは、感じるこころが機能し始めたばかりで、このような仕打ちに対して絶望してしまっているかもしれません」

 「そうだと、ユリはどうなるのですか?」

 「場合によっては、死のうとするかもしれません。なんとか防がねば」

 「私は、また夫が怖くて、身体が固まって、動けなくなってしまいました」

 「お母さんは無理をされないでください。僕から病院の院長に、緊急性を訴えてみようと思います。小児科に入院ですよね?」

 「はい。本当にすみません」

 「お母さんのトラウマも、いつかラクにしましょう」

 「はい、ありがとうございます」

 相談所に戻り、僕は都立中央病院の院長宛てに文書を書いた。趣旨はこうだ。

― 泉心理相談所にカウンセリングに通っていた家田ユリさん(17歳)が、貴病院小児科に強制入院させられました。そのことで、ユリさんは心理的に酷いショックを受けていると思われます。院長先生におかれましては、強制入院の経緯を調査いただき、その判断が適切かどうか検討していただくことを強く希望します。また、ショックのあまり、ユリさんが生きる意欲を失ってしまうことが懸念されます。院内において、また退院後に、不測の事態が生じることのないよう、複数のスタッフによるケアを徹底してくださるよう、お願いいたします。泉心理相談所 泉海 —

 これをファックスで病院宛てに送信した。

 マリ「ユリちゃん、命が危ないの?」

 「そうなんです」

 「どうしてわかるの?」

 「母親の話を聴きながら、ユリちゃんのこころに遠隔潜入してみたんです」

 「できたの?」

 「はい」

 「そうしたら?」

 「彼女は、それまで蓋をしていた期待が覚醒し、その直後に一気に突き落とされる経験をしてしまいました。今は人間不信に溢れかえり、ヒリヒリと痛むこころに耐えられず、ラクになる方法、つまりこの世から消えることで頭がいっぱいになっています」

 「泉くん、カウンセリングに来たからこうなった、って考えているんじゃない?」

 「それは事実です。カウンセリングで彼女のこころに息を吹き込んでしまったんです。今までのようにこころが仮死状態のままだったら、痛みは感じなかったはず」

 「でもそれは彼女や家族がしあわせになるために必要な過程でしょう?」

 「はい」

 「それなら自分を責める必要はないわ」

 「責める必要はなくても、助かる命を守ることはしなくてはならない。父親に対する見立てが甘かったんです……」

 「命を守れるの?」

 「わかりません。父親の協力次第ですね。でもそんなこと言ってられない」

 「これから病院に行き、院長に掛け合います」

 「私も行くわ」

 「はい、お願いします」

 出かけようと準備をしていると、相談所の電話が鳴った。知らない携帯電話の番号だ。これはユリだ!

 「もしもし」

 「泉先生?」

 「そうだよ。その声はユリちゃんだね?」

 「うん」

 言葉遣いがいつものユリちゃんではない! 心理状態が違う。危険だ。

 「今から病院に行く」

 「ここ、眺めがいいよ」

 僕の心臓は加速した。あの言葉だ!

 「屋上にいるんだね?」

 「わかるの? さすが先生だね」

 「そこで待っていて。病院の、どの建物の屋上?」

 「もういいの。私、嬉しかったの」

 「何も考えないで、そのまま待っていて」

 「私のこと見つけてくれて。私を救おうとしてくれて」

 「止めるんだよ。考えるのを」

 「こんな人がいるなんて、想像もしていなかったよ」

 「いったん電話を切って、僕の携帯から非通知でかけ直すよ」

 「ありがとう。でも、もういいの」

 固定電話を切って、タクシーを待ちながら携帯から電話をかけた。出た。

 「やあ、ユリちゃん」

 「先生」

 「これからタクシーで向かうよ」

 「来ないで、先生に迷惑をかけたくないの」

 「迷惑なんかじゃない。さあ、そこで待っていようね」

 「もう手遅れよ」

 「手遅れじゃない。お父さんにも理解してもらうようにする」

 「手遅れよ」

 マリさんが見つけたタクシーに乗り込んだ。

 「もしかして……」

 「うん。あそこにあの人、いるの」

 「もしかして、倒れている?」

 「うん。頭から血を出してるよ」

 「救急車も呼ばなくちゃ」

 「もう遅いよ」

 「落ちたの?」

 「うん。ユリが押したら、落ちちゃった」

 「ユリちゃんは、無事でいて」

 「ありがとう、先生。さようなら、先生」

 こう言った途端、電話は切れた。再度かけたが、もう出ることはなかった。

 タクシーの中から、110番通報した。都立中央病院の小児科病棟の屋上と、建物の近辺を探してもらうよう依頼した。

 僕たちが病院に到着すると、多くの警察車両が停まっていた。タクシーを降り、規制線をくぐって中に入ると、刑事が近づいてきた。

 「電話をくださった泉先生ですね?」

 「はい」

 「警視庁の永山といいます」

 「2人は見つかりましたか?」

 「家田小児科部長の遺体がありました。自殺だと思われます」

 「そんな。父親が自殺?」

 「はい。胸ポケットに遺書がありまして」

 「遺書?」

― 大変な過ちを犯した。この選択しかありません —

 永山刑事「入院していた娘さんに何かをしたのでしょう。それで……」

 「娘のユリさんは見つかりましたか?」

 「いいえ、それがどこを探してもいないのです」

 さっきの、ユリと喋った番号にかけてみた。

― この電話はただいま使われていません —

 僕の意識は朦朧となった。再現だなんて……。


< 第九話 完 >



 

 

 

 

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