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誕生日を迎えてつらつら思うこと 9月11日

先日、誕生日を迎え、またひとつ歳を重ねた。
まったく、私はいつの間にこんなに歳を取ってしまったのかしら???
などと、図々しいことを考えたりもするが、1年に1歳と、歳を重ねる速度は全ての人に平等に与えられているわけで、自分も毎年着実に歳を取ってきたのだから、「いつの間に」も何もないのだけれど。

友人の子どもたちの成長や、両親の老いからも「私も歳を取るわけだな」と、しみじみ思い知る。そんな風なことばかり考えているとしんみりいてしまうが、実のところ強がりでもなんでもなく、歳を取るのも悪くないと思っている。本当に。

もしも高校生ぐらいからもう一回、自分の人生をやり直せると神様にご提案頂いてもお断りする。あの頃はあの頃で良かったと思うし、楽しい思い出もたくさんある。が、若さゆえのしんどい思いをもう一度繰り返すタフさを今は持ち合わせていない。それに他の人から見たらどうかわからないが、今は今で気に入っている。年齢なりに白髪もシワも、シミだって増えたし、あちこち不具合も出てきて、若い頃にはなかった心配事もある。それでも気持ちは年を追うごとにどこかのびのびと軽やかになっている。それが良くも悪くも図々しくなってきたということなのかもしれないけれど、以前よりも人のことも自分のことも許せるようになってきたように思う。

10代、20代の頃は、よく母に
「そんなこと考えたり、悩んだりしていてもしょうがないじゃない」
と言われ、そのたびに「何も知らないくせに」などと生意気に言い返していた。今、母の立場だったら私も同じことを言うかもしれないな。たぶん。
「起きてもいないことを思い悩んでいたって仕方がないじゃない?だったらそうならないようにするか、そうなってから考えて行動すればいいだけなのに」と、母の「しょうがないじゃない」にはそんな意味が含まれていたのだと思うし、今ならその通りだと素直に聞き入れられる。当時もうっすらとわかっていたのかもしれないけれど、頭で理解できていてもそうできない歯がゆさが、反発心となって母に当たっていただけなのだろう。甘えていたのだ。

私はもうあの頃の母の年齢も超えてしまったのか。
人生100年時代などと言われるが、いくつまで生きられるのかなんてわからない。たとえ100歳まで生きられたとして、健康状態も良好で今と同じように物事ができるわけではきっとない。
時間は限られているのだと年々強く意識するようになってきた。それは悲観しているのではなく、その分この先できること、やりたいこと、そのためにそぎ落とすべきものの輪郭を、くっきりとさせる手掛かりにもなっているのかなと。考えてもしょうがなくならないために。


先生のお庭に自生していた「オキナグサ」土地の通称ではカラババと呼ばれているらしい

素敵だなと思う人はたくさんいるけれど、「あの人のようになりたい」と私が憧れている人は案外と少ない。そのうちのおひとり、私のお習字の先生でもあり、先生にはお伝えしていないけれど、生き方、暮らし方、こころの持ち方の師匠でもあるそのお方は、現在70代。先生に関しては、そもそも年齢など関係ないのだけれど。この先、1ミリでも先生に近づくためにと考えれば、今日の過ごし方が変わって来るのではないだろうか。
先生はお会いすると、いつもカラッと軽やかでユーモアがあり、澄んだ秋空のように清々しいのだ。

9月11日(月)晴れ 最高気温32℃ 最低気温22℃
昨日、今日と日中は暑さが戻って蝉の鳴き声をまだ耳にする