見出し画像

vol.35 小暑 「あいさつ」 7/7〜7/21


 お昼を過ぎ、陽が傾きかけたといっても外はまだ明るい。in-kyoのカウンターに座って作業をしていると、入口のガラス扉から下校途中の小学生の姿がちょうど見える。まだまだランドセルの方が大きいように感じられる低学年の子もいれば、私と身長がさほど変わらないんじゃないかなと思う高学年の子もいる。子どもたちの溌剌とした声や楽しそうな姿にはいつも元気をもらっている。ついこの間入学したばかりだと思っていた近所の女の子が、いつの間にか6年生になったと聞いて驚く。私は子どもがいないものだから、その重ねられた日々の濃さを知らぬうちに、月日が過ぎてしまっているんだなぁとぼんやり思うこともある。
 そういえば、三春で暮らし始めたばかりの頃、子どもたちにあいさつをされてびっくりしたことがあった。今でこそ顔と名前を知っている子は何人かいるけれど、当時はまだ知らない子たちばかり。それなのに私が歩いている時に下校途中の子どもたちがすれ違いざま、「こんにちは〜」と、あいさつをしてくれたのだ。ハッと慌ててこちらも「こ、こんにちは!」と返したものの、はて?知っている子がいたのかしら?と首をかしげて考えてみたが思いあたらない。その後にすれ違った子どもたちも私にあいさつをしてくれるではないか。小学生に限らず中学生も。駅の近くを歩いていたら、高校生まで知らない私にあいさつをしてくれるだなんて。そのことにいたく感激して夫に報告したほど。夫もやはり町を歩いていたら高校生にあいさつをされたと、移住をして間もない頃、我が家の夕飯時の話題となった。
 東京ではまずそのような経験がなかった。もちろん友人の子どもたちや近所の知っている子、お店に来てくれた子は私が「こんにちは」と言えば「こんにちは」と返してくれる。でも三春町の、この誰に対しても同じようにということはなかった。幼い頃からの町の教育方針というのもあるのだろうし、あいさつをすることで防犯も兼ねてということもあるのでしょう。それにしても自分の子どもの頃を思い出すと恥ずかしい。私もあんな風に臆することなく、元気にあいさつができていたら、母を困らせることもなかったろうにと振り返る。
 幼い頃はとにかく人見知りで、知っている近所の人に対してさえ、あいさつをするのが苦手だった。自意識がすぎるほど過剰だったのかもしれない。幼い子どもが元気にあいさつをすれば、誰だって嬉しくてにっこりと微笑み返してくれただろう。それがどうにも恥ずかしいのと、どこか怖いという気持ちも入り混じり、まさに蚊の鳴くようなか細い声で返すのがやっとだったのだ。
 あるとき、母と二人で電車に乗って出かけたときのこと。幼稚園か保育園の頃だったか、年齢までは覚えていない。4人向かい合わせのボックス席に母と並んで座っていると、お姉さんが二人やって来て、向かいの席に腰を掛けた。お姉さんはいくつくらいだったのだろう?20代そこそこ?やさしい二人は「こんにちは」「いくつ?」と私に話かけてくれたのだった。今、同じシチュエーションだったら、もうお姉さんではない私だって、同じように話かけるだろう。でも幼い私は母に促されるようにして小さな声で応えるのが精一杯。そんな私にお姉さんたちは、バッグの中から飴か何かお菓子を取り出して、私に「どうぞ」とくれたのだった。「ありがとう」とただ言えばいいものを、そのときも嬉しくてはしゃぐ気持ちを表にうまく出せずに、お礼がちゃんと言えたのかどうか、記憶がはっきりしていない。でもこのもどかしいやり取りは、なぜか忘れられずに今でもふと思い出すときがある。あのときニッコリ笑って「ありがとう」とすんなり言えていたら、その後の私の人生は少し違ったものになっていたのかしら。母はそんな私を連れて歩く度に、方々で私をせっつきながら、相手の人に謝りながらやり過ごしていたかと思うと、本当に申し訳なかったなぁと思う。ましてや実家は商売をやっていたというのに。看板娘などと言われたことは一度もなかったのは、このためだったとつくづく思う。
 今は幼い頃の私は身を潜め、できる限りあいさつを心がけようと思っている。それは子どもたちにだけではなく、はじめてすれ違うお年寄りの方にも。私がin-kyoの窓拭きをしているときに前を通りがかる方にも。ボーッとしていて、ついあいさつをしはぐってしまうこともあるけれど。
 町になじむにはこれが一番の近道なんだろうなぁということは、見ず知らずの私にあいさつをしてくれた子どもたちが教えてくれた。いや、なじむためとかなんとか何かの目的のためというのではなく、あいさつをしてあいさつが返ってくるのは、なんてことはないかもしれないけれど、シンプルに嬉しいことなのだ。
 小学校はもうすぐ夏休み。今年は心置きなく夏を満喫することができるのだろうか?夏休みが明けて、真っ黒に日焼けしてのびのびとした子どもたちが、in-kyoの前を楽しそうに下校する姿を楽しみにしている。世の中いろんなことが起きてはいるけれど、遠くの親戚か何かのような気分で、子どもたちの健やかな成長を勝手に願っている。