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勘三郎のあしあと。野田秀樹「足跡姫」に寄せたエッセイを再録します。


 野田秀樹作・演出『足跡姫』(02017年1月。東京芸術劇場)のパンフレットに掲載された私の稽古場レポートを転載します。野田さんが、勘三郎さんを祈念して上演した舞台です。
 懐かしい日々を思い出します。


 師走のある日、中央区にある水天宮ピットに野田秀樹の稽古場を訪ねた。
 稽古場では評論家は招かれざる客であると承知している。教育の場でもあった演出家蜷川幸雄の場合を除けば、私がこれまで稽古場を訪ねたのは、都合二十回を超えないだろうと思う。

 野田の稽古場を訊ねたのは、思い返すと『TABOO』以来のことだった。唐沢寿明、羽野晶紀らがいた。初演は一九九六年の四月だから、およそ二十年振りになる。月日が過ぎるのは、あまりにも早い。

 今回の稽古が行われたピットは、『THE BEE』(二〇一二年)が上演された劇場でもある。狭い入口を入ると空間を圧するような舞台が組まれているのに驚いた。四%の角度で傾斜しているという。野菜の売り場と似ていることから俗に「八百屋」と呼ばれる舞台である。東京芸術劇場のプレイハウスの実寸を取った舞台を組めば、俳優や実働スタッフがひしめいている。私は二階のキャットウォークに案内された。二人掛けの白い机が三つ並んでいて、右から、写真家の篠山紀信さん、照明家の服部基さん、そして私に席が与えられた。

 劇場では一階で舞台を見詰めることが多い。けれど、二階から見る稽古場の舞台は別の趣がある。私の存在を消して、覗き見ている感覚といったらいいだろうか。少なくともスタジアム状に席が組まれた稽古場よりは、ずっと気持が楽で、演出家の指示や俳優の動きをそっと観察できた。

 二階なので、野田自身が舞台に上がらないかぎり、演出席から指示を出すときの表情は見えない。けれど、今は、稽古がはじまって、場面を順次さらって、立ち位置や段取りを整えていく「返し」の時期だったから、演技に対する厳しいダメ出しはなかった。むしろ、印象的だったのは、段取りについて迷ったときに、結論を急がず、試しながら、最良の答えを探っていく姿勢だった。もはや、野田には、演出家の威厳を繕ったりする必要はない。ためらいなく「あ、わからない」といえるだけの自負がある。加えて周囲の信頼があっての稽古場だと思った。
 二十年前と比べると、野田自身が立って「こんなかんじだよ」と、出演者のために演じてみせる機会が少なく思えた。ただ、今回中心となるキャストは、野田の芝居を熟知している。舞台俳優としてだれ知らぬもののない宮沢りえ、妻夫木聡、古田新太がいるのだから、逐一、「お手本」を示す必要などないのだろう。まだ、完璧に台詞が入っている時期ではないから、俳優たちが言葉と身体をなじませるプロセスを、焦らずじっくりと見守っていたのだった。

 宮沢りえは、舞台上において、作品の全体を引き受ける覚悟が目立った。「あぁ、ばか」と台詞回しがうまくいかないと自分自身をなじったりもする。けれど安全面を含めて、全体に神経を届かせている。歌舞伎でいえば、座頭(ざがしら ルビ)の役目をごく自然にこなしていた。板に馴染んでいるといったら古風にすぎるだろうか。照明の力をかりずとも、美貌が冴え渡る。加えて知性の確かな動きが感じられ頼もしく見ていた。
 妻夫木聡は、複雑な心理を、単純な表現に翻訳して見せる俳優だと思ってきた。稽古場を見て、その思いは深くなった。妻夫木の手にかかるとちょっとしたアイデア、たとえば受けの芝居で子供っぽくふくれっつらをする演技が、この役の弟らしさに結びついていく。姉の機嫌を伺いつつも、自己主張することをやめない弟の機微がみえてくる。そんなアイデアを表現へと紡いでいく才能は、稽古場ならではの発見といえるだろうか。

 愛すべき古田新太がいる。
 「また、年寄りを走らせて」と皆を笑わせる。昨年、野田は「ヒデキ、還暦」と蜷川の舞台のパンフレットに原稿を寄せていたが、実は古田は野田より十歳も若い。けれど、劇団☆新感線をはじめ、生粋の舞台人として生きていた経験が稽古場でも滲み出ている。稽古場の空気はいつも流動している。陽から陰へ、明から暗へ、暖から寒へと刻々と変化していく。どちらがいいというのではないが、その動きを巧みに捉えて、よくない方向へと向かい始めると自然に修正を加えていく。これは一見、演出家の仕事に思えるけれど、リーダーではなく、サブリーダーでなければ変えられない気配もある。また、立廻りでの刀の取り回しは、さすがに年季が入っていて感心させられた。

 今回の芝居には、歌舞伎界から中村扇雀が加わっている。『野田版 研辰の討たれ』(〇一年)に始まる野田秀樹と中村勘三郎の仕事には、参謀役で常にかたわらにいた。この知将が稽古場にいるだけで、しなやかな絹糸が張り詰めるようであった。

 私の見学した日には、舞台に立つ場面がほとんどなかったが、何役もの役柄を自在に演じ分けていく。歌舞伎で鍛え上げられた変身の妙は、短い場面でも確認できた。稽古着の着物や足袋のしっくりとした様子がいかにも粋なのも、伝統に連なる者の強みなのだろう。

 さて、『足跡姫 時代錯誤冬幽霊(ときあやまってふゆのゆうれい)』は、平成二十四年の十二月五日に亡くなった十八代目中村勘三郎へのオマージュとなっている。記者会見で発表された野田自筆の文章を読んだとき、勘三郎と野田の深い交友を改めて思った。だれも立ち入ることの出来ないふたりの結びつきがあった。

 勘三郎の葬儀のときに、三津五郎が読んだ弔辞を、野田はこの文章のなかで引用している。文章の性格上、きわめて短い引用なので、少しその周辺を改めて紹介したい。

 三津五郎は弔辞のなかで、『棒しばり』などふたりで何度も踊ってきた踊りにふれ、また、これから踊ろうと約束していた『峠の萬歳』や『夕顔棚』をあげたあと、少し涙声になった。
「いまでも目をつぶれば、横で踊っている君の息遣い。いたずらっぽい、あの目の表情。躍動する身体が甦ってきます。肉体の芸術ってつらいね…。そのすべてが消えちゃうんだもの。本当に寂しい…辛いよ…。でも、その僕の辛さよりも、もっと、もっとつらい思いをして、君は病と闘ったんだよね。苦しかったろう…、辛かったろう…。今、少しでも楽になれたのだとしたら、それだけが救いです」

 消え去ってしまう肉体の芸術を惜しんだ三津五郎も、勘三郎が亡くなってから一年半後の平成二十七年二月二十一日に、後を追うようにこの世を去った。

 野田は歌舞伎のために『野田版 研辰の討たれ』『野田版 鼠小僧』『野田版 愛陀姫』を書いている。この三本の芝居は、勘三郎との関わりで語られることが多いが、三津五郎、扇雀ももちろん出演している。『野田版 鼠小僧』で三津五郎が演じた大岡越前は、勘三郎の三太と並んで主役と呼んで差し支えない。
 平成二十七年の三月二十三日、『野田秀樹の演劇』を上梓した記念に、代官山にある蔦屋で野田秀樹と私はトークイベントを行った。
 勘三郎も三津五郎もすでにこの世にはいない。話は「芸能」と「芸能の民」に及んだ。

「でも、やはり(歌舞伎役者と僕には)同じ匂いがあるんでしょうね。そこが非常にうまくいったところじゃないですかね。僕はくだらないことが大好き。勘三郎なんかもくだらないことが大好き。無理してくだらないことを、やったわけでもないんです。歌舞伎というと偉そうになってしまった舞台もありますね。そのなかであいつがびゅーんとはじけていく、それが大好きなわけですよ。どっぴゅーんを排除するのではなく、どこまでも大丈夫かなと思いながら続けていく。それが我々のなかでは大事なんですよね。我々っていうのは、その「芸能」
…」
 野田は少しいいよどんだ。
「芸能者?」
「そう、「芸能者」にとっては。間口に広さも大事だし、同類同士の動物としての匂いがあった。だから、また歌舞伎の世界をやってみたいと思っていますけれども、自分に近い動物が死んでしまったわけですから、それは非常に、生き物としてつらいですよね」(『天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎』 文春新書 二〇一六年 所収)
 このトークショーで野田の話を聞いてから、もう一年近い時間が過ぎた。

 今回の『足跡姫』の稽古場に来て、野田が「自分に近い動物の死」をようやく引き受け、思いをこめて乗り越え、次ぎの世代に繋ごうとしているのを感じた。

 十八代目勘三郎は、父十七代目勘三郎の没後、蝿となって自分を見守っていると繰り返し語っていた。私は「そんなばかな。迷信深い」と勘三郎を当時笑っていた。けれど、今はよくわかる。人は亡くなった「自分に近い動物の死」を、なにかのかたちに仮に託して、見えるものに見立てて、生きていかなければならないのだった。

 記者会見の文章にあるように、確かに『足跡姫』には、勘三郎らしき役も、三津五郎らしき役も登場しない。けれど、肉体の芸術に賭けて、かけがえのない時間を費やしてきた俳優たちのあしあとが無数に記されているのがわかる。役者と呼ばれた人々は、稽古場を離れ、舞台に立てばたったひとり。共演者といえども、最終的にはだれも助けてはくれない。孤独の境地でいなければならぬ仕事である。けれど、彼らが舞台に生きた気配は、脈々と繋がれている。私たちは、先人を尊び、おのれの工夫に生涯を捧げた鬼神のような役者の境地を、江戸時代いやそれ以前の芸能者たちにまで辿ることができる。桜の清水寺からはじまる修羅能の「田村」には、「いかに鬼神も確かに聞け」との詞章があるのを思い出していた。

 この稽古場には、肉体の芸術を尊ぶこころがあった。佐藤隆太、鈴木杏、池谷のぶえら八人のメインキャストから、若い世代の俳優たちに、芸能者の気配と足跡が伝えられていくのがわかった。
 思えば、勘三郎と会った最後の機会は、二〇一二年の五月九日『THE BEE』の終演後だった。この水天宮ピットの楽屋で待ち合わせ、私はひとり終演を待っていた。その場所に私はふたたび来ている。

 勘三郎も三津五郎もいたずら好きだったから、時代錯誤の幽霊になって、きっとこの稽古場にも、劇場にも、足跡を残しに来ますよ。そう呟きながらもうどっぷりと暮れた冬の人形町を歩いた。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。