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ウィーンに住んでみたかった。泥沼の発端。


ホテルに滞在するのではなく、アパートメントに住んでみたい。私にも月並みな夢があった。

友人もいない、現地語もできない、そんな街で暮らしてみたかった。

六十歳を過ぎて、体力や気力が衰えないうちになしとげたいと思った。

決意を固めたのは、2019年の4月頃だったろうか。翌年にあたる2020年の春に、三か月でいい、オーストリアかドイツの街に行こうと思い立った。

私は東京芸術大学の美術学部に二十年あまり籍を置いている。勤務先の大学院でかつて教えたことのある学生が、ふたりいると気がついた。ひとりは、皆川知子さんで、ベルリン在住。大学院卒業後、あるコンサルティング会社の命を受けて、単身、ウィーンに飛んだ。ひとりヨーロッパ支社を立ち上げた。人付き合いがよくコミュニケーションの達人。豪のものだ。

彼女がまだ、ウィーンに住んでいた頃、音楽を聴くためにこの街を訪ねた。親切に案内をしてくれた。そのときのよい思い出が、今回の計画の動機になっている。

もう、ひとりの教え子は、那須加奈子さん。オーストリア第二の都市グラーツに住んでいる。オーストリア人の夫君との間に男の子がふたり。東京に里帰りするときに、当時の仲間を集めて食事をしたりする。

彼女もまた、グラーツの写真週間の調査をせよと、当時、所属していたゼミの教授に命じられ、渡欧。そのまま出会いがあり、結婚して、住みついてしまった。彼女もまた、皆川さんとはタイプは違うが、私にとっては勇気のある先駆者だ。

このふたりにFacebookのメッセージで相談するところからはじまった。

当初は、もちろん長い休暇のつもりだった。三か月以内ならば、特別なビザはいらない。ドイツ演劇を観て、クラッシック音楽を楽しむ滞在にしたい。そんな軽い気分だった。

やがて、やりとりしているうちに、単に遊びにいくのはどうかなと思い出した。貧乏性ですな。

もちろん私は適度に怠惰である。正直なまけものでもある。許されれば、遊び暮らしたいと思っている。けれど、三か月は少し長い。

「ちょっとした仕事はないかな」「講演会くらいはしたらどうですか」。こんな会話があったかどうか。いや「講演会くらいしたいな」「なんとかなるでしょ」かもしれない。よい通訳が見つかれば、なんとかなるのではないかと考えた。楽観的な思い込みでした。

そこで、海外交流の仕事をしている知人からレクチャーを受けた。ゲーテインスティチュートの専門家にも会いにいった。細い糸をたどるように、知人から知人へ。情報を集める日々が続いた。

そのうちに、ちょっと欲が出てきた。
現地の大学は、ひょっとして、私を客員研究員として迎え入れてくれないだろうか。

そこで、私が取った対策とは?

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。