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急に、彼が吉良上野介になったような気がしていた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十七回)

名声

 昭和二十二年、慶應義塾評議員に就任して以来、万太郎には、数々の肩書きが加わっていった。

 讀賣新聞社演劇文化賞選定委員、日本芸術院会員、芸術祭執行委員。昭和二十四年、毎日新聞社演劇賞選定委員、日本放送協会理事、郵政省、郵政審議会専門委員、文化勲章・文化功労者選考委員。
 昭和二十六年、日本演劇協会会長、国際演劇会議代表。
 昭和二十七年日本文藝家協会名誉委員。
 昭和二十八年、俳優座劇場株式会社会長。
 昭和三十一年、国立劇場設立準備協議会副会長、法務省、中央更正保護審査会委員。

 書き写していても、いささかうんざりするほどのおびただしい肩書きである。有形無形の権力をともなう役職を、いわれるままに万太郎は引き受けていった。
 そのこと自体の是非は問わない。
 が、それにともない、権力をひけらかす言動があり、没後、周囲にいた人々から悪評を被ることとなる。

 もっとも痛烈なのは、文学座でともに幹事・顧問をつとめた岩田豊雄(筆名・獅子文六)の『折り折りの人 <9>』(「朝日新聞」昭和四十一年二月二十四日)だろう。

 京都駅から偶然、万太郎と同じ列車にのった岩田は、芸術院会員の候補になっていると知らされる。

「『もうトバ口まできてるんですよ。運動すれば、すぐですよ』
 そして運動とは、会員たちを歴訪して、懇願することだと、ヌケヌケというのである。
 だれがクソー、急に、彼が吉良上野介になったような気がしていた。会員なぞといいながら、部長の職にある彼自身に"運動"しろと、いってるように聞こえた。そんなことをしたら、一生彼に頭が上がらなくなる。だれがそんな取引をするもんか----
 そういうときの彼は、ほんとにいやな男だった。」
 
 岩田にささやいた年代は特定できないが、昭和三十八年、万太郎の死と前後して、現実に岩田が芸術院会員となっているところからみても、三十年代の話であろう。
 これほどぬきさしならぬ出来事を暴ききつつも、岩田は「何か長所ばかり、心に残る。いや、そんなことはない、あんなこともあった。こんなこともあったと、打消してみても、結局徒労なのである。不思議な人物と、いわねばならない」と書きつけてもいる。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。