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花柳界は、虚実のかけひきのなかで、恋愛を商品とする。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十七回)

 小島政次郎の『久保田万太郎』は、「まだ、対(たい、ルビ)で芸者と遊んだことのない私達は、芸者に対して一種異常な憧れを抱いていた。芸者といえば、荷風の相手であり、十五代目(市村)羽左衛門の相手であった。
そこに何かロマンティックな幻影を勝手に描いていた。」と、当時の文学青年が花柳界に抱いていた心情を語っている。

 年若くして華やかなデビューを飾っただけに、万太郎には、実社会の経験もなく、生地浅草と家業の職人の生態のほかには、身をもって知る世界はない。
 題材に窮した万太郎は、第二作にあたる『花火』(明治四十四年の十一月「スバル」)で、小説の舞台に花柳界を選んだ。
 万太郎は、年若い相場師、槇を主人公にすえる。
 槇は年若いお酌にこころ傾ける。お酌とは、芸者として一人前になる前俗称。雛妓(おしやく)とも、玉代(ぎよくだい)が芸者の半額であるため半玉という。大半は十六歳で芸者となった。

 ふと、かれの胸に、「日本橋」の女の顔がうかんだ。「浅草」のお酌の長い目が浮かんだ。・・・・・世間にでゝ、世間をいつぱし知ったつもりでも、結句まだ、何も知らない、氣の弱い、臆病な自分でしかないではないか・・・・・

 『花火』のこのような一節からも、鏡花、荷風、薫に憧れつつ、「何も知らない」じぶんを卑下する新進作家の述懐が読みとれる。

 『挿話(エピソオド、ルビ)』、『お米と十吉』『なりゆき』『つる代』、『わかるゝとき』、『一とまく』、『路』、『小藤の一周忌』と続く連作は、大正三年まで書き続けられたが、これらの花柳小説は概して評価が低い。

 たしかに、花柳小説には、広津柳浪が明治四十二年に発表した『今戸心中』があり、その切迫した心理描写を越えない。

 万太郎は、花柳界を中心とした都会生活の風物をスケッチするにとどまって、恋愛は深まらず、事件も葛藤も表にはあらわさない。

 しかし、人間の淡いこころの起伏を生な言葉にせず、ついには彼らの未来に対する漠とした不安そのものを蘇らせる手腕が認められる。

 小山内薫の小説『大川端』は、第一章にあたる「君太郎」の部分が、明治四十四年八月九日から九月十三日まで読売新聞に連載された。
  伊井蓉峰の真砂座にかかわり、座付き作者ともなった薫の体験をもとにした花柳小説である。

 主人公の小川正雄は、大川の川下にある真砂座へ作者見習いにかよっている。座長の贔屓だった福井さんは、木場の旦那であり、芝居ばかりではなく、花柳界にも派手に出入りしている。

 ともなわれてはじめて待合に足を踏み入れた正雄は、君太郎というお酌のもとに通いつめる。それにもかかわらず、ふたりはとりとめないおしゃべりや、大川を行き交う風景にみとれるばかりで、肉体関係を持たない。

 正雄にとって、花柳界は異界であり、その社会でのルールを習得していく過程に心を躍らせていく。
 また、一方で女性を神聖視するあまりに、口説くことさえできかねている。

 小島がいう当時の青年の「一種異様な憧れ」「ロマンティックな幻想」が全体をおおっている。

 しかし、こうした傾向は、明治の体制に属する人々の花柳界通いとは、一線を画している。
 小山内薫がその一員であったパンの会は、「異国情調」によって、時代、社会に対する反抗的な精神を示した。
  吉井勇、谷崎潤一郎、木下杢太郎、北原白秋、長田秀雄、高村光太郎らによって結成されたこの会の第一回会合は、明治四十一年十二月十二日、大川の流れが見渡せる両国橋の近く、広小路にあった牛鍋屋「第一やまと」で開かれたのである。
 東京を巴里(パリ)になぞらえ、隅田川(大川)をセーヌ川に模し、四十二年から四年にもっとも盛んな活動を示したが、会合はもっぱら日本橋の西洋料理屋「三洲屋」で開かれた。

 ある会合では、葭町の芸者やお酌もやってきて、椅子に腰掛けて三味線を弾いたと吉井勇は書いている。
 滅んでいく江戸の名残にも、異国情調を見出していく。彼らは西洋をいったん経由した目で、大川端や葭町を見つめた。
 花柳界への憧れは、懐古趣味ではなく、新鮮な驚きをもった発見であったのである。

 万太郎が、明治四十四年十月に書いた『挿話』には、既に、薫の新聞小説『大川端』が主人公の愛読小説として取り込まれている。

「小山内さんの『大川端』にすつかり打込んでしまつて、是を実地に行くつもりらしく、此頃(このころ)では葭町(よしちょう)のたみ子といふお酌を相手に新しい物語を初めました。」(『挿話』)

 とあり、万太郎が創り出した主人公は、じぶんを『大川端』の正雄になぞらえている。

 こうした趣向は、たとえば、槇ではなく、政次郎を主人公とし、その友人で学生の狭山を語り手とした『なりゆき』(大正元年八月 「新小説」)でも使われている。
 作中の政次郎もまた、『大川端』に身をなぞらえながら、吉彌とはつ子、ふたりのお酌となじみを重ねていく。

 『なりゆき』の主人公はじぶんの行く末に、「現在」連載中の『大川端』の主人公とヒロインの未来をだぶらせようとしているのだ。
 正雄と君太郎の行方が定まらなければ、ふたりはじぶんたちの未来を決めることが出来ない。
 ここには、現実をフィクションの境界に漂う青年が、文学に深く傾斜していた風潮がうかがわれる。

 政次郎ばかりではない。はつ子もまた、現実ではなく、空想によって今日を流されていく。彼らは夢のなかに生きている。夢想だけが、今を生き抜くためのよりどころだった。

 関係に終わりが近づいたと、政次郎もはつ子も予感している。
 ふたりは、五月の三十一日、お富士様の日に、新道から千束町へ、夏の夕方を歩く。

 ここには、万太郎が幼いころから親しんだ浅間神社のお富士様の祭礼の様子が息づいている。
 たいへんな人込みのなか、飴やほおずきを売る屋台がならぶ。ふたりは、金魚屋で足を止める。

 それから二人は、赤い絲のついた小さな金魚の珠(たま、ルビ)を買つて、人込のなかを下げてあるいた。・・・・・政次郎は所帯をもつた若い、貧しい男と女が二人で外へ出て夜金魚を買ふといふ、誰かの小説の話を思ひだした。
(中略)
明るい「夢」・・・・・暗い「夢」・・・・・四邊(あたり、ルビ)はだん  昏くなつたが、空はまだ薄青(旧字)く晴(旧字)れていた。

 二人はやがて、人込から横町に切れて、暗いしづかな横町へまた這入つた。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。