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【劇評260】私たちは何を守るべきか。アーサー・ミラー『みんな我が子』が突きつける問い。

 緊密な舞台である。
 リンゼイ・ボズナー演出、広田敦郎訳の『みんな我が子』は、一九四七年に初演されたアーサー・ミラーの戯曲の可能性を見事なまでに引き出している。
 戦争がいかに人間の尊厳を破壊し、家族のなかに深刻な対立をもたらすことか。戦時下では、よき人でありたいと願う宗教的な倫理が反作用のように動き出す。一方、自分の家族だけは豊かで幸福でいたいとする欲望もまた、頭をもたげる。倫理と欲望は、両立することはなく、ひとりの人間のなかでも、鋭く対立する。私たちは、最終的に何を守るべきなのかを問いかけている。

 新約聖書「ローマ人への手紙」8章14節「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」。キリスト教が支配的な国では、この言葉が戯曲の底流にあると感じられるのかもしれない。信者はすべて「神の子」として生きるとされているのだろうか。この点については、ぜひ教えを乞いたい。

 第二次世界大戦が終わって三年余りが過ぎた。
 のんびりした夏の日曜日、工場を経営するケラー家の庭では、当主のジョン・ケラー(堤真一)が、新聞を開いている。
 昨夜の嵐で庭の木が倒れた。戦争に従軍して帰らない次男のラリーを記念するために植えた木である。ジョンの妻ケイト(伊藤蘭)が神経質になるのを、長男のクリス(森田剛)がなだめている。
 ラリーと婚約していたアニー(西野七瀬)が、クリスと結ばれるためにこの家を訪ねてくる。
 終戦後の結婚をめぐる物語と思えたところが、ケラー家が押し隠してきた問題が、次第に明らかになる。

 リンゼイ・ボズナーの演出は、戯曲を深く読み込んでいる。ジョーとクリス、父子の相克とともに、ケイトとアニーの決して折り合えない対立を鮮明にする。

 今回の演出、新訳は、ケイトを複雑な性格を持ち、あくまで家を守り抜く母として描き出す。アニーは、自分自身の意志を貫いて、願いを成就させようと行動する女性としている。
 この女性たちは表面的に社交的であろうと懸命に努力するアメリカ人である。けれど、明るい笑顔の裏にある深刻な葛藤をあぶりだしたところに成功の鍵がある。

 隣家のドクター・ジム・ペイリス(山﨑一)は、ケラー家を暖かく見守っている。妻のスー・ペリアス(栗田桃子)は、患者の女性から電話があっただけでいらついている。年齢が少し上のために徴兵から逃れたフランク・ルービー(金子岳憲)と陽気な妻リディア・ルービー(穴田有里)も、ケラー家の母ケイトを気遣っている。

 また、一方で、劇中には登場しない町の人々を想像させる。ケイトの父が捕らわれたとき「人殺し!」と叫んで糾弾した「善良な市民」の歪んだ顔が浮かんできた。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。