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【劇評228】野田秀樹作・演出の『フェイクスピア』の真実。完全版劇評、十四枚。

 お読みになる前に

 野田秀樹作・演出の『フェイクスピア』は、そのタイトルから想像されるようなシェイクスピアの知的な書き替えにとどまらない。人間にとって、生と死は皮膜一枚隔てたところにある。このまぎれもない現実を、昭和に起きた歴史的な事件を通して描き出している。

 当初、このNOTEには、具体的な細部を伏せたかたちで劇評を書いた。これから舞台に接する観客の興を奪わないためである。背景や結末を書くことに躊躇しない、長文の批評を書いてほしいという要望が聞こえてきた。

 六月七日には、雑誌『新潮』七月号が店頭にならび、戯曲全文に容易に接することができるようになった。そのため、すでに舞台を観た観客、戯曲を読んだ読者のために、新たに劇評を書き起こすことにした。

 ただし、今回の公演の切符を既に手に入れている観客には、この原稿は、観劇後にお読みになることをお薦めする。

 荒涼とした風景である。荒れ果てた土地に、傾いた柱が突き刺さっている。柱には梵語らしき文字が認められる。明転するとmono(髙橋一生)が小さな箱を持っている。そのなかに、何が入っているのか、だれにもわからない。monoは憑かれたように、長台詞を語り出す。

「ずしーんとばかり、とてもつもなく大きな音を立てて大木が倒れてゆく、けれども誰もいない森では、その音を聞く者がいない。誰にも聞こえない音、それは音だろうか」

 自問自答に似たモノローグは、人間としてのmonoが、語っているのだろうか。それとも、匣のなかから聞こえてくる声を、monoが増幅しているのだろうか。大自然の森の中で、人間は無力だ。その圧倒的な寂寥を払うために、ひとは声を放ち、みずから谺となった声を聞く。

白石加代子の声

 舞台は一転して、白石加代子が登場する。
 いわずとしれた憑依型の大女優は、「白石加代子」ですと名乗る。つまりは、白石は実名を名乗っているのだが、やがて女優になる前の経歴を騙りだす。
 白石は青森県の恐山でイタコの修業をしていたというのである。
 白石の厚みのある低音とその響きは、まるで地響きのように舞台の奈落と通じ、客席の隅々にまで響き渡るようだ。能楽のモチーフが描かれた衣裳(ひびのこづえ)から新しいものえおまとい、役名の白石加代子は、もうひとりの登場人物に変わる。

 かれこれ五十の前、皆来(みならい)アタイを名乗っていた彼女のところへ、ふたりの男が、口寄せを頼みに現れた。

 ひとりは、さきほどのmono、そしてもうひとりは楽(たの 橋爪功)。いずれも挙動不審であり、いったい亡くなっただれを冥界から呼び出して欲しいのかも判然としない。そのうちに、皆来アタイを置き去りにして、シェイクスピアの有名な作品を断片的に演じ始める。『リア王』のリア王(楽)とコーディリア(mono)にはじまり『オセロ』のオセロ(楽)とデズデモーナ(mono)など。ここまでは、monoが唐突に、女性の役を演じるのがいぶかしく思える。高橋の女方は、堂にいっていて、この二役の優しさと品が感じられる。

 やがて、『マクベス』や『ハムレット』も呼び出され、シェイクスピアの人名に、偽物を意味するフェイクを接ぎ木した作品タイトルに寄り添って、野田らしい企みに満ちたパロディが展開されていくかに思える。

 シェイクスピアの知識を、観客と共有する知的遊戯なのか。このかりそめの安定した秩序は、『リア王』と『オセロ』の間に中断される。

 それは伝説のイタコ(前田敦子)の登場である。伝説のイタコは、楽の「だ、誰だ」との問いに対して、「こいつの母親」と応える。白石は老境にあり、前田は二十代の終わりであろうか。明らかに不自然な役割と年齢の逆転が、この冒頭近い場面で提示される。のちにあきらかになる『フェイクスピア』の大枠が、伏線として語られていたのである。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。