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この年、何にもしるすべきことなし、たゞ、もう、でたらめだつたのなるべし。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十回)

 家業の不振、執筆の行き詰まり、妹の死、友人たちの外遊。

 万太郎にとって暗い日々に救いとなったのは、大正四年一月に、荷風、薫を擁してして結成した古劇研究会である。

 万太郎は、古劇研究会の結成からは、ずいぶん時間の経過してからの文章ではあるが、
「まづ、木下杢太郎だの、長田秀雄だの、吉井勇だのといつた詩人なり戯曲家なりに呼びかけ、一方、楠山正雄、河竹繁俊、さては岡村柿紅といった演劇評論家を誘った」(「大正四年」)
 と昭和三十七年、新橋演舞場で上演された『天衣粉上野初花』(くもにまごううえののはつはな)の筋書きにしるしている。

 古劇研究会は、永井荷風を上置きとして、実質的には小山内薫を中心に、河竹黙阿弥、鶴屋南北、並木五瓶の研究を行い、「三田文学」誌上でその成果を発表したのである。

 はじめての課題は、黙阿弥の「三人吉三廓初買」(さんにんきちさくるわのはつかい)であった。「三田文学」大正四年二月号に、薫は「古劇研究私見」と題して会の趣旨をまとめ、荷風、万太郎、勇、正雄が研究、随筆を載せている。

 古劇研究会で黙阿弥を取り上げるとは決まったが、当時「黙阿弥全集」はおろか、選集さえも刊行されていない。
 春陽堂から明治二十五年に出ていた『狂言百種』の第七号には、「三人吉三廓初買」六幕 が収録されていたが、それも品切れで薫所蔵の一冊を、みなで奪い合って読んだ挿話からも、大正初年のころ、歌舞伎台本についていかに出版界が冷淡であったかがわかる。

 古劇研究会は大正五年四月まで計七回開かれたが、万太郎が筆をとったのは、三回である。「三人吉三」に続いて、第二回には、鶴屋南北『お染久松色読販』(おそめひさまつうきなのよみうり)について、狂言名を論文の題にかかげている。また、第四回では、並木五瓶『五大力恋緘』(ごたいりきこいのふうじめ)を取り上げ、『小まんが書く文』と題し切り口を明解にする。
 冒頭「小まんは都合三度、舞台で文を書く。」からはじまる研究は、手紙という具体物を通して小まんという役柄を浮き彫りにし、読み物としてもすぐれている。
 先にあげた『宮戸座と真砂座』以来、商業誌の「演藝畫報」から劇評の執筆依頼がこの時点で既に三度あり、開かれた読者を意識したものと思われる。

 翌五年二月には、荷風が慶應を去っている。
 小泉信三、水上瀧太郎の帰朝があいつぎ、十一月に万太郎は、澤木梢、瀧太郎とともに、荷風が去ったあとの「三田文学」を継承することになった。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。