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【劇評251】細川洋平の『苗をうえる』は、絶望のなかで、希望を語る。

 世界をまるごと引き受けるには、覚悟がいる。
 絶望のなかでかすかな希望を語るのは、勇気がいる。

 下北沢のOFF・OFFシアターで、ほろびての『苗をうえる』(細川洋平作・演出)を観た。

 ここで描かれるのは、苦しみ、もだえる東京の現実である。
 貧しさにあえぐ非正規ヘルパーの母と高校三年生の母娘の家庭、その家に入り込む無職の男。認知症の祖母をかかえた小学生男子は、ヘルパーの助けを借りつつも、学校に通えていない。母子家庭、犯罪者、
ヤングケアラー、老人を狙った詐欺というと、社会派の問題作と思われるかも知れない。

 けれども、この作品は、単なる現実の告発劇に終わらない。人間存在を描いた秀作たらしめているのは、ふたつの奇想が盛り込まれているからだ。

 第一に、左手のナイフである。高三で卒業式を控える鞘子(辻凪子)は、皆勤賞目前の朝、起きてみると左の手が、鋭いナイフに変わっている。手のひらが、鈍く輝く刃物となっている設定が観客を射る。
 母の間々(和田璃子)は、子供の手を見て、病院に連れて行くのではなく、学校へいくなと命じる。

 この設定は、現実と非現実の境界を突き崩す。フランツ・カフカの小説『変身』やティム・バートン監督の映画『シザー・ハンズ』が思い浮かぶが、ここで鞘子が直面するのは、日常生活が送りにくい困難であったり、自分が意図しないで他人を傷つけてしまう厄介である。

 これは、包丁やナイフのような鋭い刃物を持たずとも、言葉や態度が他人を傷つけてしまう現実のメタファーとなっている。対面だけではなく、SNSをも射程に入れたこの設定があるからこそ、劇は衝撃力を持つ。

 第二に、ジャージーの持つ力である。
 登場人物たちは、どこかにラインの入ったジャージーを着ている。たとえば鞘子は、ジャージー上下の上にオーバーオールを着ている。
 祖母まどか(三森麻美)を介護する小学生男子の宇L(宇R)は、おそらく180センチを超える藤代太一によって演じられるが、彼もまた、ジャージーの上に半ズボンをはいている。

 自由できままに動け、しかも洗濯や乾燥に手間はいらないが、全員がジャージーを着ていることで、よそ行きと普段、パブリックとプライベートの境界が崩れ去ってしまった現実を照らし出しているかのようだ。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。