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十年前の三月、私は新浦安から東京へと逃れた。

 十年前のことは、忘れられるはずもない。
 浦安市の新浦安に住んでいた私は、深刻な被害を受けて、この街を去った。それがよかったのかどうかは、わからない。けれど、別の人生があのとき始まったのは確かだろうと思う。
 しばらくは、ニューヨークの本社に呼び戻された友人のマンションに住まわせてもらった。このときは、トランクひとつで、新浦安を出たので、着る物も最小限だった。セーターを2枚にシャツを3枚。さすがに親しい友人から少し着る物を借りたが、て、心細い毎日で、クリーニング屋にも頻繁にいった。折りたたみ自転車のブロンプトンも持ち出していたので、青山あたりをあてもなしにポタリングした。あのころ、毎日なにを考えていたか、記憶が抜けている。大学はちょうど入試が終わり、春休みの期間だったので、それも許された。
 着る物などは最小でも生きていけるのだな。
 それが実感で、四月のはじめ、ガイダンスのときは、新入生を相手に話をした。
 あれから十年、私のクローゼットは、着る物であふれている。最小限でも生きられると思ったあの感慨は、いつのまにか失われた。
 仮住まいには、長くはいられない。友人が4月のあたまには帰国したので、あわてて、大学から言問通りを降りた根津の不動産屋で、物件を探した。迷ったあげく本郷に住まいを定めた。
 あの慌ただしい日々、震災で汚れに汚れた自家用車で、渋谷区東から本郷に移った。
 その車もとうに売ってしまったし、身の回りのものも、すっかり入れ替わっている。あの震災などなかったかのように、私は日々を過ごしている。コロナウィルスの影響もあって、不自由な生活を送ってはいるが、東日本大震災のときの明日がない生活とは、比べものにならない。
 日本人はいつも健忘症にかかっている。
 あのときに、心に決めたこと。たとえば、風呂桶に水を溜めていよう。風呂の水が、下水を流すのにどれほど助かったことか。そんな基本的なことも忘却の淵にあり、亡国の民のひとりとなって浮遊している。
 メディアは、言葉を踊らせる。けれど、その言葉はだれに届くのだろう。
 友人がお願いしていたお手伝いの方が、渋谷区の家を掃除にきたときのことを思い出す。テレビでは繰り返し、津波の映像が流れていた。アジアから来たお手伝いさんは、私の顔を見て怯えた。友人から預かった英文の手紙を渡して読んだ。そのときの真剣な表情が今も忘れられない。
 あの手紙になにが書かれていたのかは、私は知らない。けれど、慰めにあふれた確かな言葉が綴られていたのだろうと思う。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。