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立石涼子さんの思い出。

 暑さを押して、ベランダで鉢の世話をしていた。薔薇が四鉢に、寄せ植えがいくつか、オリーブの木もこの春、買い足した。
 
 夏場の園芸はむずかしい。暑さにくたびれた薔薇の花がらをどうしようかと考えていると、急に立石涼子さんの顔が浮かんできた。

 立石さんと面識ができたのは、演劇集団円がつかこうへいを招聘して上演した『今日子』のあたりだったろうか。一九八九年のことである。
『今日子』の劇評で私は以下のように書いている。

「たとえばひとりの女優(立石涼子)を彼(塩見三省 筆者註)がいびりぬく。この場面は映画のワンシーンであることが示される。彼女の演技が、大女優(岸田今日子 筆者註)に賞められる。かと思うと突然、大女優は彼女をおろせと言い出しはじめる。プロデューサーは黙って彼女を舞台から追放する。笑いにまぎらわせながら、彼は大女優に抵抗をはじめるといった一連の場面だ」(長谷部『4秒の革命』河出書房新社 一九九三年)

 こうして書き写していても、含羞にみちた演技が浮かび上がってくる。大きな力が拮抗するなかで、自分自身をひそかに貫いていく市民を演じて絶品であった。

  もっとも私が立石さんを知ることになるのは、蜷川幸雄演出の『グリークス』の稽古場だった。

  私は蜷川を二年半かけてインタビューした『演出術』(ちくま文庫 二○一二年)の仕上げのため、三か月に及ぶ稽古に通った。はじめは渋谷にあったコクーンの稽古場へ、やがて彩の国さいたま芸術劇場の稽古場へと移った。
 毎日訪れる私を、立石さんの目は優しく許してくれていたように思う。

 立石さんは、女性だけで構成されるコロスの一員だった。蜷川さんの作品でも、立石さんは準主役の役を演じてきたから、リーダー格とはいえ、コロスを演じるのは異例だった。けれど、立石さんは、蜷川演出におけるコロスの重要性を深く理解していた。蜷川演出の根本には、無名の市民の嘆きと恨みがあることをよく知っていた。

 世界的な演劇として考えると、立石さんの代表作のひとつに『エレファント・ヴァニッシュ』がある。
 村上春樹原作で、英国の演出家、サイモン・マクバーニーによる作品で、日本での初演を終えて、世界ツアーが計画されていた。ニュヨーク公演のときは、中村勘三郎の平成中村座が同じリンカーンセンターの敷地で行われていた。パリ公演のときは、市川海老蔵の襲名披露がシャイヨー宮国立劇場で行われていた。『エレファント・ヴァニッシュ』は郊外の感じのいい小劇場で上演されていた。

 サイモンの演出は、毎日刻々と変わるので知られている。たとえば幕切れの三味線の扱いは二転三転した。こうした臨機応変な演出の変化にまどわされず、着実に芝居の低音部を支えるのが立石さんの役割だった。
 ラジオ局の収録をしている場面で、マイクに向かったときの輝かしい声。そして、携帯電話で恋人と痴話げんかをするときの乱れた声。いずれも安定して、しかも魅力的で、何度聴いても飽きなかった。

 立石さん、梅沢昌代さんと三人で飲んだことを思い出した。
 二○○四年『ロミオとジュリエット』の稽古が巣鴨の創造舎で行われていた。ロミオは藤原竜也、ジュリエットは鈴木杏、立石さんはキャピュレット夫人、梅沢さんはジュリエットの乳母だった。見学にいった帰りにふたりを誘って、西片の「つくばね」で楽しい夕べを過ごした。このときは、のちに演出家になった藤田俊太郎が役者としてデビューした日生劇場の公演だったと思う。ド素人の藤田がお世話になる夫人と乳母をこころをこめて接待した。

  稽古場の隅で、どこにいこうかと三人で相談していたら、蜷川さんに、「そこの三人、なにこそこそやってるんだ」と笑いながら叱られた。

 思い出は尽きないが、このあたりで止めておく。残りはあちらで合流したときの世間話に取っておこうと思っている。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。