三津五郎の墓参りに行って、ぼんやり考えたこと。
入試の季節は、受験生の必死な思いとぶつかりあうことになる。
もっとも、二○一五年の二月二十一日からは、この慌ただしい日々に、新たな感慨が加わった。この日、十代目坂東三津五郎が、五十九歳の若さで亡くなった。このときの衝撃は、私にとって大きな意味を持つ。
先立つ三年前、三津五郎は盟友だった十八代目中村勘三郎を一二年十二月五日に亡くしている。このときの嘆きは、築地本願寺の本葬で、三津五郎が読んだ弔辞に凝縮されている。私としては、親しくしていたふたりが、こんなに早くあの世に行ってしまうとは思ってもみなかった。
三津五郎の墓は、池田山の高台にある。
毎年、入試のために命日には行けないけれど、遅ればせながら春めいた空気をすって、この高台に登る。もうすこし、駐車場の工夫をすればいいのだけれど、急な坂下のコインパーキングに車をとめて、あたりを見まわしながら、ゆっくりと歩く。
谷中ほどではないけれど、このあたりは古いお寺さんが残っている。高級住宅地の邸宅は高い屛をめぐらしているが、さすがにお寺さんは、そこまで他者を拒絶してはいない。
三津五郎も勘三郎も、人に隔てを作らなかった。人気商売といってしまえばそれまでだけれど、水商売に生きる人への共感があったように思う。それは、役者稼業の本質にも関わっている。身体ひとつで、藝を紡ぎ出し、世の中を渡っていく。その面白さ、辛さをよく知っていたから、身体と気概で生きている人々に共感していたのだろう。
三津五郎が亡くなってから、青山のお宅近くのオーセンティックなバーで、三津五郎とよく話したと友人から聞いた。彼女から聞く三津五郎の飲み方は、私の感触とは微妙にことなっていた。当然のことながら、ひとそれぞれに三津五郎の思い出がある。また、その風貌は重なり合い、ずれもあり、亡くなってから年を重ねるうちに、また少しずつ変わっていくのだろう。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。