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【劇評289】幸四郎、七之助の『十六夜清心』に、梅玉のいぶし銀の藝を観た。

懐かしい光景が甦ってきた。

 河竹黙阿弥の『十六夜清心』を通しで観る喜び。三部制によって制約があるにもかかわらず、通しだからこそ味わえる歌舞伎の企みがあると思った。

 年表をたどると、平成十一年、十代目坂東三津五郎(当時・八十助)による本格的な通しは例外として、白蓮本宅まで出たのは、平成十八年の大阪松竹座以来である。仁左衛門の清心、玉三郎の十六夜の舞台だが、残念ながら私は観ていたい。さらにさかのぼると、平成十四年の歌舞伎座では、同じ顔合わせで、こちらは観ている。蠱惑の舞台だった。なんと二十年前になるから、懐かしく思うのもむべなるかな。

 さて、今回は序幕、稲瀬川百本杭から、極楽寺の所化清心(幸四郎)と、大磯の廓の遊女十六夜(七之助)の切ない逃避行からはじまる。女犯の罪で寺を追われた清心を慕って、十六夜は廓を抜けて、百本杭でふたりは出会う。幸四郎、七之助の芸風もあって、実にさらっとした一場となった。清心の子を身ごもったとわかっても、絶望感よりは、虚無感が先立つ。ふたりは、身を投げるために出会ったかのように見える。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。