【劇評68】『足跡姫』阿国と猿若勘三郎の魂。劇評を再録します。
現代演劇劇評 平成二十九年一月 東京芸術劇場プレイハウス
『足跡姫』(野田秀樹作・演出)を観た。
野田が歌舞伎界に進出した『野田版 研辰の討たれ』が二重写しになる作品となった。『野田版 研辰の討たれ』は、いうまでなく、十八代目中村勘三郎、十代目坂東三津五郎との共同作業で生まれた新作歌舞伎である。敵討ちを大義とする武家社会のなかで、刀の研ぎ屋あがりの辰次(勘三郎)が、誤って家老(三津五郎)を殺してしまったために、子息ふたり(染五郎、勘太郎・現勘九郎)に追われるが、ついには満開の紅葉の下で捉えられる。自らが切られるための刀を研ぎつつ辰次はいう。
「お研ぎします。お研ぎします。研げといえば、お研ぎします。根は研屋、武士になろうなどと思った私が痴れ者、研いでおります、研ぎまする、研いだ刀で討たれまする。散るのは春の桜ばかりじゃねえや、枯れた紅葉もこれが終わりと、おのれの終わりと知りながら散っていきます、散りまする。生きて生きて、まあどう生きたかはともかくも、それでも生きた緑の葉っぱが、枯れて真っ赤な紅葉に変わり、あの樹の上から、このどうということのない地面までの、その僅かな旅路を、潔くもなく散っていく、まだまだ生きてえ、死にたくねえ、生きてえ、生きてえ、散りたくねえ、と思って散った紅葉の方がどれだけ多くござんしょう」
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。