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【追悼】闘将猿翁の逝去について、思い出すこと、いくつか。

 闘将という名がふさわしい人だった。
 二代目市川猿翁(三代目猿之助)は、高校生時代の私にとって、特別な存在だった。
 歌舞伎座で観る大立者たちの芝居を、仰ぎ見ることはあっても、三代目猿之助のように、若い世代の人々をわくわくさせる歌舞伎役者はいなかった。
 歌舞伎座の三階から見る通し狂言やスーパー歌舞伎の数々は、猿之助が、革命家であると語っていた。
 今でこそ、「ストーリー(Story)」「スピード(Speed)」「スペクタクル(Spectacle)」を掲げた3Sを否定する人な、おそらくは数少ないだろう。なかでも、1986年 梅原猛原作、脚本の『ヤマトタケル』は、古代の神話を題材として、スケールの大きな世界観を持ち、新作歌舞伎とはこうあるべきだとの指針を示したように思う。
 また、『義経千本桜』「四ノ切」を沢潟屋の型として上演した。宙乗りがいかに観客を喜ばすかを知っていた。マンネリと呼ばれつつも、他の家の大立者たちも、時がたつにつれて、宙乗りの動員力に気がついた。おそらく、猿之助は、歌舞伎は商業演劇であり、芸術家を名乗る前に、動員の「数」がなければ、生涯をまっとうできないとよく知っていたように思う。
 私自身が猿翁とあったのは、わずか一度。しかも、「セブンシーズ」という高級誌のインタビューで、私の無智もあって、中身のある内容ではなかった。ただ、ホテルのスイートルームで行われたために、猿翁は撮影のために、洋服から和服に、着替えてくださった。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。