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長谷部浩のノート お芝居と劇評とその周辺

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2021年5月の記事一覧

【劇評225】野田秀樹作・演出の『フェイクスピア』。予測不可能な世界の果てに、見いだされた言葉とは何か。

 閉ざされた箱のなかに、何が封じ込められているのか。  野田秀樹の画期的な問題作『フェイクスピア』は、この謎を追っていく物語である。  フェイクスピアとは、何か。まず、人類史上、最高にして無類の劇作家、シェイクスピアを暗示する。それとともに、フェイク(偽物)が、この劇作の核にあると示している。  現実の舞台は、意外なことに、青森県の恐山から始まる。  冒頭、女優白石加代子は、実名で登場し、俳優となる前には、恐山で故人を呼び出し、口寄せをするイタコの修業をしていたと語る。

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【劇評224】勘九郎、七之助、松也が作りだすドラマの余情。串田和美演出の『夏祭浪花鑑』。

 活き活きと呼吸する人間として、ひとつひとつの役を見直していく。  串田和美演出・美術の『夏祭浪花鑑』は、芝居には完成形などはなく、常に先を追い求めていく精神に貫かれていた。    夏の入道雲が、空を覆っている。  上手には明るい日差しを浴びて鳥居が見える。よしず張りで囲われた辻に、遠くから祭り囃子が聞こえる。蝉時雨が降り注いでいる。  往来する人々がいる。材木を持った男は、運び損なって、地面に落としてしまう。三味線を持った男が通りすぎていく。  神主が現れると、人々は辻に立

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【劇評223】自尊心は、人間の目を曇らせる。吉田鋼太郎演出『終わりよければすべてよし』の痛烈な諷刺。

 一九九八年から二○二一年まで。  長野冬季五輪が行われた年から、長い時間が過ぎて、彩の国さいたま芸術劇場のシェイクスピア・シリーズが完結した。パンフレットの巻末に収められた軌跡を眺めるだけでも、思い出深い舞台が蘇ってくる。  三十七作品目にあたるのが『終わりよければすべてよし』(松岡和子訳 吉田鋼太郎演出)。緊急事態宣言下、関係者の努力によって上演にたどりついた。  この規模の劇場が満員になるのを見るのは久し振りで、周囲を見渡すだけでも感慨がこみあげてくる。  上演機

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【劇評222】ゴミ袋から発見された赤子は、路上生活者を救うか。藤田俊太郎演出『東京ゴッドファーザーズ』の奇跡。

 生まれたばかりの幼子ほど、保護を求めている存在はない。また、ときに、幼子は、奇跡を呼ぶ天使になぞらえられることがある。  『東京ゴッドファーザーズ』(土屋理敬・上演台本 藤田俊太郎・演出)は、今敏のアニメを原作とする。土屋の台本は、基本的にアニメの台詞に忠実で、原作の持つファンタジーを損なわない方針でまとめられている。  アニメにはアニメの特質があり、演劇には演劇の法則がある。  たとえば、アニメは視点の設定とその転換が自由であり、クローズアップも俯瞰も自在に出来る。そ

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【劇評221】菊五郎の勘平、華やかな色気から沈潜する死への意識へ。

 『仮名手本忠臣蔵』を観る、しかも、六段目を観る、そして勘平を観る。これは、歌舞伎の智慧の集積を観るに等しいと思う。  円熟の極みにある菊五郎が、六段目「勘平腹切りの場」を出した。  今回の配役は、菊五郎劇団を中心に、又五郎、東蔵、魁春が加わった一座で、現在のぞむべき最上の布陣だと言えるだろう。  菊五郎が早野勘平を勤めるのは、平成二十八年国立劇場以来だから、五年が経過している。  年月は日々私たちに変化を強いているが、菊五郎の巧みな芝居運びと台詞回しのよさは、五代目、六

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【劇評220】菊之助の『春興鏡獅子』は、十年後、伝説の舞台となるだろう。

 記憶に残る伝説の舞台が生まれるには、なんらかの必然が働いている。  五月大歌舞伎は、三日に初日を開ける予定だったが、緊急事態宣言下にあったために、開幕が遅れた。宣言そのものは延長になったが、僥倖に恵まれ、また、関係者の懸命な努力があって、条件付きではあるものの、十二日から、公演が行われると決定した。  例年五月の大歌舞伎は、團菊祭が行われてきた。  今回は、その看板を掲げてはいないが、第三部の『春興鏡獅子』が出た。音羽屋菊五郎家にとって、もっとも大切は舞踊のひとつである

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松岡和子によるシェイクスピア全訳が完結した。

 松岡和子によるシェイクスピアの全訳が完結した。五月十二日に上梓される三十三巻目は「終わりよければ、すべてよし」である。  松岡が初めて手がけたシェイクスピア訳は、一九九三年の『間違いの喜劇』だから、費やした年月は、二八年に及んだことになる。 その多くは、故・蜷川幸雄によって、上演されている。  特に、九八年からは、彩の国さいたま芸術劇場で、全三十七作品を上演するプロジェクト「彩の国シェイクスピア・シリーズ」が立ち上がり、そのほぼすべての舞台が、松岡訳によっている。  松

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