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【劇評223】自尊心は、人間の目を曇らせる。吉田鋼太郎演出『終わりよければすべてよし』の痛烈な諷刺。

 一九九八年から二○二一年まで。

 長野冬季五輪が行われた年から、長い時間が過ぎて、彩の国さいたま芸術劇場のシェイクスピア・シリーズが完結した。パンフレットの巻末に収められた軌跡を眺めるだけでも、思い出深い舞台が蘇ってくる。

 三十七作品目にあたるのが『終わりよければすべてよし』(松岡和子訳 吉田鋼太郎演出)。緊急事態宣言下、関係者の努力によって上演にたどりついた。
 この規模の劇場が満員になるのを見るのは久し振りで、周囲を見渡すだけでも感慨がこみあげてくる。

 上演機会の少ない『終わりよければすべてよし』だけれども、身勝手な男たちが、女たちのネットワークによって、とっちめられる劇として演出されている。

 この劇の核は、若き伯爵バートラム(藤原竜也)が、彼との結婚を強く望むヘレン(石原ひとみ)を鋭く拒絶するところにある。
 ヘレンは、バートラムの母、ルション伯爵夫人(宮本裕子)の援護を受け、名医師だった父の処方で、瀕死の病に倒れていたフランス王(吉田鋼太郎)を治し、その褒美にバートラムとの結婚を願い出る。
 

フランス王がいかに権力をふりかざしても、バートラムは意志を曲げない。強いられた結婚を屈辱と感じ、フィレンツェへと旅立ってしまう。

 特に前半で感じられるのは、登場人物のだれもが、プライドの虜になっているところだ。
 自尊心を守りたいがために、今、現実に目の前にいる相手の真価を見きわめることができない。この人類の悪癖に、徹底してこだわっているがゆえに、『終わりよければすべてよし』は、私たちを打ちのめす。

 吉田鋼太郎演出は、俳優の個性を生かし、自在に舞台を動き回らせる。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。