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長谷部浩のノート お芝居と劇評とその周辺

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2020年8月の記事一覧

吉右衛門による現代能を観た。

 9月1日まで配信されている『須磨の浦 』は、単に義太夫狂言の『一谷嫩軍記』を一人芝居に建て直したのではない。  「堀川御所」と「組討」を、熊谷直実に焦点を合わせて再構成しているが、あたかも夢幻能のように、熊谷直実の亡霊がシテとなって能舞台に現れているかのように思われた。  現代能に見える理由はいくつかある。  まず、歌舞伎舞台ではなく、観世能楽堂を収録場所に選んだこと。  第二に、竹本の葵太夫と鳴物の傳左衞門を配して、熊谷直実の相手役としたこと。  第三に馬を歌舞伎

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明けない夜はない。藤田俊太郎 『Violet』の上演。

2020年に大きな仕事が続いていた藤田俊太郎が、むずかしい状況にいる。 演出家として世間に評価を問う仕事が続いていた。ロンドンでの初演が先行し、間に、一年おいて上演が決まっていた『Violet』は、そのなかでも注目された。東京芸術劇場での公演中止が決まったとき、不運の星を感じた。ただ、明けない夜はない。いずれチャンスが訪れてくると信じていた。 11日に、梅田芸術劇場からメールが届いた。

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「廓の掟に縛られながらも、懸命に生きていく薄幸な女をいつかは演じてみたいと思っていました」菊之助の『籠釣瓶花街酔醒』。初演当時のインタビューを再録します。

五代目菊之助は、2012年の12月、新橋演舞場で『籠釣瓶花街酔醒』の八ッ橋を初役で演じている。八ッ橋をひと目見たとたんに魅入られる自動左衛門は、父菊五郎だった。 この初演のときに、菊之助を私がインタビューしたメモが見つかったので、ここに再録しておきます。 ○今回、籠釣瓶花街酔醒の八ッ橋役を勤めることになった経緯を教えて下さい。  10月の名古屋御園座で『伊勢音頭恋寝刃』のお紺を初役で勤めさせていただきました。12月の『籠釣瓶花街酔醒』の八ッ橋は、歌舞伎の縁切り物のなかで

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巨象のような体躯を持った歌舞伎は、どこへ行くのか。

 演劇は舞台と観客が同じ空間と時間をともにするのが基本だと思ってきました。  その考えは、今も変わっていませんが、NTライブのすぐれた作品は、演劇ではないけれども作品としての価値が高いので、ときおり映画館へ足を運びます。千穐楽に行ったりすると、演劇関係者が半数などという日もあって、みんなよい舞台を観たいのだなとかねがね思っていました。  コロナウィルスの脅威が始まってからは、急に歌舞伎界がこの配信に参入してきました。  もっとも積極的なのは松本幸四郎で、進取の精神にとんだ家

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【劇評170】 純粋な言葉が細い鋼のように。野田秀樹作・演出『赤鬼』Dチームを観て。

 まっすぐに言葉を伝える。  簡単に思えるが、実はそうではない。 人 間は、正直に、じぶんの思いを言葉にのせるとは限らない。内心を隠すために、言葉が費やされることもある。  Dチームによって上演された『赤鬼』(野田秀樹作・演出 東京芸術劇場シアターイースト)を観て、そんなことを考えた。それほど、今回の上演は、戯曲の言葉を交じりけなしに伝える。愚直なまでに演劇の根本を大切にしていたからである。  私自身、これまでも、さまざまな論点からこの劇について語ってきた。野田秀樹の特質

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50 長岡のモダン茶屋の五月かな。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第五十回、最終回)

 昭和三十八年五月六日、その日の東京は、若葉に小雨が降っていた。 中村汀女主宰の俳誌『風花』十五周年大会に出席した久保田万太郎は、慶應義塾病院に俳句の弟子、稲垣きくのを見舞い、家に戻り入れ歯をはめて、画家、梅原龍三郎邸で行われた「明哲会」に顔を出した。到着は四時五分だった。  銀座の名店、なか田が鮨の出店をだしていた。  つがれたビールを飲み干して「じゃ赤貝でももらいましょう」と注文する。弟子達の証言によると、万太郎は食べにくい赤貝を注文することはなかったのたという。  

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49 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十九回)

暗転

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立石涼子さんの思い出。

 暑さを押して、ベランダで鉢の世話をしていた。薔薇が四鉢に、寄せ植えがいくつか、オリーブの木もこの春、買い足した。    夏場の園芸はむずかしい。暑さにくたびれた薔薇の花がらをどうしようかと考えていると、急に立石涼子さんの顔が浮かんできた。  立石さんと面識ができたのは、演劇集団円がつかこうへいを招聘して上演した『今日子』のあたりだったろうか。一九八九年のことである。 『今日子』の劇評で私は以下のように書いている。 「たとえばひとりの女優(立石涼子)を彼(塩見三省 筆者註

48 晩年のやすらぎ。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十八回)

色男

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花の官邸の御栄燿に引き比べて

 わたくし風情が今更めいて天下の御政道をかれこれ申す筋ではございません。それは心得ておりますが、何としてもこの近年の御公儀のなされ方は、私どもの目にあまることのみでございました。天狗星が流れます年の春にはご宰相のお花ご覧、また、森かけの親友へのご寵愛、官邸の御供衆は、沈香を削って同じく黄金の鍔口をかけたものと申します。  その一方に民の艱難は申すまでもございません。例の騒動の年には、大嘗会もありましたが、役がかかります。徳政とやら申すいまわしき沙汰も義政公治世に幾度となく行

急に、彼が吉良上野介になったような気がしていた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十七回)

名声  昭和二十二年、慶應義塾評議員に就任して以来、万太郎には、数々の肩書きが加わっていった。  讀賣新聞社演劇文化賞選定委員、日本芸術院会員、芸術祭執行委員。昭和二十四年、毎日新聞社演劇賞選定委員、日本放送協会理事、郵政省、郵政審議会専門委員、文化勲章・文化功労者選考委員。  昭和二十六年、日本演劇協会会長、国際演劇会議代表。  昭和二十七年日本文藝家協会名誉委員。  昭和二十八年、俳優座劇場株式会社会長。  昭和三十一年、国立劇場設立準備協議会副会長、法務省、中央更正

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道楽に毎日を暮らす"風流人"にはなれなかった。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十六回)

市井人  後期の小説のなかで、もっともちからの入った作品は、『市井人』(「改造」昭和二十四年七月ー九月)だろう。  万太郎、六十歳。大家による久々の長編である。関東大震災前の東京、大学生藤岡の目を通して、俳人の世界を描く。  吉原遊郭、八重垣の息子として生まれた「わたくし」は、水菓子屋の若主人の萍人(ひょうじん)の誘いによって、俳人蓬里(ゆうり)に弟子入りする。紅楼の巷にあっては学業に差し支えると、親によって麻布の寺に下宿するよう吉原からは遠ざけられはいるが、「わたくし」

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再婚相手は、ブレーキの壊れた自転車。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十五回)

鎌倉  昭和二十一年十二月、五十七歳の久保田万太郎は、三宅正太郎夫妻の媒酌により、三田きみと結婚している。前妻、京の死から十一年を隔てての再婚である。  当時、文部省文化課長だった作家の今日出海は、万太郎に、実はきみと結婚の約束をしたのだと突然知らされ、顔を曇らせた。  旅館を経営していた三田の三姉妹をつい二、三週間前紹介したのは、今だったからである。  それには理由がある。人がよいといえば止めどなくよいのだが、次女の久子が嘆くほど、きみは「ブレーキの壊れた自転車」だっ

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七人の作家が執筆禁止になる。公職追放は、日本文学報国会に及んだ。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十四回)

時代を少しすすめて、終戦後の話に飛ぶ。 公職追放  第二次世界大戦が終わると、演劇界もまた戦後の主導権争いで騒然となった。これまで弾圧されてきたプロレタリア演劇の側から、戦争中に当局に協力した者の責任追及を求める声がおこったのは当然のなりゆきであった。  戦犯(戦争犯罪人)、パージ(公職追放)ということばが流行語となり、だれがその対象となるか噂がとびかう。  公職追放の対象者には、「大政翼賛会などの幹部」の項目があった。日本文学報国会とかかわり、しかも国策によって統合

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