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偏愛は、対話によって発見され強化される

偏愛の時代が来そうです。

情報もプロダクトもコモディティ化しやすい中では、ストーリーやビジョンへの「偏愛」で語れる人やメディアが目立っていくのは自然なのかもしれません。

知識量で語るよりも「誰になんと言われようが、私はこれが好きだ!!!!!」と切り口の方が、思い切った訴求ができるし、仲間作りやバイラルを生みやすい。

知識量の深さを比べることはできても、好きの深さを比べることはできません。

一方で「偏愛の見つけ方」というのは、人によっては案外難しい気がします。自然体で発見できる人もいます。熱量を持ち、それを表現するのを厭わない、いわゆるオタク気質を持った人たち。

ただ、私のように、人前でオタク知識を語ることに抵抗があった人間にとっては、偏愛を語るのは難易度が高いし、そもそも何が偏愛かもわかりませんでした。

偏愛を見つけ、仲間づくりをするには「SNS」は格好のツール

基準から外れていても突き通す愛、その異常な熱量は、摩擦(ギャップ)から生まれると考えられます。

ギャップは、他者(社会)とのギャップもあれば、自身の周囲に与えているイメージとのギャップもあります。

「一般の人とずれている異常な熱量」「自分をよく知る人から見たときの意外な一面」の2つが偏愛と言えそうです。

「ずれや意外性」はアウトプットしないと分かりません。

自身があること・詳しいことが偏愛ではなく、ある意味では「自分が気がついていない偏愛」も多くありそうです。

私も最初、自分の偏愛が「温泉」だと思っていました。プロフィールや投稿で「温泉」や「サウナ」について触れていた時期がありました。

しかし語っていく中で、自分より偏った愛を持った人を見たときに「惹かれる」ではなく「そこまでは行けない」という感情が生まれました。

Twitter上やInstagram上で、自分の偏愛を語るのは、ピントを合わせていく作業に近いかもしれません。自身の感情が揺れるものを抽出していくことで、解像度が上がっていきます。

いま私のタイムライン上で語る偏愛は、猫そして書店です。

猫は「普段のタイムラインとのギャップ」による偏愛を意識しています。会話が猫一辺倒になると、それは偏愛ではなく「ただの猫好き」と見られかねないので。

普段は、真面目な話が多いアカウンティングが、唐突にハイテンションな投稿やリアクションする話題、それは偏愛の強化につながっていくと感じています(猫は飼っていないし、詳しいわけではない)。

ギャップと言う意味において、偏愛の対象が2つ多くても3つぐらいに絞ってほうがいいと思います。量が多いほど分散し、話題への摩擦が薄まってしまうからです。

熱量の近い仲間を作ることで、偏愛が強化される

そうしていく中で、偏愛作りのもう1つのポイントが「仲間を作ること」だと気がつき始めました。

誰も惹きつけない・興味を沸かせない偏愛は「持続性」に欠けます。原体験がそれを補うこともありますが、それは再現しにくい要素です。

異常な熱量を発揮しつつも、熱量の近い仲間を作っていくこと。それが偏愛の作り方のもう一つのポイントと言えそうです。

偏愛で人生を楽しく

偏愛は、偏ってこそ。たとえ知識の量が劣っていたとしても、愛情の量を他人が比較することはできません。競争からも悪口からも抜け出して、偏愛を語るのは、めちゃくちゃに楽しいです。

偏愛を語るのは、たぶん自己肯定感につながり、脳に良い(ソースなし)し、専門性のきっかけになります。猫に以上に熱量があるライターなら、猫について記事が入ってくるようになるかもしれません。

最近、殺伐とした気分や殻を破りたいなら、偏愛を語ってみるのもアリかもしれません。

↓次回予告(予告なく変わる場合もあります)

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