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経営論

概略

 以下で述べる経営論は、社会をと定義する社会学(Framelogy)に基づき、此れを敷衍する先で必然的に生じる「枠に対する主体と客体」的観点から、特に主体性を指して“経営”と見定め、議論するものである。

 又、当該主体性に生じる合理性に関する各要素を概念的に明確化し、実践可能な行為類型として整理する事を念頭に、共通命題に於ける再現性の担保を求め考察していく。

枠に対する主体性

 そこで先ず、“経営”を論じるに当たり、どのような状態を“経営”的であるとするのかを確認する必要がある。即ち、「枠に対する主体性」とは何か、という問いである。其の前提として、主客を別つ理由が何であれ、主体と呼ぶ際の当事者は、知的生命体としての人間であり、主に此れ迄の社会学(Sosiology)が範疇としてきた行為論の(*行動を対照概念とする)行為主体と一致する。従って、此処で明らかにしようとする経営的命題は、行為論的命題とも換言でき、以下に於いて、此の事を更に明確化する予定である。

 其れは、人間の合理性獲得の過程、又は合理性の先にある目的に対し、更なる概念的整理の必要性を自覚し、其処に各種各様の要素的相違を想定する。此処で一応の説明として簡単な要約を示しておく。

経営とは「行為対象である枠組みに対し、行為主体が獲得する合理性」である。

 又、行為主体を経営者として想定するという事は、所謂、会社経営者(代表取締役)等の組織代表者だけを指すのではなく、「目的合理的な状態の人間皆」を指すのであり、想定する者の範囲は極めて博い。少なくとも、人間性の赴く先に、何かしらの目的意識が生じる場合、此れを“経営的”であると捉えるのである。従って、此処で“経営者”とする相手は、読者自身であるのかも知れないし、又、そうである場合でこそ、本論考に価値が生じるのであり、此れを期待して議論を進め、此処に公開する。

行為主体=経営者 *行為に関する認識と身体性の内容や程度は都度考察を必要とする。行為論的視点に立脚する以上、当該議論も又、方法論的個人主義となる。

経営≒政治

 複数の似通った概念が想起される際、定義を分ける等して特に断らない限り、即ち、未だ議論が浅く、概念の説明が抽象的である段階に於いては、各概念は同義と見做す。本論では、“経営”と云う概念に照準するのであるが、類似概念として先ず挙げられるのは、“政治”である。両概念は指し当たり同義と見做す。事実、“経営”と“政治”は本質的に同義である。特定の時点、地点、当事者、行為対象、目的、手段等が定められた場面以外では、両概念を分ける必要はない。殊に、国家権力等に於ける統治機構の内の立法府と、企業活動等の主体である民間との両者の関係性等を想定すべき場面以外では、両概念は基本的に共通、一致する概念である。拠って、個別の事例を取り上げる以外の場面では、同一と解して差し支えない。

経営≠商売

 一般的、慣習的に(特に資本主義経済が世俗化した環境下では)、“経営”と云う語は、“商売(*此処では商業、商い、業等の類似概念を含むものとする)”と云う語と同義的に用いられる事が頻繁にある。然し、此の議論に於いて、両概念は早い段階で区別しておく必要がある。何故なら、商売は、其れが仮令、或る株式会社の法人登記簿に記録される類の“理念”や“事業目的”、又は、“商人道”的倫理規範等に拠り見聞される類の、多様な意義を含んでいたとしても、其の行為は必然的に経済活動を伴う(経済的利益を主目的としている)のに対し、“経営”は必ずしも経済活動を伴わない(経済的利益を主目的としているとは限らない)からである。

 詰まり、両概念の関係上、経営の方がより抽象/普遍/一般的であり、商売の方がより具体/個別/特殊な命題である。

経営は商売を含む、即ち、商売は経営に含まれる(商売⊂経営…商売は経営に対する部分集合)

 又、両概念の対照的側面を此処に加筆しておけば、経営的行為の方向性は“総合的能力者(ゼネラリスト)思考”を伴い、商売的行為は“専門的能力者(スペシャリスト)思考”を伴う。

結果判断

 此れに付随して顕出されるのは、商売上の結果(主に利益の増減)の全てを、経営上の結果判断として其の儘適用する事は出来ない、と云う事である。従って、(単純な分類ではあるが)結果判断は以下の四類型となる。

・商売的成功−経営的成功

・商売的失敗−経営的成功

・商売的成功−経営的失敗

・商売的失敗−経営的失敗

 無論、何を以って成功、又は失敗とするかは定かでは無い。当事者毎に、場面毎に異なるからである。又、両概念の対比を経て、どちらが高尚、又は低俗であるかを問うているのではない。少なくとも此処では、“経営”の方を上位概念として扱うのであり、此れは、経済的情勢を経営的情勢と同一視しない、と云う事である。何故なら、経済的情勢の判断は、或る経営主体の質量だけで判断し得る程、単純ではなく、因果関係も明確ではない故に、出来る限り相対化して取り扱う必要があるからである。

法則性

 より確実な事は、仮に何某かの“商売法則”が存在したとしても、其れは一過性の現象であり、限定的場面で垣間見られる偶発的同一性、即ち、一時的夢想であると断じておく。其れは唯、時空間を異にしても同一性が認められるとする一種の信念であり、独断的成功体験への依存である。実際、永遠不滅の経済法則なんぞ、存在しない。

 此処で仰々しくも、“学”やら“論”と云う語を用い表題に掲げ、何かを論じるに於いて、其の種の夢想と同一視されては、後段への推進力を失う。今一度、経済的情勢(商売的因果関係)と経営的情勢(経営的因果関係)の本質的相違を確かめられたい。そして、本論で最終的に明らかにしようとしているのが経営的命題である旨、そして、個別事象に先んじて、より抽象/普遍/一般的要素を抽出する事が、此処で明らかにしようと試みている主課題である旨を強調しておく。

 又、係る議論中、万一、何某かの商売法則を“発見”した場合には、斯くして公開し、互いに共有される必要性は無い旨、合わせて宣言しておく。元より、其の様な事への関心が他より増して高い者が、態々、理屈に理屈を拱いて執拗に諸概念の異同を舐め回す類の本論の様な芸当は出来はしないし、又、関心すら無い事は記す迄も無い。其の差は、以下に続く概念的整理の徹底度合いに拠って更に確かめられよう。

抽象→具体

 敢えて記しておくべきは、行き当たりばったりで触れてきた過去の事例から、成功者面して嘯く似非伝道師の経験則をアテにしてはならない、と云う事である。一方、地味で一度理解してしまえば当たり前の事に思える当然事実を着実に積み重ねていく朴訥さに拠って、未来は開かれて行くのである。

 取り分け、抽象から具体に向かって認識を広げる事、敷衍して、演繹的思考に基づき実行に移す事が、より確実な目的達成を齎す。何故なら、帰納法では「前提が真であっても結論が真であるとは限らない」のに対し、演繹法では、「前提が真であれば結論も真である」からである。以下に連ねる議論も、単に此の事を証明しようとしているだけなのかも知れない。少なくとも、議論が議論である以上、帰納的であるより、演繹的である方が、より多くの個別事象の道標となる事に敵うのである。

より確かな前提

 では、“当然の事実”とは何か。換言すれば、「より確かな前提」である。ところで、演繹法に拠れば、 (抽象的)前提が真であれば、(具体的)結論も真であるから、「より確かな抽象的前提」を求めるのが筋である。従って、此処で明らかにすべきは、既に起こった個別案件や其れらに関わる当事者的記憶等の経験的事実ではなく、人間行為を経営足らしめる合理性の最大公約数的要素である。 

 其の解として、経営を構成する主な要素は、畢竟、次の“四”要素に集約される。即ち、財務/戦略/人事/組織である此れを“経営の四大要素”と名付ける。

to be continued,,,,(以降の議論は、各要素の定義や関係性が主となる。)

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