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ミュージカル「コーラスライン」から見る1970年代以降のアメリカの労働の変化その②

先日の続き。

第2章と第3章です。こちらの章はミュージカルの「ミュ」の字も出てこないので、冒頭に各章のおおまかな要約を載せます。こちらの要約を読んで結論に進んでいただければ気軽に読むことができると思います。本章も詳しく読みたいという方は、要約の下から本章が始まりますので、そちらをお読みください。(こちらの章では、参考文献は最後にまとめてあります。)

第2章 1950~1960年代までの労働状況 の要約
1950~1960年代は安定した繁栄の時代だとされていたが、高校卒業の資格がなく、能力の乏しい非熟練の労働者は昇進の機会がほとんどなかったり、オートメーション(自動化)によって、それ以前までに活躍していた熟練労働者は仕事を失ったりと、真逆の労働状況及び変化が起こっていた。この変化が70年代に入り、アメリカの産業全体に広がっていき、70年代以降に起きた変化を起こしたと考える。
第3章 1970年代半ばからの労働状況の変化 の要約
1970年代半ばはヴェトナム戦争の泥沼化、オイルショック、グローバリゼーションの隆盛などが起こり、市場構造や労働力構造といったそもそもの基盤の変化をもたらし、またそれが70年代以降の労働状況、雇用関係を激変させた。市場構造の変化では以前まで独占的地位にいた鉄鋼、自動車産業の衰退、労働組合の弱体化、情報ネットワーク化とサービス産業の隆盛などが起き、労働力構造の変化では、教育レベルの差異や年齢により仕事が決まるようになったり、女性の労働率、ラティーノ移民労働者の増加が起きた。そのような変化と共に、教育水準の高い、技能の高い労働者は労働市場の需要と供給のメカニズムの恩恵を受けて、会社から会社に自由により仕事を求めて渡り歩くことができ、一方で、教育水準が低く、技能も低い未熟練の労働者は、労働市場の需要と供給のメカニズムの恩恵を受けられず、低賃金の職、または職に就けるかどうかもままならないという労働の二極化が生じ、「開放的な雇用関係」という不安定な雇用関係が生まれた。
このような一連の変化の中には、第一章で述べた「コーラスライン」の登場人物が抱えていた昇進のない失業と隣り合わせの仕事に対する不安、歳をとる度に仕事が減ることや、エスニシティによる不安定な雇用、家族関係の不和、仕事に影響される人間関係というような状況と重なる部分があった。

第2章
1950~1960年代までの労働状況

第1節 安定した経済を築いた1950~1960年代


 アメリカ経済は1949年頃から一貫して20年ほどの経済成長を経験し、まさにパクス・アメリカーナを実現していた。45年から60年までの15年間で国民総生産は2倍半増え、失業率は再転換期を除けば5パーセント以下におさまった。その他の数値からもこの時期はアメリカ史上例外的な繁栄期だったことがうかがえ、出生率の上昇や医学の進歩によって、戦後の15年間に人口は1億4000万人から1億8000万人に急増、また人口は都市部に一段と集中し、なかでも大都市郊外の住宅都市は爆発的に拡大した。
 産業では、サービス経済化が進行し、専門職やホワイトカラー職が急増する一方、ブルーカラー労働者が減少した。また、鉄鋼、自動車産業などの製造業における企業の巨大化、寡占化が進み、ジェット機やコンピューターなどの技術の進展も著しく、地域ではテキサスとカリフォルニアが急速に経済力を拡大した。こうした成長の要因には政府の財政支出があり、これは国民総生産の15パーセント程度を占めた国防費を中心に高い水準で維持された。そして、学校建設などの教育支援、福祉の対象の拡充、州際高速道路網建設、さらに除隊後の兵士に対する手厚い補償などが、経済に刺激を与え続け、また、政府が多くの国に与えた対外援助、軍事援助が諸外国に購買力を持たせ、アメリカからの輸出が増えて景気を支えたことも要因の一つであった。さらに重要であったのは、再転換期に大きな役割を果たした個人の消費がその後も長く続いたことであり、そのなかで特に注目すべきなのは住宅建設だった。郊外の発展は自動車ブームを起こし、自動車産業の好況はさらに大きな波及効果を生んだ。この好景気で、個人の可処分所得は1950年と60年を比べると、総額で2070億ドルから3500億ドルに増え、また労働者の平均実質賃金は戦後の十数年でそれ以前のおよそ半世紀分にもあたる伸びを示した。
 また、雑誌などの各種マスメディアが戦後早くからモノに囲まれた生活を人々に広め、増えた所得のほとんどが消費にまわって景気をさらに加速させると共に、人々の生活を急速に変えた。持ち家率は45年の40パーセントから60年の60パーセントへと飛躍し、住宅には電化製品を中心とした新しい機器が備えられ、そういったモノを所有していることが豊かさを何より実感させるものだった。また住宅を中心にして構成された豊かさは、家庭で夫と子どもに尽くす女性というようなある特定の女性像を理想化させ、白人中産階級向け女性誌などでは「職業・主婦」と題する専業主婦礼賛の記事が掲載された。ポール・オスターマン(Paul Osterman)らによる「ワーキング・イン・アメリカ-新しい労働市場と次世代型組合-」では、1950年~60年代の安定した経済の基盤には5つの前提があるとして次のように述べている。

「旧いシステム(最近の経済と社会の変化によって崩壊している)の基盤をなしているのは5つの前提である。
最初の前提は、アメリカの経済は他の国々と比べて自給自足型で、国際競争の影響を受けず、競争を勝ち抜く能力にハンデをつけなくとも、一産業あるいは経済全体で標準化された賃金と労働条件を維持できるというものでる。実際、旧いシステムは、大恐慌から回復できないのは、そのような標準的な労働条件の欠如のせいであるという考え方を背景に生み出されたものであった。
第2の前提は、戦後の制度構造は暗黙裏に経済と家計の明確な区別の上に構築されている、とするものである。家計は、労働市場では主としてその所得と給付によって家族を扶養する男性の賃金労働者(あるいは"稼ぎ手")が代表していた。他の家族構成員(女性や若年者)も一定期間働いていたかもしれないが、彼らの家計との主なかかわりは(家事担当あるいは学生といった)別の役目にあると考えられていた。彼らの仕事は家計との関係では補助的なものであったし、その所得は家計を支えるという点では主たるものではなかった。
第3の前提は、家計を支えている者の雇用はフルタイムで、長期で、そして比較的安定していると見なされていた。仕事が就労働時間のほぼすべてを占めていたという意味ではフルタイムであり、大部分の人々がその職業人生のすべてでないにしてもほとんどを同じ企業で過ごしていたという意味では長期であった。頻繁な転職は、自分の適所を捜している若年労働者に固有のものと思われており、しばらくすると"終身"雇用の職に落ち着き、そこでキャリアを開発するものと期待されていた。雇用は比較的安定していると考えられていたため、短期のレイオフ(通常ブルーカラーだけを対象とした)を必要とする景気循環の周期的な下降局面を例外として、雇用は予測可能なもので、ほぼ保障されていた。第2番目の前提とリンクしていたのは、人々がどこで働いていたかという点から容易に引き出せる結論であった。(例えば、建設業や娯楽産業の一部といった)特別な場合を除いて、これまでの前提は典型的な職場として大企業(多くは製造大企業)を想定していた。実際、労働者は大企業から小企業にまで分布していたが、大企業がテクノロジーや仕事の慣行で先行していると考えられた。それで、テクノロジーや仕事の慣行に関して大企業が行ったことは進歩的なものと見なされ、規模の小さな企業には適しているとは思えなかったが、そこでも模倣する価値があると見なされていたのである。
長期かつ同一組織での雇用の継続性が4番目の前提である。企業は、十分に認知された境界線、明確に定義された社内の役割、そして外部環境との予測可能な関係をもつ安定した独立の組織であった。企業内では、従業員は2つの階層に区分できると想定されていた。すなわち、経営者や管理職("エグゼンプト"の従業員)と非管理職("ノンエグゼンプト"の従業員)である。こういった区分のもとでは、法的な権利、義務、地位、そして会社あるいは自分の業務グループもしくは組合への忠誠心や献身として想定されるものが違っていた。
最後の前提は、社会が雇用関係で期待するようになった、交換あるいは暗黙の社会契約と関係していた。私たちは、"社会契約"という言葉をここでは単に労働者、使用者、社会全体が仕事と雇用関係に対してもつ期待と責任を捉えるためだけに使う。ニューディール期と戦後期に発展した社会契約は、一般に生産性の向上や繁栄とともに賃金と所得が増えるであろうという期待を含んでいた。それで、企業とその従業員の命運は密接に結びついていた。勤勉、最良の業績、忠誠心は、雇用保障、公平な処遇、"十分な"給付で報いられると考えられてきた。1つの企業での勤勉年数の増加は、通常従業員に彼らの仕事に関する一種の"財産権"-雇用保障と所得保障を享受し、その将来を設計し、そして退職に向けて準備することを認められる従業員の権利-を提供した。」
著ポール・オスターマン トマス・A・コーキャン リチャード・M・ロック マイケル・J・ピオリ 訳伊藤健市 中川誠士 堀龍二『ワーキング・イン・アメリカ-新しい労働市場と次世代型組合-』ミネルヴァ書房

第2節 50~60年代に垣間見えた70年代の変化の前兆

 比較的安定した経済状況であった50~60年代であったが、一方で不安定な労働状況にあった労働者もいた。50年代までには正規の常勤の仕事が標準的になったが、労働コストを抑制し、正社員の仕事を守る緩衝材として末梢の労働力に頼っていたので、末端の労働者の仕事はさらに悪化し、60年代にはオートメーションによる労働の喪失やレジャー社会の問題が懸念されたからである。ここでは、オートタウンという都市の自動車工場労働者の労働状況調査と、ブルックリンの海軍造船工場の閉鎖についてを例にあげて見てみる。

・第1項 オートタウンの労働者の調査

 この調査は、アメリカ中西部の中規模の都市の自動車労働者集団のチャンスは何かの調査結果をまとめたものである。調査は、アメリカ中西部の中規模のオートタウンと呼ばれる市で、1946年8月から1947年7月までと1948年の夏、1951年の短期間の14ヶ月行われた。詳細なデータとして三大自動車会社の一社の工場で働く62人の自動車労働者との78のインタビューをし、対象者は特定の制度が希望や野心に影響を及ぼすかをある程度詳細に評価するためにある町やその近くに住み、ある工場で働く男性に限定して行われた。(※1)
 インタビューで集められたデータは、工場での数週間の労働、情報提供者からの報告書、何時間ものさりげない会話、工場労働者との非公式な社会参加の場で補完された。この都市が選ばれた理由は2つあり、1つは、自動車業界の発展の縮図となる都市であること、2つ目に、規模、立地場所、人口構成が他の都市に比べて複雑でなく、チャンスと希望の問題を調査するのに適していたからである。オートタウンは自動車製造の都市であり、調査開始直前の1946年5月、労働者の53パーセントが自動車業界で働いていた。オートタウンが現在の規模に成長したのは自動車業界の発展の結果であり、1902年に自動車工場ができるに伴い、多くの労働者が高賃金と裕福になる機会を求めて新産業に集まった。他の自動車都市に比べてオートタウンは労働者にとって安定しており、有望であり、それを支える大きな大学や政府の事務所があった。こうした大学や政府が労働者階級の人口にどのような影響を及ぼすかは定かではないが、住んだり働いたりするのに良い場所であり、労働者やその子どもの希望もふくらませるものであった。また、オートタウンは1940年で人口の93パーセントが地元生まれの白人であり、人種や民族の違いによる希望の違いは排除できた。
 インタビューは仕事後に行われ、インタビューした労働者の年齢や、勤続年数は20~29歳の労働者13名、30~39歳の労働者は23名、40~49歳の労働者は13名、50歳以上は13名で、そのうち35名は1940年からまたはそれ以前から、15名は1941年~1945年8月の終戦後までに、12名は1945年8月以降から働いている。熟練労働者か非熟練労働者かの仕事の分類は、熟練労働者が15名、非熟練労働者が47名である。労働組合に入っているかどうかで希望に違いがでるかもしれないので、インタビューする62人のうち11人は労働組合に加盟していない男性を含めた。インタビュー対象は地元生まれの白人に限った。(※2)

 自動車工場の労働者の野心と希望は、生産の機械化の進行と経営と労働の分離が顕著になったことで変わってきた。ほとんど手作業の労働者のチャンスの幅は狭まり、専門家や経営者へのニーズが高まる一方で、代替のきく労働者のへのニーズは低くなった。ABC工場(※3)と呼ばれる工場でこうした状況を見てみると、労働者の賃金は低いところで時給1.41~1.50ドルに集中していた。工場の約6000人の労働者のうち、350人が監督する立場にあり、技能がない労働者は昇進の機会も限られた。40歳をすぎると主任になるチャンスは激減したが、チャンスは限られており障害も多いにも関わらず、工場労働者にとっては主任が唯一の昇進の道であった。また、正式なものではないが、高校卒業が昇進の重要な要件となってきた。工場では、非熟練の仕事が多く、賃金の変動幅が狭く、賃金上昇に年齢制限があり、熟練労働者や経営者への昇進の機会も少なく不確実なので、伝統的に見られた高い野心を持つ粘り強い人はほとんどいない。
 昇進基準があいまいであることも希望が薄くなっている原因である。三分の一は能力で決まり、三分の二は引きやコネで決まっていた。唯一の昇進の道であるにもかかわらず、ほとんどの工場労働者にとっては、主任になる保証はほとんどなく、高給のホワイトカラーの仕事には手が届かないので、労働者の賃金水準で願望を抑えなければならないのであった。熟練労働者であるかないかで大きな違いがあり、一般に工場労働者は熟練者になるだけの技能を身に付ける機会がない。それは、工場労働者は熟練労働者が行うような仕事に関心がないからであった。非熟練労働者は、正式な昇進や賃金よりも、非公式的な仕事の内容や所属部署で仕事を選ぶ傾向にあった。安定的な仕事を求める傾向があり、短期的な仕事や一時解雇があるような仕事は時給が多少高くても好まない。労働者の異動や工場の拡張は新たな仕事の機会を与えるものであるが、そういった機会はなくなっていたのであった。
 一方で、工場をやめて別の仕事をすることに対する関心は高く、インタビューした62人のうち、48人が会社をやめることを考えたと答えており、小さな会社をつくりたいという伝統的な希望を持つ人が多かった。48人のうち、31人は自分で事業をすることを目標にしており、6人は農業を希望にしていた。これらは外で働きたいという目標よりも工場の仕事に対する不満足によるもので、工場の仕事のむなしさから逃れたいのが理由で、裕福になるチャンスを求めているわけではなかった。工場の労働では、昇進の機会がなく、安定的な立場にないので、歳とともに熱意が失われていく。非熟練労働者にとっては、ABC工場といった高度に機械化された工場では、生産的な人間として経験を積む機会はほとんどない。起業したり、農業を営むことを考えている労働者は、自己意識が高まることを理由にあげているが、起業や農業には、高度な機械化と多額の資金が必要なので、希望と実際の行動にはギャップがあるため、実際にはなかなか工場労働者から転身することは難しい。産業構造も変わり、小売業やサービス業が労働者に締める割合が全体の三分の二と高くなっているので、工場労働者が以前のように成功することは難しくなっていた。故に、教養もなく訓練も受けていない自動車工場労働者は、野望を持ち有能で魅力的で仕事熱心であっても、大手自動車会社では昇進の機会がほとんどない。(※4)
 伝統的に考えられてきたチャンスの存在(※5)は、労働者の重い負担となっている。各自の経済的運命は自己責任であるので、失敗は能力がないことや希望や決断力や自発性のなさといった性格上の欠陥に帰せられてしまうが、実際には昔に比べてチャンスがないのであった。希望が続くという期待を持ち続けようと労働者は、今の工場での仕事が一時的なものであり、工場以外で働くことを目標や期待として語ることが多いが、それは社会が作り上げ維持しようとしている労働者のイメージであり、実際の労働者は、現状を直視するとずっと工場にとどまり続けるしかないというのが事実である。伝統的な経済的成功の象徴を、現在では労働者は、家を持つこと、車を買うこと家電製品をそろえることといった消費能力の増大といった個人的な進化に置き換えている。職業上の昇進と物欲の両方を求めることをアメリカの文化は奨励してきたが、両方を得られない労働者は前者を得られなかったことを合理化するために後者を用いているのであった。

(※1)調査開始時の1946年のオートタウンの人口は約9万人であった。Ely Chinoy;introduction by Ruth Milkman, Automobile workers and the American dream, University of Illinois Press, 1992、P24 (※)これらの労働者はポーランド、ウクライナ、フランス系カナダ人などの外国生まれの親を持つ子どもたちだった。ある労働者は2歳の時にイタリアから、あるスコットランドの労働者は20歳の時にアメリカに来た。そして若い時に自動車産業で働くためにオートタウンに来た53歳のカナダ人もいた。 

(※2)これらの労働者はポーランド、ウクライナ、フランス系カナダ人などの外国生まれの親を持つ子どもたちだった。ある労働者は2歳の時にイタリアから、あるスコットランドの労働者は20歳の時にアメリカに来た。そして若い時に自動車産業で働くためにオートタウンに来た53歳のカナダ人もいた。

(※3)部品生産、そして組立工場でもある。

(※4)そのため、教育や訓練を必要としないで個人の経済的社会的地位の向上を約束する道は、労働組合であった。

(※5)全ての人々の雇用機会の均等というアメリカンドリームの考え、また意思のある者に成功をもたらすという価値体系の下に考えられてきたチャンスのことを指す。Chinoyの著書では、そのようなアメリカンドリームの成功物語とは裏腹に昇進の困難な工場労働者の労働状況を論じている。

・第2項 ブルックリン海軍造船所の閉鎖

 これは、オートメーションによって産業構造及び熟練工が暮らしてきたコミュニティ環境の変化の特徴の例としてブルックリン海軍造船所(以下、BNYと記す。)の閉鎖の一部始終をあげたものである。
 豊かな海岸線と水資源を持つブルックリンのイースト・リヴァー沿岸は造船所の立地条件に極めて好都合で、北はウィリアムズバーグ・ブリッジ、南はマンハッタン・ブリッジというブルックリンとマンハッタンを結ぶ二本の橋に挟まれたBNYは、マンハッタン南端から極めて近く、海路、陸路とも要衝に位置していた。戦艦ミズーリなど歴史的な戦艦を輩出したBNYは、米海軍最大の造船所であり、ニューヨークのランドマークの1つとして市民の誇りとなっていた。第二次世界大戦中における対日戦の始まりは、BNYに米海軍最大の造船所となる未曾有の状況をもたらした。対日開戦当17000人強であった労働者の数はピーク時の1943年には70000人を超すほどまでに増加した。労働者の勤務は三交代のシフト制がとられ、工場は24時間フル稼働していた。造船労働は高度な熟練技と経験が必要とされ、熟練工は大量の非熟練労働者をまとめて労働を指揮する立場にあった。(※6)熟練工になるためには、まず連邦人事委員会が主催する年に一度の見習い採用試験に合格し、そこから4年にわたる訓練を経験する必要があった。戦後BNYでの雇用数は一万人台まで急減するが、朝鮮戦争の勃発など冷戦の激化もあって艦船の受注は続いており、BNYの労働秩序は安定していた。しかし、民間造船所と比べてより熟練技術に依存するBNYの工法は時間とコストの両面で問題を抱えた。特に原子力エネルギーが登場し大型艦船の動力として導入されるようになってから、BNYは技術・設備の上でも、膨大な人口を抱える大都市に位置する安全面でもこれに対応できず、その存在意義を失い始めていた。BNY内で発行される公式機関紙「シップワーカー」紙上には、状況の変化に気づき始めた労働者の不安な思いが吐露されていた。

「『10年後の造船所をどう予想する?』(1955年12月23日)との質問に6人の回答者全員が『原子力時代の到来』と答え、『今日、良い教育か良い職か、どちらに価値がある?』(1956年2月10日)という質問にも6人全員が『教育』と答えていた。後者の回答理由として彼らは『(引用者注:教育は)選択の機会が豊富になる。機械はもっと訓練が必要な新しいものに変わって、今の機械工の技術は後景に追いやられている』『今いる連中より教育を受けて学位を持つ連中の給料の方が高いし、上がり続けている』などを挙げていた。」
南修平『アメリカを創る男たち』ニューヨーク建設労働者の生活世界と「愛国主義」名古屋大学出版会

オートメーションによって新しい技術が次々に導入される状況に直面していた熟練工は、自分たちがもはや「古い人間」として置き去りにされつつある現実を少なからず感じ取っていた。熟練技術の重要性が薄れていき、BNYにおける労働秩序は大きく変化した。戦争が終わってもオートメーションなどによるスピード・アップやコスト・ダウンを求める風潮はますます高まり、これに対してBNYの熟練技術依存に対する圧力は強まる一方であった。そして熟練技術の重要性が薄れることは、そうした技術を持たない労働者の比率をその分高めることを意味し、労働者の人種構成の変化を促した。1954年のマイノリティ労働者の比率は1パーセントに過ぎなかったが、1964年には17パーセントにまで上昇し、排除されてきたマイノリティが非熟練労働者として働く姿が目立つようになってきていた。さらにBNYを取り巻くコミュニティ環境も大きく変化していた。
 BNYの労働者数が大幅に削減されるのに伴って、周辺に住んでいた労働者はニューヨークの他地区やさらなる郊外へ移り、1964年にBNYの閉鎖が発表された頃には、ブルックリン内に住むBNY労働者は総数の半分以下となっており、BNY周辺地域に引き続き住む労働者は約10パーセントにすぎなかった。一方で、周辺地域の人口は1960~67年の間に11パーセント減少したものの、労働者人口で見ると27パーセントも増加したが、これはBNY関連ではない仕事への新しい労働者の増加を意味し、BNYの活気の低下を示していた。また、住民の構成を見ると、黒人・プエルトリコ系の割合が44パーセントから75パーセントに上昇する一方、白人は56パーセントから24パーセントへと激減していた。閉鎖に至る過程で、BNYで働き続けてきた熟練工たちの不安感があらわになり、当初の予想を超えてBNYの閉鎖が濃厚となっていく中、熟練工は言いようのない無力感と不安、怒りに苛まれた。新聞や雑誌のインタビューでは次のようにその不安と怒りが述べられていた。

「他の多くの連中と同様、俺は第二次大戦以来のヴェテランで、ここで20年以上働いてきた。……重要な船を建造するために政府は俺を世界中へ派遣したけど、そうした経験は俺のすごい自信になった。で、今俺は、お前の仕事は必要ない、働きたけりゃ家族を連れて遠くへ行けって言われてるわけだ。どこか遠くへ行ったとして、こんなことが繰り返されないって言えるかい?俺と家族は今、俺たちの組合が建てた協同住宅エレクチェスターに住んでる。ここが好きだし、どこに行くつもりもない。妻と俺は子供たちを大学に行かせようって計画してた。子どもの教育のためにどうにか貯金し続けてきたんだ。俺たちは子どもたちに社会に出て成功したいなら大学に行かなきゃいけないって言い聞かせてきた。でも今じゃそんなことは俺たちにとっても子どもたちにとっても失われた夢のようさ。」
南修平『アメリカを創る男たち』ニューヨーク建設労働者の生活世界と「愛国主義」名古屋大学出版会


 人生での多くの時間をBNYで過ごし、その周辺地域で生活基盤を築いてきた人々とその家族には、その地を離れて新しい暮らしを始めるということは、これまで考えたこともない事態であり、そのため、熟練工の存在を考慮しないで合理化を進める国防省の姿勢に対する不信もあった。その一方でもはや労働者にとってどうしようもない事態が訪れていることを認識し、オファーを受け入れる労働者もいた。BNYの閉鎖は、そこに働く熟練工が持っていた技術がもはやかつてのような重要性を失ったことの表れでもあり、彼らのナショナルで男性的なアイデンティティ、そしてそれに基づいた価値観が動揺し、崩れ始めた大きな要因となった。ほんのわずか期間でBNYが閉鎖へ追い込まれたことは、強固な組織力と政治力を誇ってきたニューヨークの熟練工たちの存在が激変し、相互の間の結びつきも薄くなり始めていることを紛れもなく示していた。(※6)


 このように安定した繁栄の時代だとされていた50~60年代には、それとは真逆の労働状況及び変化が起こっていた。この変化が70年代に入り、アメリカの産業全体に広がっていき、70年代以降に起きた変化を起こしたと考える。つまり、オートタウンの自動車工場やブルックリンの海軍造船所で見られた状況や出来事は、70年代以降に起こる変化の前兆であったのである。70年代以降にどのような変化が起きたのかを次の章から見ていく。

(※6)海運管轄下のBNYでは熟練工の職階に関して、頂点に立つグループ・マスターから最下位の見習いまでをランクづけする整ったシステムがあった。

第三章

1970年代半ばからの労働状況の変化

第1節 市場構造の変化


 1970年代半ばはアメリカにおける仕事上の組織や雇用関係に大きな変化があった時期である。仕事の構造、制度、雇用関係の規則が1970年代末から変わり始め、仕事の質が変わった。性別、教育水準、移民、人種、年齢などの労働者の態様の変化が人々のその仕事に対する価値観や就くことのできる仕事の種類に影響を与え、こうした変化が、安全性、安定性、賃金などの経済的見返り、職務管理、勤務時間といった仕事の質の側面に関する仕事や雇用関係の格差を生じさせた。

・第1項 ME(マイクロエレクトロニクス)化とリストラクチャリング
 70年代以降に起きた様々な変化を促したとされる出来事が1960年代後半から70年代の初頭にかけて起きた。それは、金とドルとの交換停止、ヴェトナム戦争での泥沼化、基幹産業の国際競走力の低下を示す貿易赤字、減税や軍事支出と海外援助さらに原油価格の高騰などによる財政収支の悪化である。これにより冷戦体制の経済的条件が瓦解を始めた。その過程でスタグフレーションが顕在化し、軍事インフレ蓄積様式の解体が進行し、第二次世界大戦後のアメリカの鉄鋼・自動車・機械工業などの大量生産産業が世界市場における独占的地位に安住し、膨大な超過利潤を確保する体制が崩されていった。日本や西ドイツの新鋭重化学工業の発展とマイクロエレクトロニクス(以下、MEと記す。)化による生産性の向上と国際競争力の向上により、世界市場におけるアメリカ産業の圧倒的な国際競争力が低下し、企業の利潤が縮小していった。そのため、労資合意に基づき大企業組織労働者の大半に保障してきた実質賃金の引き上げ、雇用保障、医療、年金など各種の付加給付、失業手当プランなどが企業の利潤を圧迫し始めたのである。
庄司啓一は「グローバリゼーションの時代におけるアメリカ合衆国の「新しい移民」・「新しい貧困」-白人ブルーカラー「中産階級」の凋落との関連にて-」の中で次のように述べている。

「このような状況の中で、独占企業は、組織労働者の力量の弱い南部、南西部さらには低コストの海外へと生産拠点をシフトするオフショア戦略をとりはじめたが、労資協定では工場の移転や閉鎖、価格の決定、レイオフなどは経営権として組合が関与できないと規定されていた。そのために、工場移転などは団体交渉事項とはならなかった。これに対し、資本は工場内部での新しい機械の導入、職種および配置転換などは組合との交渉事項であったために、それらを避ける傾向が強かった。さらに、南部諸州に存在する仕事の権利条項(労働権州)は組合の活動を制限し、労働者の組織化の障害となっており、法律の面でも組織労働者には不利であった。」
庄司啓一「グローバリゼーションの時代におけるアメリカ合衆国の「新しい移民」・「新しい貧困」-白人ブルーカラー「中産階級」の凋落との関連にて-」『城西経済学会誌』37


 1970年代半ば以降、独占的地位体制を崩された自動車、鉄鋼、機械産業などの資本はME化を新たな技術的基盤として、組織労働に対して工場移転や閉鎖の計画、さらにはレイオフをいわば脅しとして使って譲歩交渉を強要し、また、労働組合による職務統制機能、先任権ルールなどニューディール以来の労働システムの転換ばかりでなく、組合排除と正規社員の削減と非正規雇用の導入によるダウンサイジング、熟練工の複数工化、賃金や労働や労働条件の切り下げとフリンジ・ベネフィットの縮小、さらには二重賃金制などの新たな労務管理と賃金制度の導入を図り、労働組合を圧迫していった。「この資本による労働への「譲歩交渉」の強制により、1978年-1982年間に鉄鋼業と自動車産業の労働者30パーセント以上がカットされた。(※7)キム・ムーディによれば、1978年12月から1982年12月までに、自動車産業で34万1000人、鉄鋼産業で20万7100人が減少した。」と庄司は述べる。
 企業利潤の低落傾向がどの産業でも顕著になった70年代であったが、それへの対応策、リストラクチャリング戦略の一環として資本と国家は軍事部門への資本投下を増加させたのであった。レーガン政権時、製造業の収益を兵器産業の収益は超え、またレーガンのハイテク及び電子部門重視の姿勢が、兵器産業に資本を注目させる要因となり、兵器産業は、激化した国際競争に脅かされない国内経済唯一の領域だったのである。レーガン政権以前の1969年から1970年代後半まで続いたのが国防支出額の削減であり、連邦支出に占める国防支出の額は1967年には45パーセントに達していたが、1970年代には30~20パーセント台へと低下し、GNPに占めるその割合も5パーセントを切っていた。戦後冷戦体制を支えてきた軍事科学産業はこの軍事費削減の影響を大いに受け、それを基軸としていた軍事インフレ資本蓄積基盤とその産業構造の転換が起こった。その転換の技術的な鍵が、ME技術であった。このME技術は今まで、航空機、ミサイル・ロケットなど核戦略の頭脳部分として財政資金と優秀な科学技術者によって独占的に研究開発されてきた軍事・科学技術を民生用にしたものであり、核兵器の制御・誘導用電子機器として開発されてきた半導体・ICを核とするものだった。この軍事・科学産業によって育まれてきた技術を民生用技術とし、半導体・集積回路を部品として組み込むことがことによってME産業がハイテク経済のリーディング・インダストリーへと台頭したのであった。

(※7)譲歩交渉の具体的な内容については第5項で述べる。

・第2項 政府の市場干渉の減少
 航空、運送、金融サービスや通信のような重要な企業の規制緩和は、経済への政府の介入の減少に向かう境界の傾向を反映していた。労働市場での政府の存在が弱まるような政治環境の変化は、昔のシステムが市場勢力に不自然な制約を与えていると感じていた人々にとっての勝利を表していた。彼らは新しい競争環境を扱うためのベストなやり方は市場の力を解放することだと信じていたからである。労働市場での政府の介入が減るにつれて、労働法や基準は厳格に強制されにくくなった。レーガン政権は、労働安全衛生庁(OSHA)と雇用機会均等委員会(EEOC)の規制を監視している連邦政府機関に対してほとんど支援を提供せず、これはこれらの法律の影響と有効性を大幅に低下させた。雇用者はさらに、従業員退職所得保障法(ERISA)のような労働法の制約を乗り越えて、労働者を賃借する機会を増やしたり、独立した請負業者や一時的な援助機関などの非標準的な雇用契約を活用することもできた。多くの雇用者は、法律上の要件によって保護されている標準的な雇用関係に関連する硬直性を避けようとしたため、戦後に渡された多くの労働法が、間接的に下請けやその他の非標準的な就労を奨励したのであった。

・第3項 鉄鋼・自動車産業の衰退
 1974年に完全操業した鉄鋼業は国内需要をまかなうために輸入を増やしていたが、戦後最悪といわれた鉄鋼市場の世界的瓦解のもとで、世界的過剰生産が顕在化し、国際競争力を急速に失った。その影響を受けて、国内工場が次々と閉鎖され、労働者の数は31パーセントも減少した。また、1978年に1300万台弱を製造し、ほぼピークに達していた自動車産業は、1979年の第二次石油危機をきっかけに、製造台数が激減し、1982年には700万台へ落ち込んだ。アメリカの激減に対して、1980年日本が製造台数においてアメリカ自動車業界を追い抜き、世界第1位となった。これに対して、アメリカ自動車産業は、従来の部品の内製化路線を放棄し、ドル高のもとでのアウトソーシング戦略と国内工場の自動化・ロボット化の推進を余儀なくされた。それらと旧式工場の閉鎖は、1977年から82年の間に労働者の数を30パーセント以上減少させ、1978年12月から1982年12月までに、自動車産業で34万1000人、鉄鋼産業で20万7100人が減少した。また、80年から84年の間に製造業では200万の仕事が失われ、その半数以上が組合員の仕事であった。また、主要な自動車・自動車部品製造企業では雇用者数が78年末の80万から83年初めの49万足らずへと激減した。1970年代までアメリカの大企業では、労働内容が組み立て作業などの単純な仕事であるブルーカラー労働者に対して賃金・所得だけでなく、健康保険、失業保険、退職後の年金などの付加給付を所得できる企業内福祉制度が拡充され、安定・安心した家庭生活を保障してきた。このような体制が破綻し始めたのは1980年代に入ってからで、特に実質賃金の低下は高卒の白人男性において顕著であり、1979年以来それは17パーセントも低下した。

・第4項 情報ネットワーク化とサービス産業の隆盛
1975年以降、第1項で説明したような産業のME化・ハイテク化の発展は、情報通信のネットワーク化とサービス化によって促進された。物を生産する製造業からサービスを生み出す産業への雇用の大きな変化は、戦後の時代全体を通して続く傾向で、サービス産業の成長は新しい経済と知識社会の拡大の重要な部分であり、その情報は権力と生産性の中心的な部分である。かつてのような消費者、家事サービスだけでなく(※8)、企業と企業間の取引などのいわゆるビジネス・サービスが中心も含まれ、この取引は製造業の企業内生産の放棄と製品の購入・契約などの増大に起因しているものが多かった。

「金融、製造業などは情報・通信手段と輸送手段の発達にともなって、管理・統括機能を持った金融・貿易中枢都市を核とし世界各地に生産拠点を設置しネットワークを構築することが可能となり、銀行・証券、輸出入業務との取引、それらの業種間の取引業務が急増したのである。」
と庄司は述べており、またサービス産業の雇用者数の増加に関しては

「1980年製造業の雇用者数はほぼ2000万人、サービス業は1800万人ほどであったが、1985年には製造業が1900万人に減少したのに対して、サービス業は2200万人へと増加、ついにサービス業従事者の数が製造業のそれを実数で歴史上はじめて上回ることとなった。サービス業のなかでとくに増加したのが銀行、証券などの金融サービス、人材派遣、コンピューター・データ処理を中心とするビジネス・サービスの136万人、保健衛生サービスの102万人であり、特に、エレクトロニクス産業の隆盛と相まって、システム・エンジニア、プログラマーなどの職種が急伸した。」
と述べている。

 過去40年以上にわたってサービス産業は、製造業での労働者の減少を埋め合わせてきた。情報テクノロジーとリエンジニアリングはニューヨークを例にあげると産業と労働のあり方を変えつつあった。1989年から1993年にかけて、銀行や保健、会計、法律、通信、航空、小売業やホテルなどの生産性の伸びはかつてないほど高く、ニューヨーク市内では35万人以上が職を失い、90年代半ば以降の情報ネットワーク化のもとでの本格的なリエンジニアリングの本格化は、労働のソフト化と産業のサービス化を急速に推し進めることになり、それはアメリカ中産階級の中核をなしてきたホワイトカラーの中間管理職さえも大幅に削減させていった。

(※8)育児、クリーニングなどのような以前は主に家庭で行われてきた活動が民営化を通じてサービスにも拡大していったと、Arne L, Kallebergは述べている。

・第5項 労働組合の弱体化
第1項で説明したように労働組合やその組合員は企業からの圧迫を受けるようになり、組織労働者数が894万から45年には1480万人へと急増した40年代や、AFLとCIOが合併し、組合数が1680万人に達し、労働者総数の24.7パーセント、非農業部門の労働者の33.2パーセントを占めた50年代から一変して、70年代以降、特に80年代は衰退が顕著になった。鉄鋼、自動車などの戦後アメリカの主要産業としてあげられた製造業の従事者数は、1945年の1426万人から1980年の1873万人と1.31倍に増えていたが、大きな発展を見せていたサービス産業従事者数の増大の方がはるかにペースが速く、1945年の1812万人から1980年の4990万人と2.75倍に増加していた。そのため、製造業の比率は減退していき、財生産部門全体で見ても、就業者数比率は1945年の約40パーセントから1980年の約27パーセントへと後退してきた。こうした製造業の衰退とサービス産業の伸張は、労働組合にとって大きな痛手となった。なぜなら、労働組合組織率は、産業ごとに大きく異なっていたからである。製造業、鉱業、建設業、運輸・公益事業などの組織率の高い産業の20世紀後半の組織率では、鉱業を除き、製造業で42.4パーセント、建設業で83.8パーセント、運輸・公益事業で79.9パーセントとなっており、鉱業でも64.7パーセントと1953年の時点での組織率が最も高い水準となっていた。しかし戦後、組織率はどの産業でも徐々に低下していった。1980年時点での組織率は、製造業32.3パーセント、鉱業32.1パーセント、建設業31.6パーセント、運輸・公益事業48パーセントとなっていた。そして低下は80年代以降もとどまらず、1989年時点で製造業21.6パーセント、鉱業17.5パーセント、建設業21.5パーセント、運輸・公益事業31.6パーセントへと低下していった。
また、ブルーカラー労働者や高校卒業といった相対的労働条件が悪く、これまで賃金に対して組合効果が高かった階層での労働組合組織率の落ち込みが顕著であった。具体的な数字では、ブルーカラーの男性労働者では1978年の43.1パーセントから1989年の28.9パーセントへと、14.2ポイント落ち込み、高卒男性労働者では1978年の37.9%から1989年の25.5%へと12.4ポイントも減退していた。さらに、製造業では、もともと北部にあった工場が、海外や南部に移転するオフショア戦略を行うことで雇用者数が減らしていた。労使関係において、工場移転は、経営者にとって労働組合への対抗措置として非常に有効なものであった。こうした環境の中で、労働組合は労働条件の切り下げを受け入れざるを得ない譲歩交渉へと追い込まれていき(※9)、そしてそれは、地域的にも労働組合の組織的基盤を侵食することにつながった。(※10)労働組合の組織的基盤の侵食について、中島譲は「アメリカ労働市場の変化と労働組合-1970年代以降の組合基盤の侵食-」の中で次のように述べている。


「オハイオ、ミシガン、ウィスコンシン、ニューヨーク、ペンシルベニアといった北東部と中西部の工業州の就業者数は全産業としては一貫して増えているものの、製造業での雇用者数は軒並み減少していた。また、主要州での労働組合員数と組織率の推移に関しては、工業州では1970年時点での組織率は相対的に高く30パーセントから40パーセント台にあり、他方、雇用が移転していった南部諸州は大半が一桁台から10パーセント台半ばであり、前者に比べて労働組合の影響力が脆弱であった。そして北東部・中西部の工業州では、1974年を境に組合員数が減少に転じている。1974年から80年にかけて、ニューヨーク州で42万3000人、ペンシルベニア州で20万5000人、オハイオ州で14万6000人、ミシガン州で9万9000人と数万人から数十万人の規模で組合員実数が減ってきた。これらの地域における労働組合員数の減退は、1980年以降も続いており、1983年から2001年までで各州で数万から十数万の組合員が減ってきていた。このように、地域面でも、労働組合組織率が高く、組合員数も多い北東部・中西部の諸州から、特に製造業において多くの労働者が減少し、労働組合がその地域的な基盤の失っていったのであった。」
中島譲「アメリカ労働市場の変化と労働組合-1970年代以降の組合基盤の侵食-」『千葉商大紀要』54(2)


また、具体的な労働組合の組合員削減に関しては、


「労働組合組織の減退は、主要産業において労働運動を支えてきた大規模組合が軒並み、組合員数を大幅に減らしたことにも表れている。組合ごとに規模が異なるが、主要な労働組合のほとんどが1971年から1995年までに大幅に組合員数を減らしており、特に同時期に1万人以上の組合員を減らしたのは、全米鉄鋼労働組合(USWA)の約55万人、全米大工労働組合(UBC)の約34万、合同衣服繊維労働組合(ACTWU)と国際機械工組合(IAM)のそれぞれ約31万、全米自動車労働組合(UAW)の約26万、全米婦人服労働組合(ILGWU)の約24万、国際建設労働組合(LIUNA)の約12万、国際電気工友愛労働組合(IBEW)の約8万、全米ホテル・レストラン従業員組合(HERE)の約6万、全米食品商業労働組合(UFCW)の約5万となっている。」
中島譲「アメリカ労働市場の変化と労働組合-1970年代以降の組合基盤の侵食-」『千葉商大紀要』54(2)

と述べている。

 組合員数が減退した要因として、従来のフルタイム雇用とはうってかわって、パートタイムや非典型雇用が増大したこともあげられる。非典型雇用やパートタイム雇用の労働者数は、1975年の約2537万人から1993年の約4060万人へと増えており、民間雇用者数に占める比率も29.5パーセントから約34パーセントへと18年間に1.6倍に増えている。労働組合組織率もフルタイム雇用とパートタイム雇用では異なっており、1983年の時点で、フルタイム労働者の組織率は22.9パーセントであるのに対してパートタイム労働者は8.4パーセントと、2.7倍の開きがあった。
労働組合の弱体化を表したもう一つの変化としてあげられるのがストライキの衰退である。戦後、アメリカの労使関係は安定化していたが、ストライキ自体はなくなっておらず、頻繁に行われていた。戦後期の労働組合は、使用者との団体交渉によって、数年間有効な労使協約を締結することが活動の中心となっており、激しい労使対立を伴いながら、協約改定時期には新たな協約締結に向けて、活動していた。そこでストライキを通して自分たちの主張を押し通す場合も多く、参加人数1000人規模のストライキは1947年時点で270件であり、1975年までは年200件以上となっていた。しかし、1980年代以降、このストライキ件数が急減し、1980年に187件であったのがわずか5年後には54件にまで減っていったのであった。


(※9)譲歩交渉の中で労働組合は、賃金やフリンジ・ベネフィットのカット、一定期間の賃金凍結、生計費昇給の減額、新採用者に対する低賃率表の導入、有給休暇の削減、業務委託といった条件悪化を受け入れていった。
(※10)組織率が高く、労働組合員の多い北東部や五大湖周辺といった従来の主要産業が存在していた地域から、南部や中西部といった地域へ雇用が流出してきた。サンベルトと呼ばれる後者の地域は、伝統的に組合組織率が低く、反労働組合勢力も強い地域であった。その多くは、ユニオン・ショップを禁止するなどの州法が制定された「労働権州」(right-to-workstate)である。

第2節 労働力構造の変化

カーレバーグ(Arne L, Kalleberg)は1970年代以降のアメリカ労働者についてこう述べている。

「アメリカの労働者は、1970年代からの大きく変化した。女性労働者の割合が増え、同時に共稼ぎ家庭も増えた。白人以外の労働者の割合も増え、外国生まれの労働者は3倍近くに増えた。労働者の年齢は平均的に上がり、教育の有無が良い仕事に就けるか否かの主な分かれ目になった。」
Arne L, Kalleberg, “Good jobs,bad jobs:the rise of polarized and precarious employment systems in the United States,1970-2000s”,American Sociological Association

黒人やラティーノ・アメリカンの割合の増加は、当時低賃金で不安定な仕事を増大させる一因となっており、女性労働者や共稼ぎの増大により、仕事のスケジュールを弾力的に組んだり、仕事の時間を調整するニーズが高まった。労働者の多様性の増大は、市場力、スキル、教育の違いによる賃金、自律性、昇進、職の安定に関する不平等を広げた。
ここでは、そのような労働力構造の変化について論じる。

・第1項 教育レベルの差異、技術の有無で決まる仕事
アメリカの労働者の教育水準は過去30年間で着実に高まり、学校に行く者はほぼ倍増し、大卒以上の人口が増加した。(※11)情報処理などをはじめとする複雑な仕事に対して高い教育レベルが不可欠になっていき、技術を持たない者は低賃金の不安定な職にしか就くことが出来なくなった。鉄鋼、自動車などの製造業に就いていた労働者達はほとんどが高卒以下の教育レベルであったため、いわゆる低賃金の劣悪な仕事にしか就くことが出来なかったのである。また、労働者の年齢も良い職や昇進を区分する重要な要素であった。労働人口の高齢化により34歳から54歳の労働者が増え、そのような人々は複雑な新しい技術に適応することが困難であると判断され、低スキルの仕事へと流されるのであった。労働者の方も、教育レベルがどの程度あるのかが良い職に就ける重要な要素と考えるようになり、20世紀後半は、教育の有無がアメリカの労働者を区分する大きな基準となり、給料や労働自律性などのそれ以外の面でも格差が生じるようになった。

(※11)過去30年間、技術を要する仕事の拡大は多くの場合教育の成果の伸びに追いついておらず、過度な資格所得や過剰教育が結果として生じている。

・第2項 女性の労働率の増加
1970年代から女性労働者の割合が増え始め、その割合は4割以下からおよそ半分まで継続的に増加していっていた。女性労働者の増加には、離婚率の増加による母子家庭の増加、出生率の低下、女性の教育水準の向上、サービス産業やホワイトカラー職の女性求人の増加、男性労働者の賃金の伸び悩みで一人の労働者で家庭を支えることが出来なくなったことなどがその原因にある。性別の違いは仕事の質や量の違いをもたらす基本的な基準ではないとはいえ、仕事には性別の差が存在した。男性の方がより質の高い仕事に就いていることは賃金の男女格差や自律性の高さ、仕事の管理の面に反映されている。過去においては女性は一部の高給職から除外され、低賃金で昇進の機会もほとんどなかった。低賃金のパートタイムの仕事にはこの傾向が強く、女性は男性よりも三倍パートタイムの仕事に就くことが多かった。また、子どもを持つ女性が働くようになったことで、男性が働き女性は家庭にいるという戦後の支配的なアメリカの伝統的なモデルが、共稼ぎへと変わった。共稼ぎ世帯の四分の三は夫婦とも常勤で働いており、夫が働き、妻が家事をするというモデルから共稼ぎモデルへの変化により、家事の責任は夫婦で分担するようになった。こうした変化は、家族や仕事についての考え方を変えるものであり、家族の状況が仕事に、仕事の状況が家族に影響を及ぼすようになったのである。

・第3項 ラティーノ移民の増加
グローバリゼーションの拡大と生産の国際化は、国境を越えた製品、サービス、資本の移動と同様に労働者の流動性を高め、特に国際的な労働者の流動性を高めたのは移民であった。外国生まれの労働者のアメリカの労働者に占める割合は、1970年以降、5.3パーセントから14.7パーセントと約三倍になった。これは、外国生まれの人のアメリカの総人口よりも伸びが大きい。移民の地理的な起源は1970年代から変わり、ヨーロッパからの移民の割合はだんだんと減少し、今日のアメリカの移民の4分の3はアジア、ラテンアメリカ、カリブ海諸国から来ている。ラテンアメリカからの移民の多くは教育水準が低く、特にメキシコからの移民は英語力が弱く、その40パーセントが少なくとも高校教育を受けた、または高卒であるというように教育水準が低かった。これらの低い教育レベルの移民たちは高校卒業証明書の提出を求められる仕事が増えている労働市場では競争上不利だった。そのため、低い技能でもできる低賃金の労働しかなく、仕事の選択肢が少ないため、低賃金でも喜んで仕事をし、雇用者にも従順な労働者が多かった。このような低賃金低スキルの移民は農業、レストラン、ホテル、デイケアセンター、食肉加工業、建設業などのいわゆる低賃金の劣悪な仕事に分類される職業で働くことが多い。移民がアメリカ生まれの労働者に及ぼす影響は複雑で、移民がアメリカ生まれの労働者の代替、補完勢力となるかによる。移民による労働供給が多くなれば、アメリカ生まれの労働者の職を奪い、賃金低下の圧力になるが、アメリカ生まれの労働者の好まない仕事を移民がする場合は、競合しない。こうした代替や補完が機能するかは、地域によって異なる。移民の分布は一様ではないので、アメリカ国内でも地域によってその影響は異なる。アメリカの移民は、伝統的に労働力に同化されてきた。それにもかかわらず、ラティーノ・アメリカンをはじめとする新しい移民はこれまでとは違う構造状況に対面し、そのため同化にはよりいっそう問題が生じていた。特に、市場構造の変化をはじめとする経済変化は、教育水準とスキルの低い移民が昇進する機会を減らしたのであった。

①不利な雇用状況―チカノ労働者の例―
ラティーノ・アメリカンの不利な雇用状況を、チカノ労働者(※12)を例として取り上げて見ていく。チカノの社会・経済状態は、1970年の人口統計までは、白人に分類されてきた。1930年のセンサスでは、メキシコ系の人々は全てメキシカンとされ、40年にはメキシカンはスペイン語を母国語とする人々のなかに含まれるようになり、60年にはスペイン語性として白人のなかに含まれるようになった。しかし、60年代に入り、公民権運動の高揚のなかで、チカノの社会・経済状態が白人のそれとは異なることが明らかになり、チカノが白人から新たに分離・抽出され、スペイン語系のなかに含まれて特別に分類されるようになったのである。(※13)

(※12)かつてのメキシコ領たるテキサス、コロラド、アリゾナ、ニューメキシコ、カリフォルニア州に居住するスペイン語系住民のことをチカノ(Chicano)とよぶ。

(※13)このような人口統計上の不統一は、ある意味では、チカノの社会・経済状態の変化を反映しているが、60年の白人への混入については、「人種差別的」統計と言わざるをえない。

②チカノ労働者の経済的地位
第二次世界大戦を契機にかつてのメキシコ領であったテキサス、コロラド、アリゾナ、ニューメキシコ、カリフォルニア州をはじめとする南西部経済が急速に拡大するなかで、チカノ労働者階級もその数を大幅に増大させた。1960年代には生産的労働者のなかで重要な役割を担う工業プロレタリアートとして成長し、農業労働者においては、過半数をしめる勢力にまで増大した。(※14)このチカノ労働者階級の拡大は、メキシコからの移民、つまりはラティーノ移民が主な要因である。まず、戦時中1942年に開始される「ブラセロ計画」(※15)によって、メキシコから契約農業労働者の導入、密入国者の大幅な増加によって、ラティーノ移民の拡大は促進された。同時に、このメキシコからの契約農業労働者の大量導入は、チカノの農村から都市への移動、農業プロレタリアートから工業プロレタリアートへの転換の契機ともなった。1970年には、チカノの労働者階級も三つの階層に分化していくまでに成長した。まず、第一に、専門・技術職に従事する者、組合に所属する熟練職、半熟練職就業者である。彼らは人数は少なかったが所得が高く、安定した就業形態を持ち、昇進する機会も多かった。第二には、チカノの約半数をなす工業・サービス業の半熟練職に従事する者で、彼らは前者のように昇進の機会は多くはなく、組合に所属しても低い先任権のもとにおかれ「一時解雇」の可能性が高かった。そして、労働現場と生活の場における根深い人種隔離、人種差別が存在する中で民族的志向、メキシコ人及びラティーノ移民コミュニティへの帰属意識が強かった。最後の第三には、農村移動労働者、サービス業での不安定な雇用にある者、労務者の多くの部分といったチカノ労働者階級の最底辺に位置する階層であった。また、ここにはメキシコから不断に増加し続ける密入国者も含まれた。

(※14)第二次世界大戦を契機に南西部の経済構造も大きく変容し、労働力も新たに編成される。特に、造船、航空機、鉄鋼等の軍事関連産業の国家資金の投入による新たな創出がなされ、戦後は、電子、原子力、新鋭石油化学工業等が軍事的要請=「冷戦の論理」にもとづいて創出・育成された。

(※15)メキシコ人契約労働者導入契約のことであり、これは戦時協力の一環として、国家間の行政協定として制定された。

③チカノの貧困
庄司は「チカノ労働者の状態にかんする一考察 : 1960年代の経済状態を中心として(アメリカの歴史と文学におけるエスニック・マイノリティ)」の中で、
「チカノの貧困について述べるには、その経済状態を明確にせねばならず、その状態を社会全体の需要の高まりとの、あるいはブルジョアジーの生活水準、さらには、他の人種・民族集団との相対的関係において把握せねばならない。」
と述べている。
チカノの大半をしめる労働者階級にとって、その所得の唯一の源泉は賃金であり、その所得額は、チカノが働く職業によって規定される。まず、2人以上の家族構成員の所得を合計した額であるチカノ家族の年間中位所得分布では、チカノの中位所得額は7486ドルであり、それは白人の中位所得額の70パーセントである。次に、労働統計局は、都市の標準世帯(4人家族)の「下層階層」(lower class)の消費生活必要額を年間7214ドルと算定し、その算定基準として総消費額、食費、住宅費、交通費、被服費、医療費などというような支出費目を掲げた。この基準は、最低限の必要経費を計上したものであり、これが都市における見苦しくない生活を保証する額であるかは定かではないが、1974年の農務省の算定した標準世帯の「最低生存」水準が4550ドルということであるから、それよりは少しましな生活ができる水準ということであるといえる。チカノ家族の46.5パーセントが7千ドル以下層であるから、チカノ家族の半数近くがこの生活水準を享受できないと推定できる。
次に、その「下層階層」の生活を可能とするためには、どれ位の賃金で、どの位の期間働かねばならないのかというと、年間50週間、1週間40時間働き、時間給3ドル61セント稼ぐ必要がある。この賃金・労働条件は年間を通じて就業し、比較的高い賃金が支払わなければならないことを意味している。事実、南西部の製造業において、中位賃金が時間給3ドル61セントを下回わる企業が全体の73パーセントをしめており、南西部の製造業で働くチカノ労働者の少なくとも半数がこれ以下の賃金しかえていない。さらに、チカノ労働者の就業形態について言えば、年間50週間以下しか就業していないチカノ労働者は、男性の43パーセント、女性の68パーセントをもしめているのであった。

④チカノ就業者の職種別・産業別構成
   チカノは他の人種集団とは異なる職種構成をもっている。南西部の構成上の特徴を60年代について見ると、まず、白人ホワイトカラー職、とくに、専門職・管理職の割合が高いことが一瞥してわかり、チカノは熟練、半熟練工の割合が高いこと、非白人(※16)はブルーカラー職とともに、サービス職の割合の高いことである。ホワイトカラー職のなかで専門職・管理職等の所得の高い職業に白人労働者の3分の1あまりが働き、そのなかて、チカノ・非白人が相対的に経済的地位、所得を低下させている事務職に進出している。生産的労働者のなかで相対的に所得の高い熟練職では白人がその割合を低下させ、チカノ、非白人が割合を増大させている。その要因として、技術革新とオートメーションが進む中、旧来の熟練工のなかで白人の多かった職業(※17)が減少し、比較的短期に技能が習得できる機械工、溶接工、修理工が増加し、後者の職業にはチカノや非白人が多く吸収されたことがある。半熟練工は、労働の単純化と養成期間の短縮のなかで、60年代にはその絶対数を大幅に増加させたが、そのなかでチカノは組立・選別工とともに、資材運搬用機械の操作、保安要員等として大量に吸収され、チカノ全体の26.5パーセントが半熟練工となり、チカノ最大の職種をなすにいたっている。また、サービス職は大幅な増加をしめし、すべての人種にとって重要な就業口となっており、とくに、非白人は全体の20パーセントちかい者がサービス業に従事するまでになり、チカノも全体の10パーセント以上がこの職種に従事し、都市の飲食業、ホテル、保健サービスに従事しているが、この職種は、低賃金・未組織労働者群として不安定な就業状態におかれている労働者が多い。

(※16)ここでいう非白人は黒人、アジア系を指す。

(※17)パン職人、大工、植字工、指物師、鋳型工、左官、水道配管工などがあてはまった。

⑤産業別就業者数
   1970年カリフォルニア州における産業別就業者構成を人種別に見ると、まず、チカノにとって最大の雇用業種は製造業の31.2パーセントである。次いで卸・小売業の19.5パーセントであり、この両業種がチカノ就業者の約半分を吸収している。第三番目が専門サービス業の10.7パーセント、第四番目が農林漁業とつづく。このチカノの産業別就業構成と若干異なっているのが非白人のそれである。まず、非白人の最大の就業業種は専門サービス業の20.9パーセント、次いで製造業の18.9パーセント、第三番目が卸・小売業であり、第四番目が行政サービスとなっている。チカノとの比較で注目できるのは専門サービス業・行政サービス業の就業者の比重が高く、農林漁業・製造業での比重が相対的に低いことである。次に、各産業におけるチカノ就業者・非白人就業者の割合について見ると、まず、チカノの割合が最も高い業種は農林漁業の26.2パーセントであり、次いで、製造業の13.3パーセント、個人的サービスの10.7パーセントと続く、これに対して、非白人は個人的サービス業の就業者の17.8パーセント、行政サービスの14.5パーセントとサービス業種での割合が高く、チカノが農林漁業、製造業における比重が高いのと若干異なっている。このように、チカノ労働者は、州の基幹的産業である農業、製造業における生産的労働者の核をしめる半熟練工、農業労働者、つまり、工業・農業プロレタリアートとしての地位をたかめ、労働者階級の中核的部署に配置されてきていることがわかる。また、同時に、サービス業種などの不安定な就業者が大きく増加し、都市の停滞的過剰人口部分を形成している。しかも、それは、メキシコからの大量の「密入国者」の増加により不断に補充されている。

⑥同一職種における人種別所得格差
   カリフォルニア州とテキサス州における男性就業者の中位所得をチカノとアングロとの比率を見てみると、州別では、カリフォルニア州はテキサス州よりも人種別の所得の格差は小さく、1959年から69年までに格差は縮小しているが、依然として、その格差は職種により異なりながら存在した。アングロとチカノの格差が大きい職種は専門職、管理職、事務職、販売職等のホワイトカラー職であり、逆に、サービス、労務、農業労働では、チカノの所得がアングロよりも相対的に高くなっている。結論的には、チカノはアングロとの比較において、同一職種でも低賃金の仕事に雇用されており、その所得格差はホワイトカラーの高賃金職種において大きく、サービス、労務、農業労働者等の低賃金職種において小さい。熟練・半熟練工はほぼその中間に属する。地域的に見ても、この職種上の格差は、テキサス州においてはカリフォルニア州よりも一段と大きい。

⑦教育と所得
   チカノの教育水準は、他の人種集団と比較して一段と低位である。1970年度のカリフォルニア州におけるチカノの教育水準を白人、非白人との比較では、25歳以上の成年で8年以下の教育しかうけていないチカノにとって割合は、男性の場合44.8パーセント、女性の場合には46.4パーセントである。つまり、チカノの半数にちかい人々が中学卒業以下の教育しかうけていないのである。大学レベルの高等教育となると、4年制以上の大学を卒業したチカノは男性4.8パーセント、女性2.8パーセントでしかない。これに対して、白人のそれは、男性17.7パーセント、女性15.9パーセント、非白人のそれは、男性11.1パーセント、女性8.6パーセントである。しかし、60年時と比べてはチカノの教育水準もかなりの上昇をしめしていることも事実であるが、チカノの教育水準は、他の人種集団とくらべ相当低いことがわかる。現代のアメリカ社会において、高い教育をうけることは高い所得を保証する最大の武器であると言われる。確かに、一般的には、高い所得は高い教育と照応関係にある。しかし、この関係は、教育をうける機会・環境が平等に開放された場合にあてはまるものであり、人種的隔離が経済的不平等を基盤として展開されるアメリカ社会ではこの原則が妥当しない場合がしばしば起こる。さらに、チカノの場合、それらの機会・環境は言語問題と相乗してさらに悪化する。 人種別の教育水準と所得の関係では、教育水準と所得は正の照応関係にあり、とくに、大学教育以上の教育をうけた者の所得はより一層高くなっている。しかし、この照応関係も人種により格差があることに気づく。まず、人種別にも、その所得の絶対額が、同一水準の教育をうけた場合でも、白人>チカノ>非白人の順番となるという、人種間所得格差をもち、さらに重要なことは、この格差が教育水準が高くなればなる程拡大していることである。とくに、大学教育を終了した場合、この人種間所得格差はより一層拡大する。これは、所得の不平等が単純に教育によっては改善されないことをしめしている。

⑧年令と所得 人種別の年令と中位所得の関係では、若年から中年層にかけて上昇し、それ以降は下降する。そして、チカノはアングロより一段とその下降は大きい。しかし、20-24歳層ではチカノがアングロを上回っている。これは、チカノ家族においては、高等教育をうける機会が制限され、若者が家族の重要な稼ぎ手になっていることに帰因すると考えられる。その年令をすぎると、両者の格差がはじまり、最高の所得水準になる35歳から64歳層では、チカノの所得はアングロの73パーセントにすぎなく、65歳をすぎるとさらにこの格差は拡大する。この原因として、チカノの職業が相対的に昇進の機会が少なく、肉体的強靭性を主要な競争要因となす職種、さらには、労働組合の先任性の低いランクに位置づけられたいる等の要因が考えられる。

第3節  変化に伴って生じた仕事の分極化と雇用関係の不安定化

   グローバリゼーション、知識経済の拡大、市場の規制緩和といった多くの社会的、政治的、経済的力が、労働市場の需要側と供給側の双方で仕事の質の格差を生じさせている。教育水準の高い、技能の高い労働者には、労働市場の需要と供給のメカニズムの恩恵を受けて、会社から会社に自由により仕事を求めて渡り歩くことが出来る。一方で、教育水準が低く、技能も低い未熟練の労働者は、労働市場の需要と供給のメカニズムの恩恵を受けられず、低賃金の職、または職に就けるかどうかもままならない状態であった。(※18)こうした需要と供給の力により、経済的、非経済的な仕事の恩恵の格差が生じる。例えば、サービス産業の成長は1970年代からの仕事の構成の特徴の一つであり、低賃金の劣悪な仕事の伸びに関する懸念の多くの基礎となっている。高賃金の製造業の衰退とサービス産業の拡大により、アメリカには低賃金の仕事が増えた。給料のいいサービス産業の仕事に就くためには、少なくとも大卒が必要であった。1970年代からのサービス産業の成長は、高い技能の質の高い仕事と低い技能の質の低い仕事の両方を生み出した。金融業と情報関連は、きわめて高給であるが、小売業はそうでもない。また、サービス産業内の仕事の質の格差は、製造業内の格差よりも大きい。サービス産業の仕事は高級か薄給かの両端で中位のものは少ない。非熟練労働者は相対的に高賃金の質の高い仕事を獲得することは困難であり、分極化は製造業よりも深刻であった。

(※18)カーレバーグは仕事の質の格差を「良い仕事」と「悪い仕事」の二極化が起きていると述べている。

・第1項 開放的な雇用関係により生じた不安定な雇用関係
   雇用関係は1970年代以来、ますます市場仲介的になっている。労働者の制度的保護の侵食に加えて、柔軟性と利益の増大と集団労働力の低下を目的とした雇用者による企業再編は、アメリカにおける雇用関係の市場化と個別化を促進した。市場解決が行政ルールに変わり、そして市場のメカニズムは今や従業員の雇用保障と収益に関する雇用主の決定に影響を与える可能性がより高い。さらに、労働市場のメカニズムは労働者の経済的価値についての主な判断源となっており、企業間の労働者の影響にますます影響を与えている。市場仲介による雇用関係は、自由市場原理と競争上に基づいており、相対的に弱い労働市場制度、基準、及び規制に関連しているため、「開放的な雇用関係」と呼ばれている。市場メカニズムの中心性は教育、人的資本、経験、社会起源といった個人の資源を作り出す。例えば、労働市場においてそれらの力は重要な資源である。「開放的な雇用関係」は、1970年以前の労働組合や企業内労働市場からの強力な制度的保護によって特徴づけられる、いわゆる「閉鎖的な」雇用関係とは対照的である。
「開放的な雇用関係」の成長は、雇用関係の二つの重要な特徴を変えた。一つは「開放的な雇用関係」は安定と安全保障が忠誠心と労力のために交換された雇用主と従業員の間の心理的契約を断ち切ったことである。従業員は、雇用者の雇用保証、収益、成長、昇進の機会な対する忠誠心と契約を交換する。心理的契約は、お互いの義務や責任について相互に信頼し期待することによって特徴づけられた。仕事の条件がダウンサイジング、有効性の向上、短期間での収益の向上などの慣行を通じた削減を是認する場合、雇用関係は終了する可能性が高い。従業員は他の場所でより良い雇用機会を利用するために会社を離れる可能性が高い。
二つ目は、市場仲介、つまり「開放的な雇用関係」は第二次世界大戦後の資本と労働間の社会的契約の崩壊によって特徴づけられる。この労働組合間の集団的取り決めは雇用関係を安定させ、雇用財産権の形態で雇用保護を提供したり、雇用関係を密にした。これは労働者にとってのより良い労働安全を導き、第二次世界大戦後のアメリカの経済成長の時代でますます大きな収益と発展の機会を提供した。労働組合の減少に反映され、雇用者が雇用関係の条件を自由に変更することを可能にした社会的契約の解消は、さらに心理的契約の解散を導いた。
古い心理的で社会的な契約の崩壊は、より個人主義的な関係と集団力の低下を正当化する規範的な状況によって強化された。また、雇用契約の規範が変わったために、全ての労働者の雇用保障が全体的に低下した。雇用者は今や彼らの組織自体がより安全ではないため、従業員の安全を約束することが出来なくなる。雇用者はさらに雇用関係の性質に関する規範が変わったため、忠誠心や勤労感と引き換えに従業員の安全保障を提供す傾向もなく、ヘルプエージェンシーと契約会社のような雇用者が随時必要に応じて雇用する選択肢が増えている。ゆえに雇用者との生涯雇用の規範が減少している。

・第2項 「開放的な雇用関係」の特性
   この新しい開放的な市場仲介の雇用者と従業員の関係は様々な注目すべき特性を持っている。一つには、雇用関係はより不安定で安全じゃなくなっている。労働者の不安は、雇用主の"柔軟性を高める試み"の"暗い側面"である。1970年代からの80年代にかけての経済成長の鈍化により雇用安定の低下が一般的に始まったと推定されており、1970年代から80年代にかけての雇用は概してより不安定であった。アメリカ人は伝統的に雇用の安全性の探求と機会の信念に大きな重要性を置いていたので、アメリカでは雇用不安の増大が特に問題であった。さらに強力なセーフティーネットが存在しないことは、失業の経験を特に困難にしていた。二つ目に、雇用者と労働者の両方が将来について計画する際に直面している不確実性は、雇用不安とグローバル化や技術革新などのマクロ的な勢力によって増加している。ポール・クラッグマンはこれを"不安の時代"と呼び、マイケル・マンデルは、雇用の不安は「リスクの高い社会における不確実性の最大の原因」であると主張し、実際の雇用喪失による経済的および心理的な影響を仕事にかける確率を計算した。雇用関係のより大きな不安と不確実性は、不安と不確実性の平等を生み出しながら、不安を労働力全体に広げた。職業構造全体に不安が浸透していたため、事実上、全ての雇用が不安定になっていた。賃金が良く、昇進の機会を提供したり、本来の報酬を得ることが出来るいわゆる良い仕事でさえも、ホワイトカラーの労働者のレイオフ数が増加したことからも明らかなように、より不安定でストレスフルになっていた。そして、低賃金、低スキルのブルーカラー労働者もよりいっそう不安定で安全ではなくなってきていた。
    今、不安定な仕事は経済の全ての部門に広がり、一般化されている。全ての労働者は不安定な状況を経験していたが、人格の動態、教育レベルと種類、年齢、家族の責任、職業と産業の種類、社会における福祉と労働市場の保護の程度によって不安定な仕事に対する脆弱性が異なった。故に、解雇された場合、新しい仕事を見つけるのに、役立つ技能を持たない人にとっては雇用の不安定さの結果は深刻なものであり、さらに、ラテンアメリカンや黒人などのマイノリティーの人々は白人よりも失業率や仕事を離職する可能性が高く、高齢労働者はアウトソーシングや産業構造改革の影響を受ける可能性が高かった。


【第2章、第3章参考文献】
・紀平栄作『新版世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999年
・小松原由理『<68年の>性 変容する社会と「わたし」の身体』青弓社、2016年
・芝邦夫『ブロードウェイ・ミュージカル事典』劇書房、1984年
・南修平『アメリカを創る男たちニューヨーク建設労働者の生活世界と「愛国主義」』名古屋大学出版会、2015年・著ポール・オスターマン トマス・A・コーキャン リチャード・M・ロック マイケル・J・ピオリ 訳伊藤健市 中川誠士 堀龍二『ワーキング・イン・アメリカ-新しい労働市場と次世代型組合-』ミネルヴァ書房、(2004)
・庄司啓一(1999)「アメリカ合衆国におけるヒスパニック」『歴史と地理』520 34~37頁・庄司啓一(2016)「グローバリゼーションの時代におけるアメリカ合衆国の「新しい移民」・「新しい貧困」-白人ブルーカラー「中産階級」の凋落との関連にて-」『城西経済学会誌』37 119~140頁

・庄司啓一(1984)「チカノ労働者の状態にかんする一考察 : 1960年代の経済状態を中心として(アメリカの歴史と文学におけるエスニック・マイノリティ)」『札幌学院大学人文学部紀要』 36, 87-108頁
・中島醸(2015)「アメリカ労働市場の変化と労働組合-1970年代以降の組合基盤の侵食-」『千葉商大紀要』54(2)75~91頁
・Arne L, Kalleberg, “Good jobs,bad jobs:the rise of polarized and precarious employment systems in the United States,1970-2000s”,American Sociological Association, 2011
・David Halle, America’s Working man:work,home,and politics among blue-collar property owners, University of Chicago Press, 1984
・Ely Chinoy;introduction by Ruth Milkman, Automobile workers and the American dream, University of Illinois Press, 1992

つづく

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