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どうしてNatureなのか。

うちの会社では、スマートホームやエネマネを手軽に実現できる「Nature Remoシリーズ」を作ったり、家庭向けの電力小売事業を行っている。ではなぜ、テクノロジーとかけ離れて見えるNatureが社名になっているのか?

それはNatureの「自然との共生をテクノロジーでドライブする」というミッションに込められた思いがあるからだ。(2021年11月より「自然との共生をドライブする」に変更)

向島という小さな島で育って

僕の父は、高卒のエンジニアで起業家だ。

また、僕の曽祖父は大きな船の船長で、広島県福山市にある当時の家は、海の目の前にあったらしい。それが今では、日本鋼管(今のJFE)の製鉄所ができて、目の前はには国道と大きな製鉄所ができて、空気がすごく汚い。

そのせいもあってか、父が海の近くに住みたいということで僕は小学校5年生まで向島という瀬戸内海に浮かぶ小さな島で育った。

向島は、「しまなみ街道」で本州から最初に訪れる島ということで最近はテレビでもよく見かけるようになった。ちょうど先日両親の還暦旅行とリフレッシュ休暇を兼ねて帰省した際に、両親と歩いて当時の家を訪れたが、未だに健在だった。当時家賃2万5千円の本当に小さなアパートだったが、25年ぶりに行くと小さい頃の記憶よりずっと小さくて驚いた。

当時通っていた三幸小学校までの通学路を28年ぶりに歩いてみたら、アパートの目の前にはみかんの木がなってたり、通学中は山や川に囲まれていたり、ちょっと豪華な邸宅には松の木が植えられていたり、海岸から波の音が聞こえたり、それは向島の中でも特に自然を感じられるいつも潮の香りがするような環境だった。三幸小学校は、海の見える高台にある小さな小学校で毎年夏には授業の一環で恒例の潮干狩りに出かけていた。

プロダクトが生まれる瞬間に立ち会って

向島に住んでいた頃に、独学でソフトウェアとハードウェアのエンジニアリングスキルを身につけ、父は自分の会社を立ち上げた。僕が小学2年生の頃に初めての自社製品(確か車の制御に関係する開発者向けの機器だった思う)を発売し、小学5年生の時に、なんとプレイステーションのゲームを自社ブランドで発売した。その時のことはよく覚えている。

リッジレーサーというnamcoのアーケードで大人気だったゲームがプレイステーションで家庭でできるというので、世の中にセンセーションを巻き起こしていた。しかし、レーシングゲームは操作にリアルタイム性が求められるし、動きが早いので開発が大変。リッジレーサー以降にレーシングゲームのヒット作が出てなかった。当時、父のマーケットリサーチのために家にプレステ、セガサターン、3DO、スーパーファミコンといった一通りのゲーム機とレーシングゲームがあって、僕も一通りのレーシングゲームはプレイしていた。

特に、リッジレーサーシリーズはお気に入りで、自分で言うのもなんだが、そこそこの腕前だった(今のようにeスポーツがあれば結構いい線いったかもしれない)。父の開発中のゲームも、当時の紺色のプレイステーション(開発中のゲームがプレイできるもの)でテスターとして遊んでいた。

当時の記憶でも特に印象的だった出来事がある。

家に帰ると父がトイレで「Ready, GO!」と叫んでいた。歌でも歌っているのかと思ったら、1週間後にアップデートされている試作版にその声が入っていた。当時、3人くらいの小さなチームで開発していたので、開発費を抑えるために自分の声を使ったのかもしれない。

そんな姿を見せられて、その頃から僕も将来自分で会社を立ち上げたいと思っていた。どうせ会社をやるなら自分が生涯を捧げられるテーマに挑戦したい、とぼんやり考えていた。

プログラミングとの出会い

それから少しして、祖父母の家で倉庫を掃除しているときに古いコンピュータを見つけた。BASICしか動かない年代物のコンピューターで父が昔使っていたものだった。小さい頃から絵を描いたり、ものを作ったりするのが好きだった僕は、そのコンピューターを使ってみたい衝動にかられて、もらって家に持って帰った。

年代物のコンピューターだったので、一度電源を落とすとプログラムが全部消えてしまう。だから、ノートに全てのソースコードをメモしていた。しばらく遊んでいると、父が来て、そのコンピューターでスペースインベーダーのゲームを作ったら、新品の良いコンピューターを買ってやる、と言う。それから3ヶ月くらい試行錯誤していると、スペースインベーダーっぽいゲームが出来た。

緑色の文字しか表示できなかったので、文字を敵に見立てて動かした簡易版ではあったが、一応インベーダーゲームの最低限の動きは実装できていたと思う。それを父に見せると、気前よくすぐにIBMの新しいパソコンを買ってくれた。その経験がきっかけでプログラミングが好きになって、その後、日本、アメリカ、インド、スウェーデンで情報工学の勉強をしたり、インターンをしたりした。

想像していた楽しい大学生らしい大学生活を満喫できたのは最初の1年くらいで、残りの大学院卒業までの5年間は必死で勉強した。就職については、技術的な方向に進むか迷ったが、将来自分で会社をやることが目標で、ユビキタスコンピューティング(いわゆる今でいうIoT)というテーマを大学時代に追いかけていたので、グローバルにユビキタス事業の立ち上げの経験できそうな三井物産に就職することにした(当時、ユビキタス事業部という部署が存在していて、NTTドコモのiモードの海外展開を仕掛けたりしていた)。

特に、スウェーデンの大学院に留学中に、UDPのプロトコル実装課題と卒業プロジェクトでチームを組んだとても優秀なモザンビーク出身の友達から、「お前がプログラミングやものづくりへの情熱を捨てて、ビジネスの仕事につくのは勿体無い!」という熱いメールをもらった時は、本当に考えさせられた(当時のPeer Feedbackの内容が残っていたので以下に引用する)。

============= Personal Comments ==================
I actually don't have much to add. But there is something I would
really like to say. You mentioned couple of times that option is not
to follow a technical career.


From the seriousness and effort I've seen you putting in the work, I
believe you can succeed in any career you decide to follow, specially
if it is what you like. And your modesty will definitely take you
further. But honestly, with the potential you have, I really think you
should NOT abandon the technical area.
You are part of few people
that I have met, that really I believe are capable of making
breakthroughs.


That's it!


Anyway, whatever your options may be, I wish you All the Best!

ヨットに教えられた人間の本質

就職が決まって、大学院の2年生になったころ、大学院を早く卒業して、一緒に3ヶ月間ヨットで沖縄に行かないかと父に誘われた。スウェーデンの大学院は、日本のように堅くないので、卒業要件さえ満たせば早く卒業することができる。

指導教官に相談してみると、冬休みに頑張って論文を書けば、みんなが卒業する6月より3ヶ月くらい前には卒業できるのではないか、という回答だった。やってみればなんとかなるもので、冬休みを献上して論文を書いたところ、なんとか3月までに全てを終わらせることが出来た。

それからすぐに帰国して、万全の準備をして待ってくれていた父に合流して、広島から3ヶ月の間、ヨットの上で暮らした。そのヨット旅行では、島伝いに沖縄までデイセーリングだけで行ったのだが、慶良間列島でイルカの群に遭遇したり、奄美大島では北極で凍った船内で冬を過ごした海外の冒険家ヨットマン出会ったり、いろんな経験をした。

いちばん思い出に残っているのは、沖縄の宜野湾のハーバーから奄美大島の加計呂麻島に初めてオーバーナイトでセーリングしたときのことだ。

とても天気の良い日で、海も穏やかだった。夕日がやんわりと海を照らし、でも風はほどよく一定のスピードで吹き続けていた。父は、キャビンで寝ていたので、デッキにいたのは僕一人。周りはどこを見ても海しかない。風がやんわり吹くと、それに呼応するようにヨットが前に進む、繰り返されるその動作と周りを囲む大自然に僕は高揚感を覚えていた。

その時、僕はこう思った。人間っていうのは、これまで大自然の中にさらされて生きてきた動物。やっぱり、人間は遺伝子レベルで大自然の中にいることを心地よく感じるように組み込まれているものだ、と。

生産と消費の肥大化、そして今

一方で、今の世の中といえば、人間の都合で経済成長の名の下に貴重な大自然を荒らしてきた。その流れは、産業革命以降、拍車がかかり、もう止められないところまできている。

これまでの我々のビジネスの多くは、生産と消費の拡大の上に成り立っていた。

しかし、ようやくその流れを変えるビジネスが現れてきた。シェアリングエコノミーだ。UberやAirbnbのようなビジネスの本質は、これまでのように消費を拡大させるのではなく、インターネットやスマートフォンを駆使したテクノロジーで既存のリソースを有効活用することにある。

これまで軽視されてきた自然との共生をテクノロジーの力で採算性の取れるビジネスとして実現したいという思いを込めて、自分で起業するときの会社の名前はNatureにしたいと思っていた。ビジネスとして実現することに拘ったのはその方が持続的でより大きなインパクトが世の中に与えられるからだ。

だから、テクノロジーとは一見かけ離れているように見えるNatureという言葉を社名に選んだ。

そして今、Natureではその「自然との共生をテクノロジーでドライブする」というミッションを実現する第一歩として、インターネットとセンサー技術を活用し、分散型で再生可能な電源を普及させ、再生可能エネルギー100%の世の中を目指して奮闘している。(2021年11月より「自然との共生をドライブする」に変更)

(余談) 塩出姓の誕生秘話

最近わかった話なのだが、僕の父の家系は歴史が長いらしく、「塩出」という苗字は室町時代は「四王天」と書いてたらしい。それが、僕の祖先の侍が、朝廷(後醍醐天皇)から「足利尊氏を討て!」との命を受けて、広島県福山市の鞆の浦に辿り着いた(この記事がその時代の様子を詳細に解説していて面白い)。

++(鞆の浦についての解説箇所抜粋)++

鞆は、古くから開けた港町である。最近、遺跡としての鞆が注目を集めているが、発掘してみると、鎌倉・室町時代の遺構は勿論、平安・奈良時代から、更には弥生や縄文の遺物に出くわすと言う。

邪馬台国時代の投馬国云々は別にして、この地が港町として古くから栄えたのには理由がある。鞆の沖合は、瀬戸内海の東西から入り込んで来る潮が丁度ぶつかるところである。東から来る船はここまで満ち潮に乗ってやって来て、鞆港で一休みした後、こんどは逆に引き潮に乗って西に進めば楽である。西から来る船も同様に、鞆を中継地として潮に乗って東に航海した。これが鞆が潮待ちの港と呼ばれる理由である。

++

この鞆の浦でなんと座礁してしまったのが我らが祖先。座礁したところから潮に助けられて、「お前は塩出と名乗れ!」と言われて「塩出」の性は生まれたそうだ。そして、その後、結局足利尊氏を捉えることもできず、塩出家は農民となってしまったそうだ。

なんとも悲しい結末だが、この話は、僕の両親が10年くらい前に祖先を辿っていった際に発見された。

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