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カワセミの鳴き声を知っているかい?

 

ぼくらの町に里山がやってきた!

 東京都八王子市、かつては暴走族が走りその後は旧車が、旧車も見なくなるとローランド氏がその辺でロケをしている街。この記事はそんな東京都の辺境で何が起きているかを記したものである。

生息する水鳥の変化

 何年か前に老朽化していた河川の護岸工事などがあり、近所の川は変化を迎えた。水流の変化は上流から流れてくる堆積物が溜まる位置が変化したことで水深が変わり、かつての自分が釣り針に食パンをつけて(釣り餌に食パンを使う場合は白い箇所より耳の方が香りがあるようで魚を誘引できる。また針への付きは食パンの角が最もよく、針も隠せるのでおすすめだ。)鯉を釣っていた場所からも連中はいなくなり下流へと移住してしまった。

 あれから時は流れて今の川にはかなりの水鳥が棲むようになった。近所かつ散歩には丁度いいのでそれと意識しなくても年単位の観察ができるから気づいたことかも知れないが観察しているとまず河原の水草が年々増えていった。葦などは冬には枯草になっても水中の水草は残っており、藻類もよく見える。そして前からいた鴨たちが次第に増えて今年は群れ単位でも上流を拠点とする集団やそれよりか下流を拠点とする集団などかなりの数がいる。

まだ子どもの大きさだが親鳥と一緒によく泳いでいる。

 鴨に限らず毎年一羽か二羽程度いた鷺も増えてきた。青鷺と白鷺がいて今年は青鷺か2〜3羽、白鷺は2〜4羽は見かける。生活圏は鴨たちとほぼ同じで青鷺は威嚇的に迫り餌場から他の鳥を追い出すが白鷺はのんびりと共存している。鳥にも社会性があるようだ。

枯れて倒れた葦の下に小魚がいるようでよく狙っている。

 また自分が小学生の頃はいたが近年では全く見かけなかったカワセミも戻っているようでこちらも2羽確認できた。鳴き声が独特なことと餌をとる際の川面への急降下が特徴的で見つけるコツを掴むとすぐに見つけることができる。

こうした川面に近い流木などにとまっている時は休憩しているようで小魚をとる際はもっと高い場所にある木へ移り、そこから小魚を見つけて急降下を仕掛けるようだ。

 この他にも今年は川鵜が飛来しており、水中へ潜って魚を獲っていた。潜った場所と出てくる場所がかなり離れている場合もあり、潜水能力の高さが伺える。

この時はカメラを持っていなかったのでスマホで撮影した。

水鳥以外の変化

 まず魚は増えた。今まで鯉がいなかった場所にも戻ってきたし、小魚の豊富さが水鳥の個体数を支えているのだろうと思う。またあまり見かけなかった猛禽類も上空を旋回するようになった。
 加えて元からこの辺に生息しているたぬきやハクビシンなども活発なようでよく自宅の庭へ来てはメダカなどを窃盗している。これらの四足歩行どもに関しては祖父がセンサーカメラを仕掛けて楽しんでいるようだ。
 しかしこうした不届者に対して庭を自主的に警備しているハチワレ・マスカーニャ氏は会見で「毅然とした対応をとる」と発言しておりこいつらは人の庭で何をやっているんだという気持ちになった。

雪の日に「寒い!入れてくれ!」と入ってきたハチワレ・マスカーニャ氏。

画面の外に発見が増えた。

ここは東京都の街と住宅地だぞ。

 そう、大都会だ。たまに高尾の山からイノシシやサルが来るけど大都会なんだ。信じてくれ。街とは人間がどこにでも住んでいてどこにもいる。そんな地域に年々野生動物が増加しているのが現状だと自分は認識している。そして奇妙なことにこれらの野生動物による実害があまり発生していない。例えば生ゴミを入れたゴミ袋を出していたら破られていた、などはカラスを含め元からある既存の問題でありゴミ出しルールの改善でゼロとは行かないまでもほぼなくなった。十年以上前とかになると自宅の雨樋に野生動物の糞が詰まっていたなどはあったがその頃よりも野生動物を見かける現在ではそういった問題は起きていないし、市役所が広報している内容は野生動物への注意喚起や対策でも農作物に関する既存の獣害が主なもので住宅に関するトラブルは見かけない。
 これらのことから推測すると、どうも野生動物たちは人間の居住場所は避けているがしかし近所には住んでいるということになる。住宅自体に何か実害があれば駆除されるのは野生動物であり、この棲み分けともいえる状態が継続するのであれば人間がリソースを投じて彼らを駆除する理由はない。つまり野生動物が人間の生活圏で暮らすこと、それ自体が上手くなっているのではないか? と私は思う。

増幅するにもタネがいる。

 自分は散歩するときによくデジタルなりフィルムなりのカメラを持って出歩くが例えば河原へ行けば水鳥を撮れる、じゃあ今日はデジタルに望遠を付けて行くかとなり駅の方へ行ってみるかとなればフィルムカメラでスナップするかともなる。このように散歩へ行く先に何があるか、棲んでいるか撮影の、もっと言えば遊びの幅が広がっている。これらの遊びはすべて液晶画面の外にあり、目で気がついたり耳で気がついたりする。前はよくイヤホンで音楽を聴きながら歩いていたが耳で気が付くことの多さに気がついてからはほぼ歩きながら音楽を聴くことはなくなった。

 これらの撮影対象、撮れそうなものたちがなければカメラを持っていてもシャッターを切ることはない。写真なり画像なりにするにしてもカメラはあくまで撮ったものを記録するか構図や色感で変化なり増幅させる機材であってタネとなるものたちに気が付かなければいくらカメラを持っていたところでどうしようもない。自分が住んでいる周囲の環境がさまざまな意味で豊かになれば撮れるものは増える。

 この他にも川沿いの遊歩道に公衆トイレが新設されたり週末には公園でキッチンカーやアウトドアグッズの展示販売会などのイベントが大小ある。会計は現金でもいいがたまにPayPayイベントでかなり安く昼飯なりおやつなりにありつけるし、最近は自販機もスマホ決済で買えるから財布を持ち歩かずに出歩けるようになった。こうした人間の商いも変化だし、それに気がついておっかなびっくり使ってみることも発見だ。

 撮るにせよ、食べるにせよ、発見が伴わなければ日々は退屈になる。しかし発見があれば散歩するときに財布は必要ないし、水筒の一つもあれば小銭すらなくてもその日を楽しめる。つまり様々な発見によって自分の消費行動や楽しみすらも変化が生じているということになる。これは発見がなければ自分の活動や自分自身に変化は起きにくい、ということにもなるかも知れない。

 もしそうであるならば自分自身の停滞を人間は発見によって打ち破れる。

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