言葉の相対性について

noteにいいねをくれる、イダヨコさん(私が勝手にそう呼んで毛むくじゃらにサングラスの方)が「言葉の相対性」という酔いに任せたツイートを集めたものを記事にしていて、私は何だかそれに違和感を覚えたのでした。

イダヨコさんは
・「文豪は、美しい言葉で自分の考えを語る」
・「政治家は、美しい言葉で自分の考えを語る」
という二つの文を例にして、
『「文豪は~」と「政治家は~」の二つの文章。主語を変えただけで、「美しい言葉」の意味がまったく違います。私が。言葉は相対的に成り立っているというのはこういうことです。(原文ママ)』
と断じています。

デジタル大辞泉によれば、相対的というのは「[形動]他との関係において成り立つさま。また、他との比較の上に成り立つさま。」ということです。

例えば、あるテストの結果が80点だったとします。単純にテストの結果が80点だったという他との比較を含まない判断が、相対的判断の対極にある絶対的判断です。絶対的判断は、80点が良い点数なのか悪い点数なのかという判断を含みません。

代わって、相対的判断というのは、例えば同じテストを受けた全員の点数と比較して、80点という点数が良いものなのか悪いものなのかという判断を含むものです。テストの平均点が40点であれば80点は良い点数であるし、90点であれば80点は悪い点数であるといった具合です。

ここで注意してほしいのは、相対的判断においても、80点そのものの意味は変わっていないということです。イダヨコさんの言葉に立ち返れば、「美しい言葉」の意味そのものは相対的判断においても変わっていないということです。にもかかわらず、イダヨコさんの『「美しい言葉」の意味がまったく違います』という言が正しいとすれば、何か別のファクターを探さないといけません。

私は、これは言葉の相対性ではなくて、言葉の意味合いは文脈に依存する、という風に考えています。同じ言葉であっても、置かれた文脈によって意味合いが変わってくる。「文豪は~」「政治家は~」という文脈がまさにそれです。個々のピースの形と、その全体の集合では形が異なるようなものです。個々のピースが角張っていてもその集合が丸かったり、その逆に個々のピースが丸みを帯びていてもその集合が角張っていたりすることがあるわけです。

と、こんなことを考えてみた秋の夜長でした。
(ちなみに、私は体質的にお酒がほとんど飲めないので、酔いに任せての……ではありません(笑))

https://note.mu/yokogamiyaburi/n/n0698ad7e294b

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