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村田沙耶香『星が吸う水』の読書日記(仮)

芥川賞受賞の『コンビニ人間』で有名な村田沙耶香の短編集。短編2編のみなので長い時間読書ができない人におすすめ。ただし内容までお勧めできる訳ではなく、女性の性を扱うのでセンシティブな描写が多くその点には注意。

本書を読むと芥川賞には珍しく(?)、『コンビニ人間』の方が世の中の「普通」が何たるかを平易な視点から描いた作品だということを知る。つーことなので、この『星が吸う水』の主題は「性」、特に偏見という意味で女性に据え付けられた「性」に向けられており、個人的な感想としては聞き苦しいというか、くだらないものに感じてしまった…。

では何故この本を手に取ったか。

「恋愛ではない場所で、この飢餓感を冷静に処理することができたらいいのに。」「誰でもいいから体温を咥えたいって気持ちは、恋じゃない。」

というフレーズに共感を感じたからである。だけど、実際にはこの小説は女性としての「性」の観点に注目が置かれていて、自分とは違う、感覚が違うという感想を抱いた。当然ながらそれはこの小説を書いた村田沙耶香が悪いのではなくて、どうしようもない男女の違いで隔たれているように感じる。

しかしながら、謂わば「商品化された性」、社会的観念として定義づけられた性の役割について、男女双方に違和感が生じてきている現代特有の感覚については、強く共感を感じる。

男に対しては女に対して強くあるべき姿が、女に対しては男に対して寛容であるべき姿が求められている感覚。特に男性の女性に対する向き合い方を「狩り」という言葉に表現したのは、千葉雅也の『デッドライン』以来の衝撃を受けた。『デッドライン』ではゲイの主人公がそうした典型的男性の理想像を「ノンケ」として表現した通りに、僕自身そうした男性の在り方は一般に男性の理想像として強制されているものと感じる。

だから、そうした他人に強制される既成の概念から脱したいという気持ちが湧き出て来るのは、自然の流れではないかと思う。そうした気持ちの現れとして表現される有り様は、人によってそれぞれである。例えば『デッドライン』に於いては主人公は「男性的な男性に征服される」自分でありたいという欲望からゲイという在り方に自分の理想を見出し、『星が吸う水』に関しては男性的な女性の在り方、『ガマズミ航海』に関しては性行為じゃない肉体関係にある自分に、その理想像があるのではないかと思う。これは謂わば自分の「性」を表現するという意味での「性表現」である、という解釈が最も当てはまるのではないだろうか。

…という小難しい話はさておき、僕なりの「性表現」に対する向き合い方を述べると、性的マイノリティの人からは差別的表現と思われるかもしれないが、幾ら社会的に当てはまれた自分の性の在り方から逸脱しようと試みても、肉体的に生まれてもってきた性の在り方からは、もはや逃れようができない、ということである。

「肉体的に生まれてもってきた性の在り方」とは、言わずもがな男女の交わりを以てでしか人間は生殖することができないという生理的な事実であり、又そうした事情に基づいて人間は異性に欲情するようにプログラムされているのではないかという推論に基づく。推論という域に留めておいたのは、勿論これが自分がこれまで生きてきた上での感想と経験という主観に基づくものに過ぎないからである。

自分自身、男として運命づけられてきたものに逆らいたい、自分自身のオリジナルでありたい、という気持ちがありつつも、「肉体的には男根があり、男根があることが自分を男たらしめている」という事実があり、男として女性に欲情している現実がある以上、理性では誰かを支配したいという男性的欲求がなく、ただ「誰でもいいから体温を咥えたい」と考えているという風に自分を定義付けていても、生理的に生まれながらにしてこの身に携えた本能は異性を物質的・精神的に支配して自分のものにしたいという男性的欲求を持っているという以上、その他の理性に拠って産み出される空論は結局自分の「性」を表現するものに過ぎない、という風に感じる。

それでも尚実際の男女の肉体関係ではないところに「誠の愛」や「本当のセックス」を見出すのは、前の記事繋がりで夏目漱石の言う「詩人(ロマンチスト)」である女であり、かえって僕のように既成の事実からでしか物事を判断し得ないのは、『三四郎』の広田先生が言うように「男子の弊は却って純粋の詩人になり切れない所にある」という慰めでしか効き様がないのではないか、とも思うのである。

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