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【小説】好きの方向vol.13

 歩道を歩く人々は、今の空のように黒く分厚いアウターを着て寒いせいか身を屈めるようにして歩いている。そんな人々が、忙しく歩いているように見えるのは年の瀬も近いせいだろうかと滋田桜子は、バスの窓越しから見て思った。
 バスを降りて、電車の改札口を通ってホームに上がると、同じ軽音のサークルの宇田が待っていてくれた。
「店の予約は、里中先輩がしてくれてるんだよね」
「そうだよ」
 電車が来たので、乗った。次の駅なので座らなかった。
 電車は、次の駅についた。
 改札口を出ると、里中先輩はツーブロックヘアーで胸板の厚い山田先輩と一緒だった。
 四人で駅の近くの長い白い暖簾が垂れ下がった居酒屋に入った。
 靴を脱いで上がると、店の店員が廊下の先を案内した。
 廊下を真っ直ぐ突き当たって右の個室を店員は、案内した。
 テーブルの奥に里中先輩と山田先輩が座って、手前の席に自分と宇田さんが座わると掘り炬燵だったことに気づいた。
 アルコールが運ばれると、四人で乾杯をした。
 そのうち料理が運ばれてきた。それぞれ料理をつまんでいると、桜子の前に座っている里中先輩の足があたった。
 桜子は、その里中先輩の足にそっと自分の足を添えた。
 里中先輩は、そんな自分の足をさけようとはしなかった。
「卒業したら、自分としては音楽はキッパリやめる。そう決めた」里中先輩が、ハイボールを一口飲んで言った。
「音楽の道に進まないんですか」カクテルのグラスをテーブルに置いて、身を乗り出して桜子が言った。
「進むワケないだろう。そんなにこの世界甘くないぞ」山田先輩が生ビールを飲んでから言った。
「ごめん、トイレ行って来る」里中先輩が言って立ち上がった。
「あっ、私も行って来るね」そう言って里中先輩を追うように個室を出て行った。
 自分たちの個室を廊下を跨いて向かいの部屋は広い畳の部屋で、年末とあってスーツを着た男性たちが忘年会が盛り上がっているのだろう、席もバラバラになって騒いで飲んでいる様子が見えた。
 そんな廊下を通ってトイレに行くと、里中先輩がいた。
「滋田。オレな」そう言いかけた時、あの盛り上がっている忘年会のサラリーマンの1人が千鳥足で里中先輩の前を通った。
「はい」桜子が、話しの続きを促すように返事をした。
「オレ、大学を卒業したら結婚する」
「そっ、そうなんですね。そっ、それはおめでとうございます」そんなありきたりの言葉しか言えなかった。
「ああ、ありがとう」また、1人酔った男が前を通った。
「なので、お願いがあるんだ」
「なんですか?」
「宇田さん達と話し合って、オレの結婚式でバンドを披露して欲しい」

 あれから帰って、あの時何て返事をしたのか、自宅に戻って思い出してもよくわからなかった。一つだけハッキリしていたのは、桜子という自分のことは里中先輩は好きの対象ではない、そのことはハッキリわかった。


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