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不思議な味の氷がつくった私たちの夏の記憶

夏を思い出そうとすると、蝉の鳴き声が脳内に響き渡り、暑さで湯だった田んぼのにおいが鼻につく。田んぼに張られた水は、カンカンに照る太陽で生温かくなり、土と草のにおいが混じって蒸発していた。

植えられたばかりのまだ背丈が低い稲が並ぶ、まばらな緑色の水。それを横目に、自転車で駆け抜けていくあの頃の私は、まだ小学校2年生か3年生だろう。プールの用意を水を弾くプラスチックのカバンに詰めて、水着の上から洋服を着て、暑さの中懸命に自転車を漕いでいた。自転車に乗るときはヘルメットを、という規則に素直に従っていた私の頭は、暑さで蒸れて汗で髪は額にはりつく。

濡れた髪が長く伸ばされていたのか短く切り揃えられていたのかは、はっきりとは思い出せないが、小学校1年生のときに、短くされすぎた髪をひどく嫌っていたのは確かである。そしたら、1、2年後の当時は長く伸ばしていたのかもしれない。ちなみに、短く切られたことを母親に対してぶつけた怒りは今でも思い起こすことができる。母親を睨みつける私。短くても可愛いよ、と笑いながらなだめる母親。絶対嘘だ。全然可愛くない。と、鏡を見て不貞腐れる私。納得がいかないことは、時が経ってもキチンと記憶の片隅に残っている。どんなにツマラナイことが原因だったとしても。

夏休みの昼間は、市が運営するプールに友達と出かけるのが日課だった。タダで小学校が開放するプールに入れるのに、わざわざ数十円を払って市民プールに通っていたのを覚えている。カウンターで待つお姉さんに、数十円を渡す。大人になったらここでアルバイトをしたいな、なんて考えていたなぁ。その夢は叶うことなく、成長とともに忘れられてしまったけど。

私を含め友人グループが、学校のプールではなくなぜ市民プールに通っていたのかは思い出せない。もう十何年も前のことなので、はっきりとは覚えていないが、私が持つ夏休みの概念は、いろんな日の記憶をごちゃ混ぜにした市民プールでの思い出が作り出している様に思う。

8月の太陽がジリジリと熱したプールサイドを小走りする私を、待ってましたとプールが迎える。大量の水を溜められただけの、長方形の枠がなぜこんなに恋しくなるのだろうか。キラキラと光る水面を思い出そうとすると何だかノスタルジックな気分に陥る。

水の中に足を突っ込むと、コンクリートで火傷しそうになった足の裏が癒されて、冷んやりとした水が徐々に身体の熱を取っていく。最初はプールの淵に腰掛け、膝から下だけを水中に沈めたあとは、少しずつのバタ足で体を水に慣らす。水の重みがすねにかかる。

慣れてきたら少しずつ肩まで浸かり、最後はドボンと頭まで水中に潜ると、それまで聞こえていた周りの騒音がはっきりとしない靄がかかったものに変わった。夏の到来に喜ぶ大きな歓声と、ぼうっと唸る様な水中の音を交互に聴きながら、私はゆっくりと泳ぎ始める。

ただの市民プールなので、ウォータースライダーや、波が起こる仕掛けはない。何の変哲も無いただの50メートルプールでは、工夫をして遊ぶしかなかった。なりふり構わずクロールするときもあれば、友達とシンクロの真似をしたり。プールの中で鬼ごっこをするときもあれば、ビーチボールを使ってバレーをすることも。子どもは遊び上手だ。どんな時だって、その場に合った楽しさを見つける。

あ、思い出した。小学校のプールではなく市民プールにわざわざ通ったのは、持参したビーチボールや浮き輪が使えたことが理由だったと思う。体育の授業とはまた違う、夏休みだからこそできる遊びを私たちは望んでいた。スクール水着じゃない水着が着れるのももう一つの理由だったはず。小学校2年生の私たちは、思ったよりマセていたのかもしれない。

同じプールに、何日も通っていてよく飽きないなと今なら思うが、当時はそのルーティーンに身を委ねていた。与えられた物の中から楽しさを見つけ出すのは、子どものときの方が確実に上手だったろう。稼げるか、地位が上がるか、モテるか。そんなことを考える必要はない。人生に楽しさしか求めてなかったときは、ただひたすらに面白いことを考えてれば良かった。面白いことを考えていれば勝ちなので、楽しいことを一緒にできる友達が何よりも大事だった。

遊び疲れる夕方5時には、蛍の光が流れプールは閉館する。着替えを済ませて外にでると、夕暮れ時でも感じられる夏の蒸し暑さが、冷えた身体を覆った。蒸し暑い外気に触れた私たちは、親の迎えを待ちながら、水筒に持参したお茶で水分補給をするのだ。

ただお茶を飲むだけの、この時間だったが、すごく楽しみにしていたことがあった。それは、友人の一人がくれる麦茶だ。もっと言うと、麦茶ではなく水筒に沈められた氷だった。その子はいつもプールの時間が終わると、麦茶と一緒に水筒から氷を取り出し私たちに分けた。

カリッ、ゴリッと私たちは氷を奥歯で噛む。蒸し暑さで体が再び火照り始める中、口に含んだ氷の冷たさが与える静謐なひとときは、プールに足を突っ込んだときの感覚と似ていた。そのせいなのか、いくつも食べたいと思うものでは無いただの氷を、皆んなこぞってせがんだ。

氷を分けてくれたプール友達とは現在では全く連絡を取っていない。小学校を卒業して、中学に進学した私たちは思春期を迎え、別々のグループで別々の遊びを楽しんだ。その子が、今どこで何をしているのか、噂ですら耳に入ってこない。私がイギリスで生活をしていることも、向こうは全く知らないだろう。

それでも私は、本当にたまにだけど、彼女と、彼女がくれた氷を思い出す。夏の暑さを想像すると、透き通る沖縄の海より、星が降る長野でのキャンプより、不思議な味のする美味しい麦茶の氷が脳裏に浮かぶ。こんな具合に、私が彼女を時々思い出す様に、彼女も私のことを思い出したりするのだろうか。私のことは覚えてなくても、あの不思議な氷の味を覚えているのだろうか。あのとき感じた氷の特別さは、大人になったら感じられない。遠いあの夏で、私たちが何に笑ったのかは覚えていないけど、氷を分けてもらったのは覚えてる。大したこと無いものばかり、記憶に残るのは確かなようだ。


#あの夏に乾杯


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ハルノ

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