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「花束をください」

「花束をください」

 そう口に出してみて気づいた。自分のために花束を買う。それはきっと、私の人生において初めてのことだった。

「どんなイメージでつくりましょうか」

 そう尋ねてくれた店員さんは、私の目の少し下あたりに視線を送りながら、ゆったりと微笑んだ。目を直視しない人であることに安堵して、私はゆっくりと口を開いた。


 どうしても終わらせねばならないタスクがあった。期日当日まで手をつけずにいた自分を呪いそうになったが、それも致し方ないとどこかで思っていた。行きたくない場所で、話したくない内容を話す。それも、初対面の人に。

「理由を教えてください」

 言われるであろうその台詞に対する、簡潔で的確な答え。それはきっと、以下のものだ。そうわかっているのに、私はこの言葉を口に出して話すのが極端に苦手だ。文章ではもう、何度も書いているというのに。

「両親から、虐待を受けていたからです」


 先日、離婚に伴う引っ越しをした。その際に変わった住所の閲覧制限をかけるために、市役所に赴いた。市職員の方は、「住民票のロック」という表現をした。ロックをかけるためには、市役所のみならず警察等への被害相談も併せて必要との説明を受けた。それが済むまでは仮ロックとなり、期日までに相談した旨の報告がなかった場合、仮ロックは外されるという。両親や兄弟に新住所を知られては元も子もない。引っ越した意味がなくなってしまうし、もう一度何処かに逃げる体力や気力が、今の私には残されていなかった。何が何でも今日中に警察署に行かなければならない。ぐっと歯を食いしばり、布団で丸まっていた身体を無理やり縦にした。

 ナビに目的地をセットして車を発進させる。脈がいつもよりうるさく、ドンドンと私を叩く。落ち着け、と己に言い聞かせながら、ハンドルを強く握った。

 終わってみれば、案外あっという間だった。書類に必要な事柄を説明するのに要した時間は、およそ1時間。私の半生は、「父母からの虐待(暴力、暴言)あり、今後も干渉してくる恐れあり」という簡潔な一文にまとめられていた。何も間違ってなどいない。要点は心得てくれている。だからこそ、それを見て私が抱えた黒い感情は、悲しいほどに行き場がなかった。


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