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「ありがたいことは、あたりまえじゃないの?」

「当たり前だと思わないでね!」

母は、この台詞がお気に入りだった。
ご飯があること。お家があること。学校に行けること。
全てがありがたいことであり、心の底から感謝すべきだといつも口を酸っぱくして私たちに話していた。母の生家は、時代もあるのだろうが、とても貧しかった。まだ幼かった母を柱に縛り付けて農作業をしなければ、生きていけないほどに。

ご飯を残すことは、絶対に許されなかった。それはどんな場合でも例外はなく、体調が悪かろうが食欲がなかろうが無理矢理にでも完食させられた。食事の時間は、楽しむものではなかった。栄養を摂取するためのもの。生きるためのものだった。「吐きそうだ」と訴えたときにも、「吐いてもいいから食べなさい。吐いたものも食べなさい」と言われた。そんな母の言葉に、父も頷いていた。何かが大きく間違っていると感じていたのに、それを言葉にすることはできなかった。両親の主張の全てが間違っていたわけでは決してないのだろう。それでも、彼らのやり方は食事の時間さえも恐怖を植え付けられるものでしかなかった。

寒い冬に暖を取り、熱い夏に涼む家がある。学校に行かせてもらえる。行事も休むことなく参加させてもらえたし、部活動や習い事の大会にも参加させてもらえた。その度に、そのことへの感謝をしつこいほどに強いられた。
端から見ると、我が家はとても教育熱心で立派な家庭に見えていたことだろう。
家庭は密室だ。外側からは、見えない。必死に目をこらさなければ、何も見えない。


「当たり前だと思わないでね!!」

父が飲み歩いて帰りが遅い日の夜、母は分かりやすく荒れた。料理を並べる際にお皿を置く度にテーブルが揺れた。ドンッ!という大きな音がして味噌汁が溢れる。それに気付いてテーブルを拭こうとすると「当てつけだ」と怒鳴られる。知らぬ振りをすると「気が利かない」と怒鳴られる。私が何をしようとも気に入らないのだと当時は感じていた。でもきっと、母は何もかもが辛かったのだろう。子どもに当たることで自分を保っていた彼女は、怒鳴りながら一体どんな気持ちだったのだろう。スッキリしているようには見えなかった。でもそんな自分にブレーキをかける気があるようにも見えなかった。

私は、両親が与えてくれなかったものを他人に与えてもらって生き延びた。二人には、それを与えてくれる他人さえも、いなかったのかもしれない。


時を経て、私は二人の息子の母になった。食べ物の大切さ、今あるものを大切にする気持ち。それを彼らに伝えようとしたとき、私の口から真っ先に出た言葉は、母のそれと同じだった。

「当たり前だと思わないでね。ご飯があるのはありがたいことなんだから」

無意識にそう口にしてハッとした。言われるたびに心がザワザワしていた台詞を、息子に当たり前のようにぶつけていた。”連鎖”という言葉がふいに頭を過った。教育と洗脳は紙一重だ。染み込んだ言葉は簡単には消えない。
でも、息子はそんな言葉を受け入れるタイプの子どもではなかった。

「ありがたいことは、あたりまえじゃないの?」

心底不思議そうな顔をして、彼は聞いた。その一言は、私のなかに深く突き刺さった。

”当たり前”だと思うのはたしかに違うのかもしれない。でも、子どものうちは。親の保護下でしか生きられないほどに幼い頃くらいは、”当たり前”だと思わせてあげてもいいのではないだろうか。

いつなくなるか分からない。いつ失うか分からない。そんな風に怯えながら毎日噛みしめるようにご飯を食べる必要があるだろうか。そのありがたさを上から押しつけるように日々言葉にしなければ、本当に感謝できない大人に育ってしまうのだろうか。
少なくとも息子たちを見ている限り、そうは思えない。彼らは、ご飯があることをおそらく”当たり前”だと思っている。毎日安全に暮らせることも。自分たちが危険に脅かされないことも。心と身体が守られる毎日。それを、当たり前のものとして享受している。
でも、息子たちはご飯の味を知っている。笑って食べるご飯が何より美味しいということ。あんまり好きではない野菜も少しは食べたほうが良いということ。作ってくれる人の気持ちも分かっているからこそ、必ず「美味しいね!」と言葉にしてくれる。それで充分なのではないだろうか。それだけ分かっていれば、あとは彼ら自身の体験を通してその尊さは自然と身についていくのではないだろうか。

今現在子どもたちは、まさに日頃できていたことができない生活を強いられている。毎日行けていた学校にも行けず、バスケもできない。ちびは大好きな公園で満足に遊ぶこともできず、すこぶる不満そうだ。そんななかでも、彼らは彼らなりの逞しさで多くのことを学んでいる。


理不尽な出来事は、生きていれば必ずぶち当たる。そのなかで泣いたり怒ったり悲しんだりしながら、”当たり前なことなんて何もない”のだと否が応でも学んでいく。だったら親にできることは、揺らぐことのない安心感を手渡してあげることなのではないだろうか。

外でどんなに辛いことがあっても、家に帰れば大丈夫。
家に帰れば、いつもあったかいご飯がある。
その安心感があるからこそ、外の世界に飛び込んでいける。傷付いて帰ってきても、その羽根を充分に休めたらまた好きな場所へ飛び立っていける。本来”家(ホーム)”とは、そういう場所のはずだ。


「当たり前だと思わないでね」

この台詞を私が息子たちに言うことは、おそらくもうないだろう。むしろ当たり前だと思っていてほしい。彼らの心身が守られる毎日が、空気のようにそこにあるものだという感覚のままに生きてほしい。その方が、きっとずっと生きやすい。いつこの幸せが崩れるのかと怯えながら生きるよりも、ずっとずっと楽に呼吸ができるはずだから。


昨夜彼らと久しぶりにお好み焼きを食べた。笑いながら、たくさんのことを話しながら。食べたいと言い出したちびは思ったほど食べなかったし、長男は肉巻きに食い付いたためか、お好み焼きは1枚食べきるのがやっとだった。「お母さん太っちゃうじゃん!」と小言を言ったら、「食べられるようになったんだから、いっぱい食べたらいいんだよ」と長男に言われた。

当たり前なことなんてない。今ある幸せは、全部ありがたくて、全部特別なこと。
きっともう、息子たちは十分に分かっている。


次は何を一緒に食べようか。彼らが好きな刺身にしようか。それともお肉にしようか。笑って、伸びやかに食べよう。そんな時間が、私たちにとって何よりの栄養になるはずだから。


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