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大人になってから観る『スタンドバイミー』


 この映画を初めて観たのは、中学生か高校生かそのくらい。母がBSか何かで放送されていたこの映画を録画していて、私を誘って来たのだ。
 親に誘われるままに映画を見始めて衝撃を受けたり、虜になったりするのはよくあることだった。
 わけもわからずスピーカーを爆音ギターで壊す青年を無理やり見せられたと思ったら、『バックトゥザフューチャー』だったり。
 布団で半分顔を隠しながらも好奇心が抑えられず、生きた人間から心臓を抜き取るシーンが目に焼き付いてしまった『インディージョーンズ 魔球の伝説』だったり。
 そのお陰で名作はかなり履修することができた気がする。

 

中高生の私と『スタンドバイミー』


 初めてこの映画を見た時の感想は、ワクワクする冒険モノを観た時のそれだった。中学生高校生くらいの頃は自分と歳の近い子供が冒険したり自分たちだけで何かを成し遂げるような物語によく惹かれていたように思う。
 妹と何度も観た『グーニーズ』もそうだし、好んで読んでいた宗田 理さんの『僕らの七日間戦争』ものめり込んで読んでいた。
 いつもの遊び場や親のいる街を離れ、線路をたどり、森をくぐって、ヒーローになるために、少年の死体を探す。
 友人たちと語り明かす夜や小競り合いじゃれあい、へらず口憎まれ口。
 この映画を彩る少年たちの輝きに、昔は魅せられていた。

ようやく大人になってきた私と『スタンドバイミー』


 久々に観ると、確かにそこには変わらず少年たちはいた。
屑鉄置き場でじゃれあい、喧嘩をして、歌って、歩いて、泣いて、死体を目指す。

 でも、私が大人になったからだろうか。
 あの頃とは違うものがみえたのだ。

 あまりにも濃厚な少年たちの2日間


 そもそもなぜ、少年の死体を探す旅なのか。まずそこを考えた。決して楽しいものではない、と主人公のゴーディも言っている。汽車に轢かれた死体なんて、内臓が、目玉が、と決して寝覚めのいいものではないはずだ。
 
 
 印象に残った2つのセリフから私なりにこの度の意味を考えてみた。
 まず、旅の道中、立ち寄った店の店主がゴーディに言うセリフ
「生きるとは死に向かっていくことだ」

 そして、この旅を思い出し、書き起こす大人になったゴーディのモノローグ
 「そこ(その旅の時間)には全てがあった」

 この二つから、少年たちは、死体という死に向かっていく、つまり生きるということを、あの短い旅で濃縮して体験したのではないか、と私は考えた。

 人口千人ちょっとの小さくて窮屈な街を飛び出し、自分たちの決めたゴールを目指す。
 道中では転んだり、誰かとぶつかったり、やるせない気持ちに溺れそうになったり、友達に支えてもらったり、逆に寄り添ったりして。

 そんな旅から帰還した後、いつもの街は以前よりも小さく、全く別のものにみえた、とゴーディは言っている。これは、街ではなく彼自身が大きく変化したということの表れだと思う。
 とても、普通にぬくぬくと暮らしていたらたった二日間で体験できるものではない。でも、これらを経験しているかしていないかでかなり生き方が変わってくる、そんな体験だと思う。
 

「12歳の頃のような友人」


 そして、改めてゴーディとクリスの関係にとても心打たれた。
 優秀で周りに愛され、家庭で一番自分を理解してくれていた兄を失い、自分の価値がわからなくなり、生きることに不安になっているゴーディ。
 クリスが自分の存在に自信を持てなくなったゴーディを励ますシーンは作中何度も描かれている。

 クリスは父の言葉のせいで自分の才能を信じられないゴーディに「君の父さんは何もわかっていない …君は子供だ」と言う。
 子供と言われ怒ったゴーディが「ありがとうよ、父さん」と突き放しても、真剣な目で
 「俺が親父なら良かったのに。君は才能がある」
 と、きっとゴーディが父親から一番言って欲しい言葉を贈る。
 こんな風に自分を肯定して、信じてくれる人がいたことは、あまりにもゴーディの人生に影響を与えたと思う。
 誰になんと言われようと、クリスがという友人がいてくれたことはきっとクリス自身と会うことがなくなっても、ゴーディの中に生き続けていたと思う。
 このことは、彼が大人になったラストシーンでも物書きをしていること、子供達と幸せに暮らしていることからも伺える。

 反対に、クリスにとってもゴーディは自分を信じて進むきっかけになったと思う。
 クリスは家庭環境が悪く、周りも彼自身も、ろくな人間にならないだろうと思っていた。
 盗んだ給食費を先生に返したのに、そのお金を先生がくすねて停学を食らっても、きっと誰も自分の言葉を信じないだろうと、窮屈な世界と不条理を嘆き、気丈にみえた彼が子供らしく涙を流すシーンは、胸が締め付けられた。
 旅から帰り、いつか街を出られるかな、と尋ねたクリスに、ゴーディは
 「君ならなんだってできるさ」
 と、クリス自身をみてはっきりと伝えてみせた。
 その後クリスは進学組に入り、大学を出て弁護士になった。彼らしく努力をし、道を切り開いたのだ。

 幼さの中にこんなにも人生の重要なシーンが散りばめられているのだから、この映画を見て胸いっぱいにならない訳がないのだ。

 無邪気で楽しそうにみえて、まだほんの12歳(私の半分しか生きてない)の少年たちでも、傷ついて、生きることや自分自身のことを考えている。
 それをたった2日、映画にして80分ほどで描いているこの作品は、やはり、濃縮された『生きる』ことの体験だと思う。

  大人になったゴーディは書き連ねてきた彼らの物語を締めくくる。
 「12歳の頃のような友人はもう二度とできないだろう」と。
 あの頃、これからどんな大人になるか、どんな道を選ぶか、気にもとめず、友達と過ごしていたあの頃。
 一緒に旅に出て転げ回って遊んでいたテディとバーンは就職組へ進学し、やがてゴーディたちとは疎遠になった。
 結婚したり働いたり、気がつけば全く違う人生を選んでいて、本当にあの12歳の頃しか、あの4人の人生が交わるところがなかったと気がつく。

 これは本当に、珍しいことでもない、ありふれたことだと思う。

 自論だが人の人生には定員があって、出会った人全員が常にスタメンでいることはないのだと思う。あの頃現役バリバリだったあの人も、ベンチメンバーになり気がつけば別のチームで活躍している。そういうものだと思う。
 しかもその定員は仕事だったりなんだりで年々少なくなっていくこともあって、そこに入れるメンバーも肩書きだったり年齢だったりでだんだん限定されていく。
 それは決して悪いことではないし、それがある意味大人になるということだと思う。
 でも、それを知ったからこそ、
「12歳の頃のような友人はもう二度とできないだろう」
 このセリフが、頭から離れなくなった。

 そんな金曜日の夜でした🥐


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