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ヤンゴンでコロナに感染した

ヤンゴンで新型コロナに感染したのはもう2ヶ月以上前の話になる。実は前回(7月16日)コロナについて記事を書いたすぐ後に自分が本当に感染してしまったのだ。

陽性だった

最初に風邪っぽい症状が出たのは7月20日の夕方だった。熱っぽさとだるさを感じたが、時々ミャンマーでもかかる風邪の症状と似ていたので、いつものディコジン(ミャンマーで有名な風邪薬)を飲んで早めに寝床についた。もしかしてコロナ? という疑いも頭に浮かんだが、すぐに眠りに落ちてしまった。結局、ディコジンは全く効かず、翌々日にはコロナウイルスの簡易抗原検査キットが友人から届いた。

早速テストをすると、ラインはきれいに陽性を示した。

検査キットで検査したのは発症して3日目だったが、この頃からいつもの風邪と様子が違ってきた。熱は38度を越し、尋常でない体のだるさがあった。2週間ほど前に25,000チャット(約1,800円)出して買っておいた血中酸素濃度を測る中国製のパルスオキシメーターが役立つときが来た。測定結果はは96だった。発症前に試しに測定した数値が98や99だったので、今回は若干低い程度ということでとりあえずは安心した。

匂いがあまり感じられなくなったのは4日目だった。何を嗅いでも匂いを感じられない。それではと、トルコ製のウェットティッシュを嗅いでみるとかすかに匂いがした。このウェットティッシュ、袋から出しただけでめちゃくちゃ強い香料の匂いがするのでちょっと閉口していたティッシュだ。それがこんなところで嗅覚チェックとして活躍するなど思ってもいなかった。嗅覚だけでなく、味もわからなくなってきた。何を食べても味気ないのだ。まあ、食欲がほとんどなかったので、味がわからないというのも大した問題ではなかった。

一週間目あたりになると、体温計が38.9度を示した。自分で記憶している限り、たぶん人生で一番の高熱だ。それに体のだるさが尋常ではなかった。一応朝には起きるが、だるいので大きなクッションに横たわる。そのクッションというのは、日本でも流行った「人がダメになる」ビーズクッションだ。私はそのクッションに沈没し、本当にダメになった。天井をずっと見上げているだけの人間になていた。それも疲れてくるとベッドに行き、また寝た。

食欲はほとんどないのだが、妻が作ってくれたお粥をなんとか胃の中に押し込んだ。実は妻もコロナに感染したのだが、私よりずっと軽症だったのでお粥を作ってくれたのだ。

コロナの症状で重要なのは血中酸素濃度だ。この数値が90以下になると酸素吸入をする必要がある。私は幸いなことに最低でも94までしか下がらなかった。酸素が不足していたヤンゴンでこれは幸運だった。

私がウンウンと唸っていた頃、アパートのお隣さんから玉子や果物や野菜の差し入れがあった。買い物に行けないのでとても助かった。特に玉子はコロナに効くという噂でヤンゴンの商品棚から姿を消していたので、貴重品だった。

10日目あたりから徐々に熱が下がってきた。味覚と嗅覚は相変わらず戻らないが、あれほど強かった倦怠感も少しずつ薄れてきた。スマホやパソコンの画面を見たり文字をタイプすることができるようになってきた。2週間目にはかなり回復し、自分では完治したと思えるほどだった。

ただ、後遺症なのか今度は咳が出るようになった。その咳も収まり本当に良くなったと言えるようになるのにあと1週間ほどかかった。そして、久しぶりに外に出た。雨季でどんよりした8月の空だったが、ひさしぶりの外は体が軽くなった気がした。実際、自宅で寝込んでいた間に体重が5Kgほど軽くなっていた。しかし、心は軽くなかった。コロナに感染して悲惨な目にあった友人がたくさんいたからだ。

地獄だったヤンゴン

この時期、ヤンゴンは地獄だったと言っていい。

7月中旬に親しい友人の両親がふたりともコロナで亡くなったという話を聞き驚いたのが始まりだった。その後、友人知人から連日のように訃報が届くようになった。私が住んでいる地区でも、昨日はあそこのおじいさんが亡くなった。今日は隣のアパートで二人亡くなったといった話が次々と飛び込んできた。しかし、悲劇が連日続くと人は慣れてしまうのだ。そして私もコロナに感染し、うつろな意識の中で人の死が当たり前になり、自分自身の死も思うようになった。

その頃だった。友人からある知らせが入ってきた。15年来の親しい友人がコロナに感染して病院に入院したのだ。酸素チューブに繋がれた彼の写真も届いた。そして、何と知らせが入ったその日のうちに亡くなった。彼はまだ40代で、奥さんと幼い娘を残して息を引き取ったのだ。その夜、ひどい頭痛と共に彼の姿がずっと頭の中を巡っていた。

亡くなったのはミャンマー人だけではない。その頃はとても少なくなっていた在留邦人だが、4名が亡くなった。プライベートジェットで日本に緊急搬送された日本人も何人かいたと聞く。

ヤンゴンで感染した場合、その多くは自宅療養だ。元々ミャンマーでもコロナの防疫システムがあり感染者は隔離施設や指定病院に搬送されていた。しかし、クーデター以降このシステムが崩壊してしまった。医者がCDM(市民的不服従運動)で公立病院から少なくなったということもシステムが崩壊したひとつの原因だが、このシステムを支えていたボランティアたちの多くが軍に対する抵抗運動に加わったことが大きい。

しかし、最も大きな原因は軍に対する感情と信頼だ。軍の世話には絶対になりたくない、何をされるかわからないということで、公的機関が国民から忌避されていた。公立病院もそうだ。クーデター以前から公立病院は医療機関としての信頼が低かったが、クーデター以後はより皆から敬遠される存在となってしまった。

結局、コロナに感染した人はほとんど自宅で何とかしようということになる。その場合、酸素の有無が生死を分けることが多かった。酸素吸入が必要となった場合、自分たちで酸素ボンベを探してこないといけない。これが大変だったし、毎日の酸素の充填も困難だった。

ヤンゴンでは酸素を充填してくれる民間工場が何箇所かあるのだが、そこに軍が横槍を入れるようになった。一般人の酸素充填を禁止したのだ。工場の前で酸素を求めて並んでいると、兵士たちがやってきて銃で脅して追っ払ったのだ。コロナ患者を助けるためにボランティア活動していた医者たちを軍が騙して呼び出し、酸素ボンベを取り上げただけでなく全員逮捕したということもあった。

酸素を手に入れることができなければ、最後の手段として病院に行くことになる。しかし、病院も満床で入院が非常に困難だった。また、運良く入院できたとしても患者一人では入院できない。必ず入院中に介護をする人を患者本人が用意しなければいけない。病院は酸素を提供するだけで、患者の世話は行わないからだ。

多くの場合は身内の人間が介護することとなるが、中には貧しい家の娘が雇われて介護人となることもある。介護人は病院に入ると外に出ることが禁止され、患者が退院するか死亡するまで病院にずっと泊まり込みになるのだ。介護人がコロナ未感染だと、かなりの確率でコロナに感染してしまうことになる。これがミャンマーの病院だ。

コロナに感染した私だったが、病院に行くことも酸素ボンベの世話になることもなく、自宅で完治したというのは幸運だった。酸素が必要になるような状況になっていたら私も死んでしまったかもしれない。

多くのミャンマー人がコロナにかかって苦しんだ。ほぼ全てのミャンマー人が身内や友人をコロナで亡くしたに違いない。そのとき、軍は国民を助けるのではなく銃を向けた。これを国民は忘れないだろう。

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