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コミュ障と文章

人と会話するのが苦手だ。自分の脳みその中は大きな図書館みたいで、自分が伝えたいことを伝える為に一つ一つ言葉を探して選んで口にするけれど、いつも「表現が独特」とか「テンポが独特」という印象に落ち着く。考えている途中で相手の様子をうかがってパニックになると信じられないくらいにどもってしまったり、目線がうろうろとさまよい続け、ゆびは生き作りのイカのようにせわしなくうごめいてしまう。落ち着いて、と言われても自分の体をうまくコントロールできないし、しゃべっているうちにゴールが見当たらなくなって不時着することも多い。


だからずっと、コミュニケーションや自分の意見を発表するみたいな場は苦手だったし、コンプレックスだった。


わたしは人に恵まれていると思う。私の周囲の人は優しい人ばかりで、わたしが言葉に詰まったり、気持ちが高ぶって言葉にできなくなったりすると、背中をさすってゆっくりでいいよと言ってくれる。私の表現が独特だった時、面白いよねと笑ってくれる。だから、何とかなってる部分が大きいと思う。ずっと、自分の中ではつじつまが合っているのにほかの人から理解されない、自分ではどこが変わってるのかわからないという状態だったが、少しだけコンプレックスは小さくなってきた。


昔から文章を書くことは好きだったし、本当は詩作や物語だって書いたことがある。私の言語は、きっと口からよりも指先から出るようにできているのだと思う。口先からだと、本当は言いたくない「つらい」「かなしい」も溢れてしまうけれど文章でならもっと丁寧に言葉にできる。自分の中にため込んだきらきらと美しいものも見せられる気がする。


生きずらいタイプに生まれてきた。

選択肢もことごとく間違える、不器用すぎて笑えるくらい、凡ミスばかりして物事を溜め込みやすく、コミュニケーションが苦手でそのくせ人の陰の感情に影響されやすく人目にビクビクしたばかり。泣きくれた夜も不安で眠れない夜も数えきれない。

絶望を目の当たりにすることばっかりだ。

でも、なんとなくみんなが気付いていなさそうな世界のきらきらも見えているように思う。背中をさすってくれる人の手のひらの温度とか、都会の星の見えない夜空を飛ぶ飛行機とか、田舎で耳を澄ますと雪の降る音が聞こえることとか、すこししか話したことがない素敵な先輩が「南林ちゃん」と呼んでくれたこととか。いちいちうれしくなるし、いちいち大事にポケットにしまいたくなる。

今までラップをほとんど聞いたことがなかったけど、リアルの音楽だから陰の気持ちや苦しさ生き場がない悲しみをうたっている人達のことが好きになった。「リアルってやつは笑えやしない」とうたう人に、「意識のない時のほうが幸せかも」とうたう人に、「どうせ俺なんて人間としてもう下の下の下」とうたう人に、「本当はあの時こういいたかったんだよねぐちぐちぐちぐち」とうたう人に、救われるようになった。

わたしにとって会話よりもよほど文章のほうが本音で、同時に自分で消化できないものを書いて改めて咀嚼しているんだと思う。言葉は心で脳みそだから、丁寧に言葉を選びながら衝動的に。誰かに教えられるスキルも誰かの心を軽くするノウハウもないので日記のように自分のことばかり書き連ねて、でも、たまたま読んでくれた人が感想をくれたらすごく嬉しい。


あんまり明るく楽しい話もできない。でも私の文章を好きだといってくれた人がいるだけで、すごく幸せだ。



最近、自分の言語は文章なのかもしれないと思う、というだけの日記。

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