樹木図鑑Vol.5 ブナ改訂版 麗しき青森のブナたち
青森に来て一番お世話になった樹種といえば、ブナ。そこで、今回は数年前に書いたブナの記事を改訂して載せました。
学名 Fagus crenata Blume
ブナ科ブナ属
落葉広葉樹
分布 北海道(黒松内以南)本州・四国・九州の冷涼な地域
樹高 30メートル
漢字表記 山毛欅、橅、椈
別名 ソバグリ
「日本に分布する樹種のうち、どれか一種類を選んで海外の方に紹介するとします。なんの樹を選びますか?日本が世界に誇れる樹、これぞ日本代表‼︎という樹を選んでください」
こんな質問がきたら、正直かなり悩みます。日本にお住まいの樹種は1000種以上あるうえ、そのひとつひとつが素晴らしい魅力を持っているからです。
ただ、間違いなく候補に入れるだろうな、という樹種はひとつあります。それが今回ご紹介する、ブナです。
冷温帯林はブナの天下
ブナは、日本の冷温帯林では最も勢力が強い樹種です。冷涼な深山に行けば、ブナが大規模な森林を形成している光景を見ることができます。
たとえば、現在ぼくが住んでいる青森県の山には、超広大なブナ林が横たわっており、八甲田の展望台から樹海を見下ろせば、見渡す限りブナ、ブナ、ブナ〜という景観を拝めます。
ブナは、北国の森の「極相樹種」です。そのため、成熟したブナの天然林は、人の手があまり入っていない山域でしか見ることができません。そのため、「良好な状態のブナ林があるかどうか」は、その地域の自然の状態を表すバロメーターとなっています。
ぼくが「日本代表樹種」にブナを推す理由のひとつが、ブナの個体数の多さです。東北の山中で、ブナたちが大挙して広大な森を埋め尽くす姿を見ると、「やっぱり冷温帯林の主役はお前だよなあ」と感心してしまいます。
ファッションセンス抜群
もちろん、ブナは「ただ数が多いだけの樹」ではありません。数が多いだけだったら、「日本代表樹種」に推さないです。
ブナの一番の魅力は、彼の美しき樹姿だと思います。
上の写真は、奥入瀬渓流に生えているブナの大木。この個体は、ブナの良いところを全部詰め合わせたような樹姿をしていて、ぼくのお気に入りの大木のひとつです。
ブナって、ファッションセンス抜群な樹種だな、と思います。
彼の樹姿には、気品と優しげな雰囲気が同居しています。
すらっと高く伸びた幹は、まるで一流モデルのよう。洗練されたボディラインにうっとりしてしまいます。
樹のてっぺんでは細かい枝が縦横無尽に飛び交い、森の天井を網がけしている。ブナの枝がつむぐ繊細な文様は、至高の芸術作品です。
そして、ブナを語る際に外せないのが、すべすべ美白樹皮。
ブナの幹には、あまり亀裂が入りません。そのため、ブナの樹皮はいつもスベスベな印象。青空の下で白く艶めくブナの幹肌を見ると、思わずその色気にドキッとしてしまいます。
透き通るような柔肌は、ブナの上品かつ優雅な樹姿に絶妙にマッチしています。この樹姿には、この樹皮しかないよな、と鑑賞者を唸らせてしまう。樹皮の色気が、樹そのものの美しさを著しく増幅させているのです。
自分が一番美しくなる樹皮を身に纏う。こんなにもハイセンスな樹皮の着こなしを披露してくれる樹は、なかなかいません。
ブナ林に溶ける
ブナが優占する森のことを「ブナ林」と呼びます。
ブナ林は多くの森歩き愛好家から愛されている場所です。トレッキングコースガイドを眺めていると、よく「美しいブナ林」という注釈を見かけます。ブナ林歩きをハイキングの醍醐味と捉えている人が結構いるのでしょう。
それもそのはず、ブナ林には、溶け込みたくなるような居心地の良さがあります。
前述したように、ブナはすべすべ美白樹皮を身に纏っています。おそらくその真っ白い樹皮が日光を反射するのでしょう。ブナの大木が林立する森の中には、明るい雰囲気が漂います。
日光の明るみを白幹に伝わせて林内まで運び込んでくれるブナは、ハイカーへのサービス精神旺盛だな、と思います。明るいブナ林を歩いていると、「ああ、いま僕は森に歓迎されているなあ」と感じます。ブナ林歩きの気持ちよさは、他の何ものにも代え難いのです。
ブナの近縁種に、ミズナラというヤツがいますが、あいつはホントに意地悪な樹種です……。森の中を薄暗くして、ハイカーの恐怖心を煽るんですもの……(くわしくはミズナラの樹木図鑑をご覧ください)
ブナ林の生態的役割
ブナ林は、北日本の山の大部分を覆っています。広大な面積を占めている分、ブナ林が生態系の中で果たす役割は非常に大きい。
まず、水源涵養。
ブナの落ち葉は、他の樹種と比較して分解されにくく、完全な土になるまで時間がかかります。そのため、地面に落ちた葉は、なかなか腐らずにどんどん降り積もっていきます。すると、落ち葉の分厚い堆積層が形成されます。除雪が追いつかない道路に雪がどんどん積もっていくのと同じ理屈です。
この、落ち葉の堆積層が、雨水・雪解け水を貯め込み、洪水や氾濫を防いでくれるのです。
実際、奥入瀬渓流の流水口である十和田湖には、大きな川の流入がなく、湖水の源は周囲のブナ林からの湧水です。深さ300m以上、周囲46kmの湖を満タンにしてしまう、ブナ林の保水力には頭が下がります。
さらに、ブナは野生動物たちへの食糧供給の役割も担っています。
ブナの学名の「Fagus」は、「食べる」という意味のラテン語です。その名前通り、ブナの実には約30%の脂肪分が含まれており、栄養満点。これが冬眠前の動物たちの貴重なエネルギー源となります。
日本の自然を形づくるうえで、ものすごく重要な役割を果たしている、ということ。これも、ぼくがブナを「日本代表樹種」に推す理由です。
受難のブナ林
さて、いまでこそ「日本の自然を形作る大事な樹」として重要視されているブナですが、その価値が周知されたのはごく最近です。一昔前まで、ブナは「役に立たない樹」として人々から軽んじられていました。
ブナは、木材としての価値がほぼゼロに等しい。
ブナの材には多量の水分が含まれています。生木を木材として利用するためには、木を乾燥させる必要があるのですが、ブナ材の場合、乾燥させると大量の水分が一気に抜けるため、材が大きく変形してしまうのです。こういった木材は、「狂いが出やすい」として、木材加工業者から疎まれます。
さらに、なんとかうまくブナ材を乾燥させたとしても、その努力はあまり報われません。ブナ材は腐食に弱い(=耐久性がない)ため、建築材料として全く使い物にならないのです。
これらの厄介な性質をなぞらえ、人々はブナに「橅」という漢字を当てました。木である彼に「木じゃ無い」。なかなかヘビーな誹謗中傷です。
そもそもブナという樹種名も、「(役に立たないから)ぶん投げてもいい木→ぶんなげる木→ぶな」という語源である、という説があります。
昭和20〜30年代の拡大造林政策の時期は、ブナにとっては受難の時代でした。
日本中の山で広大な面積のブナ林が破壊され、スギやヒノキ、カラマツなどの植林地が造成されたのです。戦後復興で日本の木材需要はどんどん増すだろうから、役立たずのブナは取っ払い、代わりに木材として有用な樹種を植えた方がいい。当時の人々はこう考えたのです。
見事なブナ林が広がる奥入瀬界隈も、植林地造成の波に飲まれた地域のひとつです。
奥入瀬渓流内は特別保護地区に指定されているため、原生的な森が残されており、ブナの大木たちが悠々と育っています。見事なブナ林が広がる渓流にいると、どこまでも深い深い天然林が広がっている錯覚を覚えますが、実際にはそんなことはありません。奥入瀬渓流から数百メートル車を走らせ、特別保護地区から出てしまえば、杉の植林地に突入してしまうのです。渓流の天然林の背後を固めるスギ植林地を見ると、映画のセットの裏のハリボテを見てしまったかのような、興醒めな気分になります。
ブナ林破壊の代償は、非常に大きいものでした。
スギやヒノキの植林地では、ブナ林と違ってフカフカの落ち葉堆積層は形成されません。スギやヒノキの葉には脂分が多く含まれているため、微生物による分解がほとんど進まないのです。(ブナのように落ち葉の分解に「時間がかかる」と、良質な土壌ができあがるのですが、スギやヒノキのように落葉がほとんど「分解されない」状態だと、貧弱な土壌しか形成されないのです)
結果、ブナが守っていた山の保水力が失われ、各地で土砂災害が頻発するようになりました。
「近すぎて見えない支えは、離れてみればわかるらしい」
稲垣潤一の楽曲にこんな歌詞がありましたが、ブナ林の問題もまさにこれ。
一昔前までそこらじゅうにあったブナの天然林を切り倒し、植林地に改変したら、土砂災害の増加という大きなしっぺ返しをくらった。ああ、やっぱりブナの森は山を守る上では大事な存在だったんだなあ…。人々がブナの価値に気づいた頃には、日本のブナ林は壊滅的な状態になり、往時の姿を留めた森はほとんど残っていなかった…。今現在、この状態です。
奥入瀬のような、優雅なブナの大木がそこかしこで見られる森は本当に貴重です。数百年もの長い期間、ブナたちが人間の邪魔を免れて成長できた場所なんて、日本にはほとんど残っていないからです。
森の中で、美白樹皮の色気を周囲に発散させるブナの大木を見かけると、感動するのと同時に、ちょっと寂しい気持ちにもなります。おそらく、1000年前の東北は、ほぼ全土が深いブナ原生林で覆われていたのでしょう。ブナの原生林が際限なく広がっていた頃の東北の景色って、いったいどんなものだっただろう。きっと、樹木好きのぼくにはたまらない、魅惑的な光景が広がっていたんだろうと思います。
しかし、今の時代に生まれてしまった以上、そんな景色を拝むことは不可能です。八甲田の山裾に残されているブナ天然林の様相から、「想像」することしかできません。
八甲田山麓で、敬愛するブナの大木たちを見るたびに、「こんな見事な大木が東北の隅々まで生えていた、太古のブナ全盛時代には、もう戻れないのか……」という実感が湧き起こり、一抹の寂しさを感じるのです。
もちろん、いま僕が住んでいる東北の土地は、先人たちがとてつもないほどの長い時間と苦労をかけて開拓した場所ですから、ブナ林を開墾したことを非難するつもりはいっさいありません。ただ、ブナ全盛期時代の森も見たかったなあ…という思いも心のどこかにあるのです。
それはいいとして、70年ほどまえの拡大造林でブナ林が破壊され、そのうえせっかく植林したスギも利用されずに放置されている件は、やっぱりどうも納得いきません。
森に生えている樹は、生えるべくしてそこに生えていて、何らかの重要な役割を果たしているのです。「木材として役に立つかどうか」という視野が狭い切り口で樹を評価し、植生をいじくりまわしたりすると、あとあと大変なしっぺがえしをくらいます。「利用」を伴う樹とのお付き合いには、慎重さが求められるのです。ブナ林問題から得られる教訓です。
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