「ゲイが気持ち悪いっていう意見もあっていいと思う」と言われたら...


「私はゲイが気持ち悪いっていう意見もあっていいと思う」

と友人は私に言った。

彼女はLGBTQ+は気持ち悪い、ゲイの人を気持ち悪いっていう意見もいいと思うと言ったのだ。私はどのような性的指向でも尊重されるべきだと考えているので、友人の発言にとても憤りを感じ私はなんて言うべきかわからなかった。

「どのような性的指向の人でも受け入れられる社会であるべき、人が人を愛することがなぜ性の違いだけで気持ち悪いと言われなくてはいけないのか」
「あなたの、その気軽な一言のせいで多くの人が生きづらい社会になってしまう。」

  友人の排他的な意見に対して憤りを感じながらも自分の中に違和感を感じていた。なぜなら、

皮肉なことに、もし誰もが尊重される社会を望むならば友「ゲイの人を気持ち悪いっていう意見」を持つ友人も尊重されるべきなのだ

私はこの記事を通して彼女を尊重しこの発言に向き合いたいと思う。

ゲイ以外のアイデンティティ

  私は「ゲイの人を気持ち悪いっていう意見もあっていいと思う」と友人が感じた理由を自分なりに考えてみた。それはメディアでLGBTQ+(性的少数者)として紹介される人の多くは、「ゲイ」や「レズビアン」と性的指向が他のアイデンティティの前に紹介されてしまうことが多い。

日本ではLGBTQ+と名乗る人は少ないように感じる。だから、「ゲイ」や「レズビアン」である人に対して友人は「自分とは違う変わっている人」と感じたのだと推測する。しかし、本当の意味で差別をなくしたいなら性的指向だけで彼らを特別扱いしてはいけないのだと思う。なぜなら彼らは「ゲイ」以上にその人が個人として特別で尊重されるべきだと私は思いたい。

 私がこの発言に特に怒ることには理由があった。それは彼女のルームメイトがゲイであったことを知っていたからだ。しかし、友人はその事実を知らずに共存していた。

仲が良いかはわからないが同じ空間で共に生活しているのは事実だ。「ゲイ」であるというのは結局その人の性的指向という一面に過ぎない。人は様々なアイデンティティを持っていてその一面が嫌いだからといって、その人のすべてを嫌いになることは不可能だ。私たちの理解には限界があり個人のすべてを知ることはできないからである。

「ゲイ」であるという性的指向だけで、その人が「気持ち悪い」と断定することは不可能であるから友人の発言は差別を助長している。その個人の人格を尊重していない上に差別をあおる表現である従って、私は彼女の意見には反対だ。

あってはならないと私は信じている。しかし、実際あるのだからこそ私は向き合わなけばいけない。

偏見や差別の根源


 ニュースでLGBTQ+や人権について知っただけでは差別はなくならない、なぜなら情報は絵空事に終わってしまうからだ。本当に問題解決を望むならば社会運動だけでは足りない、私は偏見や差別をなくすにはが必要だと思う。

智とは心で認識し、道徳的に判断する力である。智を養うためには学びを経験にし、自分の価値観に取り組む努力を怠らないことに限る。情報をインプットするのは簡単だが、智を得るには時間も労力もかかる。


それはただ机に向かって勉強するだけではなくて、様々な人と対話、文化が全く違う国に旅行するなど体験によって心で感じ取らなくてはいけない。私の友人もそれなりに人権や多様性についての知識はあったが、それが智ではなかったのだと思う。残念ながら「差別はダメ」と知っていても、差別の問題を智とする人はあまりいない。

私たちが人に対して差別や偏見を持っている理由は単純だ。それは、自分のなかにある差別意識と向き合うことを怠っているからだ。小学校の道徳の授業のように「人に優しくしましょう」と先生が言っていても、その道徳的基準がわからず人に優しくする方法がわからないのだ。

道徳的基準は人から教えてもらうだけでは養われない。なぜ道徳が必要なのかは社会のなかで生きる経験でしか理解することはできない。差別がダメとわかっていれも自分の倫理観にが変わる経験がなければ、その人は道徳のある人とは言えない。

倫理観を形成するためには、柔軟な心をもち相手と対話しなくてはいけない。意外と人の恋愛経験を聞いてみると性的指向が多様で全く違う経験をしていることがわかる。私は「ヘテロセクシャル」、「ゲイ」、「バイセクシュアル」、「パンセクシュアル」など言葉はその人の恋愛経験を簡略するための言葉に過ぎないと思う。一人一人がユニークな経験をしていると思っているので、性的少数派と言う言葉は個人的にあまり好きになれない。偏見を無くすためには、人と対話しその人との違いを経験すること重要だと私は思っている。

差別や偏見が無い社会というのは社会運動や勉強するだけではたどり着くことができない。「なぜ差別が生まれるのか」と人との対話を通して自分の中の差別意識と向き会うことが最も重要だと思う。たとえ法律や社会構造が変わったとしても、私たちの中には「差別」してしまう心が潜んでいる。この差別を解消するには個人と向き合い、人との違いを認識する地道な方法でしか叶わない。

さいごに


情報社会で生きているとついニュースを見ただけですべてを知った気になってしまったり、社会運動に参加しただけで社会に貢献している気になってしまったりすることがある。もちろんニュースや社会運動は関心を集めるためには重要だ。しかし、関心だけで終わってはいけない。社会問題を作っているのは私たち一人一人の心の問題でもあることを忘れてはいないか

著名活動や発言するだけでは人の心はそう簡単に変わるものではない。正義を他人に押し付け批判するのではなく、自分の弱みと見つめ合い自分自身を批判することが大切だと思う。

自分の醜さを無視したり、都合の悪い意見を排除していては多様な社会を作るのは不可能だ。多様性を望むなら自分とは違う意見を批判しながらも、その人を尊重し共存しなくてはいけない。誰に対しても寛容な心が必要だ。

友人の意見に賛成することはできないが、実際多くの人も彼女と同じように感じているのではないかと推測する。また、自分の身の回りでこのような発言をする人はなかなか居ないので自分が「偏見はなぜよくないか」と言う問題に気づかせるきっかけを作ってくれた友人の発言は私の中で貴重だった。

彼女の発言は「少数派は常に尊重されなくてはいけない」というタブーを壊した。私は自分の中の偏見を公言する人は(個人的に好きにはなれないが)言わない人よりも多様性の共存のために貢献していると思う。なぜなら、話し合うきっかけがなければ相手を知る経験は得ることができないのだから。

私がこのように自分の考えや経験を書いて発信するのは、自分がどのような人間でありたいかを再認識するためであり、この経験を智にしたいからだ。所詮この記事を書いている自分は理想の自分に過ぎず、本当の自分は幼稚でまだまだ未熟だ。しかし、少しでも書かれた理想の自分と本当の自分が一致するために日々学び続けたい。

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