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北緯43℃の路。

「ブラキストン線」の向こう側、「亜寒帯」に住む者の語り口として。


「 痛飲」と称される呑み方を控えてから、幾年になるだろうか。
それでも、酌み交わす事自体は今も嫌いではない。
「裃」を脱ぎ捨てた会話は、控えた酒と共にであっても、
やはり楽しいものだ。

あれは、いつの事であったか。
時期は定かではないが、会話の内容は良く覚えている。
他愛ない世間話が続く中、仲間内のひとりが言った。

「今、好きな場所に旅が出来るなら、何処に行きたいと思う?」

その問いに、いくつかの場所の名が挙げられた。
私が口にしたのは「シルクロードの何処かかな。天山山脈とか」。

それを聞いて、問いを投げた友がこんな事を言った。
「帰ってこないんじゃない?そこに行ったなら」。

この様な文を綴ってはいるが、私は即物的な処が強いので、
その問いに返した答えは。
「……ああ。病気になっちゃうかもしれないね。
余り胃腸が丈夫じゃないから」

その答えを聞いて、友は笑った。
「うん。まあ、そういう事が一番あり得るだろうけど。そうじゃなくて。
 何かね、居着いちゃいそうな気がするんだ。ガンジスとか、砂漠とかに。
 貴女はそういう処があるよ」

あ、そういう意味か。言われてみればそうかもね。

私も、その言葉を聞いて笑いを返した事を良く覚えている。

私は北に生まれ、今も北に生きる者である。
シルクロードは北緯43度に引かれた線の様に延びているのは周知の事だが、
私の棲まう地はその延長線上に在する。
だからという訳でもないが、彼の地には強く惹かれるものがある。

天に焦がれるからではなく。

天から解放される地。

そう映るからだ、私にとって。

天を希求せねば、地に繋がれる想いも存在はしない。
そんな愚かさに囚われる事はないのだ。
私達は、この地に生きるために生まれてきたのだから、
それを憂う事はしたくない。

ただ、あるがままを受け入れる。
厳しき地に棲まう人々は、その事を良く知っている。
だから、厳しさを嘆くことはしないのだ。

天山山脈はシルクロードの民にとり信仰の山である。
彼らの神はそこから地に降り立ち、
彼らに水と恵みを与えて、 また山へと還っていく。

発音は「テンシャン」としたい。「てんざん」ではなく。

シルダリヤ川とタリム川の濯ぐ彼の地を、その乾いた大地を。
何時かこの目に映す時は訪れるのだろうか。
それを希求し、叶って欲しくはない願いであるようにも思いながら。

43度に引かれた線の終点に、私は生きている。
今も、そして、これからも。



拙稿をお心のどこかに置いて頂ければ、これ以上の喜びはありません。ありがとうございます。