セクシャリティなんて不安定なものなのに、どうしてみんな疑問を抱かずに生きられるのだろう

子どものとき、落ち着きがないという理由で、実は男の子なのでは?と親に言われたことが何度もある。弟と性別が間違って生まれてきたのではないか、なんて。
(今思うと、これもジェンダーバイアスのかかった視点だけど。)

運動神経が鈍いから動くとすぐに怪我をするタイプなだけで、本の虫になるほど読書が好きで、常にアクティブだったかと言われるとそうでもない。
落ち着きのない特性が若干あり、落ち着き方が独特で、背が低いので椅子に座ると足が床につかない。そうすると、落ち着くために無意識に足をふらふらさせてしまう癖があった。気持ちが落ち着くのだ。
(今はあまりやらなくなったが、たまに無意識に足を揺らしてしまい、はっとすることはある。)

本当に、見た目の通り落ち着きのない子どもだった。
「もっと静かに。落ち着きなさい。」そんな声をかけられて育ったので、自分のセクシャリティにはずっと自信がなかった。
そんなこんなで、私は実は男の子なのかも、と考えることもあった。

でも小学校、中学校、高校といろんな人に出会ってくる中で、動物学的に自分は雌で、自認する性別も女だな、とは思っていた。

でも、少女漫画(というか漫画が苦手だった)はあまり惹かれなかったし、恋空は泣けなかったし、花より男子は見ていなかった。

それよりも、森絵都さんや綿矢りささん、星新一さん、石田衣良さんなどの本を読み漁り、コード・ブルーや美丘、14歳の母、コメディでも、ラッキーセブンやリーガルハイなどのドラマを見ていた。

大学に入り、社会学やジェンダーの話を聞けば聞くほど、一般的なヘテロセクシュアルでは、自分の感覚は語りきれないところがあるのではないかと思うことが多々あった。異性に対して、恋なのかな?という感情を抱いたことはあったが、それが、どういう意味の「好き」なのかはずっと曖昧で、それはわりと今もそう。

大学の同級生や後輩、また教授も、自然にカミングアウトしてくれるような人が多く、「あ、そうなんだ。」と自然な会話の流れて他愛もない会話に戻るような、多様なセクシャリティの人が自然にいたことによる影響も大きいかもしれない。
(そういう関係性が築けたのはとてもとても幸せなことで、大学の同期たちは直接会うことがなくなっても本当に大事な人たちだ。)

しかし、社会人になると、私の恋愛対象が男性であること前提に話をしてくる人が多く、「これで実はレズビアンの人間だったら、すごく傷つくだろうな。」なんて考えるような本当に面倒くさい人間になった。

できるだけこの感覚をなくしたくないと思うと、すべてのことに対して疑問が湧いてくる。
そうすると、誰かと生きることの選択が自分ではできなくなってしまうのではないか、そんな不安にも苛まれる。その不安を隠すためか淡々と私は、「いつか嫌われるかもしれないからさ。」なんて冗談半分、けっこう本気に現実を考えて相手に直接言っちゃう。

そんな私は、「お前がそう言うなら無理なんだろうな。」と、相手を泣かせるようなキャラクターに多分似ている。
この感覚と付き合っていくしかないのはわかっているのだが、世の中みんな、セクシャリティなんて不安定なものに疑問は抱かないのだろうか、といつもいつも感じている。

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