猫と日常と隣にいる君と。【小説】

「今日、道に猫がいてさ、同じ方向に進んで行ったら子猫がいたんだよ。可愛かった。」

自分のとなりで話を聞いている人がいる。

「へぇ猫、可愛いよね。」

返事が返ってくる。

誰が聞いても誰が話しても変わらないような日常にもほどがある日常の話。
こういう会話ができることがいわゆる日常なのかもしれない、とふと思う29歳7ヶ月。

今までの生活で、楽しかったことや面白かったこと、少し悲しかったことや残念だったこと、自分の気持ちや感情は日記に綴ってきた。それは今でも日課だ。

そんな日記に書いていたような自分のひとりごとが会話になることに、今でも少し驚いてしまう。
会話の話題として相手の手に渡って、優しく受け取られたあとに、返事が返ってくる。こんなに嬉しいことが日常なのかと。

頭の中が常に言葉で溢れていて、忙しくて、重要度がバラバラな脳内は、いつもどこかここにあらずな言葉の交わし合いをしていて、自分でも収集がつかない。
それを、言葉にして話そうものならば、突然何を言い出したのか、とか、それが?と思われることも多いだろう、となんとなく感じて、何気ない話が上手にできないまま生きてきた。考えているとタイミングがわからなくなり話せなくなるのだ。

だからいつも自分の頭の中で、もうひとりの自分のような誰かと脳内で会話をしたり、家で同居する植物に話かけたり。
側から見たら変だと思うけど、きっとそういう一人暮らしをしている人は多いんじゃないかな、と勝手に思っている。一人暮らしをずっとしてきた偏見と仲間意識。

でも、一人暮らしが二人暮らしになって、植物を話し相手にしていた会話を、人とするようになった。というか、聞いてくれている人がいるようになった。

返事を期待していないまま「疲れた。」とか「眠い。」とか言おうものなら、「おつかれさまー」と返ってくる。
歌を歌ったり、ちょっといい気分で家の中を歩いたりしていると、「楽しそうだねぇ。」とニコニコとこちらを見ている。

これが今の日常。
こういう日常が続く幸せな中で、人は今日と明日を生きている。
そんな今日と明日を繰り返すことで、明後日も明明後日も生きていけるのではないか、とふと感じる。

ニコニコとこちらを見ている相手を見ながらそんなことを思う。

「何かあった?」

別に特段何もないんだけどね、何もないことの日常に言葉が存在することが、自分たちの日々を紡いでいるのかもしれないよ。

「なんでもない。」

そんなことを考えながら、そんな返事を聞いてくれる人がいることが、自分が生きていることを証明してくれるのかもしれない。

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